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標記の件、私の職場の同僚からの依頼で、萬耀庵老居士に禅のお話をしていただきました。
(私の職場自体とは関係なく、産業カウンセラーの立場からの依頼です)
 

日時  :2018年9月18日(火)16時から2時間程度

場所  :東京都中央区にある区民館の和室

講師  :萬耀庵老居士

参加者 :私の職場の同僚他、男性1名・女性2名、および
     岩村富嶽居士(中央支部員(元横浜支部員)、大寂 (総勢7名)

内容 : 萬耀庵老居士より、座禅の仕方、禅の歴史、禅の世界観等をお話いただき、
     皆様、熱心にお話をお聞きになられ、座禅も実習しました。
     産業カウンセラーの「傾聴・共感」にも繋がり、良い学びになったとのことでした。
     その後は男性メンバーで近くのお店で懇親会となり、皆様と歓談いたしました。
     今後もこのご縁を大切にしていきたいと思います。

 


道元禅師:時代は遡って、臨済宗と並ぶ、もう一派の曹洞宗を述べる。曹洞宗は洞山良价が起こした事は既に述べたが、臨済宗が“公案禅”(看話禅)の一方、曹洞宗では“黙照禅”と呼ばれ、只管打坐が受け継がれた。坐禅中に「焼香、礼拝、念仏」などの余行をすることなく、ただひたすら黙々と坐禅のみを行うことを説く「非思量」の坐禅、すなわち坐禅中に公案を参究せず、無心に坐るので」ある。坐禅の姿がそのまま仏の姿であると説き、徹底した坐禅修行を必要とすることも特色の一つである。
道元は幼くして父母を失い、14歳で比叡山にて得度し、僧侶となった。18歳の時に比叡山を降りて栄西の高弟である明全を師とし、ともに博多から宗に渡った(1223年)。やがて曹洞宗の如浄を師と仰いで入室参禅し、遂に大悟する。如浄に学ぶこと3年、釈尊正伝の仏法を相承して帰国した。帰国後建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」を著し坐禅の仕方や心得を明らかにして広く人々に禅を勧めた。そのため、天台宗から圧迫を受け、建仁寺から追われて深草に移る。「典座教訓」を著すなどして修行者の生活規律を定めていった。さらに「正法眼蔵」(しょうほうげんぞう)の執筆も行われた。道元のもとに多くの僧侶が集まるようになり、それが比叡山を刺激し天台宗の圧迫を受けた。やがて越前に移った。これは如浄からの教えで「国王大臣に近づくことなかれ。ただ深山幽谷に居して一個半個を説得し吾が宗をして断絶到さしむことなかれ」を守ることでもあった。1246年永平寺に入る。執権・北条時頼の招きを受けて鎌倉に下ったが、弟子が永平寺に残っていることを理由に越前に帰った。その時、残務整理のために残っていた弟子の玄明に対し幕府から寺領寄進の申し出があった。玄明はこれを受けて永平寺に帰山し得意げに報告した。この時道元は玄明の衣をはぎとり、即日山から追放したのである。それのみか玄明が坐っていた僧堂の床を切り取り、その下を深く掘って捨て去ると言う徹底ぶりであった。「正法眼蔵随聞記」の一節に“学道の人は先ず須らく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う。・・・僧は三衣一鉢の他は財宝を持たず、居所を思わず、衣食を貪らざる(むさぼらざる)の間だ、一向に学道すれば分分に皆得益あるなり。その故は貧なるが道に親しきなり。”これが道元日頃の教えであった。それから3年後、後嵯峨天皇から道元に紫衣を賜った。再三辞退したが勅使が3度永平寺に至ったので遂に受けたが、終生これを用いなかった。
辞世の一句“またみんと思いし時の秋だにも今宵の月にねられやはする”
孤雲懐奘(えじょう):道元のかたわらにあって影の形に添うようにその働きを助けたのは孤雲懐奘である。懐奘は31歳から56歳まで25年間道元禅師の侍者であり、片腕であり、良き相談相手であった。しかも懐奘は道元より2歳年上であった。懐奘は幼い頃に比叡山に登って出家し、学僧として名が高かったが宗から帰国して建仁寺にいた道元の弟子となり、生涯、道元に対して絶対服従であった。懐奘が修行しているとき、懐奘の母親の病気が重くなり臨終が近づいた。大衆は懐奘に同情して母親のもとに行くように勧めたが、行かなかった。以前に道元が亡き師明全和尚が瀕死の状態にあったにも拘わらず、師を後にして旅たったことがあり、その時の道元が「亡き師明全和尚について真実の道心があると考えたのは、或いは父母のため、或いは師匠のために、無益なことをしていたづらに時を過ごし、あらゆる道にすぐれた仏の道をさしおいて時日を過ごしてはならない」と言われたことがあったからである。後年、永平寺の住持となった懐奘は、方丈の側に道元の遺影を置いて昼夜に供養を怠らなかった。
瑩山紹瑾:曹洞宗の展開に大きく影響を与えたのが瑩山紹瑾である。8歳にて永平寺の第三世・徹通義介に参じ、次いで懐奘について得度した。大きくなる教団に合わせて教団の規定を整える。また、多くの弟子を輩出し、日本各地に曹洞宗の法脈が伝えられることとなる。能登に総持寺の開山となる(1321年)
・臨済宗が将軍家と結びついて発展し、京都を中心とする文化的な側面にも大きな影響を与えていったが、一方、曹洞宗は地方に広がり、在地の武家、豪族、下級武士、一般民衆を中心に広まり、強い影響力を持つようになった。
一休宗純(13941481:大徳寺の一休として天下にその名を知られた一休宗純は、およそ禅僧らしからぬ禅僧であり、かつ禅僧中の禅僧であった。後小松天皇のご落胤であるが権力の真っ向から挑戦し、詩人であり、孤高のひとであり、戦乱暗黒の室町時代にあって、常に民衆の味方であった。一休は堅田の華叟禅師の弟子となって、この人のもとで特別厳しい訓練を受けた。かれはしばしば漁師の舟を借りてその中で坐禅に打ち込んだ。一休27歳の5月20日の夜、漆黒の闇世の中、船の中で坐禅していると闇に一声「カアッ」と鴉が啼いた。その一瞬に大悟した。夜明けとともに華叟の室に入り、自己の心境を語った。華叟は黙って聞いていたが、それで良いとは言わなかった。「それは羅漢の境界だ。作家(サッケ・真に悟った者)の境界ではない」一休の大悟が真実のものかどうか、もう一押し押してみたのである。一休はこう言われてもびくともしない。「何と言われますか。これが羅漢の境界なら羅漢で結構。作家などにならんでよろしい。」と言下に言って退けた。その毅然として動かざる態度を見て、華叟ははじめて「お前は真実の作家である」と評して、印可書を書いて一休に与えたが、一休はそれを投げ捨てて出て行った。印可書というものはみだりに書くものではない。ところが当時の禅界は堕落その極に達していて、資格のない者にまでいい加減な印可書が安売りされていた。一休はそれを恨むこと甚だしかったのだ。その後、師の華叟が死んだ後、一休44歳の時にその印可書を渡され、それを見て師恩の深いことに感泣したが、17年前の彼の決意に変わりなく、涙を呑んでこれを裂き、火中に投じた。印可書の末尾に書かれた一句、「正法もし地に堕ちなば、汝、出世し来たってこれを扶起せよ。汝は我が一子なり」という華叟の慟哭にも似た言葉は彼の心中奥深く突き刺さったであろう。彼は次の如き賛を加えている。
華叟の子孫、禅を知らず
狂雲面前、誰か禅を説く
三十年来、肩上重し
一人荷担す、松源の禅
初祖達磨大師以来、二十五祖松源崇嶽、虚堂智愚、大応国師、大燈国師、華叟宗曇と続いた臨済禅の宗風、その重みはひとり狂雲子宗純の双肩にかかっていると自賛する。初祖達磨より数えて第三十三祖となる。』
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
Ⅴ 「悟後の修行」について
 
●「本来の面目」を許されたことを、「見性入理」といいます。「心の根源」を手に入れ、第一歩の悟りを開いたということです。
只、「見性入理」というのは、理の上で悟ったということです。これだけでは、喜びを感じることはできても、実生活では十分役に立ちません。そこで「悟後の修行」が必要になります。
悟りの臭みを抜き、実生活の場で、自分の心を鍛えていく。心という鏡を、一つ一つ丁寧に磨いていく。そして、磨かれた自分の心で、ものごとを正しく映し、自由自在に使いこなし、ほんとうの人生を味わっていく。これが「悟後の修行」です。
自己と自己の心とが一体になるまで。そして、最後は自己も心も忘れ果てるまで。ここまで自分の心を鍛えていくのです。
 


Ⅵ 「在家禅」について
 
●在家禅とは、会社員、自営、主婦、学生等でありながら禅の修行に励むことです。禅の修行は自分だけ悟ればそれでよいというものではありません。実社会の場で禅の力を試す。実際の場で鍛えていく。自分の置かれた環境の中で、できる範囲で、自利利他行を果たす。
禅はあくまでも、「実践の行」です。これが「在家禅者」のあるべき姿です。
 
●その点で、人間禅の特徴である「在家禅」は、最も禅の修行に適していると思います。会社員は会社員らしく。主婦は主婦らしく。商売人は商売人らしく。学生は学生らしく。
生活+(プラス)禅ではなく、生活=(イコール)禅。生活と共にある禅。そうでないと修行は続きません。


台風の多い今年の夏ですが、皆様、いかがお座りですか。
以前は9月になると防災ネタが定番でしたが、最近は自殺問題だそうですね。
まあ、静坐会で一緒に座って、お茶でもどうぞ。ココロがカル~くなりますよ。
会えば不思議と楽しくなる、Can徹さんから、投稿をいただきました。
 
旭滝のご紹介 《普化和尚について》
 
今年早春、たまたまテレビで伊豆市の『旭瀧』の紹介番組を拝見しました。
早速、家内と見学に行ってきました。拙宅の韮山から車でおよそ40分のところです。予想を裏切らず、見事な柱状節理でできている高さ105mの瀧です。
直に拝見しまして、再度感動しました。写真を何枚か撮りましたので、ご覧ください。


 
≪ここ伊豆半島は、60万~20万年前に、はるか南方から日本列島にドッキングした半島です。その当時、火山活動が活発に行われ、その結果として、伊豆半島のいたるところで、柱状節理をみることができます。≫
*柱状節理の説明文もデジカメに取りましたのでご覧ください。
 
さて、実は、現地に行ってみて驚いたのですが、『旭滝』は、普化宗のお寺『瀧源寺』(現在は廃寺となっています。)の境内にありました。
普化宗と云えば、虚無僧を思い出します。昔、時代劇の映画を見たことがあります。袈裟を掛け、深い編笠に顔を隠し、尺八で、寂しいそうな曲を奏でながら、ひっそりと諸国を行脚している姿を思い出します。
寂しい、悲しい気持ちになったことを思い出しました。当時、たぶんこの瀧に打たれて修行されたのではないでしょうか。
虚無僧方のお墓が滝の隣にありました。お疲れさまです、と合掌し、写真を取らせてもらいました。
 
因みに、『瀧源寺』(虚無僧の宗派)について調べました。
当時、一国一寺といわれ、伊豆国には、武蔵国の鈴法寺の末寺であるこの瀧源寺が、普化宗としては一か寺だけでした。明治四年、普化宗そのものが廃宗となり、残っているものはこのお墓や『旭瀧』下の境内跡だけになったそうです。
 
何故、寂しく、悲しく感じてしまうのでしょうか?
虚無僧の風貌、奏でる尺八の音、行脚の様子・・・
この地で作られた尺八の名曲『瀧落ちの曲』は現在も盛んに吹奏されているそうです。どなたかご存知の方がいましたら教えてください。

≪普化宗について≫
我が国には、鎌倉時代末期に伝わり、虚無僧集団として生きてきたそうです。
普化宗は、中国、河北省、鎮州の普化和尚が初めた禅宗の一派です。
 
≪普化和尚について≫
禅僧は一般に、持戒堅固で、僧侶としての威儀を具し、行持綿密な方が多いのですが、それとは反対に戒律を超越し、威儀にこだわらず、その行も風変わりな方、いわゆる風狂な僧も少なくありません。
(一休禅師も当時としては破格な禅僧であったと思います。)
古来そうした風狂破格な僧の代表格と知られている僧が、鎮州の普化和尚です。生没年不明、出身地や履歴も明らかではありません。盤山宝積(ほうしゃく)禅師に法を嗣いでいます。鎮州で布教活動を展開したことで、鎮州の普化和尚と呼ばれるようになったそうです。
 
この鎮州の近郊に滹沱(こだ)河が流れており、臨済義玄がその河畔に臨済院を創建して宗風を挙揚していた。その関係で、普化は臨済と相知るようになり、臨済の教化を裏から支援することとなった。
 
普化和尚は、鎮州に在って一寺に住することなく、夜は諸所に止住して宿り、昼は街頭に出て、手にした鈴をリンリンと鳴らして、
『明頭来や明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打』
と連呼するのが常だったという。
 
《およそ「明頭来」の明は大小・長短・是非・美醜などの差別の歴然としていること、活人剣の働きである。「暗頭来」の暗はその反対で差別がなく一味平等なことである。殺人剣の働きがある。「打」の一字は、いわゆる打つ、なぐるの意味ではなく、「花に逢えば花を打し、月に逢えば月を打す」とか、「茶に逢えば茶を打し、飯に逢えば飯を打す」という場合の打で、「それに即応して、行動する」という意味である。従って前二句の意味は、
相手が差別歴然と活人剣で来れば、こちらも差別歴然と活人剣で応じ、先方が把住して殺人剣となって出てくれば、当方もグッと把住して一味平等の殺人剣で対応する。更にいえば、先方が世間法で来れば世間法で応じ、仏法でくれば仏法で、権(けん)道でくれば権道で応ずる。 ということである。
 
次に「四方八面来や旋風打」である。
ここでいう「四方八面来」とは、殺中の活有り、活中の殺有りというように、手目を見せず千変万化して出てくることである。そして相手がこのように縦横無尽に千変万化して出てくるならば、こちらもあたかも「旋風」つむじ風のように、変転自在、虚実とりまぜて応対するということである。
 
「虚空来」とは、虚空のような真空無相、清浄無一物の肚から、明だの暗だの、殺だの活だのという一切の定石を離れ、軌格を超越して無心に出てくることである。普化和尚はこれに対しては、「連架打」で応対するというのである。連架というのは、小豆などの脱穀に使う農具で、太い棒の先端にクルリクルリと変転自在に回転する小さい棒をとりつけたものである。相手が真空無一物の場から無心に働いてくるならば、こちらもあたかも連架のように変転自在で無心で対応するということである。
 
普化和尚は、「わしはこのような対応の仕方で衆生済度に当たっている。サァ、どなたでもいらっしゃい。お相手して進むぜよう」 と。
 
さて、袈裟を掛け、深い編笠に顔を隠し、尺八の奏でる寂しい虚無僧姿と、普化和尚の『明頭来や明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打』と、どう繋がっているのでしょうか?
 
≪普化和尚については、『五燈会元鈔講話』 如々庵芳賀洞然老師著 抜粋し、かつ、参考にしました。≫
 
         合掌  小林閑徹   拝

 
 
馬祖道一(唐、707786):唐王朝を揺るがす「安史の乱」(755~763)があって、禅宗も各地に分派が興隆したが、中唐の時代以降最終的に禅門の主流を占めるのが馬祖道一の一門であった。六祖慧能―南嶽懐譲―馬祖道一の系譜を掲げつつ「即心是仏」「平常心是道」と説いた。
馬祖とその師である南嶽懐譲との出会いは以下のようであった。懐譲が般若寺と言う寺に行ったところ、馬祖が毎日坐禅をしていた。懐譲が問う。「あなたは毎日坐禅しているそうだが、坐禅してどうする気だ」「はい、仏になろうと思います」すると懐譲はどこからか瓦を拾って来て、石の上でごしごし磨ぎ始めた。気になるので馬祖が問うた「師よ、それを磨いてどうなさるつもりですか」「うん、これを磨いて鏡にしようと思っている」「瓦を磨いたって鏡なんかになりませんよ」「そうか、瓦を磨いたって鏡にならんか。それじゃ、坐禅して仏になれるのかな」南嶽の言うところは、坐禅と禅を履き違えるなということである。坐禅、坐ることは確かに大切であるが、坐ることは手段であって、禅そのものではない。ただ坐っているだけではどうにもならぬ。そこで馬祖は南嶽に問うた「では、どうしたらよいのですか」これに対する南嶽の返答は「人が車に乗って行く時、車が進まなかったら、車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか」
臨済宗、曹洞宗へ:六祖慧能から、南嶽懐譲、馬祖道一、さらに百丈懐海と続き、臨済義玄が臨済宗宗祖となる。一方、馬祖らの一派から別れて、慧能―青原行思―石頭希遷という系譜を掲げ洞山良价が曹洞宗を起こす。
百丈懐海(唐、749814):ある僧が百丈に問うた「ありがたいこととはどういうことですか」百丈は答えた「独坐大雄峰」大雄峰とは百丈山のこと。わしがただ独りこの大雄峰に坐っている。この事実ほどありがたいものはないと百丈は言う。まことに百丈の面目躍如としている。「おれがここにいる」どんなときでもそう言えたら、人生はどんなにすばらしいか。「百丈野狐」
南泉→趙州従諗(じゅうしん)(778897):若くして南泉の弟子になった趙州、ある日趙州は南泉に訪ねた。「道とはどういうものですか」「平常心が道だ」「そう仕向けるべきものですか」「仕向けようとすると違ったものになる」「それでも、考えなきゃそれが道であるということも分からないでしょう」「道は知にも属さず、不知にも属さない。知は妄想だし、不知はぼんやりしている。もし本当に疑いのない道に達したら太虚ががらんとしてあけっぴろげであるようなものだ。もうなんにもいうことはない」これだと趙州は悟った。平常心、無心、いずれも意識がどこにも引っかからずに生きて行けることである。素直にすっすっと体が動いて行くことである。当たり前のことを当たり前にやる、という事。例えば道は歩いて行くものである。歩いて行く道を離れて、抽象的な道を考えるということを趙州はしない。道を本当にちゃんと歩いている者なら、「道とはどんなものですか」というような事は問わない。道は自分で歩くより他はない。歩いて、歩いて歩き抜いて、無心に歩けるようになったとき、もはや道について問うことはない。
・唐から宋の時代になると、禅が文人官僚に広く浸透し、禅の制度化、社会的に組み込まれた。禅院が官寺として国家の統制下に置かれた。「五山十刹」の制度も成立した。また宋代禅は「公案」の時代と言われる。先人の問答の記録を禅門共有の古典“公案”として選定し、それを参究することが修行の中心となっていった。碧巌録がその代表。
鎌倉時代、多くの僧が禅の教えを求めて中国・南宋に渡り、日本へと禅を伝えた。その代表的な人物が臨済宗黄龍派の禅を伝えた栄西であり、曹洞宗では道元である。
・明庵栄西:1202臨済宗の印可を受けて帰朝し、建仁寺(京都)を建立する。「興禅護国論」を著すなど興禅を意識し日本臨済宗史の起点となる。
・応燈関の法系:大応国師(南浦紹明)―大燈国師(宗峰妙超)―関山慧玄の3代を祖とする。中世以来の禅の一派。大応国師は鎌倉中期に宗に入り、宋朝臨済宗の一派、虚堂智愚の法を受け、太宰府の崇福寺にて30年、晩年、京の万寿寺、鎌倉の建長寺に移って多くの弟子を集める。その一人が大燈国師。
1246年、蘭渓道隆が渡来し、北条時頼の開基で鎌倉に建長寺を開創、執権・北条時宗の招請で無学祖元が渡来して、1282年に円覚寺を開創した。さらに1292年南禅寺が創建された。
・鎌倉幕府が滅び、建武の中興を樹立した後醍醐天皇の支援を受けて、大燈国師は大徳寺を創建(1326)、天皇は大徳寺を本朝無双の禅苑とした。
・宗峰妙超(大燈国師):永年患っていた足を死ぬときぐらい言うことを聞け、と言って自分の手で足を折り曲げ結跏趺坐された。そのとき血が出て法衣が真っ赤に染まり、そのまま坐亡された。
 ・花園天皇も禅に深く傾倒し、大燈国師に参禅された。花園の離宮を禅寺とすることを発願し、大燈国師の法嗣、関山慧玄を開山として妙心寺を開創する。
 ・夢想疎石(夢想国師):南北朝時代に南朝の後醍醐天皇と、その敵であった足利尊氏の両方から尊敬されていた。七人の天皇から国師号を贈られていたので「七朝の国師」と言われた。木造や絵を見てもいずれも俗に“夢想肩”と言ってなで肩の非常に優しい高貴な感じの肖像である。ところがやさしいどころか大変きついところがあった方で、夢想国師の書かれた「二十三問答」の一節ある“ただ父母の縁によりて見え、かりにし縁つくれば、もとの如くなるまで也。・・・・・・実には生まれも死にもせず、生きるとても来るものもなく、死するとても去る者なし」
 人間が生きているということは、これは只父母の縁によって人間としてここにあるだけのことだ、実を言えば生まれることも死ぬこともない。その生まれることも死ぬこともないところをつかまえる。というのである。夢想国師の老婆親切である。
 ・室町幕府を開いた足利尊氏、更に三代将軍の足利義満の時代には禅寺(主に臨済宗系)が時の政権と結びつき、京都を中心として、その近辺に多く建立された。天龍寺、相国寺などが創建された。
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)

Ⅲ なぜ「心の根源」を求めるのか

●人の心は誰でも、生まれたときは純心でした。
それが生きている間に、それぞれの置かれた環境や状況に影響を受け、知らず知らず蓄積され、形づくられていきます。そして、我見が生じ、あらぬ方向に向かってしまうこともあります。又、迷い苦しめられることも、しばしばあります。

●禅の修行の目的は、座禅工夫を通じて、その湧いてくる感情の根底をつくし、「心の根源」を明らかにする。そして、「悟後の修行」によってその心を鍛え、自由自在に使いこなし、いかなる状況に遭遇しても、揺るぎのない人生を送ることにあります。
長い間の業障のために忘れかけていた、生まれたときの純心な心を取り戻すことが大切です。この解決なくして、ほんとうに安心できる人生を送ることは、ほとんど困難と思います。

≪関山国師≫ (妙心寺の開祖)
国師の遺偈 『汝(なんじ)等 請う、 其の「本(もと)」(心の根源)を務(つと)めよ。(省略)葉を摘(つ)み、枝を尋(たず)ぬること莫れ。』


Ⅳ 「心の根源」を手に入れるために

「心の根源」を手に入れるために、小生が特に大切と思うことを二つ述べます。

●「大 疑 団」
禅の修行に励むためには、「大疑団(だいぎだん)・大信(だいしん)根(こん)・大勇猛(だいゆうもう)心(しん)」の、「修道の三要件」が大切といわれております。
「大疑団」とは、人生の根本問題に関して、徹底して解決を求めていく大きな疑いのこと。
「大信根」とは、①如是法の存在を信じる。②仏祖方が如是法を体得していることを信じる。③自分も如是法を悟ることができることを信じる。
「大勇猛心」とは、大疑団を解決するために必要な勇気。小生は三要件のうち、特に大切だと思うのは、「大疑
団」です。初則でしたら『本来の面目』を徹底して疑うことです。禅でいう「疑う」とは、頭で考えるのではなく、体全体で“本来の面目、如何(いかん)!如何(いかん)!……”寝ても覚めても、食事中も、通勤途上も、時間の許す限り疑う。
「本来の面目」と「自己」とが一体になるまで、徹底して疑う。これを「成り切る」といいます。 
悟るには、この方法しかありません。「大疑(たいぎ)の下(もと)に大悟(たいご)あり」。禅宗の最も大きな特徴です。

●「自   力」
初則の公案を手に入れるには、相当な努力を必要とします。「大死一番」、「崖っぷち」の処まで疑い続け、自分を追い詰めます。今迄の常識は通用しません。
苦しいからといって、書物に頼ったり、人に聞いたり、逃げてはいけません。自分が悟れることを信じ、歯を食いしばって、自分の力で解決するのです。
他から得たもの、教えられたものは、自分の悟りではありません。喜びも湧きません。役にも立ちません。喜びが少なければ修行も続きません。
最後は勇気を奮い立たせ、自分の力でぶち破ることです。努力すれば誰でも悟れます。
 

平成26年3月、当時の西東京支部(現八王子支部)において、主に新到者で継続されている方や入門したばかりの方を対象にお話しいただきました、鸞膠庵老師の法話を順次掲載していきます。

Ⅰ は じ め に

●禅の修行を始めるには、「聞(もん)・思(し)・修(しゅう)」の三段階があるといわれています。
「聞」は話を聞いたり、書物を読んだり知識を得る段階
「思」は聞の段階を経て、始めるかどうか考える段階。
「修」は思の段階を経て、実際に修行を始めようと決意する段階。

●今回の法話は、主に「聞」の段階を経て、禅の修行を始めようかどうか考えている方、及び入門して実際に修行を始められた方。「思」・「修」の段階の方を対象に話します。

 

Ⅱ 「心の根源」とは

●修行を始める決意をして入門しますと、人間禅では最初の公案【父母(ふぼ)未生(みしょう)以前(いぜん)に於(お)ける 本来(ほんらい)の面目(めんもく)如何(いかん)?】
を授かります。本来の面目とは、「自己の本心本性(ほんしんほんしょう)」とか「仏性(ぶっしょう)」といわれます。法話では「心の根源」と称して使います。この「心の根源」に焦点を当てて話します。

●人は生まれてから死ぬまで、さまざまな感情が湧き起こり、その感情に左右されて生きています。好き嫌い、楽しい苦しい、憎い可愛いい、嬉しい悲しいという感情です。その感情の湧いてくる心の奥底に深くあるもの、それが「心の根源」です。これは誰にでも、等しく具わっています。人間ばかりではなく、あらゆるものに備わっています。

●小生の強い印象
小生が修行始めたとき、最初にご指導頂いた方は妙峰庵孤唱老師(人間禅第二世総裁)でした。老師のお話は、当時勤務先の社長と内容がよく似ておりました。社長は起業し成功した方です。どちらも魅力のある方でした。そこで、“禅の修行をやらなくても、事業で努力すれば到達点は同じなのかな?”とも思いました。
ある日、お茶のお相伴のとき、老師に“勤務先の社長も老師と同じようなことをおっしゃいますが?”と尋ねました。老師はすかさず、“それは、「出所(でどころ)」が違う!”とキッパリと答えられました。その出所が「心の根源」です。
その時は見性したばかりで、理解することができませんでした。禅の修行による鍛え磨き抜かれた「心の根源」と、そうでないものとの違いであると納得できたのは、「悟後の修行」を始めて、暫らく経ってからのことです。小生の修行の原点ともいえる、強く印象に残っている思い出です。

●「心の根源」を手に入れるのには、禅が一番の近道で、確実と思います。禅は直接、「自分の心」を扱う修行だからです。


≪弘法大師≫ (真言宗開祖)
大師が開かれた京都のお寺の碑文には、『夫れ禅宗(ぜんしゅう)は諸仏頂上(ちょうじょう)の宗(しゅう)なり、根本(こんぽん)第一(だいいち)の宗(しゅう)なり。』と書かれているそうです。

先日の八王子支部との合同摂心会における山沢幽溪居士の法話を、今後数回に別けて掲載していきます。


禅の歴史(1)西天から東土へ

静坐による瞑想は仏教における基本的な修行法であり、坐禅の実践は禅宗に限られたものではない。」
「禅宗で最も重要なのは、釈尊の悟った真理を寸分違わず師匠から受け継ぎ、弟子に伝えて行くことである。但し悟道体験によって得られる真理は“不立文字”であって論理的な思考や言葉によって得られるものではない。釈尊は悟道してから涅槃に入るまでの49年間、数多くの教典を説いたとされるが、禅宗では“49年、一字不説”を主張しており論理を超えた“教外別伝”との立場をとり、真理の授受は悟道による“以心伝心”によってのみ可能としており、悟道した師匠の心にしか存在しないのである。ここに禅宗独自の伝灯の系譜が出来上がる必然性があった。」
 
・『禅』はインドでは28人に相承され、28代・菩提達磨が中国に禅を伝え、法を嗣いだ慧可から六祖慧能を経て、唐末から宗代にかけて展開する。その後、元代~明代初期(鎌倉~室町時代)、さらに明代末期~清代初期(江戸時代初期)に禅門が中国で最も隆盛を誇った時代であった。一方日本には、天智天皇の時代に、道昭が三蔵法師に学んで帰国し、奈良に日本最初の禅堂を建立する。その後平安末期から鎌倉時代に、栄西、道元等が中国に渡って学び臨済宗、曹洞宗として日本に伝える。また江戸時代には、中国、当時の明より隠元が来朝し、黄蘗宗を伝えるなどして日本で独自の発展をする。一方中国では清朝に入って禅宗は一時栄えたが、5代乾隆帝の時代に粛清を受け中国禅宗は去勢された。
 
釈尊(紀元前500年頃):釈迦族の王子であった釈尊(ゴーダマシッダールダ)が菩提樹の下に坐して12月8日に明けの明星を見て悟道。
摩訶迦葉(第1祖):禅宗における最初の師こそが釈尊であり、釈尊が弟子に対して行った伝法が「拈華微笑」と言う公案(無門関6)。ある日釈尊は弟子たちの前で華を手で持って差し出すが、仏弟子たちが訝る中、なぜか、これを見た摩訶迦葉(マカカショウ)だけが一人にっこりと微笑み、この瞬間釈尊の心から摩訶迦葉の心に正法が直に伝えられ、釈尊に印可されたと言う。これは心から心に直接伝えられると言うことから「不立文字」「以心伝心」などと形容された。ここから禅の伝灯が始まった。
西天四七、東土二三:釈尊以後の禅宗の系譜はインドで28代、中国で6代続いたされる。
菩提達磨:中国に禅を伝えた菩提達磨がインドにおける第28祖であり、中国での第1祖となる。520年頃、南インドの達磨は師の命を受け、中国に渡り中国の僧、慧可に法を伝える。
達磨は中国に来て最初に梁の武帝と対面した。その際の問答が「廓然無聖」さらに「不識」「無功徳」が知られる。武帝との対面が物別れに終わった達磨は長江を渡って北上し少林寺に入る。その際一葉の蘆に乗って長江を渡ったと伝説がある。少林寺に入った達磨は一言も口をきかず
黙ったまま九年間、壁に向かって坐禅し続けた。人は達磨を「壁間の婆羅門」と呼んだ<面壁九年>
面壁坐禅:現在、日本では曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の3派の禅宗があり、曹洞宗は面壁坐禅であり、臨済、黄蘗宗は壁に向かない坐禅で対面坐禅と呼ばれている。釈迦は菩提樹の下で坐禅して悟りを開いたとされるが、勿論菩提樹の前には壁はなかった。それでは何故壁に向かうようになったのか。達磨の「壁観」を「面壁」と称すようになり、禅僧の坐禅を指すものとして用いられるようになったらしい。曹洞宗の道元は中国に留学中は面壁坐禅をし、現在の曹洞宗はそれを受け継ぐ。当時は臨済宗の僧も面壁坐禅をしていたようであったが、黄蘗宗は面壁をしておらず、江戸時代になって臨済宗も黄檗宗の影響を受け対面坐禅へと変わった。
二祖・慧可:中国の僧、慧可が少林寺に達磨を尋ねて道を問うた。しかし達磨は黙ったまま取り合わなかった。そこで慧可は自らの左腕を刀で断ち切って求道の志を示した。慧可が自分の心が不安でたまらないので安らかにしてくれと訴えたところ、では、その安らかでない心をここに出してみよと求めた。慧可が不安な心はどこにも見つからなかったと答えると、達磨は言った、「ほれ、これで汝の心を安らかにし終わったぞ」この言葉で悟った慧可は達磨の法をついで東土の第二祖となった。
達磨から慧可に伝えられた法は、その後三祖僧璨、四祖道信、五祖弘忍、六祖慧能へと伝法が重ねられていった。
六祖・慧能(唐、638713:五祖は慧能に袈裟と鉢を授けて禅宗六祖とした。それから慧能を南方に逃し雌伏6年(676年)<六祖をめぐり、慧能と神秀の間で対立があった>、姿を現した慧能は院宗法師の涅槃経の講義を聞いた。夜になって一陣の風が吹き起こり、幡がはためいた。すると一人の僧が「幡が動いた」と言い、べつの僧が「いや、風が動いた」と言った。それを聞いた慧能が一言言った。「風が動いたのではない、幡が動いたのでもない。心が動いたのだ」これが有名な“風幡心動”の公案。
・六祖慧能の頃、645年には玄奘三蔵がインドより唐の長安に戻る。662年、道昭、唐で三蔵に学んで帰国し奈良に禅堂を建立する。日本の禅の初伝。(飛鳥時代)
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)




去る5月31~6月3日、カンディダ・マリア・ハウス様内の旧東伏見宮別邸をお借りして、第15回横浜座禅会摂心会が厳修され、日曜日に円了しました。
毎回素晴らしい環境で摂心会をとりおこなうことができて、法喜禅悦のかぎりです。
 
私は限られた時間の中、この喜びを何かに表現したくて、キッチンのクリーンアップに注力しました。ホントは、やればやるほどきれいになったので、その達成感に喜んでいたのです、ハイ。
 
皆様、大事ですよ「達成感」
またまたテレビネタですが、「達成感」が原因不明のカラダの痛みを取り払うそうです。
ガンバル ー> 変化する -> 気づく -> 達成感 -> 健康になる ->ガンバル
コリャ、ポジティブスパイラルですな。
最初はちょっとやってみて、自己満足することからはじめましょう。
国道134号線を逗子から葉山へ進み
向原バス停手前の、ここが達成感体験ゾーンへの入り口です(左折)
いつもは幼稚園の入り口です。
 
次回第16回横浜座禅会摂心会は、八王子座禅会と合同で、7月14日~21日に八王子市の禅東院様を会場としてとりおこないます。
夏の暑い最中にお寺で達成感を積み重ね、本当の自分を見つけましょう。
もちろん各地(川崎、関内野毛、大和、茅ヶ崎)の座禅会で一緒に座れば、コッソリ自己満足していただけます。

私の美しい姿勢

カテゴリ : 
ブログ » 摂心会
執筆 : 
Kakuken 2018/5/31 1:32
皆様お久しぶりです、いかがお座りですか。
昨日ちらりと見たテレビ番組で、スポーツの分野で活躍しているフィジカルトレーナーのかたが、美しい姿勢について説明していました。
悪い姿勢で長時間スマホを操作していると、健康に影響を及ぼす恐れがありますよね。
良い姿勢の人は、かっこいいですね、印象も良いです、トクです。
どのように椅子に座ると、姿勢が美しく見えるか、ポイントは・・・座骨の2点ということです。
いやあ、これ、座禅の座り方ですね。
良い「座相」ってヤツです。
座禅の場合は、「左右の膝と、おしりの3点で支える」と言われます。
その「おしり」=座骨の2点、というわけです。

マウスでフリーハンドな骨盤のイラストです。
 
そして本日、第15回横浜座禅会摂心会が始まります!
葉山町にある、とある宮様ゆかりのシックな木造洋館で、じっくり座れます。
美しい姿勢で座ると、アナタのココロもカラダも、きっと健康になりますよ。
 
神奈川県下で座禅をしてみたいと感じてしまった幸運なアナタ、各地(川崎、関内野毛、大和、茅ヶ崎)の座禅会で、ココロもカラダも、きっと健康になります。