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ブログ - 最新エントリー

あいの里座禅会

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札幌支部 石狩道場 2020/2/15 16:45

本日、午後1時よりあいの里座禅会がありました。私は免許を持っておらず、家から行くには、会場の地区センターはやや不便な所にあるため、行ったことがなかったのですが、今日は藏燈さんの車に乗せていただいて、初参加いたしました。


 座禅は初めてというYさんもお越しになられました。途中5分の休憩をはさんで、計40分座禅をした後、藏燈さんが持って来て下さったソバ茶を飲みながら、雑談しました。Yさんは山川宗玄さんの話をテレビで聞いて、心に刺さるものがあり、座禅を体験してみたいと思うようになったとお話されていました。支部長は、山川宗玄さんのことをよく知っておられましたし、支部長も藏燈さんもよく本を読んで勉強されていて詳しく、感心しながら聞いていました。私もしっかりしなければと、刺激をもらって帰ってきました。

  

  帰りに、屋根の雪下ろしをする必要があるかどうか確認のため、道場に寄ったのですが、耕尽庵老居士と真淡さんがすでにして下さっていて、明日の雪下ろし作務はなし、ということになりました。作務をいつもして下さっている方々がいて、頭が下がります。
  

芙蓉記
 

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閉幕した札幌雪祭りの雪像

前回、「憤とか悱とかはもとより我執とか吾我とかの一念から噴出する心理状態でありますが、これが逆に我執とか吾我を破るところのものになるのであります。といってもなかなか説得力があるものなのか、あるいは、現代の若い人達にとって、腹にストーンと落ちる程の文言なのか検討した時、果たしてそうだろうか?と思う訳であります。」で結びました。

一つのヒントとして科学的知見を加えたもので説得性を持たせるという手法であります。
以前「脳卒中になった脳科学者ジル・ボルト・テイラーの見た世界」という表題でブログを書きました。

ジルは女性の脳科学者、神経解剖学者で、彼女の場合、37歳の時、先天性の脳静脈奇形があり、血圧に耐えかねた静脈が破れ、大量の血液が大脳左半球にどっと吐き出され、左脳の広範囲が障害されました。

しかし、おかしなことにジルの心はこみ上げて来るような平和な感覚に満ちていたのでした。ジルは大変なことになったと自覚しますが、また、同時に脳科学者として「今日まで脳の機能が失われていく状況を内側から見て研究した人はいない。私はその珍しい研究が出来る機会を与えられた。これは素晴らしいことだ」と感激します。

ジルのこの奇跡の脳は肉体と外界との境界がなくなり、自分の体が個体ではなくあたかも流動体になったかのようになり、至福の時間、幸福に満ち満ちた時間を味わったという記述が何回も繰り返し書かれています。ジルはこの状態を「ニルヴァーナ」即ち涅槃と呼んでいます。

一般的にごく大雑把に言うと、人間の脳の働きとしては左脳がリーダー的で、右脳はそれを補う役目をしております。左脳ではどうにも解決できない囲繞事態が生じた時は右脳がその閉鎖的局面を打開する役を務めるようです。右脳は直観的で過去も未来もありません。「今、ここ」しかありません。禅では「今、ここ、我」を大切にと教えますが、右脳は先天的に禅的なのであります。公案も同様に論理型の左脳の働きや世間一般の常識では全く歯が立ちません。右脳で働きでしか解けないようになっているのです。左脳得意の理屈の働きを抑えて、坐禅すれば右脳から自ずと解答が出てくる仕掛けになっているのです。

左脳が行き詰まった状態を禅語で老鼠牛角に入るといいます。

葆光庵名誉総裁老師の提唱録に塗毒鼓(ずどっこ)があり、その除夜小参の中で老鼠牛角に入るについて次のように解説されます。

歳老いた鼠が牛の角の中にずうっと入っていって、向こうは行き詰まりでしかも狭まっているのを尻をつつかれて更に進もうとしても隅っこに追いやられてどうにも身動きが取れないニッチもサッチも行けない状態、これを「老鼠牛角に入る」という。二進も三進も行かないところに行ってじっと動かないで大死一番する。念慮を裁断し言葉を捨て去る、勿論再蘇する等はチラとも考えない。じーっと追い詰めて行ってミジっとも動かない。念慮を動かさないで、そこから後戻りしない。しかも大切なことはその状況を客観的に自分で判断しようとしないこと。これが大切です。と解説されています。

テーラワーダ仏教の瞑想は素晴らしいものがあります。テーラワーダ仏教の良さをそのまま認めた上で、テーラワーダ仏教の瞑想には自分を観察するという視点があります。

曹洞宗の只管打坐は臨済宗のように悟りの為にする坐禅ではありません。曹洞宗の只管打坐の素晴らしさ、曹洞宗の良さをそのまま認めた上で、敢えて、「老鼠牛角に入る」とは客観的に自分で判断しようとしないのです。年取ってよぼよぼになった鼠がついに追い詰められて、とうとう牛の角に逃げ込んだ。金輪際出ることが出来ない、工夫に工夫を重ねて窮し切った状態です。

また、進退窮まる、窮鼠猫を咬むとかいいます。普段、鼠は猫に追いやられて逃げてばかりいますが、進退窮まり、逃げ場を失った鼠は逆に猫に襲い掛かり、その鼠の勢いに多少たじろいだ猫は隙を見せて、鼠はその隙を見逃さず窮地を脱するのであります。

こういう状態になってからが本当の修行であります。ここでやめてしまう人がおりますが、残念なことです。文字通り、困って困って困り抜いて、そこにどん坐るのです。そこに理屈はありません。困ったという事実しかありません。

宮本武蔵の和歌に「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ 踏み込むゆけば あとは極楽」

あるいは剣道の道歌に「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」というのがあります。

困り抜いて地獄だと思っていたが、無我夢中で我を忘れて、師家の室内に思い切って飛び込んでいったら、道が開けた。これを禅では大勇猛心といいます。
 
千葉 金風記

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札幌雪祭りの雪像

熱罵嗔拳は、幕末から程遠くない明治の頃だから違和感なく受け入れられたと思います。維新直後の頃の禅のお坊様は気が強く、また、一般の人でも禅者に近づく人は気も荒かったと言います。山岡鉄舟居士に関する次のような逸話があります。

 

天竜寺の滴水和尚は鉄舟居士に招(よ)ばれて東京へ出て、摂心会を挙行した。

毎日、居士の家へ行った。一夕、居士の参禅を聞いた際、大いに彼を打ちのめした。

居士の門下に村上何某というのがあって、それは剣士として随分腕に覚えのある人であった。

しかし、彼は禅においては全くの門外漢であったので、その先生が坊さんに叩かれるのを聞いて、頗る憤りに堪えなかった。「糞坊主め、師のかたきをとってやる」というので、和尚さんの帰りをつけた。今にも一刀両断と思ったが、和尚さんは何も知らぬ風でひとり出て行かれるその態度がいかにも充実していて、どうも狙うべき隙が見えない。村上は三晩も跡をつけたがいかにしても手の下しようがない。かえって自分の方で気後れがして自ら震え上がるのであった。残念でならぬが仕方ないので、この旨を師の居士に白状した。

曰く「貴様のような奴が何十人と四方から飛びかかってとて和尚は眉毛一つ動かさぬぞ」と。

その頃の禅僧はまだ大法の為には喪身捨命することを辞せぬという大菩提心を持っていたので、余所目には荒々しいと思われるようなことでも、人と処を択ばず、いやしくも法の為と信じたら、遠慮なく思う存分働いたのであります。

 

話を元に戻しますが、憤とか悱とかはもとより我執とか吾我とかの一念から噴出する心理状態でありますが、これが逆に我執とか吾我を破るところのものになるのであります。といってもなかなか説得力があるものなのか、あるいは、現代の若い人達にとって、腹にストーンと落ちる程の文言なのか検討した時、果たしてそうだろうか?と思う訳であります。
 
千葉 金風記

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札幌雪祭りの雪像

世間では臨済の独参を室内で訳のわからない禅問答をするという位に思っています。

ワイドショーで喝を入れるコーナーがありますが、禅と言えば 喝と言われたりすることを空想します。 

吾人間禅で参禅したこともある居士が、師家の熱罵を大いに誤解して、情緒不安定、癇癪持ちだと評したのには何とも閉口し、この方に何と説明したらよいか思案した経験があります。

この熱罵嗔拳も現代ではもう御伽噺になるのでしょう。

世界の禅者として有名な鈴木大拙氏が洪川禅師の刻苦参究、辛酸苦修の逸話として、次のように述べられております。

 

ある時、洪川禅師が大拙和尚の仏光録(仏光国師―円覚寺開山無学祖元の語録)の講座を聴聞していた時、国師が幼時、父に連れられて、山寺に遊びに行った時 僧が「竹影堦を掃うて塵動ぜず、月潭底を穿って水に痕なし」と漢詩を朗々と吟ずるのを聞いて何か心に思い当たるものを覚えたということを述べられた。

洪川禅師もその講座でその詩を聞いて、忽ち、肺腑に徹し 洞然として胸中に滞っているものが解けていくような気がしました。

和尚の提唱が済んでから、その室内にはいって見解を呈せんとしたら、和尚は怒り罵った上に洪川禅師を打ちのめした。それからというもの、参禅の度に同一の扱いを受けたと言います。

ここのところは「師即ち洪川禅師亦自ら鞭逼(べんひつ)精励、刻苦一日一日よりも甚だし。晨参暮叩(しんさんぼこう)頭燃救う(はらう)が如し」。と

朝晩二回の参禅に向けて、あたかも頭についた火を必死で消そうとするように真剣に公案を工夫したのであります。

そして、拙大拙和尚も「依然として棒喝を捨てず。苟も師の面を見れば、忽ち憤怒を発する事、恰も讐敵の如し」

洪川禅師に対する大拙和尚も棒喝を捨てず、まるで、親の仇にでもあったように憤怒の表情で大いに鍛え抜かれたのであります。

師家の側から見て、熱罵嗔拳は実は慈悲の涙の結晶なのであります。この慈がなかったら、弱り切っている弟子の上に嗔拳を加えることは出来ません。ことに弟子が何かの薄明かりに逢着したという時には、決してこの手段に隙を見せてはいけません。

 

(**せずんば啓せず、悱せずんば発せずといいますが、憤とか悱とかは実は分別意識の底を破る鉄槌、即ち有効な手段なのであります。

 

(**)参考

論語述而編 子曰く、憤せずんば啓せず 悱せずんば発せず。    

          一隅を挙ぐるに三隅を以って反せずんば、即ち復(ふたた)びせず

通釈宇野哲人氏 

人が教えるには、教えを受ける人に教えを受けるだけの素地が出来たのを見て、教えを施すべきものである。もし、ある事を研究して、これを知ろうと求めてもまだよく知ることが出来ないで煩悶しているのを見なければ、その意を開いて知ることの出来るようにしてやらない。

 もし口に言い表そうとしても、言い表すことが出来ないでいるのを見なければ、十分に言い表す事の出来るようにしてやらない。物の道理は類推することの出来るものである。

ちょうど四隅(よすみ)あるものなら 一隅(ひとすみ)を挙げて示せば、他の三隅(みすみ)を知ることが出来るようなものである。もし一隅(ひとすみ)の道理を示しても自ら三隅(みすみ)の道理を考えて語ることができないような者なら、まだ教えを受ける素地がないので、告げても効がないから、再び告げることはしない。

解説宇野哲人氏

この章は学者の自ら勉めて教えを受ける素地をつくることを欲したのである。

憤と悱とは誠意が顔色や言辞(ことば)にあらわれたのである。その誠の至るのを待って後これを告げるのである。既にこれを告げれば、必ずその自得するのを待ってまた告げるのである。

 

憤とかとかはもとより我執とか吾我とかの一念から噴出する心理状態でありますが、これが逆に我執とか吾我を破るところのものになるのであります。

これを単に分別智といってもよいのですが、打(た)たかれる、それに応じて起つものがあります。これが分別界の常事でこの「応じて起つ」ものがないと霊性の自覚(無相の自己、本来の面目)は成り立ちません。

憤悱は一種の非常心理態でありますが、これがないと「応じて起つもの」の根底、源底に見徹できません。禅者は巧みにこの心理を活用して、有用な人材を育て上げるのであります。

非常心理態の爆発ということは、人間が仕事をやる上に大切な意義を持つものであります。

よって、禅者の悪罵には大慈悲がこもっているのであります。
 
千葉 金風記

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新型コロナウィルスがパンデミックになった中、開会した札幌雪祭
 

思い返せば、僧堂の修行仲間の皆は洪川禅師の刻苦参究、辛酸苦修と形容憔悴して

面色土のようだと噂しました。

そして、皆 謂いました。「拙公(守拙さんー即ち洪川禅師)禅病になって、近日、斃れん」と。

斃死せん 斃れ死ぬのではないかと修行僧が噂していた 一夜、忽然と妙悟されました。

時に天保13年(1842年)6月27日、禅師27歳のことであります。

 

是より以降、洪川禅師は鬼大拙の室内に入る毎に、演(大拙和尚)拶するに、数段の因縁(公案)を提示して迫りました。禅師は直下に看破し、或いは一、二日にして透得し滞礙(たいげ)はなかったと言います。

毎々 毎回毎回 挙措 起居動作は快活で 自然に口 妙言を吐き 機 妙用を呈した

といいます。

 

ある一夜 大拙和尚は洪川禅師に次のよう語って聞かせます。

「箇事 譬へば 珠を(はくたく)するが如し。愈々剥けば 愈々光り 愈々琢けば 愈々明なり。我己に 儞を一剥琢し了れり 儞が幾生の工夫に勝れり。之を思へ」と、おっしゃて 即 一語を書して 洪川禅師に与えました。

その語とは「危に臨んで変ぜずは真の大丈夫」という七字の一行物であります。

洪川禅師は終生秘蔵して、折々は床の間に掛けて、香を焚いていたと言います。

洪川禅師は歓喜に堪えず、日を追って、神采煥発といいますから 精神も顔色も内からの歓喜でそれが自然に現れて、禅病も自然に清らかに回復して、容貌の元の洪川禅師に戻って、以前以上に面容 かんばせは潤いが増していきました。修行僧仲間は皆 この驚天動地の洪川禅師の変り様を不思議に思いました。

 

しかし乍ら 洪川禅師は慎みて歓喜を秘して漏らさずして、密々に 秘密裡にして参究を怠らなかったのであります。この歓喜を秘して漏らさずというのが極めて重要であります。

 

弘化4年(1847年)洪川禅師32歳の時、大拙和尚の命により 備前岡山曹源寺の儀山善来和尚に参ずることになりました。

嘉永6年(1853年)37歳の秋、法の淵源を尽くして隠山下棲梧軒(せいごけん)儀山善来老師の嗣法者の一人となって蒼龍窟という表徳号を授けられました。
 
千葉 金風記

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新型コロナウィルスの影響か 観光客もまばらな札幌市時計台

辛酸苦修 2年の後、ある時、一山の衆徒が挙げて尾州の総見寺に卓州和尚の忌斎会に赴いて無人の折、同参の獨園(後に大拙和尚の法嗣荻野獨園老師)と二人して留護して病める大拙和尚に侍していた。一夜、独り僧堂に入って打坐、気息を忘れて工夫三昧になり、前後截断、従来の学碍(がくげ)も疑団も氷釈瓦解、忽然とし白隠の隻手音声を聞き得たのである。喜びの余り手の舞 足の踏むところを知らず、覚えず “也太奇 也太奇 百万の経典 日下の灯”と、連叫したそうである。

この時の投機の偈(開悟した心境を漢詩で表現したもの)が

疎闊 孔夫子        孔子さん御無沙汰しました

相 逢う 阿堵の中     お会い出来て嬉しいです。

誰に憑ってか多謝し去らん  どなたにお礼申し上げてよいやら

好媒主人公      主人公が仲にたってあなた様に会わせて下さったよいお方です

阿堵とは 晋、宋の俗語で「あの」という意、禅語の箇(しゃこ)とか這裏(しゃり)が使われています。

 

早速 大拙和尚の処に参禅し見解を呈しました。

大拙和尚 初めて機微として笑いました。

洪川禅師曰く「某曽て聞く、禅に妙悟ありと、今日初めて古人の我を欺かざるを知る也」と

大拙曰く「儞一旦の慶快を以って足れりとなすなかれ、今より須らく四句の誓願輪に鞭ち、無量の妙慧を煥発し、無数の因縁を透過して末後別の生涯有ることを識得すべし、無慧の定は邪定也。慎んで無念無心にし了る事勿れ」と。

 

汝一旦の心の慶び、身体全体から発する快びをもって満足してはならぬぞ。更に四句誓願文にある願輪を衆生に巡らし、無量の智慧と慈悲を施し、更に更に多くの公案因縁を透過して 末後に 別に素晴らしい生涯のあることを全身で識得せよ

 

其余諄諄涙を含んで警嘱し、昏時(夕方)より初更(午後8時)に至ると言いますから、御親切にも3時間位室内で涙ながらに諄諄と或いは切々と、噛んで含めるようにお話しになったのであります。

洪川禅師も流石に感涙しつつ、室内を後にして退いていったのであります
 
千葉 金風記

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札幌雪祭り 雪像作成風景 大通公園より

鬼大拙のこと

天保11年(1840年)9月10日、京都万年山相国寺に到り、11月23日鬼大拙と怖れられた大拙承演和尚に参じて剃髪して、号を守拙と授けられた。

大拙承演和尚の学人の接得する様子が悪辣である為、鬼大拙と言われていた。

禅師に対する接得する様子は立田英山老師の禅海一瀾講話に記されております。此処で先師というのは両忘庵釈宗活老師であります。

「先師から親しく聞いたことであるが、洪川老漢は守拙と呼ばれたことなど一度もなく、常に青道心(全く道心に欠けていること) 時には糞道心と口汚く罵られたそうな。

勿論、 晩学の者を激励される大慈大悲の然らしむるところであるが、時には余りのことに涙をこぼして、涙顔を人に見られまいと隠寮と僧堂の間の池で顔を洗ったことも度々あったとのこと。或る時は人が寝静まってからソット起きて、便所の吸い口に土下座して礼拝して自己の罪障を懴悔されたこともあるそうな。

自ら心に誓って、“われ大道を弁究して五年十年、若し、了悟せずんば朽木糞牆(くちきくそがき)のみ。世に益なし。須らく跡を丘壑(きゅうがく)に晦まして再び面皮を人間に呈ぜざるべし”と、それほどに決心して勇猛精進されたが、なかなか最初の一歩がブチ抜けなかった。

因みに大拙和尚が洪川禅師に与えた公案は「隻手音声」でありました。この公案は江戸時代中期の臨済宗の名僧白隠慧鶴老師が創始した公案で『片手の声を聞いてみよ』というものでありした。両手をたたけば音が出るが、片手だけだと音の出ようがありません。その音を聞けというのであります。

この公案のみならず禅の公案の狙いは、我々の通常の知解分別を根こそぎにすることに眼目があり、どうしてもそういう知性を超えた矛盾的表現を取らざるを得ないのであります。公案は頭で考えても分る訳はありません。その公案そのものに成り切って頭のてっぺんから足のつま先までその公案で充実してしまうことが要求されます。

 
 痛快に見性に続く
千葉 金風記

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古城さんからの葉書

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札幌支部 石狩道場 2020/1/25 19:14
 古城さんというのは、20代の頃から50年以上坐禅を続けてこられたのですが、病気になり、数年前から道場に来ることができなくなった道友です。
 新年互例会の句会に投句だけでもしていただこうと思い、FAXで案内をお送りしていました。昨年は、俳句を送って下さったのに、今年はなかったので、どうされているのだろうと思いお便りしたところ、返信がありました。
  

FAXの調子が悪くて、案内をうまく受信できなかったこと。疲れて横になっていることが多くなったこと。それでも休みながら歩いたり、椅子に座ってプランター菜園もされていることが書かれていました。最後に、「道場は今も夢に時々出ます」とありました。転勤で遠くの街にお住まいの時も、ほんの2,3日参加するためにはるばるいらしていた方です。座禅は、古城さんの生活の大きな部分を占めていたのだろうと思います。道場に来たくて仕方ないのだろうなぁ、と思いました。淋しいぁ、悲しいなぁと思いました。

  

 芙蓉記
 

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札幌雪祭りに向け、懸命に雪像作成中 大通公園より

時に天保11年(1840年)9月8日重陽の前日で、禅師24歳、生別斎(しょうべつさい)を設け、親族、門人を呼び集めて愛用の書籍、硯、筆等を皆に贈り、かつ、妻子を父母に預けて、皆の前に生別の詩を唱えました。

孔聖釈尊非別人  孔聖 釈尊 別人に非ず

彼謂見性此謂仁  彼は見性といい、此は仁という

脱塵休怪吾麤放  脱塵怪しむことを休めよ 吾が麤放を

箇浩然一片真  箇の浩然の一片の真を行ぜん

そして、若い妻にも一紙(離縁状)を与えました。

我と汝と譬へば繊を以って 土遇人(つちにんぎょう)を繋ぐが如し

今絲断たれて我は山に入る。穢土厭離 帖 件(くだん)の如し

九華真人 一円相を花押とす

阿麻氏

九華真人とは道家思想で悟りを得た仙人の意味であります。

これが当時の今から280年前、約300年前の禅師の人生観であり、当時の封建時代における日本人の一部の人生観を反映しています。

現代から見れば、とんでもない男ということになるでありましょう。女性を物としてしか扱っていない。セクハラ モラハラ 散々女を食い物にして家事でこき使って捨てた等々 ♯ハーシュタグme tooでSNS発信すれば、即、炎上ものであります。現代では最低男で非常識で惨憺たる評価の男であります。だから、現代では御伽話であります。
鬼大拙 に続く
千葉 金風記

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令和2年1月12日新年互礼会では下記写真のような禅の初祖達磨大師の頂相を掲げることになっています。この頂相は両忘庵釈宗活老師の書かれたものです。
賛は 一葦(いちい) 江(こう)を過ぐ 当門 歯(し)無し
何ぞ 家私(かし)を尊ぶ 単伝直指(たんでんじきし)

偶々 尾州(尾張の国)の人で宗斧(そうふ)上座という人が浪華を過ぎて福島郷の円通庵という宿に宿泊していました。その宿のご主人が旅人に対する四方山話に禅師のことを伝えました。

宗斧(そうふ)上座曰く「近国―浪華京都含めて静岡位までーで名師を求めれば、八幡(静岡八幡円通寺)に海山和尚(卓州下)がおられます。また、相国(京都相国寺)に大拙和尚(隠山下)がおられます。海山和尚は御歳で恐らくは禅師のような剛の者の説得するのは適わないでしょう。大拙和尚は峻嶮で鬼大拙と呼ばれております。」

その事、奇しくも、父も亦、宿の主人を尋ねておりました。その言葉を聞いて、倉皇として、あわてて家に帰り、禅師に伝えました。

 

そして、禅師はその場で言いました。

「父母には不孝(孝行できません)ですが、道の為に命を捨てたいと思います。鬼大拙という名匠がおられて、その方の居場所までわかっています。今すぐ用意して京都にいる名師のもとに馳せ参じます。」

父母は禅師の志が尋常に非ざるを知っていましたので、禅師のいう通り認めたいと思いましたが、親戚が許しません。いつの時代もそうであります。外野席、親戚が五月蠅いものであります。

 

 親族が続々集まってきて、衆議紛紛交々来たって、禅師の志を阻もうとします。

現代であればさしずめこう言ったでありましょう。これは勿論小生の創作でありますが。

「年老いた父母を捨てていくのですか?この親不孝者め、そもそも、儒学では親不孝はもっての外と説いているではありませんか。若い妻を貰ったばかりで可哀そうに この若い妻に何の罪、咎、過ちがあったのですか? その方を離縁してまで出家するなどというのは人間のやることではありません。儒学でも仁を説いているのではないですか」等々

 

禅師は敢えて動じないで、竟に、自分で決断し、出家しました。
 
ついに出家決意 に続く
千葉 金風記

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