メインメニュー
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
検索

ブログ - 禅の歴史(4) 戦国時代から江戸時代へ。隠元(黄蘗宗祖)来る。  山沢幽溪

禅の歴史(4) 戦国時代から江戸時代へ。隠元(黄蘗宗祖)来る。  山沢幽溪

カテゴリ : 
ブログ » 座禅について
執筆 : 
横浜座禅会 2018/10/21 22:32
・足利政権下では大徳寺が五山から外され、また妙心寺が足利義満の弾圧で没収されたが日峰宗舜が中興し、応仁の乱で焼けた後も雪江宗深らの手で再建される。
古渓宗陳(153297:正親町(おおぎまち)天皇の勅を受けて大徳寺を継ぐ。利休とは肝胆相照らす仲。多くの茶人を知る。古渓は秀吉の信も厚かったが、秀吉の勘気に触れて九州に流される。利休らがその赦免に奔走して帰京する。利休が、大徳寺山門安置の木像に起因して、秀吉の換気に触れ自刃。大徳寺長老2,3人も磔と大徳寺破却の処罰を受ける。磔は秀吉の母大政所の助力で中止となったが、破却は徳川家康などの使者が遣わされた。古渓は使者を前にして懐の刀を出し「貧道先ず死あるのみ」として抗議する。報告を聞いた秀吉は破却命令を撤回したと言う。
沢庵宗彭:1628年紫衣事件(大徳寺諸法度を避難して幕府に抗議)にて流罪となったが、赦免される。1639年家光が江戸品川に開創した東海寺の開山となる。
隠元隆1654年、福建省黄蘗山萬福寺の隠元(63歳)を招請して、長崎興福寺に開堂して黄蘗宗を開く。やがて京都宇治の地に黄蘗山萬福寺の開山となる。隠元は当初中国人のために3年間だけ滞在するつもりで来たが、隠元が臨済宗の僧であったため、隠元の来日を知った多くの臨済宗、曹洞宗の僧達が多数馳せ参じた。当時の日本の禅界は300年間沈黙していたと言われ、そのため多くの僧が隠元の下に集まったと思われる。黄蘗の宗風は当時中国で行われていた禅淨蜜融合の仏教に沿ったものであった。隠元が渡来後はじめて興福寺で行った結制には多くの日本僧が参加していたが、妙心寺派の首座が黄檗僧に語った言葉は以下のとおりである。「其の家風を見るに、問道説禅、禅の如きものあり、忽ち高く弥陀仏を唱う。浄土宗の如きもの有り、真言宗の如きものあり」このように黄檗宗は西方浄土的であり、また密教的色彩をも有していた。日本の禅僧たちはこれに新鮮さを感じ取った人もあり、一方嫌悪感を抱く人もあった。いずれにしろ当時の日本の禅界に強い印象を与えた。
隠元の来朝は明代文化東漸の一環である。明より清への中国社会の変革に際して、東漸の動きは一段と強まる。清朝は塞外の女真族が建てた国である。異民族の支配を好まぬ有識者は、清朝の建国が決定的となるや、海外に活路を求め始める。黄檗の開創に象徴される中国近世文化の東漸は仏教の域に留まらず、広く精神文化の再編をはじめ、国学、蘭学、漢方、社会教育、福祉の普及より、さらに文人趣味を背景として煎茶や、普茶料理などの食生活の領域にも大きな変化をもたらした。 “インゲン豆”は隠元が日本にもたらしたとある。この他にも“孟宗竹”や“西瓜”“寒天”等をもたらしたとの説もある。また、読経の時に使う“木魚”。以前は魚の形のまま中をくりぬいて合図のために使用していたが、黄蘗派がもたらしたものは魚の模様のまま形を丸くして中をくりぬき読経のために使用するようになった。
隠元が渡来した後、黄檗派は急速に発展し、百年後には寺院千カ寺を超え、仏教界はじめとして多くの分野で影響を与えた。
至道無難→道鏡慧端(正受老人)→白隠慧鶴:隠元の来朝で黄蘗派が勢いを増し、妙心寺でも黄蘗僧になったりと隠元に関心をしめして宗風の刷新を図る動きがあった。しかしそれはそれはかえって妙心寺に開創以来の伝統を堅持すべきことを再認識させる機会となった。愚堂東寔(とうしょく)は1659年妙心寺開山300年法要で導師を務め、今に臨済禅の法灯を伝える貴重な存在が妙心寺であることと、その重要性を説き、自力再興を掲げた。愚堂国師からいろいろと教えを受けたのが、至道無難禅師である。47歳のときに愚堂国師から『信心銘』の講義を聞き、その冒頭の「至道無難、唯嫌揀択」の一句に絶大な感銘を受け大悟したと言う。そのとき国師から「至道無難」の名を授けられた。もともと関ヶ原の庄屋であった無難は、たまたま立ち寄った愚堂国師に従って江戸までついて行き出家した。
「念のふかきは畜生、念のうすきは人、念のなきは仏」
他人についても自分についても無関心な、いい加減な人間。こんないい加減な人間が、そのいい加減さを反省することなく、ただ師匠の言いなりになったり、なだ念仏をとなえたりしたって、本当のところへいけるはずがない、と無難は考えた。だから人間は、いい加減な生き方を清算して徹底的に努力するところがなければならぬ。52歳で発心して坐禅に励んだ無難の眼から見ると、若年、壮年でぐずぐずしている人間の生き方が歯痒くてならなかったのであろう。
正受老人:この無難から親しく印可を受け、正脈を伝えた弟子が、正受道鏡慧端禅師ひとりであった。19歳の時、江戸へ出て至道無難禅師に師事。20歳にして、その奥義に達し、その後信州飯山に正受庵を立てて隠棲します。『正受老人の書かれた「一日暮らし」の中に、有名な<一大事と申すは今日只今の心なり。>という句があります。一日一日とつとむれば百年、千年もつとめやすし。一生と思うからにたいそうである。一生とは永いと思へど後の事やら翌日の事やら、死を限りと思えば一生にはだまされやすしと。「一大事と申すは今日只今の心也」それをおろそかにして、翌日あることなし。総ての人に遠きことを思いて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず。』<『禅』誌46号(2014)鸞膠庵老師「禅者の死」より>
この正受老人によって仕上げられたのが、五百年不出の偉人と言われた白隠禅師。
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://www.ningenzen.jp/yokohama/modules/d3blog/tb.php/66