4.公案と境涯

 公案は全て、仏祖方がその鍛錬し上げた通身是道 全身是法という如是法三昧の境涯から、ゴロゴロッと吐き出された一言半句一機一境の悟りの端的なのである。このさとりの端的は、初関の公案から200則の最後の公案まで全て、公案工夫三昧の行を通じて自らの境涯をその公案の境涯にまで高めることにより初めて透過できるのである。

 人間形成の禅とは、公案に三昧の行で参じ、自らの境涯を、古則の中に塗り込められている仏祖方の境涯にまで高めていく修行のことである。初則もそうであるが、悟後の公案参究においても一則一則別解脱で、一つ一つの公案に成りきり、工夫三昧になることにより、一歩一歩境涯を高めてゆくにつれて道眼が開かれてゆく。これが禅による人間形成の道である。素晴らしい道が拓かれ残されているものである。

 これに対して、前に見た公案の見解だとか、提唱録を読み囓ったり、師家の言葉を頼りに推論して、たとえ透過したといっても自分の実境涯を高めることには成らないのである。こういう修行を禅学と呼び、修行者の鬼門としているのである。

 骨折りが大切であるとよく云われるが、小さい殻の中に閉じこもっている境涯を、公案を目標にして打破して、より大きなより高い境涯へと人間形成してゆくときに、骨折りということは避けて通れないものである。骨折りが大きければ大きいほど飛躍が大きいものである。
骨を折るということは、工夫三昧に努め工夫三昧に徹することである。

 骨折りを惜しんではいけない、避けてはいけない。皆それぞれに立派な素質を持っている。しかし幾ら素質があるからと云っても、この人には見えない骨折りがなければ、玉は光り出さないのである。この骨折りが、見性悟道の王道(正しい道)であり、これ以外にないのである。
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