荻窪通信「自宅で坐禅をしていると悪魔がやってくるのです(その2)」

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荻窪通信「自宅で坐禅をしていると悪魔がやってくるのです(その2)」

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
青年部静坐会 2019/6/17 21:32
私は、毎日、朝5時から45分間、帰宅後に45分間、合計90分間、自宅で坐禅をしています。

自宅で坐禅をしていると、よく小学3年生の長男が「おとうが仏像になってる」などと言ってやってきます。
私は、目を見開きながら坐禅をするのですが、長男は、私に近づいてきて、自分の顔を私の顔に近づけ「変顔」をしたりします。
また、私は、45分間の経過をスマートフォンのタイマー機能で把握するのですが、長男は、「止めちゃおうかな~(笑)」などと言って、私が床においているスマートフォンを手に取ったりもします。

これがなかなかの苦行だったりするのですが、このような長男の振る舞いにとらわれることなく坐禅をしていると、そのうち長男は飽きてしまって、どこかに行ってしまいます。

坐禅をしていると、いろいろな「思い」が湧いてきます。
脳は考える臓器です。
いろいろな「思い」が湧くのは当然です。
重要なことは、「思い」が湧かないようにすることではなく、「思い」にとらわれないことだと私は思っています。
長男に対するのと同じように「思い」を拒否しないで、そのまま、いさせてやる。
長男と同じように、「思い」というものは、落ち着かないものらしく、拒否せずにそのままにしておくと、勝手にどこかへ行ってしまいます。

これを飯田欓隠老師
「若しも坐禅中色々のこと思い起すことありとも、それはそれに任せて、只そのものそれに純一になればそれでよい。
皆坐禅中の出来ごとであるから、坐禅の分布である。
この事南堂静禅師が委曲論及しておる。
坐禅中心念粉飛せば如何に退治せんの垂誡至れり尽くせり、心念何れより起る。
心念そのもの如何と見よ、粉飛その物も自性なし、能照の心なく所照の處なくんば、そのものながら脱落せるものにあらずや。
却ってそのものそれをとらえて、心身脱落の好材料とするにたるに非ずや。
所詮坐禅中いかに心念紛飛すとも関する處にあらず、只思うままに任せて可なりである。」
(飯田欓隠『通俗禅学読本』33~34頁、旧仮名遣いは適宜改めました)
と言っています。()

合掌 折原英風 拝

 

 
 
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