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青年部 座禅ブログ - 最新エントリー

次回は3月26日(日)14時30分から、東京・日暮里駅そば擇木(たくぼく)道場にて、華厳経の第二回講義となります。14時からは前回までの復習説明もあります。初めての方でもぜひいらしてください。

さて、第5回仏教講座参加者からの感想です。

ごきげんようの玉道です。みなさん、「華厳経」というお経は知っていますか?

おそらく、聞いたことはあるのではないかと思います。お経というと漢字ばかりで難しそうですよね。自分なんかも、坐禅をした後に、お経を唱えることがありますが、意味も考えずに、ただ一生懸命にお経を唱えることが多いです(笑)。読経三昧になることも大切だと思いますが、その意味を知ることもまた、大切だと思います。しかも、この「華厳経」とは、釈尊が悟りを開かられたその時を壮大に語ったものとなっていて、仏教の教えがここに、ギュッと凝縮されているそうです。

それは、

~~この世は、すべての存在が関与し依存し合い、見えない大きな因縁のはたらき「無尽の縁起」による、すなわち「事事無礙法界」の姿をしている~~

という教学です。

ただ、これは大変長いので、要所を取り出して初級編として2回に絞り、1回目は教義について、2回目は善財童子の菩薩への成長の旅を取り上げるとのことで、今回はその1回目でした。

それでは、ここで紹介したい部分を、テキストから抜粋します。

 

第二章 廬遮那仏品       教主廬舎那仏の世界

「十の教え」

① 【事事無礙法界縁起】

「一切の世界海は、無数の因縁によって成り立っている。すべては因縁によってすでに成立しおわっており、現在成立しつつあり、また将来も成立する。ここに言う因縁とは次の事を指している。如来の神通力、物事はすべてありのままである、衆生の行為や宿業、すべての菩薩は究極のさとりを得る可能性を有している、菩薩が仏の国土を浄めるのに自由自在である、これこそ世界が成立する因縁である。

 世界はすべてが安定している。なぜなら廬舎那仏は無量無辺のすべての世界海を浄めたもうているからである。」

 

② 【相互依存的安定】

「一々の世界海では一々の小さな塵の中に仏の国土が安定しており、一々の塵の中から仏の雲が湧きおこって、あまねく一切をおおい包み、一切を護り念じている。一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動しており、その他一切の塵のなかにおいても廬舎那仏の現れなのである。」

 

③ 【形態】 一即一切 一切即一 

・・・一一の微塵の中に、一切の法界を見る

「一切の世界海には種々の形態がある。あるいは円、あるいは四角、あるいは三角、八角、あるいは水が曲がりくねって流れるように、あるいは花の形のようにさまざまである。

 諸仏の国土は心業によって起り、計り知れないほどのさまざまな形があって、仏力によって荘厳されている。その国のすべてのものはそれぞれ自由自在であって、無量の姿を現わしている。浄いものもあれば汚れたものもあり、苦しみもあれば楽しみもあり、ものごとが常に流転するにつれてその姿も移り変わっていく。

 

 一本の毛の孔のなかに無量の仏国土が荘厳されており、悠々として安定している。

(一毛孔の中に無量の仏刹あり。荘厳清浄にして、曠然として安住す・・・ありようにブレがない)

すべての世界には種々の形があり、どの形の世界のなかでも尊い仏法が説かれている。それこそが廬舎那仏の説法である。それはあたかも幻のようであり、また虚空のようでもあり、もろもろの心業の力によって荘厳されている。」

  どんな取るに足らないと思われるものにも、汚いものにも、無量の仏の国が詰まっている。心を空にすればその浄土が見える。また、現実のものを通じて華厳蔵世界に入っていくことができる。

 

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 華厳経の最重要思想・・・事事無礙法界縁起と一即一切・一切即一

立田英山著「人間形成と禅」 P117 大乗仏教の要諦

 人間禅創始者立田英山老師(以下、耕雲庵英山老師)は、大乗仏教の説明に「華厳経」と主とし「般若心経」と「法華経」を従として教理と行の説明をする、と書いておられる。

 

仏教は「空」を悟れば教理は自ずから判る。華厳蔵世界の思想の理論的基盤である「即」もここから出ているので、空の説明をする。

大乗の空観は「体空観」・・・あるがままに空。

これを理解するには「般若心経」の色即是空 空即是色を解説するのが良い。

「即」とは、不二・一如の意。色と空は別のものでもないが同じものでもない。色は相対差別、空は絶対平等を現わしている。色は色でありながらそのまま空、空でありながら色、空を離れて色があるのではなく、空に即した有であるので、これを「妙有」という。空も有に即した空であるので「真空」という。「真空妙有」が大乗の空観。これを納得するには悟りの世界まで踏み込まねばならない。

  

 平等と差別は相反する事実とされているが、本当は「平等即差別」「差別即平等」である。人間の顔は十人いれば十人違うが、皆等しく人間としての人格を持っていることについては平等。この真理を敷衍していけば、自由即平等、個即全体、物即心など、対立すると見える事柄もそのままで矛盾が解消され、和が保てる。これは大乗仏教の重要な教理で涅槃の思想もここに根拠を置いている。

華厳蔵世界とは理想の楽土のこと。普通は理想の世界と現実にズレがあるものだが、大乗仏教の世界観では現に今、華厳蔵世界の真っただ中にあると観る。

<法界円具>理法が行われている世界、大宇宙とか自然のこと。何一つとして単独なる存在はなく、皆ことごとく互いに相い縁り相互に依存し合って存在しているという観方。衆生と言う言葉も衆縁和合して生ずる、と言う意味。一切万物、宗縁和合しないで生ずるものはひとつもない。単独の存在はない。植物無くして動物はないように、それぞれが独自の面目を保ちつつ相互依存して調和して存在しているのである。そこにはなんの優越も遜色もなく一切平等でそれぞれ真理を具現して並んでいる。法界縁起は華厳蔵世界の原因、法界円具はその結果である。このように華厳宗では、法界円具の思想を法界縁起説で説明するのである。

<一即一切 一切即一>一は一切に関連している。一は唯一の真理を現わし、一切とはあらゆる事象を現わしている。

お経では、帝釈天の宮殿を覆っている網、因陀羅網に喩えている。無数の網の目ごとに水晶の玉が結び付けられていて、中央に灯火を点じると火影が全部に映り、お互いに移しあっていると説明する。

よって、千差万別の事柄そのものがそのまま真理である、理想の楽土をあえて将来に求めなくても、このまま華厳蔵世界の真っただ中である、という思想が成り立つのである。

 

どうでしたか?少し難しいかもしれませんが、現実世界の在り方を表しています。まさに、現実この世界が、華厳蔵世界であると。そして、すべてのものが繋がっていて、どれ一つが欠けても成り立たないということですよね。切り離されて個々が存在するのではないのです。例えが悪いのですが、世間では、人の不幸は蜜の味とか、同僚が失敗するのを見て、「あっ自分ではなくて良かった」とかありますが、そんな、ちっちゃい話ではないのだと。あいつの幸せが、自分とも地続きでつながっている、そもそも、すべて全体の中につながった存在なのである。この辺りの話は、講師の笠倉玉渓先生の分かりやすい図で、すっきり分かりました。これは、目からウロコです。図を見てください。<泡>と<海>の関係です。泡が、個人と考えてみてください。この泡を上から見ると、つながっていないで、個々で存在していますが、横から見ると、実は、すべて全体の中でつながった存在なのである。色即是空、泡は色(個)であるが、それが即、空(全体)である。そして、空即是色でもある。仮に、泡が消えてしまった、つまり、死んでしまったとしても、全体の中に戻るだけである。この捉え方は、「千の風になって」の世界観と一致するところだと思います。

~~私のお墓の前で 泣かないでください 

そこに私はいません 眠ってなんかいません  千の風に  千の風になって

あの大きな空を  吹きわたっています~~
この図を見れば、「華厳経」の内容も理解が深まるのではないでしょうか。今回の仏教講座では、この図を教えていただいたことが何よりもの収穫でした。私たちは、普段、上からという一方面だけで世界を見て、ものごとを捉えがちですが、本当はそうではないのです。この横からの視点というのがなかっただけなのです。実際の世界は、このようなつくりになっているということを認識しないといけません。ただ、もちろんこれは知識として知っただけで、これを本当に理解するためには、坐禅の行が必要なのは言うまでもありません。華厳経の世界観を知識として勉強できて、体験として納得できるのは、人間禅だけです!!!一緒に、欲張りませんか?
               
                
  
  
 
 

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仕事や日常に追われていると、いろんな悩みや苦しみを抱えることがあります。あんなこと面倒くさいなーとか、あの人嫌だなーとか、こんなの気持ち悪いなーとか。ネガティブな想いが生まれると、生活の質が下がってしまいます。そんな感情を持たず、もっと快く楽しく、笑って生きていきたい。それにはどうしたら、よいのでしょうか。

 

  仏教講座では二回に渡り、禅と深い繋がりのある華厳経(けごんきょう)というお経について、笠倉玉溪(かさくらぎょくけい)先生からご講義頂いています。その一節には、次の下りがあります。

 

【読み下し文】三界は虚妄(こもう)にして、但(ただ)是(これ)一心の作(さ)なり。十二縁分(えんぶん)は是(これ)皆心(しん)に依(よ)る。・・・是(かく)の如くなれば、則(すなわ)ち生死(しょうじ)は但(ただ)心より起る。心若(も)し滅することを得ば、生死も則ち亦(また)尽きん。(華厳経十地品)

 

【意味】三つの迷いの世界は、仮に現れている空虚なものであって、ただ心が作り出しているに過ぎない。迷いの世界を構成する十二の因縁それぞれも、みな心に依存している。・・・生死の迷いはただ心が作り出しているものなのである。心の持ち方を正しくすれば、迷いも消えていくのである。

 

  1月29日(日)の仏教講座で、先生はこうした「唯識(ゆいしき)論」について、紹介されました。

 

  世界(宇宙全体)は自分に関係なく存在している。けれども自分自身にとってみれば、世界は自分の心が作り出している(認識している)もので、自分が死んだら、世界も消える(認識しなくなる)存在とも言える。悩みや苦しみの種も含め、全ての出来事は、自分の心が作り出しているものだから、心を穏やかに出来れば、悩みや苦しみは減るのではないか。そんな風に、私はこの教えを受け取っています。

 

  ただ、心を穏やかにするのがいいと頭で分かっていても、そう簡単に穏やかには出来ません。ここで先生は、心を穏やかにする方法として、座禅は最適、と教えて下さいます。座禅中、数息観(すうそくかん)と呼ばれる、呼吸を心の中で数えるやり方で、荒れ狂う心の波を静めるのです。

 

  仏教講座では、経典講義の他に、座禅体験も行われます。是非参加して、なぜ座禅すると心が穏やかになるのか、体得してみてください。

 

  次回は3月26日(日)14時30分から、東京日暮里駅そば擇木(たくぼく)道場にて、華厳経の第二回講義となります。14時からは前回までの復習説明もあります。初めての方でもいらしてください。

 

  最後に、禅の言葉を紹介してブログを終わります。

 

【原文】心外無法満目青山(しんげむほうまんもくせいざん)(景徳伝灯録巻25)

 

【意味】心の外に法はなく、目に見える青々とした山も自分の心にほかならない。

 

 

              合掌  渡辺大海  九拝
 

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玉村梨紗さんギター弾き語

玉村梨紗さんギター弾き語

癒しの座禅と癒しの歌姫 玉村梨紗さん ミニコンサートと座禅体験会

3月11日(土) 13時開場 13時半開演

日暮里 擇木道場(たくぼくどうじょう)

 


 
擇木道場では今年から音楽をやっているアーティストとファンの方に向けて、ミニコンサートと座禅体験のコラボイベントを行います!!
 
記念すべき初回は、インターネットで人気の歌姫 ギター弾き語りのシンガーソングライター 玉村梨紗さんを擇木道場へお呼びします。
 
スケジュール 

受付開始 13時
 開催挨拶 13時30分     玉村梨紗さんと擇木道場の紹介
 座禅体験 14時~15時    座禅指導:緒方心印
 ミニコンサート 15時~16時 玉村梨紗さんのギター弾き語り
 
 ミニコンサート後は、ファン交流、座談、グッズ、CD販売等

終了は17時~18時を予定

 
参加料金 2、000円
 
予約はこちらから
 
 擇木道場ホームページ http://takuboku.ningenzen.jp
 人間禅 東京支部 擇木道場 緒方心印
 
                   
  
  
   
  
  
  
   
  
 
 
 
 
 

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仏教講座「華厳経を読む」

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
青年部静坐会 2017/1/30 18:25
 
今回は華厳経を学びました。
本来は膨大な資料の中で、2時間という限られた時間の中で説いていくには時間が足りない中、慧日庵笠倉玉溪老禅子が、辛苦してわかりやすくまとめて下さいました^ ^
経典などは、絶対的な悟りをどうしたら伝わるかとあらゆる側面から伝えるために、時にドラマティックに、ダイナミックに説かれています。それをさらにわかりやすく毎回噛み砕いて、講座を開いていただいています。

僕の感想を書かせてもらいます。

僕ら含め、全てに仏の命が宿っている。
その例えとして、海で例えるなら、海に漂う藻が僕らとすると、一見、個人個人のように見えます。
そう思うと、他者と自分を分け、そしてその自我が強すぎると孤立し、孤独になっていく。しかし、一旦海に潜ってみると、実はみんな下で繋がっている^ ^他人も自分も実は一つで、その中で、みんなそれぞれの個性()がある。

だから他者にしてあげる事は自分にしてあげる事と同じ事。皆一つに繋がっているから、全て帰ってくる。
全て学び。
他者との関わりの中で自分がいて、その中で成長でき、関わる事、人にする事は無駄ではなく、自分のためなんだという事。そういうものの見方ができれば今の世の中の状況、問題も解決していく鍵になると思います。
だけど現実は色々あり大変な事だけれど、だからこそ禅などの実際の修行があり、理屈だけではなく深い所で確信できるように、力強くぶれない心を身につけるように、実際に行動に移し学んで行くとが大切だと改めて感じます。

今回の内容は自分自身、グサッと刺さる所もあり、胸が痛くなりましたがf^_^;余計に明確になりました^ ^
そして、先祖も含め沢山の無限の数の中で、僕らは縁して生きて、沢山の縁によって生かされている。一つ欠けても今はない。その奇跡、必然性に感謝と、感動を覚えました。

華厳経において、もっと沢山の事があると思うのですが、僕が今回感じた、自分の実践として持って帰る事の出来た事でした


小林 赤誠。
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心印です。
 
昨日の「東京で夜一番遅い座禅会」のブログは玉道さんと魁星さんがホームページツールの使い方を法照さんに教えてもらいながら、青年部のホームページに書いてもらいました。
 
こちらになります。
「東京で夜一番遅い座禅会(1月20日) in擇木道場」
http://www.ningenzen.jp/seinenbu/modules/d3blog/details.php?bid=368
 
「東京で夜一番遅い座禅会」では座禅会後に勉強会をしています。
これは自己流で座禅をすると、間違った方向に向かってしまうことを防ぐ、また今日の座禅はどうだったかを見直すという意味があります。夜遅くてすみませんが、できるだけご参加ください。
 
勉強会後のビデオをYoutubeにアップロードしましたので、よければご覧ください。
 


心印 拝
 

 
 
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青年部の玉道&魁星ござる
みなさんごきげんよう。

今日は、寒かったですねーー。東京も、日中に雪がちらつきました。
 
さて、座禅会の方は、20名ほど、勉強会は、10名でツイキャスを放映しながら行いました。4人ほど、閲覧者がいたようです。もしかするともう心印さんのファンかもしれませんね。

勉強会の内容は、「人間形成の禅」~その効用・効果について~の中の(その4)
「コンプレックスからの解放」についてを読み、色々と議論に花が咲きました。
 
その中で、「君の名は?」の話題も出ました。みなさん、もう観ましたか?今日の参加者では、半数くらいの人が観たようです。多くの若者が泣いたということで、ハンカチを用意して張り切って観たという人もいましたが、今イチ泣けなかったようです。かく言う、拙者も観ましたが、、、これでは、現代の若者の感性を理解できまへん。毎日、思春期の中高生と接しているのに、、、もう1回観ますかね()ただ、今の若者の生活スタイルというか、コミュニケーションスタイルは、映画を通じて、少し分かった気がします。
 

他には、座禅は、毎日続けることが大切であるという話題が出ました。続けないと向上していかず、ぶつ切れになってしまう。座禅をする目的は、三昧を身につけることであり、そのためには、毎日、座禅をするという習慣を身につけることが大切だと思います。そのための、ツールとして、数息観評点表というものがあるので、それをみんなで記録して、みんなで続けていこうという話になりました。拙者も、今月は、老師に提出しないといけないなと思った次第でした。しぇば。明日からもがんばりましょう!

 




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心印です。
 
毎晩(たまにお休み)、22時頃からツイキャスって言うサイトで、座禅について語る生放送しています。
 
今日来られたお客様から「座禅って何ですか?」という質問を頂いたので、私流に答えてみました。ツイキャスは録画を自動で行ってくれるので、ダウンロードして編集して、それをYoutubeにもアップしています。
 

 
この金曜日の「東京で夜一番遅い座禅会」では、座禅の後にディスカッションをしました。一番最初に、慧日庵老禅子が開発された「導入の数息観」を30まで数えることで行いました。
 
導入の数息観は私が声に出して数えることをナビゲートするので、初めて30まで行けたって言う人も多いのです。
 
次にDiscussionですが、以前やった時は、自己紹介だけで終わってしまったので、今回はお題を決めて自己紹介は最小限にということでやりました。
 
さて、そのお題は、「座禅に何を求めるか?」
 
このお題でいろいろと皆さんの思いを好きなだけ語っていただきましたが、結局、それが自己紹介のようにもなり、来られている方のプロフィールや思いもわかってよかったと思います。
 
心印 拝
 
 
 
 
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心印です。

 

先週は摂心会(せっしんえ)の疲れか、摂心会中にコルセットをしておかなかったツケか、腰痛が突然来てしまい座禅会を休む羽目になりました。いつもは腰痛はだんだん来るので事前にわかるので、養生する時間があるのですが、今回は金曜の朝、ベッドから起きた時にいきなり来た!!

 

その日はどうしても休めない作業があったのでヒーヒー言いながら会社に出たら、その作業がなくなってしまったので早退させてもらいましたが、座禅会にはとても行けませんでした。

 

さて今週は大阪に帰省しようと思ったのですが、やはり土曜に作業が入るかもしれないとのことで、高速バスの予約ができず、作業がないとわかったのですが既に満席、座禅会の後、早めに東京駅に行ってキャンセル待ちを狙おうと思っていました・・・が()

 

久しぶりに座禅後の勉強会をやって、老師の書かれた座禅の効用の話をした後、自己紹介の時間を取ったのですが、そこで皆さんいろいろお話をされたのでディスカッションというか座禅談義のような時間になりました。

 

「他のお寺に行っていたが座って終わり、擇木道場ではディスカッションもあって、雰囲気も良く私にに合っていると思った」という女性、・・・

 

「居合道をしているが、形はもうできているが、力が入っている、相手を切ろうとする意識があると師匠に言われて、禅をやってみようと思った」という男性・・・

 

「家庭菜園で駐車場を石を取り除き、雑草を抜き、作務だと思ってやっていたら、雑草が生えなくなった」という男性・・・今日は姿勢がいつもよりもいいと思ったら、やっぱり今日は数息観がいつもよりも深くできたと言われていました。座禅では正しい姿勢がやはり重要ですね。

 

いろいろお話頂くなかで質疑応答もして夜がふけていきました。楽しい時間が終わったら夜の11時() その夜のうちに高速バスで大阪に帰るという手はなくなってしまいました()

 

摂心会が入って、いつも来られる方が減ってしまっていますが、いつもの通り「東京で夜一番遅い座禅会」をやっています。座禅は毎週とは言いませんが、継続して来られることで力が確実についていきますので、またおいでください。

 

是非お待ちしております。


PS.結局、朝の座禅会の後、新幹線で大阪に帰りましたw
最近の新幹線のIT化はものすごく、Ex-IC予約はすごく便利だと思いました(いまさら?)。

心印 拝

 


 


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心印です。


突然ですが、ツイキャス始めました(まるで冷やし中華始めましたのノリですがw)。

ツイキャスというのはネットで生放送を個人でも無料で簡単にできてしまうのです。必要なものはカメラとマイクのついたパソコンか、スマホがあれば配信できます。


数年前にインターネット座禅会をやってみようと調べたのですが、必要とする機材が高価過ぎて個人では断念するしかありませんでした。


今はスマホからでも配信ができるというIT技術の進化はたいしたもので、ITの専門家ではない普通の人がツイキャスを使いこなして生放送をしています。


毎晩22時に生放送を始めて、真夜中過ぎに適当に終わって、今夜で4日目になりましたが、だんだん話がうまくなるような気がしていて、禅の話をする練習にもなります。


人気のある方だと放送を始めた途端、300名とか集まるのですごい集客ですが、私はまだ始めたばかりなのでこれからですね。中学生や高校生もいるようで、学生の頃、勉強しながら(ほとんど勉強はお留守でw)、深夜のラジオ放送にはまっていたのと同じ感じでしょうね。


まだメジャデビューしていない歌手や、シンガーソングライター、中古のバイク屋さん、普通の主婦や女子高生(今はJKと言うか)等、いろんな方が生放送をしています。この中古のバイク屋さんが、ホワイトベースというお店で社長の二宮さんをYoutubeの動画で見て、それでツイキャスを知ったのですが、まさか自分が放送する側になれるとは思いませんでした。


座禅は番組で特集で取り上げられることがあっても、毎晩の公開生放送なんて前代未聞、こんな人気のない番組()は、スポンサーは絶対つかないのでマスコミではまずできないことです。


まあキャリア5年目の境涯の者が一般の方に座禅を語ってもいいのか?と言う問題はありますが、一応これでも輔教師の任命は受けているので、人に禅を語るのは使命だと言うことで許してもらえるでしょう。


道場では毎週、座禅を人に指導し、勉強会では禅を語っているわけですから、いいことにしましょう。




アドレスはこちらです。

http://twitcasting.tv/f:287487441590124/movie/300543110


放送は毎晩22時からスタートしています。誰もお客さんがいなければ、ホームページの開発や動画の編集の作業をしながらやっています。


気軽においでください。コメント欄に質問を書いて頂ければ、禅について疑問にお答えします。


心印 拝


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<第2回>釈尊の死までを辿る「涅槃経(ねはんぎょう)


14:00~14:30 前回の復習、仏教の基本「縁起」「中道」「四諦」「八正道」など

14:30~16:00 本題


◎「釈尊の生涯」その後の教化活動 

ベナレス郊外のサールナート(鹿の苑)での初転法輪の後、教化活動が始まった。

① 伝道の心得 宣言

「諸人の利益のために」「世人に対する共感のために」

「神々と人間との利益安楽のために」

「二人して一つの道を行くことなかれ」→→→

仏教には教えがない。自分自身が法をより所として道を行じて生きていくものである。自己の胸襟を開き、自分自身で語るものである。法話などの伝道活動は、借りた言葉でなく、おのれ自身を撒け出す以外にない。「独りでゆけ」という言葉は、ダンマパタ、スッタニパータなど、原始仏典には大変多く出てくる釈尊の言葉である。

「独坐大雄峰」という禅語がある。独り、とはどういうことだろうか?

・・・人間は因縁による束縛を受けた存在である。そこにはおのずと悟りやそれによる安らぎとは、依存・執着から自由になることをいうのではないか。よく考えてみましょう。


② 青年たちに伝道

密林で座禅をしておられたとき、青年たちがある女性が盗みをして逃げたのを追っていた。

釈尊「婦女を探すことと、自己を探すことと、どちらが大事か?」

青年「自己を探すことの方が優れていると思います。」

釈尊「では座りなさい。君たちのために法を説こう。」


③ 国王の帰依

④ サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)

サーリプッタはアッシジ比丘の托鉢姿に打たれて、誰が師なのかをたずねた。

「諸法は因より生ずる。如来はその因を説きたもう。諸法の滅をもまた大なる修行者はかくのごとく説きたもう」

これにより2人は法の目を開き250人の仲間と共に釈尊の弟子になった。


初期仏教の一大事件だった。ふたりはそれぞれ智慧第一・神通第一と、のちに讃えられる釈尊の十大弟子である。


⑤ 500人の盗賊の済度

⑥ 南国のバラモン学徒の集団帰依


◎「涅槃経」 マハーパリニッバ―ナ・スッタンタ 

釈尊の最後の様子を忠実に伝えている経典。

古いものと、大乗経典としての新しいものがある。

後者は法華経と並んで大事にされた。

釈尊の最後の様子は、パーリ語のもの、漢訳大蔵経に5つ、

チベット大蔵経の中にもある。

中央アジアで近年サンスクリット本の断片が見つかり、ドイツ人が

出版した。

マハーパリニッバ―ナ・スッタンタ ・・・マハーの意は大きい、パリは完全な涅槃の意、死のこと。 スッタンタは経典の意。 大般涅槃経。 


1、晩年、鷲の峰(霊鷲山)にて修行者たちを集めて教えを述べた。伝説

<サンガが衰亡をきたさないための7つの法>

・しばしば会議を開き、会議に多くの人が参集する間は修行者らには繁栄が期待される。

・共同して集合し、共同して行動し、共同して教団の為すべきことを為す間は繁栄が期待され衰亡はないだろう。

・戒律を保って実践するならば繁栄が期待され衰亡はないだろう。

・経験豊かな長老たち、出家して久しい長老たち、導き手を敬い尊びもてなし、かれらの言動は聞くべきだと思う間は繁栄が期待され衰亡はないだろう。


2、旅に出る

王舎城を出て旅に出た。アーナンダ(アナン尊者)と2人か3人の旅。

80歳、 死の予感があったのではないだろうか。

① パータリ村(現・パトナ市)へ 

② ヴェーサーリーへ 


「自らを島とし、法を島とせよ」

竹林園で病に倒れる (一生の回顧) 

雨期に入った。雨安居。

雨季には猛烈な雨で外に出られない。 アレキサンダーも雨に悩まされた。 修行者は一か所に定住し瞑想にふける。この時季は虫も出てくるので、踏まないようにするため外に出ないという意味もあった。


「ここで尊師が雨期の定住に入られたとき、恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった。」

釈尊は禅定に入り、この苦痛を耐え忍んだ。アーナンダは釈尊に近づき、最後の説法を懇願する。


「アーナンダよ、修行僧らは私に何を期待するのであるか?私は内外の区別なしに法を説いた。全き人の教法には何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は存在しない。

私は修行僧の仲間を導くであろう、とか、修行僧の仲間に私は頼っている、と思うものこそ、修行者のつどいに関して何事かを語るであろう。

しかし向上に努めた人は、私は修行僧の仲間を導くであろう、とか、修行僧の仲間に我は頼っている、とか思うことがない。


・・・アーナンダよ、私はもう老い朽ち、齢を重ねて80となった。アーナンダよ、たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、私の車体も皮紐の助けによってもっているのだ。

しかしアーナンダよ、向上に努めた人が、いっさいの相を心にとどめることなくいちいちの感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全なのである。

それゆえに、アーナンダよ、この世でみずからを島とし、みずからをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


③ 鍛冶工チュンダ 死に到る食事

パーヴァー村へ。

鍛冶工の子であるチュンダ青年が、自分のマンゴー園に釈尊がとどまっておられると聞き、食事に招待した。鍛冶工はカースト外といわれる身分。アンバパーリ―の時もそうでしたが、一切の差別のない姿がうかがえます。

行くと、「チュンダに、世尊は法にもとづいた話をして、教え、諭し、励まし、喜ばせた」

とあるように会話をして、供養を受けられた。


一口食べておかしいと思われたのでしょう。

「残ったキノコ料理はそれを穴に埋めなさい。」と言った。

チュンダ青年は

「残ったきのこ料理を穴に埋めて尊師に近づいた。近づいて尊師に敬礼し一方に坐した。チュンダが一方に坐したとき、尊師は法話によってかれを教え、諭し、励まし、喜ばせて、座から起って、出て行った。」


とあります。この静かなシーン。青年もせっかくのごちそうを埋めてきなさいと言われても騒がず静かにそのとおりにします。釈尊はおそらくにこやかなまま青年のために語り、しばらくして静かに席を立ってそのまま旅に出ていきます。

青年の師への信頼感が伝わってきます。

釈尊がまったく動じずに、大きな身体の変化を受け止めていることにも驚嘆します。


「さて尊師が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、重い病いが起こり、赤い血がほとばしり出る、死にいたらんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。

 さて世尊はアーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーへ赴こう。」と。「かしこまりました。尊者よ。」と、アーナンダは答えた。」

落ち着いた様子がうかがえます。

チュンダの家を出てつらい身体をひきずるようにしながら、釈尊はアーナンダと川のほとりにやってきました。


「尊師は路から退いて、一本の樹の根もとに近づかれた。 近づいてから、若きアーナンダに言った。  『さあ、アーナンダよ。 お前は私のために上衣を四重にして敷いてくれ。 わたしは疲れた。 わたしはすわりたい。』 『かしこまりました』と、アーナンダは尊師に答えて、上衣を四重にして敷いた。      

尊師は設けられた座に坐った。 すわってから、尊師はアーナンダに言った。『さあ、アーナンダよ。 わたしに水を持ってきてくれ。 私は、のどが渇いている。 私は飲みたいのだ。』    


病に瀕した姿が描かれます。


そしてまた次の川へ歩いていき、浴し水を飲んでようやく

川を渡りマンゴー樹の林に辿りついた。

『私はよこになりたい』といってしばらく横になっていたが、

「師は体が全く疲れ切って(川の)流れにつかった。

世に比ぶべき者のない完き人であったが。

・・・わがために衣を四つに折て敷けよ。『私は横になりたい。』と。・・・師は全く疲れ切った姿で臥した。」


このように疲れ果てているにもかかわらず、次のような言葉は発せられます。


「誰かが鍛冶工チュンダに後悔の念を起こさせるかもしれない。<友、チュンダよ。修行完成者はお前の差し上げた最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益がなく、お前には功徳がない>と言って。


アーナンダよ。鍛冶工チュンダの後悔の念はこのように言って取り除かれねばならぬ。

<友よ。修行完成者は、最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。友、チュンダよ。このことを私は尊師からまのあたりに聞き、うけたまわった。このふたつの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。


その二つとは何であるか。

修行完成者が供養の食物を食べて無上のさとりを達成したのと、および、このたびの供養の食物を食べて、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られたのとである。

この二つの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさに等しい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。

・・・アーナンダよ。鍛冶工チュンダの後悔の念は、このように言って取り除かれねばならない。

   

与える者には功徳が増す

心身を制する者には怨みのつもることがない。

善き人は悪事を捨てる。

その人は情欲と怒りと迷妄とを滅して、束縛から解きほごされた。」


*「みのり」は原因に対する結果。「果報」は異熟ともいい、行動は善か悪だが、善に対応するのは楽、悪に対応するのは苦、しかし楽も苦も、それ自体は善悪ではない。


2つの供養とは、成道の際の、スジャータの乳粥と、チュンダの死に到る供養のこと。

このふたつが、等しいみのり、等しい果報とはどういうことか。

死に臨んでなお、自分のことより弟子を思いやる釈尊のやさしさは無上のものだが、単に素晴らしく優しい人、という話で終わってはならないだろう。生を善きもの、死を悪いもの、という観念は真実ではない。現実の生死という状況の変化は、甘露(不死)の門を開いたものにとっては、無常の変遷に過ぎない。縁起の理法によって生滅するだけである。

これまで学んできた仏教の数々の教えが、この場面に凝縮している。

そして、釈尊は死を完全なニルヴァーナに到るものととらえており、忌むものとは全く捉えていないことも味わうべきでしょう。


④いよいよ入滅の地、クシナガラへ


「さあ、アーナンダよ。 私のために、サーラーの双樹

(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を敷いてくれ。アーナンダよ。

 わたしは疲れた。 横になりたい」と。


「かしまりました。尊者よ。」と、世尊に答えて、アーナンダはサーラーの双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いた。 そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、正しく念い、正しくこころをとどめていた。」


アーナンダは、ついに「尊師の背後にいて敷物によりかかって泣いていた」

一心に釈尊の侍者としてどんなときもつき従ってきた若い青年のこの様子を見て釈尊は次のように教えた。


「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ。わたしは、かつてこのように説いたではないか、

――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるにいたるということを。

およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。

アーナンダよ。かかることわりは存在しない。


アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためを図る、安楽な、純一なる、無量の、身と言葉と心との行為によって、向上し来れる人(=釈尊)に仕えてくれた。

アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努め励むことを行え。速やかに汚れのないものとなるだろう。」


なんといういたわりでしょうか・・・そしてここにも教えがこもっています。ご自分の死を題材に弟子を導いているような姿です。そしてアーナンダの資質を認め、将来必ず悟りが開ける、と励まします。


そこへスバッタという遍歴行者がやってきて、どうしても教えを受けたいと申し出ます。

アーナンダはもはや命のない師にはとても会わせることなどできない、押し問答が起こります。


やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッタを拒絶するな。スバッタが修行を続けてきた者(=ブッダ)に会えるようにしてやれ、スバッタが私にたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、私を悩まそうとしてたずねるのではないであろう。かれが私にたずねたことは、私は何でも説明するであろう。」と。

    

さて、スバッタに対して最後の説法が行われます。


 「スバッタよ。いかなる教えと戒律とにおいても、尊い八支よりなる道が存在すると認められないところには、第一の道の人は認められないし、第二も第三も第四も認められない。

しかし、いかなる教えと戒律とにおいても、尊い八支よりなる道が存在すると認められるところには、第一の道の人が認められ、第二も第三も第四も認められる。

ここに第一の道の人がいるし、第二、第三、第四の道の人がいる。

他のもろもろも論議の道は空虚である。ここに正しく住しなさい。

そうすれば世の中は真人たちを欠くことのないものとなるであろう。」


と、八正道の重要性を説きます。実践の宗教であることをあらためて感じるところです。

そして・・・

「わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。

         スバッタよ。わたしは出家してから五十年余となった。

        正理と法の領域のみを歩んで来た。

        これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。」

と、一生の回顧と確信を静かに述べるのでした。最期の言葉は、

 

さあ、修行僧たちよ。 お前たちに告げよう

もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成しなさい。<終>



<感想>

今回の講座は、釈尊の死までを辿ってきました。前回、釈尊の悟りとその内容について学びましたが、その悟りを1つ1つ確実に実践している姿が見えて、その言葉からは、生き様が迸っていて、それでいて、やさしく語りかけるように、伝わってくるものでした。これが、本当に不思議でした。人間形成を完成された釈尊の言葉が、本当に目の前で語りかけてくれるかのように、やさしくスッと伝わってくることに驚きました。時間を超えて、瑞々しく、語りかけられました。
個人的には、今回の講座で特に、強烈なインパクトがあった、2つの場面についてあげさせていただきます。

●アーナンダよ、私はもう老い朽ち、齢を重ねて80となった。アーナンダよ、たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、私の車体も皮紐の助けによってもっているのだ。

しかしアーナンダよ、向上に努めた人が、いっさいの相を心にとどめることなくいちいちの感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全なのである。

それゆえに、アーナンダよ、この世でみずからを島とし、みずからをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


・・・健全な身体とは何か?

考えさせられるところです。そして、以下の事を肝に銘じたいと思います。

この世でみずからを島とし、みずからをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


●アーナンダよ。鍛冶工チュンダの後悔の念はこのように言って取り除かれねばならぬ。

友よ。修行完成者は、最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。友、チュンダよ。このことを私は尊師からまのあたりに聞き、うけたまわった。このふたつの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。


・・・悟りに至ったお供養と死に至ったお供養が、まったくひとしいみのりである。

考えさせられるところです。もちろん、相対的に生と死を見ていないし、少しでも偏りがあったら、出てこない言葉であると思います。ここのところをしっかりと見て、人間形成の修行をしていかなければならないと強く感じました。


記 粕谷玉道 

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