1.公案と見性

 公案とは、「公府の案牘」を省略した言葉で、官公署から出された公文書という意味で権威あるものとされる。禅では、参禅に当たって、師家から学人に与えられる参究の課題のことを公案と呼んでいる。

 現在、公案として残されているものは全て、仏祖方がその鍛錬し上げた通身是道全身是法という如是法三昧の境涯から、ゴロゴロッと吐き出された一言半句 一機一境なのである。
何故公案かというと、小我の私の念、すなわち私案から出たものではなく、それ自身が正念の端的であり、如是法の端的であり、公の案なのである。

 『瓦筌集』の瓦とは、門を叩いて案内を乞うところの瓦のことで、筌とは魚を捕らえる為の竹で作った籠のことである。公案は、門を叩く瓦や、魚を捕らえる籠に譬えられるように、案内を乞うて中に入ること、魚を捕らえることが目的であって、瓦や籠(筌)自体に意味があるのではない。公案は悟りに至るための道具である。悟ってみれば、瓦や籠(筌)に用はないのである。要は仏祖の道眼を自分のものにし、仏祖と同じ境涯にまで自分を高めるための方便なのである。公案参究の最大の目的は、一に見性ということにある。見性を離れて禅の修行はあり得ないのである。

 見性とは、宗祖達磨大師が唱え出された「直指人心見性成仏」を凝縮させた語である。見性とは、仏性を見ると云うことである。「山川草木悉皆成仏」「天地と我と同根、万物と我と一体」という、これが釈尊の悟りであり、大乗仏教の根本教理である。とすれば、我々にもまた、その仏性が本来円満に具有しているはずである。それを単に知識として知るのではなく、はっきりと自分の目で見ること、これだ!と体得すること、それがこの見性である。
 
 入門が許されると、修行者は師家のもとに参じて公案を授かる。入門当初に授ける公案は、人間禅教団においては、六祖慧能大師の「父母未生以前に於ける、本来の面目如何?」という公案が最も多い。(あるいは趙州和尚の「無字」の公案を授ける。)これは、一切の対立を越えた絶対の世界における「本来の面目」すなわち「真実の自己は何奴か?それを持ってこい!」というのが、この公案の眼目である。禅定三昧を行じて、父母未生以前の世界に入り、そこにおける真実の自己を徹見し、それを師家の面前に呈して、師家にその見解の邪正、深浅を鑑別して貰わなければならない。そして真正であることの証明を得たら、見性成仏したしるしとして道号を授与される習わしである。
プリンタ用画面
前
見性とその工夫の仕方
カテゴリートップ
参禅される方への参考資料 丸川春潭
次
2.修行の三要諦「大信根・大疑団・大勇猛心」