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・足利政権下では大徳寺が五山から外され、また妙心寺が足利義満の弾圧で没収されたが日峰宗舜が中興し、応仁の乱で焼けた後も雪江宗深らの手で再建される。
古渓宗陳(153297:正親町(おおぎまち)天皇の勅を受けて大徳寺を継ぐ。利休とは肝胆相照らす仲。多くの茶人を知る。古渓は秀吉の信も厚かったが、秀吉の勘気に触れて九州に流される。利休らがその赦免に奔走して帰京する。利休が、大徳寺山門安置の木像に起因して、秀吉の換気に触れ自刃。大徳寺長老2,3人も磔と大徳寺破却の処罰を受ける。磔は秀吉の母大政所の助力で中止となったが、破却は徳川家康などの使者が遣わされた。古渓は使者を前にして懐の刀を出し「貧道先ず死あるのみ」として抗議する。報告を聞いた秀吉は破却命令を撤回したと言う。
沢庵宗彭:1628年紫衣事件(大徳寺諸法度を避難して幕府に抗議)にて流罪となったが、赦免される。1639年家光が江戸品川に開創した東海寺の開山となる。
隠元隆1654年、福建省黄蘗山萬福寺の隠元(63歳)を招請して、長崎興福寺に開堂して黄蘗宗を開く。やがて京都宇治の地に黄蘗山萬福寺の開山となる。隠元は当初中国人のために3年間だけ滞在するつもりで来たが、隠元が臨済宗の僧であったため、隠元の来日を知った多くの臨済宗、曹洞宗の僧達が多数馳せ参じた。当時の日本の禅界は300年間沈黙していたと言われ、そのため多くの僧が隠元の下に集まったと思われる。黄蘗の宗風は当時中国で行われていた禅淨蜜融合の仏教に沿ったものであった。隠元が渡来後はじめて興福寺で行った結制には多くの日本僧が参加していたが、妙心寺派の首座が黄檗僧に語った言葉は以下のとおりである。「其の家風を見るに、問道説禅、禅の如きものあり、忽ち高く弥陀仏を唱う。浄土宗の如きもの有り、真言宗の如きものあり」このように黄檗宗は西方浄土的であり、また密教的色彩をも有していた。日本の禅僧たちはこれに新鮮さを感じ取った人もあり、一方嫌悪感を抱く人もあった。いずれにしろ当時の日本の禅界に強い印象を与えた。
隠元の来朝は明代文化東漸の一環である。明より清への中国社会の変革に際して、東漸の動きは一段と強まる。清朝は塞外の女真族が建てた国である。異民族の支配を好まぬ有識者は、清朝の建国が決定的となるや、海外に活路を求め始める。黄檗の開創に象徴される中国近世文化の東漸は仏教の域に留まらず、広く精神文化の再編をはじめ、国学、蘭学、漢方、社会教育、福祉の普及より、さらに文人趣味を背景として煎茶や、普茶料理などの食生活の領域にも大きな変化をもたらした。 “インゲン豆”は隠元が日本にもたらしたとある。この他にも“孟宗竹”や“西瓜”“寒天”等をもたらしたとの説もある。また、読経の時に使う“木魚”。以前は魚の形のまま中をくりぬいて合図のために使用していたが、黄蘗派がもたらしたものは魚の模様のまま形を丸くして中をくりぬき読経のために使用するようになった。
隠元が渡来した後、黄檗派は急速に発展し、百年後には寺院千カ寺を超え、仏教界はじめとして多くの分野で影響を与えた。
至道無難→道鏡慧端(正受老人)→白隠慧鶴:隠元の来朝で黄蘗派が勢いを増し、妙心寺でも黄蘗僧になったりと隠元に関心をしめして宗風の刷新を図る動きがあった。しかしそれはそれはかえって妙心寺に開創以来の伝統を堅持すべきことを再認識させる機会となった。愚堂東寔(とうしょく)は1659年妙心寺開山300年法要で導師を務め、今に臨済禅の法灯を伝える貴重な存在が妙心寺であることと、その重要性を説き、自力再興を掲げた。愚堂国師からいろいろと教えを受けたのが、至道無難禅師である。47歳のときに愚堂国師から『信心銘』の講義を聞き、その冒頭の「至道無難、唯嫌揀択」の一句に絶大な感銘を受け大悟したと言う。そのとき国師から「至道無難」の名を授けられた。もともと関ヶ原の庄屋であった無難は、たまたま立ち寄った愚堂国師に従って江戸までついて行き出家した。
「念のふかきは畜生、念のうすきは人、念のなきは仏」
他人についても自分についても無関心な、いい加減な人間。こんないい加減な人間が、そのいい加減さを反省することなく、ただ師匠の言いなりになったり、なだ念仏をとなえたりしたって、本当のところへいけるはずがない、と無難は考えた。だから人間は、いい加減な生き方を清算して徹底的に努力するところがなければならぬ。52歳で発心して坐禅に励んだ無難の眼から見ると、若年、壮年でぐずぐずしている人間の生き方が歯痒くてならなかったのであろう。
正受老人:この無難から親しく印可を受け、正脈を伝えた弟子が、正受道鏡慧端禅師ひとりであった。19歳の時、江戸へ出て至道無難禅師に師事。20歳にして、その奥義に達し、その後信州飯山に正受庵を立てて隠棲します。『正受老人の書かれた「一日暮らし」の中に、有名な<一大事と申すは今日只今の心なり。>という句があります。一日一日とつとむれば百年、千年もつとめやすし。一生と思うからにたいそうである。一生とは永いと思へど後の事やら翌日の事やら、死を限りと思えば一生にはだまされやすしと。「一大事と申すは今日只今の心也」それをおろそかにして、翌日あることなし。総ての人に遠きことを思いて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず。』<『禅』誌46号(2014)鸞膠庵老師「禅者の死」より>
この正受老人によって仕上げられたのが、五百年不出の偉人と言われた白隠禅師。
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
Ⅶ 理想の人間像
 
若い頃読んだ武者小路実篤の本の中に、多くの方は“花は美しいから好きだ”といいます。では、何故美しいのか?それは「花は己(おのれ)の美しさを知らず。」と、述べられております。花は美しいが、自分を美しいとは意識していない。人が見ていようが見ていまいが、花は只、自然に咲いているだけ。そして、花の役目を果たしている。という意味でした。小生の修行の理想像とする処です。
 
Ⅷ お わ り に
 
●若い頃読んだ本の中に、「人生は棺桶に片足を入れたとき、“よかった”と思えれば、その人の人生は成功した人生である。」と述べておりました。そのときは、その通りだと思いました。そういう人生を送ろうと思いました。それは間違いではないと思います。
只、禅の修行をしてきて、今は考えが変わりました。それでは手遅れ。実際に生きている「只今(ただいま)」という瞬間。只今のその一瞬のときに“これでよい!”と思える人生。それがほんとうの人生だと思うようになりました。そいう人生を目標に禅の修行を続けていきたいと思います。 
≪正受老人≫(白隠禅師の師)
老人曰く、『一大事(いちだいじ)と申すは 今日只今(ただいま)の心(こころ)也、的面(てきめん)の今を失(うしな)ふに 心づかず。』 
 
●小生の好きな言葉
≪耕雲庵英山老大師≫
(「凡夫禅」第2号 昭和21年4月)
『禅とは心なり。只 それだけのことなり。それだけのことに禅者は一生をかけて努力す。愚者(ぐしゃ)は之を嗤(わら)はん。智者(ちしゃ)は之を知る。』                      終

実は、小生、今でも右と左がすぐには判断できないのです。
『上』には堂々と大空、『下』にはどっしりと大地、とはっきりとわかるのですが、『右』、『左』については脳みそで映像化してから判断しています。人は即座に判断するのに比較して、小生、0.5~1秒程度遅れてから理解しています。
その時、脳みそは、小学1年生の時の教壇での先生の映像と言葉が浮かんできます。『みなさん!ハイ、こちらが右ですヨ!』と。そして、その映像と今の状況とを照らし合わせて、右か左を判断しています。
 
子供時代は、右も左も全くわかりませんでした。体育の時間で、先生が、『みなさん!目をつぶって、ハイ、回れ右!』とか、『右向け―右!』と指示が出てもよくわからずに、そーっと薄目を開けて、みんなの向く方向に少し遅れてから向いていました。何故みんなはわかるのだろう?と不思議に思っていました。
みんな頭がいいんだなー!と感心していました。それに引き換え、オイラは、なんとおバカなんだろうと。
 
就職してまもなく、たまたま、上司より、T取締役部長をM駅へ迎えに行くように指示されました。M駅から会社への道はT取締役が周知の裏道でした。
最初は、曲がる1~2秒前に、『君、そこを左に!』、『そこを右に!』と指示され、小生は、脳みそで映像化された場面を確認して、順調に左、右と運転していました。ところが、曲がる直前(0.1~0.2秒)に、『そこを左!』と。ヤバい! 映像化するには間に合わない!と。二分の一の確率、『よし!』と決心して、決行ました。結果は、『君!反対だ!』と。
 
何故、わからなくなったのかと、考えてみました。小生、生まれつきギッチョ(左利き)でした。ところが、ちょうど父兄参観で、母親が参観している時に、先生から、黒板の前にいる小生に『Tくん、字は右で書きましょう。』と。思わず赤くなったことを覚えています。
それまで、箸をもつのも、茶碗をもつのも、右左どちらも使っていたので、『箸を持つ方が右です。』と云われてもますますわからなくなってしまいました。先生にとって『左』が何故『右』何だろう???と。
さらに疑問を持ったのは、『向かって右』とか、『向かって左』という言葉でした。『向かって』、とか、『向かわなくて』、とは、一体どういうことなのか?と。
 
右も左もわからないのは小生だけと思っていたら、偶然にも、道友のE居士も同じでした。まさに、【友 遠方より 来たり!】です。
彼とは、方向について会話する時は、『アッチ!』、『コッチ!』で話しています。世の中に少なくとも2人はいました。楽しい出会いです。
 
最近になって、『向かって右』、『向かって左』について、アルバイト先の先輩に教わり、納得しました。しかし、映像化して、右、左を判断しているので、反応が遅くなってしまい、結局、『アッチ!』、『コッチ!』で仕事を進めています。
 
禅は、そういう『おバカ』とか、『頭が良い』とか、『優越感』とか、『劣等感』
とかいう脳みそが引っかかっている不自由なものを取っていく修行なんです。
 
右も左もわからないおバカッチョですが、楽しく人生を生きています。
 
お互い、一度 こっきりの人生です。
 
元気で、楽しく、仲良く生きましょう!

拝 閑徹


公案と現成公案(1)   正徹

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
横浜座禅会 2018/10/21 18:19

 平成27年9月にNHK Eテレのこころの時代で放送された安永祖堂老師による「人生是公案」という番組での言葉の一部を以下紹介します。
 「禅の世界には『現成公案(げんじょうこうあん)』という言葉がございまして、禅の修行と言いましても、修行道場で座禅を組んで、公案を解決するというのは、これは『畳の上の水練』と言いまして、要するに実際に海で泳ぐということではないです。その予行演習をしているようなものですよね。本当の修行は、世の中に出てからだ、と言われます。つまり現成公案、私たちが生きていく上で日々の生活、辛いこと、なかなか解決できないこと、次から次へと起こってくるではないですか。それに立ち向かう、そういうことなんでしょうね。だから私たちが生きていくというのは、実は公案の修行というものを日々重ねているものと全く変わらないんじゃないかと思いますよ。お釈迦様は、人が生きるこの世界というのを『苦』とおっしゃいましたね。いわゆる『苦しみ』の『苦』と書きますけれども、苦の世界であると。この『苦』というのは、苦しみということよりも、もともとインドの古い言葉━サンスクリット語といいますけれども、『ドゥッカ』というんだそうです。
では、『ドゥッカ』というのはどういう意味ですかいうと、『満たされないこと』なんだそうですね。仏教でいうところの『苦』というのは、『満たされないこと』。故に私たちは常に満たされないでいるのかも知れません。そういう苦に溢れた人生というものを本当の自分として生きていく。それはまさに公案の修行と全く変わらない。大変なことだけれども、一つひとつ解決していくところに価値があるんではないかと、私は考えています。」
 以上が祖堂老師の言葉で、「畳の上の水練」という言葉を紐解いてみると、「理論や方法を知って
いるだけで、実際の役には立たないことのたとえ。」とあり、注釈に「畳の上で水泳の練習をしても実地の練習をしていないため、水に入ってみれば何の役にも立たないことからそういう。」とあります。老師の言葉は公案および現成公案の核心を突いた言葉で、大いに勇気づけられる思いがします。
(次回に続く)

標記の件、私の職場の同僚からの依頼で、萬耀庵老居士に禅のお話をしていただきました。
(私の職場自体とは関係なく、産業カウンセラーの立場からの依頼です)
 

日時  :2018年9月18日(火)16時から2時間程度

場所  :東京都中央区にある区民館の和室

講師  :萬耀庵老居士

参加者 :私の職場の同僚他、男性1名・女性2名、および
     岩村富嶽居士(中央支部員(元横浜支部員)、大寂 (総勢7名)

内容 : 萬耀庵老居士より、座禅の仕方、禅の歴史、禅の世界観等をお話いただき、
     皆様、熱心にお話をお聞きになられ、座禅も実習しました。
     産業カウンセラーの「傾聴・共感」にも繋がり、良い学びになったとのことでした。
     その後は男性メンバーで近くのお店で懇親会となり、皆様と歓談いたしました。
     今後もこのご縁を大切にしていきたいと思います。

 


道元禅師:時代は遡って、臨済宗と並ぶ、もう一派の曹洞宗を述べる。曹洞宗は洞山良价が起こした事は既に述べたが、臨済宗が“公案禅”(看話禅)の一方、曹洞宗では“黙照禅”と呼ばれ、只管打坐が受け継がれた。坐禅中に「焼香、礼拝、念仏」などの余行をすることなく、ただひたすら黙々と坐禅のみを行うことを説く「非思量」の坐禅、すなわち坐禅中に公案を参究せず、無心に坐るので」ある。坐禅の姿がそのまま仏の姿であると説き、徹底した坐禅修行を必要とすることも特色の一つである。
道元は幼くして父母を失い、14歳で比叡山にて得度し、僧侶となった。18歳の時に比叡山を降りて栄西の高弟である明全を師とし、ともに博多から宗に渡った(1223年)。やがて曹洞宗の如浄を師と仰いで入室参禅し、遂に大悟する。如浄に学ぶこと3年、釈尊正伝の仏法を相承して帰国した。帰国後建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」を著し坐禅の仕方や心得を明らかにして広く人々に禅を勧めた。そのため、天台宗から圧迫を受け、建仁寺から追われて深草に移る。「典座教訓」を著すなどして修行者の生活規律を定めていった。さらに「正法眼蔵」(しょうほうげんぞう)の執筆も行われた。道元のもとに多くの僧侶が集まるようになり、それが比叡山を刺激し天台宗の圧迫を受けた。やがて越前に移った。これは如浄からの教えで「国王大臣に近づくことなかれ。ただ深山幽谷に居して一個半個を説得し吾が宗をして断絶到さしむことなかれ」を守ることでもあった。1246年永平寺に入る。執権・北条時頼の招きを受けて鎌倉に下ったが、弟子が永平寺に残っていることを理由に越前に帰った。その時、残務整理のために残っていた弟子の玄明に対し幕府から寺領寄進の申し出があった。玄明はこれを受けて永平寺に帰山し得意げに報告した。この時道元は玄明の衣をはぎとり、即日山から追放したのである。それのみか玄明が坐っていた僧堂の床を切り取り、その下を深く掘って捨て去ると言う徹底ぶりであった。「正法眼蔵随聞記」の一節に“学道の人は先ず須らく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う。・・・僧は三衣一鉢の他は財宝を持たず、居所を思わず、衣食を貪らざる(むさぼらざる)の間だ、一向に学道すれば分分に皆得益あるなり。その故は貧なるが道に親しきなり。”これが道元日頃の教えであった。それから3年後、後嵯峨天皇から道元に紫衣を賜った。再三辞退したが勅使が3度永平寺に至ったので遂に受けたが、終生これを用いなかった。
辞世の一句“またみんと思いし時の秋だにも今宵の月にねられやはする”
孤雲懐奘(えじょう):道元のかたわらにあって影の形に添うようにその働きを助けたのは孤雲懐奘である。懐奘は31歳から56歳まで25年間道元禅師の侍者であり、片腕であり、良き相談相手であった。しかも懐奘は道元より2歳年上であった。懐奘は幼い頃に比叡山に登って出家し、学僧として名が高かったが宗から帰国して建仁寺にいた道元の弟子となり、生涯、道元に対して絶対服従であった。懐奘が修行しているとき、懐奘の母親の病気が重くなり臨終が近づいた。大衆は懐奘に同情して母親のもとに行くように勧めたが、行かなかった。以前に道元が亡き師明全和尚が瀕死の状態にあったにも拘わらず、師を後にして旅たったことがあり、その時の道元が「亡き師明全和尚について真実の道心があると考えたのは、或いは父母のため、或いは師匠のために、無益なことをしていたづらに時を過ごし、あらゆる道にすぐれた仏の道をさしおいて時日を過ごしてはならない」と言われたことがあったからである。後年、永平寺の住持となった懐奘は、方丈の側に道元の遺影を置いて昼夜に供養を怠らなかった。
瑩山紹瑾:曹洞宗の展開に大きく影響を与えたのが瑩山紹瑾である。8歳にて永平寺の第三世・徹通義介に参じ、次いで懐奘について得度した。大きくなる教団に合わせて教団の規定を整える。また、多くの弟子を輩出し、日本各地に曹洞宗の法脈が伝えられることとなる。能登に総持寺の開山となる(1321年)
・臨済宗が将軍家と結びついて発展し、京都を中心とする文化的な側面にも大きな影響を与えていったが、一方、曹洞宗は地方に広がり、在地の武家、豪族、下級武士、一般民衆を中心に広まり、強い影響力を持つようになった。
一休宗純(13941481:大徳寺の一休として天下にその名を知られた一休宗純は、およそ禅僧らしからぬ禅僧であり、かつ禅僧中の禅僧であった。後小松天皇のご落胤であるが権力の真っ向から挑戦し、詩人であり、孤高のひとであり、戦乱暗黒の室町時代にあって、常に民衆の味方であった。一休は堅田の華叟禅師の弟子となって、この人のもとで特別厳しい訓練を受けた。かれはしばしば漁師の舟を借りてその中で坐禅に打ち込んだ。一休27歳の5月20日の夜、漆黒の闇世の中、船の中で坐禅していると闇に一声「カアッ」と鴉が啼いた。その一瞬に大悟した。夜明けとともに華叟の室に入り、自己の心境を語った。華叟は黙って聞いていたが、それで良いとは言わなかった。「それは羅漢の境界だ。作家(サッケ・真に悟った者)の境界ではない」一休の大悟が真実のものかどうか、もう一押し押してみたのである。一休はこう言われてもびくともしない。「何と言われますか。これが羅漢の境界なら羅漢で結構。作家などにならんでよろしい。」と言下に言って退けた。その毅然として動かざる態度を見て、華叟ははじめて「お前は真実の作家である」と評して、印可書を書いて一休に与えたが、一休はそれを投げ捨てて出て行った。印可書というものはみだりに書くものではない。ところが当時の禅界は堕落その極に達していて、資格のない者にまでいい加減な印可書が安売りされていた。一休はそれを恨むこと甚だしかったのだ。その後、師の華叟が死んだ後、一休44歳の時にその印可書を渡され、それを見て師恩の深いことに感泣したが、17年前の彼の決意に変わりなく、涙を呑んでこれを裂き、火中に投じた。印可書の末尾に書かれた一句、「正法もし地に堕ちなば、汝、出世し来たってこれを扶起せよ。汝は我が一子なり」という華叟の慟哭にも似た言葉は彼の心中奥深く突き刺さったであろう。彼は次の如き賛を加えている。
華叟の子孫、禅を知らず
狂雲面前、誰か禅を説く
三十年来、肩上重し
一人荷担す、松源の禅
初祖達磨大師以来、二十五祖松源崇嶽、虚堂智愚、大応国師、大燈国師、華叟宗曇と続いた臨済禅の宗風、その重みはひとり狂雲子宗純の双肩にかかっていると自賛する。初祖達磨より数えて第三十三祖となる。』
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
Ⅴ 「悟後の修行」について
 
●「本来の面目」を許されたことを、「見性入理」といいます。「心の根源」を手に入れ、第一歩の悟りを開いたということです。
只、「見性入理」というのは、理の上で悟ったということです。これだけでは、喜びを感じることはできても、実生活では十分役に立ちません。そこで「悟後の修行」が必要になります。
悟りの臭みを抜き、実生活の場で、自分の心を鍛えていく。心という鏡を、一つ一つ丁寧に磨いていく。そして、磨かれた自分の心で、ものごとを正しく映し、自由自在に使いこなし、ほんとうの人生を味わっていく。これが「悟後の修行」です。
自己と自己の心とが一体になるまで。そして、最後は自己も心も忘れ果てるまで。ここまで自分の心を鍛えていくのです。
 


Ⅵ 「在家禅」について
 
●在家禅とは、会社員、自営、主婦、学生等でありながら禅の修行に励むことです。禅の修行は自分だけ悟ればそれでよいというものではありません。実社会の場で禅の力を試す。実際の場で鍛えていく。自分の置かれた環境の中で、できる範囲で、自利利他行を果たす。
禅はあくまでも、「実践の行」です。これが「在家禅者」のあるべき姿です。
 
●その点で、人間禅の特徴である「在家禅」は、最も禅の修行に適していると思います。会社員は会社員らしく。主婦は主婦らしく。商売人は商売人らしく。学生は学生らしく。
生活+(プラス)禅ではなく、生活=(イコール)禅。生活と共にある禅。そうでないと修行は続きません。


台風の多い今年の夏ですが、皆様、いかがお座りですか。
以前は9月になると防災ネタが定番でしたが、最近は自殺問題だそうですね。
まあ、静坐会で一緒に座って、お茶でもどうぞ。ココロがカル~くなりますよ。
会えば不思議と楽しくなる、Can徹さんから、投稿をいただきました。
 
旭滝のご紹介 《普化和尚について》
 
今年早春、たまたまテレビで伊豆市の『旭瀧』の紹介番組を拝見しました。
早速、家内と見学に行ってきました。拙宅の韮山から車でおよそ40分のところです。予想を裏切らず、見事な柱状節理でできている高さ105mの瀧です。
直に拝見しまして、再度感動しました。写真を何枚か撮りましたので、ご覧ください。


 
≪ここ伊豆半島は、60万~20万年前に、はるか南方から日本列島にドッキングした半島です。その当時、火山活動が活発に行われ、その結果として、伊豆半島のいたるところで、柱状節理をみることができます。≫
*柱状節理の説明文もデジカメに取りましたのでご覧ください。
 
さて、実は、現地に行ってみて驚いたのですが、『旭滝』は、普化宗のお寺『瀧源寺』(現在は廃寺となっています。)の境内にありました。
普化宗と云えば、虚無僧を思い出します。昔、時代劇の映画を見たことがあります。袈裟を掛け、深い編笠に顔を隠し、尺八で、寂しいそうな曲を奏でながら、ひっそりと諸国を行脚している姿を思い出します。
寂しい、悲しい気持ちになったことを思い出しました。当時、たぶんこの瀧に打たれて修行されたのではないでしょうか。
虚無僧方のお墓が滝の隣にありました。お疲れさまです、と合掌し、写真を取らせてもらいました。
 
因みに、『瀧源寺』(虚無僧の宗派)について調べました。
当時、一国一寺といわれ、伊豆国には、武蔵国の鈴法寺の末寺であるこの瀧源寺が、普化宗としては一か寺だけでした。明治四年、普化宗そのものが廃宗となり、残っているものはこのお墓や『旭瀧』下の境内跡だけになったそうです。
 
何故、寂しく、悲しく感じてしまうのでしょうか?
虚無僧の風貌、奏でる尺八の音、行脚の様子・・・
この地で作られた尺八の名曲『瀧落ちの曲』は現在も盛んに吹奏されているそうです。どなたかご存知の方がいましたら教えてください。

≪普化宗について≫
我が国には、鎌倉時代末期に伝わり、虚無僧集団として生きてきたそうです。
普化宗は、中国、河北省、鎮州の普化和尚が初めた禅宗の一派です。
 
≪普化和尚について≫
禅僧は一般に、持戒堅固で、僧侶としての威儀を具し、行持綿密な方が多いのですが、それとは反対に戒律を超越し、威儀にこだわらず、その行も風変わりな方、いわゆる風狂な僧も少なくありません。
(一休禅師も当時としては破格な禅僧であったと思います。)
古来そうした風狂破格な僧の代表格と知られている僧が、鎮州の普化和尚です。生没年不明、出身地や履歴も明らかではありません。盤山宝積(ほうしゃく)禅師に法を嗣いでいます。鎮州で布教活動を展開したことで、鎮州の普化和尚と呼ばれるようになったそうです。
 
この鎮州の近郊に滹沱(こだ)河が流れており、臨済義玄がその河畔に臨済院を創建して宗風を挙揚していた。その関係で、普化は臨済と相知るようになり、臨済の教化を裏から支援することとなった。
 
普化和尚は、鎮州に在って一寺に住することなく、夜は諸所に止住して宿り、昼は街頭に出て、手にした鈴をリンリンと鳴らして、
『明頭来や明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打』
と連呼するのが常だったという。
 
《およそ「明頭来」の明は大小・長短・是非・美醜などの差別の歴然としていること、活人剣の働きである。「暗頭来」の暗はその反対で差別がなく一味平等なことである。殺人剣の働きがある。「打」の一字は、いわゆる打つ、なぐるの意味ではなく、「花に逢えば花を打し、月に逢えば月を打す」とか、「茶に逢えば茶を打し、飯に逢えば飯を打す」という場合の打で、「それに即応して、行動する」という意味である。従って前二句の意味は、
相手が差別歴然と活人剣で来れば、こちらも差別歴然と活人剣で応じ、先方が把住して殺人剣となって出てくれば、当方もグッと把住して一味平等の殺人剣で対応する。更にいえば、先方が世間法で来れば世間法で応じ、仏法でくれば仏法で、権(けん)道でくれば権道で応ずる。 ということである。
 
次に「四方八面来や旋風打」である。
ここでいう「四方八面来」とは、殺中の活有り、活中の殺有りというように、手目を見せず千変万化して出てくることである。そして相手がこのように縦横無尽に千変万化して出てくるならば、こちらもあたかも「旋風」つむじ風のように、変転自在、虚実とりまぜて応対するということである。
 
「虚空来」とは、虚空のような真空無相、清浄無一物の肚から、明だの暗だの、殺だの活だのという一切の定石を離れ、軌格を超越して無心に出てくることである。普化和尚はこれに対しては、「連架打」で応対するというのである。連架というのは、小豆などの脱穀に使う農具で、太い棒の先端にクルリクルリと変転自在に回転する小さい棒をとりつけたものである。相手が真空無一物の場から無心に働いてくるならば、こちらもあたかも連架のように変転自在で無心で対応するということである。
 
普化和尚は、「わしはこのような対応の仕方で衆生済度に当たっている。サァ、どなたでもいらっしゃい。お相手して進むぜよう」 と。
 
さて、袈裟を掛け、深い編笠に顔を隠し、尺八の奏でる寂しい虚無僧姿と、普化和尚の『明頭来や明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打』と、どう繋がっているのでしょうか?
 
≪普化和尚については、『五燈会元鈔講話』 如々庵芳賀洞然老師著 抜粋し、かつ、参考にしました。≫
 
         合掌  小林閑徹   拝

 
 
馬祖道一(唐、707786):唐王朝を揺るがす「安史の乱」(755~763)があって、禅宗も各地に分派が興隆したが、中唐の時代以降最終的に禅門の主流を占めるのが馬祖道一の一門であった。六祖慧能―南嶽懐譲―馬祖道一の系譜を掲げつつ「即心是仏」「平常心是道」と説いた。
馬祖とその師である南嶽懐譲との出会いは以下のようであった。懐譲が般若寺と言う寺に行ったところ、馬祖が毎日坐禅をしていた。懐譲が問う。「あなたは毎日坐禅しているそうだが、坐禅してどうする気だ」「はい、仏になろうと思います」すると懐譲はどこからか瓦を拾って来て、石の上でごしごし磨ぎ始めた。気になるので馬祖が問うた「師よ、それを磨いてどうなさるつもりですか」「うん、これを磨いて鏡にしようと思っている」「瓦を磨いたって鏡なんかになりませんよ」「そうか、瓦を磨いたって鏡にならんか。それじゃ、坐禅して仏になれるのかな」南嶽の言うところは、坐禅と禅を履き違えるなということである。坐禅、坐ることは確かに大切であるが、坐ることは手段であって、禅そのものではない。ただ坐っているだけではどうにもならぬ。そこで馬祖は南嶽に問うた「では、どうしたらよいのですか」これに対する南嶽の返答は「人が車に乗って行く時、車が進まなかったら、車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか」
臨済宗、曹洞宗へ:六祖慧能から、南嶽懐譲、馬祖道一、さらに百丈懐海と続き、臨済義玄が臨済宗宗祖となる。一方、馬祖らの一派から別れて、慧能―青原行思―石頭希遷という系譜を掲げ洞山良价が曹洞宗を起こす。
百丈懐海(唐、749814):ある僧が百丈に問うた「ありがたいこととはどういうことですか」百丈は答えた「独坐大雄峰」大雄峰とは百丈山のこと。わしがただ独りこの大雄峰に坐っている。この事実ほどありがたいものはないと百丈は言う。まことに百丈の面目躍如としている。「おれがここにいる」どんなときでもそう言えたら、人生はどんなにすばらしいか。「百丈野狐」
南泉→趙州従諗(じゅうしん)(778897):若くして南泉の弟子になった趙州、ある日趙州は南泉に訪ねた。「道とはどういうものですか」「平常心が道だ」「そう仕向けるべきものですか」「仕向けようとすると違ったものになる」「それでも、考えなきゃそれが道であるということも分からないでしょう」「道は知にも属さず、不知にも属さない。知は妄想だし、不知はぼんやりしている。もし本当に疑いのない道に達したら太虚ががらんとしてあけっぴろげであるようなものだ。もうなんにもいうことはない」これだと趙州は悟った。平常心、無心、いずれも意識がどこにも引っかからずに生きて行けることである。素直にすっすっと体が動いて行くことである。当たり前のことを当たり前にやる、という事。例えば道は歩いて行くものである。歩いて行く道を離れて、抽象的な道を考えるということを趙州はしない。道を本当にちゃんと歩いている者なら、「道とはどんなものですか」というような事は問わない。道は自分で歩くより他はない。歩いて、歩いて歩き抜いて、無心に歩けるようになったとき、もはや道について問うことはない。
・唐から宋の時代になると、禅が文人官僚に広く浸透し、禅の制度化、社会的に組み込まれた。禅院が官寺として国家の統制下に置かれた。「五山十刹」の制度も成立した。また宋代禅は「公案」の時代と言われる。先人の問答の記録を禅門共有の古典“公案”として選定し、それを参究することが修行の中心となっていった。碧巌録がその代表。
鎌倉時代、多くの僧が禅の教えを求めて中国・南宋に渡り、日本へと禅を伝えた。その代表的な人物が臨済宗黄龍派の禅を伝えた栄西であり、曹洞宗では道元である。
・明庵栄西:1202臨済宗の印可を受けて帰朝し、建仁寺(京都)を建立する。「興禅護国論」を著すなど興禅を意識し日本臨済宗史の起点となる。
・応燈関の法系:大応国師(南浦紹明)―大燈国師(宗峰妙超)―関山慧玄の3代を祖とする。中世以来の禅の一派。大応国師は鎌倉中期に宗に入り、宋朝臨済宗の一派、虚堂智愚の法を受け、太宰府の崇福寺にて30年、晩年、京の万寿寺、鎌倉の建長寺に移って多くの弟子を集める。その一人が大燈国師。
1246年、蘭渓道隆が渡来し、北条時頼の開基で鎌倉に建長寺を開創、執権・北条時宗の招請で無学祖元が渡来して、1282年に円覚寺を開創した。さらに1292年南禅寺が創建された。
・鎌倉幕府が滅び、建武の中興を樹立した後醍醐天皇の支援を受けて、大燈国師は大徳寺を創建(1326)、天皇は大徳寺を本朝無双の禅苑とした。
・宗峰妙超(大燈国師):永年患っていた足を死ぬときぐらい言うことを聞け、と言って自分の手で足を折り曲げ結跏趺坐された。そのとき血が出て法衣が真っ赤に染まり、そのまま坐亡された。
 ・花園天皇も禅に深く傾倒し、大燈国師に参禅された。花園の離宮を禅寺とすることを発願し、大燈国師の法嗣、関山慧玄を開山として妙心寺を開創する。
 ・夢想疎石(夢想国師):南北朝時代に南朝の後醍醐天皇と、その敵であった足利尊氏の両方から尊敬されていた。七人の天皇から国師号を贈られていたので「七朝の国師」と言われた。木造や絵を見てもいずれも俗に“夢想肩”と言ってなで肩の非常に優しい高貴な感じの肖像である。ところがやさしいどころか大変きついところがあった方で、夢想国師の書かれた「二十三問答」の一節ある“ただ父母の縁によりて見え、かりにし縁つくれば、もとの如くなるまで也。・・・・・・実には生まれも死にもせず、生きるとても来るものもなく、死するとても去る者なし」
 人間が生きているということは、これは只父母の縁によって人間としてここにあるだけのことだ、実を言えば生まれることも死ぬこともない。その生まれることも死ぬこともないところをつかまえる。というのである。夢想国師の老婆親切である。
 ・室町幕府を開いた足利尊氏、更に三代将軍の足利義満の時代には禅寺(主に臨済宗系)が時の政権と結びつき、京都を中心として、その近辺に多く建立された。天龍寺、相国寺などが創建された。
 
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)

Ⅲ なぜ「心の根源」を求めるのか

●人の心は誰でも、生まれたときは純心でした。
それが生きている間に、それぞれの置かれた環境や状況に影響を受け、知らず知らず蓄積され、形づくられていきます。そして、我見が生じ、あらぬ方向に向かってしまうこともあります。又、迷い苦しめられることも、しばしばあります。

●禅の修行の目的は、座禅工夫を通じて、その湧いてくる感情の根底をつくし、「心の根源」を明らかにする。そして、「悟後の修行」によってその心を鍛え、自由自在に使いこなし、いかなる状況に遭遇しても、揺るぎのない人生を送ることにあります。
長い間の業障のために忘れかけていた、生まれたときの純心な心を取り戻すことが大切です。この解決なくして、ほんとうに安心できる人生を送ることは、ほとんど困難と思います。

≪関山国師≫ (妙心寺の開祖)
国師の遺偈 『汝(なんじ)等 請う、 其の「本(もと)」(心の根源)を務(つと)めよ。(省略)葉を摘(つ)み、枝を尋(たず)ぬること莫れ。』


Ⅳ 「心の根源」を手に入れるために

「心の根源」を手に入れるために、小生が特に大切と思うことを二つ述べます。

●「大 疑 団」
禅の修行に励むためには、「大疑団(だいぎだん)・大信(だいしん)根(こん)・大勇猛(だいゆうもう)心(しん)」の、「修道の三要件」が大切といわれております。
「大疑団」とは、人生の根本問題に関して、徹底して解決を求めていく大きな疑いのこと。
「大信根」とは、①如是法の存在を信じる。②仏祖方が如是法を体得していることを信じる。③自分も如是法を悟ることができることを信じる。
「大勇猛心」とは、大疑団を解決するために必要な勇気。小生は三要件のうち、特に大切だと思うのは、「大疑
団」です。初則でしたら『本来の面目』を徹底して疑うことです。禅でいう「疑う」とは、頭で考えるのではなく、体全体で“本来の面目、如何(いかん)!如何(いかん)!……”寝ても覚めても、食事中も、通勤途上も、時間の許す限り疑う。
「本来の面目」と「自己」とが一体になるまで、徹底して疑う。これを「成り切る」といいます。 
悟るには、この方法しかありません。「大疑(たいぎ)の下(もと)に大悟(たいご)あり」。禅宗の最も大きな特徴です。

●「自   力」
初則の公案を手に入れるには、相当な努力を必要とします。「大死一番」、「崖っぷち」の処まで疑い続け、自分を追い詰めます。今迄の常識は通用しません。
苦しいからといって、書物に頼ったり、人に聞いたり、逃げてはいけません。自分が悟れることを信じ、歯を食いしばって、自分の力で解決するのです。
他から得たもの、教えられたものは、自分の悟りではありません。喜びも湧きません。役にも立ちません。喜びが少なければ修行も続きません。
最後は勇気を奮い立たせ、自分の力でぶち破ることです。努力すれば誰でも悟れます。