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(6)印可証明
 中国より輸入する古仏像の破損をつくろうことで生活の資を得ながら、ある程度の貯金が出来ると、両忘庵老師について修行を積むため、指月は前後二回にわたり帰国している。最初の帰国では指月の修行は修了には至らない中に貯金が尽きてしまった。昭和二年春の再度の帰国の時は、今度こそと思い、多年生命をつないで来た彫刻の鑿(のみ)を、太平洋の真中と思われるあたりの海底に沈めて来たという。彼は彫刻家たることに誇りをもっていた。加えてその鑿は、二十年来、彼と彼の妻子を養ってきたものである。その鑿を捨て去ったのは、よりよき心境を獲得しようとする熱意のさせたことである。折しも産期の迫っている妻と長男をも伴っての帰国であった。牛込区榎町にささやかな家を借りて落ちつき、妻とめ子はそこで女子を産んだ。指月はその家から日暮里の両忘庵に通う者となったのである。指月の義母喜多子は小島鳥水方に身を寄せ、指月からの仕送りによって生活していたが、その家に帰り、程なく六十歳をもって没した。指月は最後を看護し、千葉県五井の父の墓のかたわらに葬ったという。
 【指月は折々私の家を訪問し、対座すると雑談をたのしみ、尽くるところを知らない状態であったが、修行のことについては一言も語らなかった。禅門の規定に従ってのことである。私も問おうとはしなかった。一ヶ月間を経過しての昭和三年の春のことである。指月はいつになく甚だ明るい面もちをして、私の部屋へはいって来た。そして坐ると共に“ぼく、とうとう印可証明をもらいました” “ほう? それはよかった”二人は相黙して、しばらくものも言わなかった】
 
 【禅道にあっては、印可証明ということは極めて重大事である。それは始祖達磨大師を標準とし、その悟道と同等のものを身に著け得たことをその師より認められ、証明を与えられることである。それを得ると師家となり、人を指導する資格をもつのである。臨済禅はその法によって、その教義を伝えて来ているのである】
 
 【“君もいよいよ師家としての資格をもったんだねえ”そう言った私は、今さらのように指月の顔をみた。二十年前、美術学校の学生として、湯島天神下の私の下宿へ来、人生問題をもち出して私を手こずらせたのが、この男を両忘庵へ入門させた動機だったのである。その頃この男は、物を言うにも上目づかいをし、笑を用意して、空っ呆けたような顔をしていたのであった。そのころは紅い唇が眼についた。それが今ではどうだろう。強い信念を持っている者だけに見える、熱意と冷静を一つにしたような眼ざしをしているではないか。その目は顔の中心となって、内部をうかがわせないものともなっているのだ。師家といえば禅宗の最高位である。同じく禅僧といっても、大寺の住職で師家の資格を持っていない者が、決して少なくないと聞く。私は人生の遭遇のあやしさを、指月の顔面の表情の上に、まざまざと観る感じがしたのであった。これは言葉とはならないものである。】
 【それから幾日も経たない日のことである。指月は例のごとく私と雑談を楽しんでいるうちに、ふと、一挿話をまじえた。その一挿話は、今でもはっきり記憶している。指月は言う。“ぼく昨日、老師と両忘庵をぶらぶらしましたよ。植込みに色々な花が咲いていて、天気がいいんで、それを観てまわったんですよ。すると老師が、「 指月さん! 私もう五百年経ったら、もう一度生まれて来て、この国の状況を見ようと思いますよ 」、にこにこして、そう言うんです。ぼく「 そうですか 」と答えたんです。宇宙は一大溶鉱炉ですよ。それくらいのこと、何でもないんです。禅宗って、そういったもんですねえ ” これが挿話の全部である。
さりげなく話したこの挿話の内包しているものが、すなわち生きて、身についている指月さんの心境だったのである。指月はその後、この種のことは語らなかった】
 
 八十二歳の空穂は、指月の印可証明に関わる遠い日の出来ごとを、さながら昨日のことのように綴っているのである。
 
(5)アメリカへの伝道
 【両忘庵にはある程度の女性の入門者がいた。その中の一人に、当時は我国唯一の女子大学があった文京区目白台の女子大学生で、岩手県盛岡市出身の佐々木とめ子がいた。宗教的資質がすぐれているところから、宗活老師に嘱目されていた。老師は指月ととめ子を結婚させようと思い、双方に勧めて承諾させ、自身媒酌人となって、仏前結婚という当時としてはめずらしい式によって結婚式を行ったのである。指月十六歳、とめ子は二十二歳であった】という記述がある。これは老師としては、かねてから胸に抱いている一つの悲願につながりを持ってのことであった。悲願とは北アメリカの地に、臨済禅を植えつけようということであるが、それを実行に移そうとすれば大難事である。現在と違い、明治時代の北アメリカは海路はるかなる彼方の異国であって、その国に臨済の道を伝えようということは、幻想に近いおもむきのあることであった。それを敢行するには、少なくとも人力と財力とを備えなければ踏みだせない事柄である。指月夫妻は、その人力の一部に数えられたのある。それにしてもその意図にくらべると、微力なる少数者に過ぎなかった。
 さらに財力の上でも、然るべき支援者がなく、空穂が第三者として感じたところでは、当時アメリカという国は、筋肉労働に服そうという心持ちさえあれば、仕事はいくらでもあるというところから、勤労者の心構えを持ちうる一段を率いて渡米し、その地に両忘庵を移し、それらの者の勤労によって庵を支えつつ、次第に伝道の範囲をひろげてゆこう。年次を重ねれば必ず所期が遂げられようと思い、その可能性を信じていたという程度であったろうと記されている。
 
 かくて明治三十九年八月、両忘庵老師を主とし指月夫妻を含む門下数人が一団となって、アメリカへの伝道の途に就かれたのである。しかしこの時は壮途も空しく挫折するに至るのである。
 
 【一行の到着したのはサンフランシスコで、そこにあらかじめ用意してあった家に落ちついたらしい。そこを修行の場とし、勤労の宿泊所として、予定の行動に移ったらしい。しかし、その委曲については私は何事も知らない。後日しげしげ会った指月さえも、その当時のことについて何事も語らなかったからである。語らないのは語るを欲しない侘しいものであったろうと察して、私も問おうとはしなかったのである】と空穂は記している。
 禅堂にこもって坐禅工夫する修行の途と、貧しい移民として筋肉労働によって日々を支える道とは並存しがたく、門下一団はおのずから四散し、離れるとなく離れ、自然消滅する情勢となった模様である。幾月かをアメリカにすごした後の有る日、両忘庵老師は、最後まで踏み留まった指月老師夫妻ら少数の者に見送られ、帰国の途に就いたのであった。しかし【この短日月間の体験は、指月に取っては甚だ重大なものであったようだ。彼はそれを過去の一事件として消え去らせず、将来への熱い夢として、胸に宿らせたことが指月のその後の行動から察しられる。一口に言うと彼は、師宗活老師の所期し遂げ得なかったことを、その身代りとなって遂げうる者となろうと、ひそかに決意したらしいのである。
 
 指月の禅の修行をはじめた動機は、前にも言ったごとくただ自身を救おうがためのものであった。それが彼としては全く予想外な偶然の成りゆきから甚しく飛躍して、いつの日か、他を救いうるものとなろうという夢に似た大望に移っていったのであった】
 
 両忘庵老師と前後して一旦は帰国した指月は、明治四十一年、両忘庵での修行に心を残しながらも再度渡米したのである。
 
 渡米後の指月は以前勤務した中国古仏像輸入商の店へ通勤して、仏像の修繕に従事する傍ら伝道のことに携わるのであった。
 
 帰国した際、指月はさっそく、恩師高村光雲翁の宅へ挨拶に行った。翁は彼の職業の話を聞くと、ひどくよろこばれ、自分が手しおにかけた木彫科出身の者で、外国へ渡ってその職で生活している者は君一人だ。名誉だと思って勉強したまえと励まして下さったと、よろこんで空穂に語っていたという。
 また、アメリカの彫刻界を批評して、【職業柄、彼は当時の代表的な彫刻家の作品はもれなく観たが、一つも感心するものはなかった。すべて幾何学的で、作者のひらめきというものが認められない。一定の方法に従えば誰にでもできるようなものばかりだった。芸術的には実に幼稚な国だ。それにくらべると、中国の古仏像は、はるかにかけ離れたものだ。次ぎ次ぎに多くの仏像を手がけてゆくにつれて、この感はますます深まってゆく。彫刻は古代の中国に尽きている】とも云っていたという。指月のアメリカにおける職業は、生活の方便としてのものだろうと思ったのは誤りで、彼は芸術家の誇りをもって、熱意をもって従事しているのだと知ったと空穂は書いている。
 

講演会「禅のある生活」を拝聴して

カテゴリ : 
ブログ » 日常
執筆 : 
横浜座禅会 2020/1/7 23:01
人間禅に入会して1年半の翠玉と申します。

「座禅を継続したことで、決断が早くなったと思います・・・結局、どちらを選んでも同じなんです。もし選んだ側で苦労することがあっても、それも修行と楽しめばいい。」

これは、昨年12月に行われた、千城台クリニック 光永伸一郎院長の講演会「禅のある生活」の中で、私が特に印象に残った一節です。座禅歴30年の光永先生が、私のように座禅を始めて間もない人にも分かる言葉で、丁寧にお話ししてくださいました。


1.座禅を続けることで、自分の中の不要なものを捨てていった結果、研ぎ澄まされて、決断も早くなる。

座禅を始めて2年の私ですが、日常生活で少しだけ実感するところがあります。例えば、日々の食材の買い物に迷いが無くなりました。料理の不得意な私が、簡単な食事を作るために、お決まりの食材を短時間で買うようになっただけと言えばそれまでですが。以前の私は、不得意を克服しなければならないと、残業で疲れていても無理をして作っていました。不得意だから時間もかかり、他の事をする時間が無くなる・・。
私にとって不要なものは、料理ではなく、頭でっかちに無理をしていたことでした。

2.選んだ先に苦労があっても楽しめばいい。

残業後の料理は有意義ではないので やめましたが、仕事はそうもいきません。
昨年、自分が関わっていない業務の改善指示を受けました。全体最適を考えて選択した提案でしたが、実際に進めていくと、関係者の協力を思うように得られず、投げ出したい気持ちに駆られました。今振り返ると、その時の私は 問題や当事者と一体になることが出来ず、楽しむには程遠かったのだと分かります。

光永先生の講演を拝聴して、これからはうまくいかないときも、力まず、目の前のことに心を尽くそうと思いました。少しずつでも変わっていきたいです。



(4)禅の修行
 かくて指月は両忘庵老師の鉗鎚を受け、禅の修行に励むのであるが、当時の両忘庵の様子が空穂の筆によって興味深く活写されているので、以下に繁をいとわず転記させていただくことにする。
 
【佐々木指月は、私の紹介状を持って、私には親戚で、やや久しく両忘庵主釈宗活老師の門下となり、その鉗鎚を受けていた市岡太夢を訪い、伴なわれて両忘庵に行き、入門の礼を取ったのである。
私は釈宗活老師とは、太夢とのつながりをとおしてある程度の面識をもっていた。
東京生まれで眉目秀麗、一見典型的な秀才型と思わせる人であった。円覚寺で修行中は、十年間を通じて、ほとんど床上に寝たことがなく、夏は藪蚊の多い山中で、衣の袖を頭にかぶせ、禅堂の柱に凭って、微睡(まどろ)んで夜を明かすのを常としていたとのことである。
しかし私の見た限りでは、そうした刻苦の跡は全くとどめず、いつもにこやかに、物云いのやさしい人であった。両忘庵はこの老師の開いた禅堂で、上野公園の裏、御隠殿坂をくだり、路を横切った日暮里に入った所にあった。禅堂にふさわしい、単純素朴な、まだ真新しい建物であった。】
【老師は師家とはなったが、一寺の住職となることを避け、学生・智識層の多い地をえらんで禅堂を設け、臨済禅の伝道と布教を志したので、当時すでに帝大をはじめ学生層の門下が相当に多く、女性もある程度加わっており、中には秀抜な学生も何人かも居たとのことである。
 佐々木指月はそうした宗徒団へ、最新の門下として加わったのである。】
 
【臨済宗では、入門した者はそれと同時に、老師(師家の尊称)から一則の公案を授けられる。公案とは大乗仏教の神髄を、きわめて簡潔な、具象的な、しかし暗示的な語にしたもので、古来の名僧がその門下を教育するために捻出したものだという。累積して七百何十則の多きに及んでいる。それを授けられた門下は、坐禅を組んで精神集中をし、その内包するものを会得し、体得して、その公案と一体になりうるまで工夫するのある。その到り得た程度を試験するのが老師の職である。密室の中で、威儀を正して、老師と門下と面と面と相対して行うのである。老師が可しと認めることを透過(とお)ると呼んでいるが、一則が透過るのは容易ならぬ難事だという】
【維新の傑物山岡鉄舟は、在家の人として鎌倉円覚寺で修行し、最初に授けられた一則の公案を透過るに七年間を要したという。江戸の家にあって坐禅工夫し、思いうる所があれば乗馬で、鎌倉まで通いかよいした、努力しての七年間だったのである。
また、夏目漱石は、心理学者元良勇次郎と共に釈宗演老師に入門し、円覚寺での摂心会に籠って、公案の第一則と取り組んだ。元良は透過ったが、漱石は透過れなかったと聞く。漱石の随筆『夢十夜』と題するものに、公案が透過れず、苦悩し昂奮した気分を魅力多く書いているのを読んだことがある。これらは余談であるが、伝統久しい大乗仏教がいかに会得し難いものかをうかがわしめることである。
 佐々木指月は、入門して幾らもたたない中に、はやくも幾則かの公案を透過ったということである】
【道号はある程度公案を透過った後に、師家から授けられるものであるが、指月は入門後いくばくもなくして授けられ、栄多は指月居士となったのである】
以上が指月の入門と修行についてふれた文章からの抜粋でるが、空穂が両忘庵の消息に通暁していたことは瞠目するのである。
 

講演会のご案内 「禅のある生活」

カテゴリ : 
ブログ » 摂心会
執筆 : 
Kakuken 2019/11/9 18:38
横浜座禅会では、令和元年12月 7日に講演会&座禅体験会を行います。

講演会は
「禅のある生活」と題して、千葉で医師をされている光永伸一郎先生に、お話していただきます。
先生は、座禅をはじめて約30年とのことです。
 
お医者さんのように、人の「生き死に」と近い環境に自分があるということは、とてもストレスを感じることだと思います。
職業柄、日常生活も相当に影響受けるでしょう。
先生の講演「禅のある生活」を聞いたら、きっと得られるものがあると思います。
実際に座禅を体験しますので、より一層わかりやすいですね。
 
もちろん足が組めない人でも座禅はできますので、大丈夫です。

 
講演会の前に、ちょっと座ってみたいという方は、各地(横浜関内、大和、茅ヶ崎)の静座会で予習できます。
(3)空穂との出会い
 空穂が指月を知ったのは、空穂二十五歳、指月二十歳の頃であった。当時空穂は、東京専門学校(早大の前進)の学生で、新宿区横寺町の素人下宿にいた。同宿に一年下の吉江孤雁・水野葉舟が居り、指月は葉舟を目当てにしてしばしば訪問した。指月はその師高村光雲の邸へ出入しているところから、その息高村光太郎と知り合いになり、光太郎と葉舟は親友であったから、自然葉舟とも知り合いになったということであった。
 

【彼は長身の痩せぎすな、すらりとした体つきをしていた。白面の面長な、躍りやすい人馴れた目をしていて、どちらかというと感じのいい風貌の持主であった。印象的なのは、頬が細く、口が小さく、下唇が少し飛び出して、おちょぼ口だったことと、それが眼につくほど赤く、いつも濡れていることであった。この口もとと、躍りやすい人馴れた目つきが一体となって、どこか剽軽な、軽い感じを与えることであった。いつも美術学校の制服制帽であった】と空穂はその風貌について記している。
 
『富士あざみ』(富士しか咲いていないそうです)

 指月は文学青年である学生部グループに心惹かれるものがあったらしく、比較的しげしげと訪問した。明治三十九年、空穂も指月も学校を卒業した。その頃の指月は、初めて逢った頃と顔面の表情が変わっていた。彫刻家としての素質・技倆は空穂には解らなかったが、時に傾聴すべき意見も吐いていた。読書は飢えていた者のごとく貪っていたらしく、文芸・思想方面のものを乱読し、他面、精細な感想日記をしたため、文章も書いているらしかった。しかし、指月が最も真剣なるものは、人生何ぞや! という問題であった。空穂は最後にはうるさくなった。

 
【 “そんな問題をおたがいに繰り返して見ても埒があかない。もっとましな人にぶつかって見たまえ”  “そんな人が居るんですか”  “いるよ、しかも身近にいる。喜んで相手にしてくれる。そこへ行きたまえ”  私は釈宗活老師の存在を教えた。この人は鎌倉円覚寺の管長釈宗演老師の弟子で、上野公園御隠殿坂の下に両忘庵という禅堂を構え、主として学生を指導している人である。私は顔見知りの程度に過ぎないが、東京在住の親戚の目上の者が多年帰依しているところから、優れた師家であるとして尊まれていた。私はその親戚に指月を紹介して、入門の手続きをしてもらった。これが佐々木指月の生涯を転回させる第二のものとなったのである】と空穂は記している。

~続く~
 
曹渓庵佐々木指月老師(明治15年~昭和20年)は、両忘庵釈宗活老師に参じて大事了畢され、アメリカに渡って禅の布教をされました。
耕雲庵立田英山老師(明治26年~昭和54年)よりアメリカの曹渓庵佐々木指月老師に送られた手紙が掲載されています。(昭和8年)。二人の間にはこれ以外にも何度か手紙のやりとりが行われている。
≪『禅』六号 ニューヨークの禅者・・・曹渓庵佐々木指月(三)―海を渡った放浪の禅者― 堀 正弘 著≫

(2)生いたち
 空穂は指月の生いたちについて、彼が時あって漏らした談片と、その妻佐々木とめより聞き得たいささかを総合したとして、次の様に記載している。要約すると、指月の生年は、明治十五年二月である。父は佐々木綱方(つなみち)といい、讃岐金刀比羅神社の神官であったが、後文部省の教正となって全国を巡回講演し、最後には千葉県五井に定住し、一神社を創建し、神官として生活を立てた。綱方の妻は喜多子といい、我国山岳文学の創始者として有名な小島烏水の母の妹であったが、この人は夫の職業柄、家の留守番をして同居していなかった。綱方は妾を娶った。千代子と言い讃岐高松藩士の娘で、美貌の上に、茶道挿花にも長けていたという。指月は、その千代子を母として生まれたのである。本名は栄多と言い、妾腹ではあるが綱方には独り子だった。綱方は五井に没し、神社近くに墓を残している。妾であった千代子は絶縁されて家を去った。栄多が十四・五歳の頃、本妻喜多子とその周囲の者は、暴れん坊で、始末におえない栄多を、坐職を覚えさせて一人立ちするように東京のある職人の家に弟子入りをさせた。簡単に厄介払いをされたのであった。その親方は仏師屋であり、寺の欄間の彫り物などをする職人であった。指月はその親方から仕込まれたが、或日森鴎外の『審美綱領』という本を手に入れ、分からぬながら手ずれで汚れるほど読むと、自分のしている仏師家の仕事は、彫刻というもので、尊いことだということが少しずつ分かって来た。
 【それだとこんなことをしていられない。正式に彫刻というものを習おうと思いこみました。そしてとうとう、高村光雲先生にお目にかかって、弟子入りを願ったんです。その時のことでした。先生は、“鑿を研いで見ろ”といい、鑿を渡されたので丹念に研いで渡すと、先生はちょっと使って抛り出し“こんな鑿使えるか、切れ過ぎる”って叱られましたよ。先生はぼくをあわれんで下すって、学力が無いのに美術学校の彫刻科の選科へ入れて下さったのです。それからぼくは、上野近くに間借りをして、鎌倉彫の問屋から下彫りの仕事を出してもらって、独り立ちの生活に入ったんです】。
 これは指月が空穂と知り合って間もない頃、一夜しみじみと話したという彼の述懐である。空穂は指月の青年期をこのように記し、高村光雲に弟子入りしたことについて、これが佐々木指月の生涯の一つの転機であるが、それは全く彼自身の意識をもって打開したものであったと記している。
 
~続く~
「指月(曹渓庵佐々木指月老師)がアメリカへ行ってさして時を経ない頃のことである。
評論家石垣綾子氏の『夫婦』と題する書の中に、石垣氏の居られた同じアパートの一室に、佐々木指月という男が、その仲間の一人と同居していて、その室には仏壇をもうけ、アパートの各室を歴訪して仏教の宣伝をしていた。 誰も相手にしないのみか、迷惑がり、軽蔑さえした。二人は居たたまれなくなり、どこかへ行ってしまったという一節があることを、一友人が空穂(*1)に告げたという。」

曹渓庵佐々木指月老師 1939年頃 ニューヨークにて

 
実は、今からおよそ30年前の人間禅機関紙『人間禅』137、138、139号に、岳南支部の大先輩である故斎藤是心さん(慈雲庵斎藤是心老居士:大正11年~平成28年帰寂)の投稿された文章の一コマです。
悲哀感というか、悲壮感が感じられ、今でも、小生の心の底に残っております。
 
今回、もう一度、拝読し、ブログへ何回かに分け(抜粋して)、掲載したいと存じます。 
 
*1)窪田空穂氏【歌人、国文学者、日本芸術院会員:1877年(明治10年)~1967年(昭和42年)】は、是心さんの尊敬しておられた短歌の先生です。
天城山隧道北側
 
(1) まえがき
 私の尊敬する歌人窪田空穂の著作の中に『佐々木指月という人』と題する一篇がある。確か昭和39年頃の短歌雑誌に2回にわたって掲載されたものであるが、当時私は、両忘庵門下の師家としての曹渓庵佐々木指月老師の名を聞き及んでいたので、その著作にめぐりあえたことに、不思議な機縁を感じ、深い感銘を覚えたものである。そこには曹渓庵老師が、わが歌の師と仰ぐ空穂先生の紹介によって、両忘庵釈宗活老師に入門されたことが記されており、その出生からアメリカ布教の中途に於いて逝去するまでの一部始終が細かく記されていたからである。
 曹渓庵老師はどちらかといえば不遇の中から身を起こし、彫刻により生活の資を得ながら禅の道に入られ、やがて両忘庵老師に従って伝道のためアメリカに渡り、生涯の大半ともいうべき三十年間を北米ニュヨークで過ごされ、師の悲願であるアメリカ伝道の礎をきづかれた方である。
 【佐々木指月という名は、私には甚だ親しく、忘れがたい名となっているが、しかし我が国内では三・四の人を除いては、殆ど誰も知らない名であろう・・・・指月が禅門に入る以前からの交友として、現在生存している者は、ただ一人、八十一歳の私が残っているだけである。人間としての指月の輪郭だけなりともと思って、この一文を草した次第である。】と空穂先生は述べているが、これだけの言葉からも曹渓庵老師に寄せる空穂先生のあつい思いが窺え、二人の交流の深さが偲ばれるのである。
 空穂先生が愛情をこめて綴ったその文章から窺える曹渓庵佐々木指月老師の人間像を、極力空穂先生の文章を引用させて頂き、紹介しておきたいと思う次第である。
 空穂先生の文章は曹渓庵老師のアメリカ伝道のことから書きおこされ、迫力ある構成となっているが、私はその中から取捨して経時的な老師の人間像を辿ってみようと思う。

~続く~
 

標記の件、私の職場の上司からの依頼で、2018年9月に引き続き、萬耀庵老居士に禅のお話をしていただきました。
(私の職場自体とは関係なく、産業カウンセラーの立場からの依頼です)

日時  :2019年3月30日(土)15時から2時間程度
 

場所  :擇木道場
 

講師  :萬耀庵老居士
 

参加者 :私の職場の上司他、男性1名・女性2名、および
     岩村富嶽居士(中央支部員(元横浜支部員))、大寂 (総勢7名)
 

内容 : 萬耀庵老居士より、座禅の仕方、および坐禅和讃・般若心経を引用して
     禅についてわかりやすくお話いただきました。座禅も実習しました。
     皆様、禅には関心をお持ちで、興味深くお話をお聞きになられ、とても良い体験とのことでした。
     今後も、自宅や職場に近い、市川本部道場や擇木道場の静座会への参加も薦めました。
     その後は男性メンバーで近くのお店で懇親会となり、皆様と歓談いたしました。
     今後もこのご縁を大切にしていきます。

 

耕雲庵立田英山(18931979年);東京市本所に生まれる。仙台第二高等学校入学。松島瑞巌寺の盤龍老師に参禅。大正3年、見性。大正5年両忘庵釈宗活老師に入門。大正6年「英山」の道号を授与される。大正8年、東京帝国大学を卒業、大学院で「脊椎動物の脳の発生」を研究。大正10年、中央大学予科教授に就任。大正12年、30歳で大事了畢、「耕雲庵」の庵号を授与される。昭和3年、35歳で師家分上。この後戦後まで両忘庵老師の名代として全国を巡錫。昭和22年「両忘禅協会」が閉鎖されたが、直ちに「人間禅教団」を発足させ、24年初代総裁に就任。ここに在家禅者が嗣法し伝法する歴史上全く新しい在家禅が誕生した。総裁退任は昭和44年、就任以降621人が参じ、支部は全国十一に及んだ。科学者らしい合理を重んじた宗教観、弟子達からは“親爺”と呼ばれる人柄、茶道、作陶、俳句、写真など芸術にも禅者ならではの独特の境地を開いた。86歳帰寂。
 
「禅の歴史」の終わりに、明治の文豪、夏目漱石が『禅』と関わり、その体験を小説にした『門』から、文豪の見た坐禅を引用する。
夏目漱石(18671916年);『門』は明治43年(1910年)3月1日から6月12日まで朝日新聞に連載された。前年に、「それから」を連載したが、さらにその前年の「三四郎」からと続く3部作。
主人公の宗助は、友人から紹介状を貰って、鎌倉の円覚寺の釈宜道{筆者注:宗活老師と思われる}を尋ねる。
「山門を入ると、左右に大きな杉の木があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った、静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した。」中略
「老師{宗演老師か?}というのは五十格好に見えた。赤黒い光沢のある顔をしていた。その皮膚も筋肉も悉くしまって、何処にも怠りのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇があまり厚過る、其処に幾分の弛みが見えた。その代わり彼の眼には、普通の人間に到底見るべからざる一種の精彩が閃いた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思いがあった。『まあ何から入っても同じであるが』と老師は宗助に向かって言った。『父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたらよかろう』  宗助には父母未生以前という意味が良く分からなったが、何しろ自分というものは畢竟何物だか、その本体を捕まえてみろと云う意味だろうと判断した。」中略 「同時に彼は勤めを休んでわざわざ此処まで来た男であった。紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽率な振舞は出来なかった。彼は先ず現在の自分が許す限りの勇気を提さげて、公案に向かおうと決心した。・・・彼は悟という美名に欺かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試してみようと企てたのである。そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事が出来はしまいかと、はかない望を抱いたのである。」 中略 「宗助はこの間の公案に対して、自分だけの解答は準備していた。けれども、それは甚だ覚束ない薄手のものに過ぎなかった。室中に入る以上は、何か見解を呈しない訳に行かないので、已むを得ず納まらないところを、わざと納まった様に取り繕った、その場限りの挨拶であった。彼はこの心細い解答で、僥倖にも難関を透過してみたいなどとは、夢にも思い設けなかった。・・・宗助は人のする如くに鐘を打った。しかも打ちながら、自分は人並みにこの鐘を橦木で敲くべき権能がないのを知っていた。それを人並みに鳴らしてみる猿の如き己を深く嫌悪した。・・・室の中はただ薄暗い灯に照らされていた。・・・この静かな判然しない燈火の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道の所謂老師なるものを認めた。・・・この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。『もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ』と忽ち言われた。『その位な事は少し学問をしたものなら誰でも云える』宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後ろに鈴を振る音が烈しく響いた。」
 
完。
 
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)、擇木道場創建100周年記念小冊子、新潮文庫・夏目漱石「門」