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ブログ - ≪曹渓庵佐々木指月老師のこと≫ (3) 閑徹

≪曹渓庵佐々木指月老師のこと≫ (3) 閑徹

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
Kakuken 2019/10/10 23:54
(3)空穂との出会い
 空穂が指月を知ったのは、空穂二十五歳、指月二十歳の頃であった。当時空穂は、東京専門学校(早大の前進)の学生で、新宿区横寺町の素人下宿にいた。同宿に一年下の吉江孤雁・水野葉舟が居り、指月は葉舟を目当てにしてしばしば訪問した。指月はその師高村光雲の邸へ出入しているところから、その息高村光太郎と知り合いになり、光太郎と葉舟は親友であったから、自然葉舟とも知り合いになったということであった。
 

【彼は長身の痩せぎすな、すらりとした体つきをしていた。白面の面長な、躍りやすい人馴れた目をしていて、どちらかというと感じのいい風貌の持主であった。印象的なのは、頬が細く、口が小さく、下唇が少し飛び出して、おちょぼ口だったことと、それが眼につくほど赤く、いつも濡れていることであった。この口もとと、躍りやすい人馴れた目つきが一体となって、どこか剽軽な、軽い感じを与えることであった。いつも美術学校の制服制帽であった】と空穂はその風貌について記している。
 
『富士あざみ』(富士しか咲いていないそうです)

 指月は文学青年である学生部グループに心惹かれるものがあったらしく、比較的しげしげと訪問した。明治三十九年、空穂も指月も学校を卒業した。その頃の指月は、初めて逢った頃と顔面の表情が変わっていた。彫刻家としての素質・技倆は空穂には解らなかったが、時に傾聴すべき意見も吐いていた。読書は飢えていた者のごとく貪っていたらしく、文芸・思想方面のものを乱読し、他面、精細な感想日記をしたため、文章も書いているらしかった。しかし、指月が最も真剣なるものは、人生何ぞや! という問題であった。空穂は最後にはうるさくなった。

 
【 “そんな問題をおたがいに繰り返して見ても埒があかない。もっとましな人にぶつかって見たまえ”  “そんな人が居るんですか”  “いるよ、しかも身近にいる。喜んで相手にしてくれる。そこへ行きたまえ”  私は釈宗活老師の存在を教えた。この人は鎌倉円覚寺の管長釈宗演老師の弟子で、上野公園御隠殿坂の下に両忘庵という禅堂を構え、主として学生を指導している人である。私は顔見知りの程度に過ぎないが、東京在住の親戚の目上の者が多年帰依しているところから、優れた師家であるとして尊まれていた。私はその親戚に指月を紹介して、入門の手続きをしてもらった。これが佐々木指月の生涯を転回させる第二のものとなったのである】と空穂は記している。

~続く~
 

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