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ブログ - ≪曹渓庵佐々木指月老師のこと≫ (5) 閑徹

≪曹渓庵佐々木指月老師のこと≫ (5) 閑徹

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
Kakuken 2020/1/12 0:17
(5)アメリカへの伝道
 【両忘庵にはある程度の女性の入門者がいた。その中の一人に、当時は我国唯一の女子大学があった文京区目白台の女子大学生で、岩手県盛岡市出身の佐々木とめ子がいた。宗教的資質がすぐれているところから、宗活老師に嘱目されていた。老師は指月ととめ子を結婚させようと思い、双方に勧めて承諾させ、自身媒酌人となって、仏前結婚という当時としてはめずらしい式によって結婚式を行ったのである。指月十六歳、とめ子は二十二歳であった】という記述がある。これは老師としては、かねてから胸に抱いている一つの悲願につながりを持ってのことであった。悲願とは北アメリカの地に、臨済禅を植えつけようということであるが、それを実行に移そうとすれば大難事である。現在と違い、明治時代の北アメリカは海路はるかなる彼方の異国であって、その国に臨済の道を伝えようということは、幻想に近いおもむきのあることであった。それを敢行するには、少なくとも人力と財力とを備えなければ踏みだせない事柄である。指月夫妻は、その人力の一部に数えられたのある。それにしてもその意図にくらべると、微力なる少数者に過ぎなかった。
 さらに財力の上でも、然るべき支援者がなく、空穂が第三者として感じたところでは、当時アメリカという国は、筋肉労働に服そうという心持ちさえあれば、仕事はいくらでもあるというところから、勤労者の心構えを持ちうる一段を率いて渡米し、その地に両忘庵を移し、それらの者の勤労によって庵を支えつつ、次第に伝道の範囲をひろげてゆこう。年次を重ねれば必ず所期が遂げられようと思い、その可能性を信じていたという程度であったろうと記されている。
 
 かくて明治三十九年八月、両忘庵老師を主とし指月夫妻を含む門下数人が一団となって、アメリカへの伝道の途に就かれたのである。しかしこの時は壮途も空しく挫折するに至るのである。
 
 【一行の到着したのはサンフランシスコで、そこにあらかじめ用意してあった家に落ちついたらしい。そこを修行の場とし、勤労の宿泊所として、予定の行動に移ったらしい。しかし、その委曲については私は何事も知らない。後日しげしげ会った指月さえも、その当時のことについて何事も語らなかったからである。語らないのは語るを欲しない侘しいものであったろうと察して、私も問おうとはしなかったのである】と空穂は記している。
 禅堂にこもって坐禅工夫する修行の途と、貧しい移民として筋肉労働によって日々を支える道とは並存しがたく、門下一団はおのずから四散し、離れるとなく離れ、自然消滅する情勢となった模様である。幾月かをアメリカにすごした後の有る日、両忘庵老師は、最後まで踏み留まった指月老師夫妻ら少数の者に見送られ、帰国の途に就いたのであった。しかし【この短日月間の体験は、指月に取っては甚だ重大なものであったようだ。彼はそれを過去の一事件として消え去らせず、将来への熱い夢として、胸に宿らせたことが指月のその後の行動から察しられる。一口に言うと彼は、師宗活老師の所期し遂げ得なかったことを、その身代りとなって遂げうる者となろうと、ひそかに決意したらしいのである。
 
 指月の禅の修行をはじめた動機は、前にも言ったごとくただ自身を救おうがためのものであった。それが彼としては全く予想外な偶然の成りゆきから甚しく飛躍して、いつの日か、他を救いうるものとなろうという夢に似た大望に移っていったのであった】
 
 両忘庵老師と前後して一旦は帰国した指月は、明治四十一年、両忘庵での修行に心を残しながらも再度渡米したのである。
 
 渡米後の指月は以前勤務した中国古仏像輸入商の店へ通勤して、仏像の修繕に従事する傍ら伝道のことに携わるのであった。
 
 帰国した際、指月はさっそく、恩師高村光雲翁の宅へ挨拶に行った。翁は彼の職業の話を聞くと、ひどくよろこばれ、自分が手しおにかけた木彫科出身の者で、外国へ渡ってその職で生活している者は君一人だ。名誉だと思って勉強したまえと励まして下さったと、よろこんで空穂に語っていたという。
 また、アメリカの彫刻界を批評して、【職業柄、彼は当時の代表的な彫刻家の作品はもれなく観たが、一つも感心するものはなかった。すべて幾何学的で、作者のひらめきというものが認められない。一定の方法に従えば誰にでもできるようなものばかりだった。芸術的には実に幼稚な国だ。それにくらべると、中国の古仏像は、はるかにかけ離れたものだ。次ぎ次ぎに多くの仏像を手がけてゆくにつれて、この感はますます深まってゆく。彫刻は古代の中国に尽きている】とも云っていたという。指月のアメリカにおける職業は、生活の方便としてのものだろうと思ったのは誤りで、彼は芸術家の誇りをもって、熱意をもって従事しているのだと知ったと空穂は書いている。
 

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