数息観のすすめ⑥

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    中期の数息観にはいります

中期は1から10まで勘定して、再び1に戻るやり方です。

この方が楽なように考えられますが、実はそうではないのです。というのは、中期では例の三条件を絶対に守ることになっています。数を間違えることは殆どありますまいが、雑念のはいることを全く許さないということは、難中の難です。

いかに微細な念慮でも、数息以外にわたる時は、容赦なく1 に戻してしまいます。蚊が過ぎるのはおろか、よしんば雷が眼前に落ちたとしても、さらに二念を継がずとなると、これは1 00 0人中に1人もないと申しても過言ではありますまい。でもこれ位のことができなくては、数息三昧の力を得たとは決して申せないのです。数息観も中期の錬磨を長く続けていけば、ついにはこの、三昧の力を養いうることは請合いです。


前に初心の間は、環境に支配されやすいから、暫く閑処を選んで数息観の練習をするようにと申しましたが、今やこの三昧の力を養いえたならば、どんな環境にも左右されるようなことはありません。

大燈国師のお歌でしたか、【坐禅せば四条五条の橋の、往き来の人を深山木にして】というのがありますが、数息観も中期の終わりになりますと、こんな心境まで達しえられます。これは数息観を試みている時ばかりには限りません。その三昧の力が発揮されて、たとえば大変喧噪な場所で精密な仕事に従事している場合でも、周囲に関係なく仕事の中に没入することができます。

また、いかなる逆境に立っても、“ 亦風流ですなア” と平然として、日々是れ好日の日送りをすることができます。武道にしても芸道にしても、この域まで達することができたなら、まず名人とか達人とか称することができましょう。


次に後期ですが、これは数息観を2 0年やった3 0年続けたといっても、ただそれだけで誰でも達しうる境涯ではありません。つまり年数にはかかわらず、熱心の度に関係があるのです。前に細くとも長くということを申しましたがそれは前期・中期の話で後期ともなれば短くとも太くと言いたいところです。禅門でも【勇猛の衆生の為には成仏一念にあり、懈怠の衆生の為には涅槃三祇に亘る】と申しております。ぶらぶらとやっていたのでは、幾十年坐っても駄目ですが、勇猛心を奮い起こして坐れば、そんなに長年月を要するわけでもありません。

この後期の域に達してこそ、“ よくぞ人間に生まれたものである” と、人生の本当の意義を味わいうるのですから、せっかく御縁のあった皆様にも、数息観をおやりになるなら、是非ここまで練達して戴きたいと、切に願う次第であります。

この域に達すれば、もう呼吸などは意識せず、従って息を数えるのでもなく、そういうことは一切忘れはててしまうのです。忘れるといっても、数息観はしているのですから、ただ放心状態になっているのではありません。一休和尚のお歌に【忘れじと思いしほどは忘れけり、忘れて後は忘れざりけり】というのがありますが、その意味での忘れはてるのです。


むずかしいことを言えば、ただ念々において正念に住し、歩々において如是であるということです。こうなると全く禅者の境涯です。禅者の境涯と申しても、ただ室内を一通り畢ったの、公案学を卒業したのという程度では、なかなかどうして夢にだにも窺い知ることのできない境涯で、よほど聖胎長養に骨折らないと達せられる域ではありません。

禅の話がでましたから、この際一言触れさせていただきたいと思いますが、私が常々修行者に対して、日々少なくとも一?香を坐れと口ぐせのように申しておりますのは、何も毎日公案の工夫をせよと申しているのではありません。参禅弁道だけでは、道眼は磨かれても道力が養われません。つまり禅者たるの境涯が円熟しません。


禅の修行の目的は、実に念々正念歩々如是の工夫によって、「われ今ここに如是」の境涯に至りうるにあります。とかく修行者に対して公案の透過ばかりを目標にして、平常数息観に骨折って定力を養うことを怠っている者があるから、とくに申すのであります。
元円覚寺派管長の釈宗演老師が「数息観は坐禅の最も初歩であるが、又最も終極である」 というておられるのを、よく憶念すべきであります。

それならば禅の修行などしなくても、数息観ばかりしておればよいではないか、とお考えになる方があったとしたら、それは全く別問題であります。さっき、公案学では道眼は開くかも知れないが、道力がともなわないということを申しました。

数息観では定力は養えるでしょうが、真理眼は開けません。それでは心の支柱がありません。やはり、宇宙の生命・万物の真相・大道の根幹という問題になれば、脚実地に禅の修行をして転迷開悟の実を挙げねばなりません。


大分、話が脇道にそれましたが、再び申します。禅者は一生涯数息観を廃すべきではありません。そして数息観ばかりでは、真の人生の意義はわかりません。どうか禅の修行をなさる人もなさらぬ人も、これだけは意にお留めおき下さい。 (おわり)

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