不動の居合

青年部 座禅ブログ - 不動の居合

不動の居合

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
青年部静坐会 2019/6/17 22:00

 
 よく武道、とりわけ合気道や居合や法定など、精神性の高い武道を「動く禅」と表現することがありますが、わたしからすると、坐禅の静坐こそが「動かない武道」であり、「不動の居合」といっても過言ではないのです。数息観をつうじて、イーチ、ニーイと息を数える、あれなどは無心で素振りをする、型の稽古をするときの感覚と同じなのです。
 
 とくに、居合は別名を「鞘の内」とも申して、刀を鞘から抜かないさきに、既に勝敗は決しているといいます。抜かずして勝つという不戦勝が、居合に限らず日本の古武道の理想でありますが、そのためには相手に敵愾心を抱かせず、「コイツに挑んでも負けるな」というくらい主賓歴然とした¨気¨で相手を制する必要があります。古人が「木鶏」ですとか、「猫の妙術」という寓話で示したかったのはそこなのでしょう。置物のようになった闘鶏や、そこにいるだけで家中のネズミが静まり返るネコというのは東洋的な道の究極です。
 
 その気や胆力を養うため、もっとも有効なのは坐禅であり、黙想であり、内観であり、澄心静坐であります。王陽明が「山中の賊は破り易く、心中の賊は破り難し」と言っているように、ひとり己を知り、己に克ちうるものは、いかなる敵が来ようとも百戦殆(あやう)からざるものです。
 
 さあ、いま線香をたき、蒲団のうえに静かに腰を据えました。するとドウでしょう、八万四千の煩悩の魔軍が攻め寄せ、潜在意識の古井戸をかき回し、十重二十重(とえはたえ)に功業名利の火矢をはなち、敵は諸仏や諸天に変身して有難いサトリや信仰を手にして投降するように誘惑してきます。
 

そのとき、あなたは大力量底の英霊漢、手にひっさげているのは、公案と数息観の大小の刀です。仁王のような気魄で、キッと尽十方世界を睥睨(へいげい)して、馬に触るれば馬を斬り、人に触るれば人を斬る。すこしでも知解分別(ちげふんべつ)が頭をもたげ、分った積りになろうものなら、八識田中に一刀を下し、構わず斬って打ち捨てる、常在戦場、常住死に身。神も仏も、悟りも迷いも、男も女も、宇宙も吾も、千錬万鍛斬り尽したところに、新しい世界が光明を放ってくる。

 

そのようにして、剣と禅は別物にあらず、剣を修するとき禅定にはいり、禅を修するとき心刀を練る。幽顕一如、動静不二。むかし伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)の尊が、高天原より矛を垂れ持ちて、海月(くらげ)なす漂える現象世界を修理固成したように、この己が心の刀をもって、自由に色と空、事と理の世界にまたがって、世界楽土を建設し、斬り拓いてゆく。これこそ禅者たり剣士たるものの本領であります。
 

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