禅 今この時を生きる


人間禅

禅とは

禅とは

「禅とは信仰ではなく修行である」とよくいわれます。
そこにはいわゆる霊魂や死後の世界といった考え方は採りませんし、特定の教義と か、坐禅に関する教えを説くための経典とか、信仰の対象として崇めるような神な どといったものはないのです。やるべき事はただ古来からの規則に則って坐禅を行 じ研鑽を積むことにより、人が生まれながらにして以っている「本来の面目」に立 ち還ることを目指しているのです。
坐禅では、古来から伝わる法のそのものよりも、坐禅をする人その人の修行が本物 であるかどうかがやかましく問われます。

それでは坐禅によって何が行ぜられる(坐って修行をする)かといえば、やゝ難し いかも知れませんが「主観と客観、自己と世界、善と悪などといった相対的な対立 するものが現われる以前の、主観と客観が分かれる前の、自己と他者とに対立する 以前の存在そのものへ立ち還る」ことを目指します。まさに禅問答的のようで直ぐ には理解ができないかも知れませんが、ここはこれ以上くだいて説明しることはで きませんし、ほかの表現をしたところで同じことの繰り返しになってしまいます。

もう一つ、常日頃私たちが「自己」として大切にしているものは、実はそれが迷い の根元であり、それは実体のない幻影なのですが、人間は長い間生命をつないでき た過程で自らが大切と思うがためにそのことに気づかないのです。坐禅はそれを行 ずることによってその根底にあるものを明確に認識して、「人間の心」というもの の本体を自覚させていくのです。

よく「坐禅の道」というものは「解脱(一切の迷いや束縛を脱して自由で安らかな 心を得ること)の道」であるといわれますが、また一方で「坐禅をやることによっ て得るものは何ものもない」ともいわれます。それはむしろ“捨ててゆく”道なの です。人間は生まれてから生きていく過程で色々経験を積んでいつのまにか「自己 」という核を作り上げていきます。「自己の財産」とか「自己の名誉」といった、 その自己を中心にして判断し動いていきますが、意外にもその“自己”とは一体何 であるかを突き詰めようとはしません。そうでありながら自らの人生において、そ の自己を中心にいろいろの思想信条や生活の形を造り上げているのです。
仏教は、その「自己」の本体とは、実体のない幻影であることを見破る教えなので すが、禅は、坐禅の工夫(行じていく)により心身脱落(解脱)することによって 、直接的にそれ(自己が実体のない幻影であること)を実証して、本当の自分に目 覚めさせる「空」の道なのです。それは人が一人ひとり本来にもっているものです から、ですからそこには、外から特定の教義や信仰を押しつける必要がないのです 。
そこでは、凡ての信仰以前の心(本当の自分)そのものの本体が開示され、如是法 と一つになり、絶対な「空」の真実の姿が明らかにされるのです。そこに神聖にし て尊厳に満ちた「あなたの心」の徳が顕れてくるのです。
『法華経』(『妙法蓮華経』の略で仏の教えの永遠なることを説いた大乗仏教中の 大法典)の『信解品第四』に、「長者窮子」という例えが説かれています。
自分の家をさ迷い出て、放浪の旅に疲れはてた子が、自分の家に戻ってみると、そ のすばらしさに驚き、そこにいる主人の偉大さに畏れて近づきかねていた。それを 見た父なる主人が身を掃除夫にやつして子に近づき、話をして親近感をもたせ、家 に引き入れ、だんだんと労役にも慣れさせ、ついにはその家の財宝がその子のもの であることを明かし、子はこの上ない感泣にむせぶ、という話です。
丁度これと同様に、人間は心という無上の宝をもちながら流浪の旅にさ迷い出て、 家に帰ろうとしない。それをみて父なる仏祖が方便をめぐらして、心に備わってい る本在的な徳を体得せしめ成仏せしめる。これが仏教であり、坐禅の行なのです。 宝とはその人が持っている「本心本性」の徳のことで、仏性です。
まさに禅の道は、己れの「真実の本心に立ち還る道」以外の何ものでもないのです。 このような道は、科学に矛盾するものでないばかりか、現実にありがちな科学が技 術と結びついてものごとが本末のあるべき姿を見失い、公害や自殺の凶器に転落し ようとするのを引きとめて、その本来のすがたに戻すものでもあるのです。
今や世界の多くの人々は、「真実の己れ」に目覚めることなく、自分の信仰や世界 観、利害の対立の中で正しい人間の道を見失い、或いは底なしの闘争や、あるいは 細かい専門領域の袋小路に入り込み、あるいは自堕落な享楽にふけって、真の理想 と希望のない生活のなかで、結局はそのような現状にあえいでいるのが実体なので はないでしょうか。
禅は、多くの宗教の中で、神秘的教義や信仰を立てず、霊魂や死後の世界を語らず 、真実の本心をよび覚ます道を直接示してくれます。それは、科学を本当の姿に甦 らせ、社会の現実の営みの直中にあって、正しく・楽しく・仲のよい世界建設のた めの正しい道を開示するのであります。
まことに禅こそは、現代のための宗教といえるのです。

内田昭夫編「坐禅のすすめ」より


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