メインメニュー
石狩座禅道場



〒061-3245
石狩市生振六線南2号
(いしかりしおやふる6の2)

TEL/FAX 0133-64-9045
お問合せはこのホームページ
からどうぞ

お問合せはこちら


カーナビ、スマートフォン
来られる方は、以下で検索
してください。
石狩市生振584−17
注:これはGoogleマップで
郵便の住所ではありません。

 

このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
検索
カテゴリ一覧

ブログ - 最新エントリー

経行ー歩く坐禅ーについて

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
札幌支部 石狩道場 2020/3/22 7:08


昨年11月落慶した栃木禅道場の板木(修行の合図をする) 落慶お祝いに札幌支部から寄贈 了空庵老師御揮毫の念々正念 ―修行時も日常生活に於いても一呼吸一呼吸 この一瞬を護惜するという意味。


足袋白く 霞の中を 出ぬ人 立田幽石 (耕雲庵立田英山老師の俳号)


俳人橋本多佳子さんを悼む


橋本多佳子は道号梅馨と号し、曾て余に参禅す。彼女に「足袋白く 霞の中を なほ出でず」の句あり
1.経行(きんひん)について


経行とは歩く坐禅のことであります。摂心会(1週間の坐禅の集中修行期間)になりますと、早朝4時50分の起床から夜9時30分の開枕(かいちんー就寝のこと)まで坐禅を十炷香位します。一炷香とは線香1本が燃え尽きるまでの時間大体45分程度です。坐禅ばかりしている訳ではなく、摂心会の日程はよく工夫されていて、午前と午後に作務(室内の清掃や戸外の草むしり等の身体を動かすこと)が1時間半程度組み込まれています。また、提唱といって、老師が禅の書物を講義する時間が夜7時位から1時間位あります。


そうは言っても坐禅ばかりしていますとやはり、肩が凝ったり、腰が痛くなったりします。また、眠くなったりします。


そういう時の為、歩く坐禅、経行という修行を行う場合があります。臨済宗と曹洞宗では経行の行い方に相違があります。


先ず、吾人間禅即ち臨済の経行の行い方を先ず説します。


坐禅中、直日が経行を行おうとする時は引磬(いんきん-鈴のようなもの)をちんちんちんと大から小へ、緩から急へ打ち鳴らします。


大衆は坐具の前に静かに立って叉手当胸(さしゅとうきょう)します。左手を胸に当て、右手を左手の上に重ねるのです。


そして、引磬を上記の通り、また、打つと左向けをし、次に引磬を一つ打つ毎に左足から徐ろに運び出し、経行をします。


この動作中も坐禅の時と同じように数息観をするのですが、前後の間隔を余り開けず足を運ぶのがよいでしょう。


小生が初めて市川の本部道場の摂心会に参加したのは20歳の頃でもう約50年前のことですが、よく覚えています。


小生は真面目に経行中も数息観を行ってましたので、小生の処で詰まって、前との間隔が最初から大きく空いてしまいました。その時、後ろから助警が大きな声で「こら、もっと早く


進まんか!!」と大声で叱声され、我に返り、歩を早く進めたのを覚えています。


本部道場で経行を行うのは徹宵静坐の時(今でも臘八―釈尊が成道した12月8日前後に行う摂心会―摂心会の最終日には徹宵静坐しております)、深夜の全員が眠気を催した時に行います。


従って、単に歩くだけではなく、道場の外に出たり、走ったりします。臨済宗の専門僧堂でもそれは同じであります。
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (24)


昨年11月落慶した栃木禅道場 隠寮(老師のお部屋)への通路 正面に了空庵老師御揮毫の寿山福海の軸が見える


 


北窓を 開くや山は 生きてをり 楠部 南崖
長い間 ふさいでいた北窓を今日開いた。窓に蘇った景色は「山は生きてをり」に十分表れていて、それで十分且つ言い尽くされている。冬から解放された作者の意が通ず。雪はまだ、残っているが、山も確かに春へ春へと動いている。
 


6.立田英山老師の数息観のすすめ


立田英山老師の数息観のすすめでも自然の呼吸と言っておられます。


「口を軽く結んで、鼻で自然の呼吸をします。よく深呼吸や腹式呼吸をするように説く人がありますが、そんな必要は毛頭ありません。ただ自然に深く大きくなったなら、それはそれで又よろしいので要するに意識的な呼吸をしないことです。あくまでも自然にしたがうのが安楽の法門たる所以です。


「気海丹田に力を入れろ」などと書いた本もありますが、全く余計なことで、下腹に自然に気が充実してくるのならそれも宜しいでしょうが、あくまでも自然であることが要点です。


丹田呼吸は気海丹田に力を入れる呼吸ではなく、腹壁があまり膨らまず、へこまず、外観的には余り派手な動きはないものです。立田英山老師言われるように下腹に自然に気が充実してくると言ったものです。もともと、赤ちゃんの呼吸は丹田呼吸で、むしろ、それが自然な呼吸なのです。


 


坐禅で精神的に安定すれば脳からアルファ波が生成されるということが、かなり早い時期―50年程前―から明らかになっています。最近の医学研究で脳からアルファ波が出る状態になると脳内物質セロトニン物質が生成されるということが実証されています。


セロトニンは人間の精神面に大きな影響を与える神経伝達物質で、ノルアドレナリンやドーパミンの暴走を抑え、心のバランスを整える作用があると言われています。


実験では呼吸法を始めて5分程するとセロトニンが増え出し、25分程の呼吸法終了後もセロトニン物質はキープされるということです。


 


大安般守意経に「数息を地と為し、相随を犂と為し、止を軛と為し、観を種と為し、環を雨と為し、浄を行と為す」としていますが、立田英山老師は数息観の習熟度合いを簡潔に前期・中期・後期に分け、後期に到れば「よくぞ人間に生まれたものある」と人生を本当の意義を味わい得ると断言されております。


数息観の習熟は一日一炷香を愚直に実行して、三昧力を涵養することです。継続は力なりです。
そうであれば数息観ばかりやっておればよいのではないかと考える方があるかもしれませんが、数息観では定力は養えるでしょうが、真理眼は開けません。正脈の師家に独参して参禅弁道することによって道眼が磨かれます。道眼が開けることによって、更に別の観点で数息観を見直し、更に励むという相乗作用であります。どうぞ、日々新たに数息観にチャレンジしていただきたいと存じます。以上で私のお話を終わらさせていただきます。
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (29)


昨年11月落慶した栃木道場全景
藁屋根の あをぞらかぶる 彼岸かな 久保田万太郎
藁屋根の上の青空は春暖の滴るような深い色。誰もの故郷のような懐かしいほのぼの
とした景色がお彼岸にはふさわしい。
 


5.赤ちゃんの呼吸は丹田呼吸


  赤ちゃんの呼吸を観察してみますと、乳を求めて力強い声で泣く時は呼気性丹田呼吸になっています。また、あやすと声をあげて笑います。これも同じく呼気性丹田呼吸で


す。次に静かに眠っている時は吸う息で赤ちゃんなりの腹圧がかかっています。これは吸気性丹田呼吸です。また、腹這いのときは、呼気性丹田呼吸です。生後まもない赤ちゃんは既に吸気性、呼気性両方の丹田呼吸が行われております。実は丹田呼吸は自然に行われているものです。ところが、青年、壮年、老年と年齢を加え行き、しかも体を動かすことが少ない生活では、この自然の呼吸、すなわち丹田呼吸がおろそかになります。


それでも不思議なことに歌を唄う時やお経を読む時は長呼気丹田息になっています。


 その上、怒り・貪り・焦り・恨み・嫉み、あるいは悲しみ・憂い・嘆き・不安といった感情の虜ともなれば呼吸もまたかき乱れます。そして、爽やかさ・おおらかさ・心のあたたかさを失い、結果としてみずから灰色の世界へ引きずり込んで行くことになります。
 
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (28)


すっかり雪が解けた札幌の中心部


啓蟄を 啣(くわ)えて 雀飛びにけり 川端茅舎


4.呼吸の四相―よっつの相について


天台小止観に呼吸の四相ということが説かれています。


一は、二は喘(せんもしくはぜん)、三は気、四は息(そく)。風、喘、気は不調の相、息は調える相です。


風とは「坐する時、即ち鼻中の息の出入に声あることを覚ゆる」


喘とは「坐する時、息に声無しといえども、しかも出入に結滞して通ぜざる」


気とは「坐する時、息または声無く結滞せずといえども、しかも出入に細ならざる」


息とは「声あらず、結滞せず麁ならず、出入り綿々として存するが如く、亡きが如く、


身を資(たす)け安穏に、情(こころ)に悦予(よろこびたのしむこと)を抱く」


 
呼吸を乱れている状態から整った状態の四つの段階分けております。
出入り綿々として存するが如く、亡きが如くが一番良い状態であると言っております。
 
同じく天台の摩訶止観(まかしかん)では「息は臍より出てて還り入って臍にいたる。
出入は、臍をもって限りとなす」というのであります。
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (20)


 
大通公園にある吉井勇の歌碑


3.他の原初経典雑阿含経にも見られるアナパーナサチ


大安般守意経の他にも釈尊は呼吸について語っておられます。


阿含経というお経があります。阿含経の阿含はAgama(アーガマ)というパーリ語を中国語に音写したもので原意は「来ること」「到来」もしくは「帰着」という意味で、釈尊が滅後まもない頃、その直弟子たちがこれを編集して、それからずっと連綿として伝えてきた経典という意味です。


釈尊の寂滅後、最初の結集である五百結集―500人の比丘が王舎城に集まったーについて記載している原初的な経典はパーリ語ではパーリ五部相応部経典とその漢訳では漢訳四阿含の雑阿含経でありますが、その雑阿含経第29第六に次のようにあります。


「弟子達よ。私はこの三ケ月間、出息を念じて多く得る所があった。入る息、出る息、長短の息等様々なる息を実の如く知った。かようにして私は麁(あら)い思惟にあった。弟子達よ、私はさらに進んで長い間、より微細なる思惟に入った。この時、美しい三人の天子が私の許へ来たが、一人がいう『この人に死の時が到った』。他の一人はいう『否死の時が到ったのではない。それに向うているのだ』。第三の天子はいう『そのどちらでもない。これは道を実修しているのだ。即ち聖者の静寂の境地である』。


弟子達よ。三人の天子はかように私の実修を話し合うていたが、しかし、若し正しくいうならば、聖住、天住、梵住、学住、無学住、又は如来住と名づくべきであろう。修養の道程にある人はこれにより得ざる所を得、到らざる所に到り、證(さと)らない所を證(さと)るであろう。若しまた既に證(さと)りにある人にとっては現前する法の楽しみがある。これぞ即ち入出息法(安般守意)を正しく言いいづるものである」


 


これは釈尊が正覚を成ぜられてから間もないころ、弟子たちに語ったものです。


「私はこの三ケ月間アナパーナ・サチ(心をこめた呼吸)を実行して、まことに得るところが多かった。入る息、出る息に、長短の息などを心を込めて実行して、まことに得るところが多かった。はじめは思索も大まかであったが、この呼吸を実践していくうちに、次第に思索も深まって行った。それは今まで気付かなった微細な点までわかるようになった。」と申しておられます。
 
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (37)


大通公園にある石川啄木歌碑
しんとして幅広き街の秋の夜のとうもろこしの焼くるにほひよ 一握の砂

 私共が生活の向上を目指した時、第一に肉体の内外について考慮することが必要なのではなかろうか。それなのに、そうしたことを後にして、数息・相随・止・観・環・浄を何故に先にするのだろうかという弟子の問に対し、釈尊は肉体は汚れたものなるが故に、体のことを考えても無益である。ところが、意(こころ)が浄らかになっていれば、体のことがはっきりわかるのだという訳です。(こころ)は、しばしば意(こころ)の錆ともいうべき欲望に引きずりまわされ、体をこわすことがあります。意がすでに浄められている場合、体も浄められる。したがって、病気も多く未然に防ぐことが出来る。それにはアナパーナサチー長呼気が良い薬であるで締めくくります。

2.アナパーナサチの具体的方法

釈尊の呼吸法は長呼気丹田息です。数息を繰り返しているうちにその息は次第に長くなります。出息長の呼吸です。それは最初のうちは大脳を煩わす呼吸法ですが、それを反復することによって半ば無意識の状態で実行可能となります。

長呼気丹田息は頭骸骨内の臓器(大脳、間脳、中脳、橋、小脳、延髄)の血液循環を促進し、特に長呼気丹田息は頭骸骨内の臓器(大脳、間脳、中脳、橋、小脳、延髄)の血液循環を促進し、特に頭部全般の静脈血の心臓還流が活発になります。

大脳でいえば、前頭部・側頭部・後頭部・頭頂部の脳細胞の連絡が密になり、全機能が快適に行われることになります。

 丹田呼吸と腹式呼吸の違いは、通常腹式呼吸は息を吸う時に腹が膨らみ、息を出す時へこむ呼吸法です。何故そうなるかと言えば、吸う息で横隔膜が下がり(収縮)、吐く息で上がる(弛緩)。腹が膨らむのは横隔膜が収縮下降するからで、そして、へこむのは弛緩上昇の為です。その時、腹筋群(腹の周囲の筋肉)はあまり働きません。その時、横隔膜の収縮が腹の膨らみとなって現れわけです。


 それならば、丹田呼吸はどうかと言えば、腹壁があまり膨らまず、へこまず、外観的には余り派手な動きはない。しかし、腹圧計をセットして調べると、腹圧がかかっていることがわかります。そこで強い腹圧がかかる程、静脈血が心臓に多く還ります。丹田呼吸では横隔膜と腹筋群とが共に働くからです。両方の筋肉が協調して収縮すれば、そこに強力な腹圧が生ずるのです。ここに丹田呼吸の素晴らしさがあります。

 丹田呼吸で大事なことは、息を止めないことです。すなわち、前に述べましたように怒責に陥らぬことです。怒責は全身の静脈血の流れを妨げ、血液循環を乱し、脳圧を上げます。これは全ての内臓に悪影響を及ぼし、自律神経系、ホルモン系を乱すことになります。

 長呼気により脳幹の各部(間脳・中脳・橋・延髄)の綜合的なすばらしい働きが現れ、正しい呼吸は、人それぞれのすばらしい能力を顕現するのに大いに役立ちます。

正しい姿勢でアナパーナサチの呼吸をしていると、躓く、よろめくなどが少なくなるのは小脳の機能がよくなるからだと思われます。

 また、間脳における視床下部は自律神経の中枢であり、同時に大脳辺縁系とも連絡しております。この視床下部は腹腔神経叢(一名太陽神経)とも密接な連絡を保ち、自律神経の正しい機能の発現に役立ちます。
 
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (18)

釈尊の呼吸法(2)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
札幌支部 石狩道場 2020/2/28 6:22


外国人観光客が減少した狸小路
 

大安般守意経に「数息を地と為し、相随を犂と為し、止を軛と為し、観を種と為し、環を雨と為し、浄を行と為す。是の如き六事は乃ち道に随うなり」とあり、呼吸を農作業に譬えています。
 

先ず「数息」についてですが、人間の体表面は畳一枚ほどの表面積で、身体の50兆~60兆の全細胞のガス交換は肺のガス交換を媒介としております。つまり、酸素を血中(動脈血内)に取り入れ、炭酸ガスを対外に排除します。呼吸を正しくしてやれば血液、細胞が清められ、肺のガス交換が活発に行われ、細胞の活力も高まります。
 

心身を汚すものは第一に外部から侵入するもの、第二に内部から侵入するものがあり、前者は色、声、香、味、触の五境、後者は雑念、妄想であります。外部からのものを遮断するには数息の吸気数息、内からの雑念、妄念は呼気呼吸を用いる。つまり、出る息と共に痛み、悲しみ、妬み、悶え、怨みなどを長呼気、または力強く吐き出す息とともに対外に吐き出してしまいます。一度に処理できないでしょうから何回でも分けて吐き出します。
 

これは欠気一息(かんきいっそく)といって、吾人間禅でも、坐禅工夫に入る前に行うことを奨めております。欠気(かんき)というのは、胸から腹の奥底までたまっている息を全部吐き出し、新たな息を吸い込む深呼吸のことです。
 

その深呼吸のやり方は鼻から空気を腹部、胸部そして肺の尖部のすみずみまで吸い、そのまま息を吐き出さずに肩甲骨を下げると自然に横隔膜が下がるので、肺のすみずみまで空気がしみ通るように感じられます。そして、丹田をへこまさずに、徐々に鼻孔から細く長く吐きつくす。この時、痛み悲しみ、妬み、悶え、怨みなどの悪感情も一緒に外にはき尽くすのです。これらを2~3回繰り返すと静坐に入り易いのです。

二番目の「相随」とは上達した数息から息を数えることを放った呼吸のことで、随息観のことです。数息が上達すれば自ずから出息長となり、その上達した数息から数を数えることから意(こころ)を放てば、そのまま相随となります。

「相随は五蘊(ごうん)と六入に随わず、息と意に相随うなり」とあります。五蘊は色、受、想、行、識で物質界とそれを認識する人間の精神作用、六入とは色、声、香、味、触の五境に意識を加えた六識のことです。相随で心身一如となるということです。

三番目の「止」とは坐禅をしていると心は雑念、妄想に悩まされます。それを一境に止めようというものです。止の方法は4つあり、数止・相随止・鼻頭止・息心止で一の数止は数を数えることに意識を集中する方法、二の相随止は意(こころ)と呼吸とを相い随わせることによる方法、三の鼻頭止は入息・出息ともに跡をつけていけば入出息とも鼻頭でそれが停止する、四の息心止は意を呼吸のみに傾ける、それによって止を得るというものです。

このうち鼻頭止というのは古来から「眼半目を以って、鼻端を守る」といって、両眼にて自分の鼻の先を凝視してみるのもよいでしょう。
 

四番目の「観」とは五蘊を観ずることです。呼吸をしていてどうも具合がよくないなと思う時は「観」と身体とがしっくり行っていない。つまり体の調子が調わないとき、あるいは心の在り方がよくないと呼吸も正しくできない。観は観察、思い浮かべることで、こうなっていけばよいとか、こうなっては好ましくないなどと心に計らいがあると、正しい観察ができなくなる。そうしたものを心から取り去って初めて正しい観察が出来きます。観察が正しく行われるには出る息を長くして、心身を整えることが必要で長呼気は自然の同化にもっとも役立つ呼吸です。
 

五番目の「環」とは悪を棄てることです。「意は人の種なり。是を名付けて環となす。環とは意にまた悪を起こさぬをいう」とあります。心と身体はもともと一体のもので、意は人の種とは、意が中心であること。欲望を野放しにしておけば自己の内部から好ましくないものが顔を出そうとしまいます。環とは冷静な自己観察のことで、釈尊は簡潔に悪を起こさぬことだと言われました。体の悪とは殺、盗、婬、悪口、妄言、綺語(かざり言葉)です。心の悪とは貪欲、瞋恚(しんに)、愚痴です。自己の内部には善いものと悪いものが混在しており、その中の悪いものは容赦なく叩きだしてしまうのが環の目的です。

最後の六番目の「浄」は行であります。数息は大地、相随は犂、止を軛、観を種、環は雨と譬えのに対し、浄は行に譬えました。前の五条件が揃えば、次に実行が必要です。
 

「諸の所貪欲を不浄と為す」と経にあり。浄は念(おもい)を断つことであり、所有なしで大自然の運行と共にあることが浄で、大自然そのものが浄です。 
 

以上 纏めますと眼や耳などから入ってくる外界のわずらわしさを遮断するには数息がいいし、意を斂むるには相随がよい。止は意(こころ)を安定させ、観は不必要な念(おもい)から離れさせ、環は意を一つに向け、浄は以上を実践するという訳です。


釈尊の呼吸法(3)に続く
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (30)

釈尊の呼吸法について

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
札幌支部 石狩道場 2020/2/24 6:55
これから何回かに分けて釈尊の呼吸法について連載します。

1.大安般守意経(だいあんぱんしゅいきょう)について

大安般守意経(だいあんぱんしゅいきょう)というお経があります。漢訳に翻訳した人は安息国即ち古代イランの帝国パルティア(Prtiy)の安世高という方で、皇子でありながら、父が没した跡を継がず出家し、西暦147年(後漢の桓帝代)当時の支那に至り、一番最初に仏典翻訳に従事し数々の漢訳経典を残した最初の僧であります。

小乗の人であったと見なされていますが、伝承では阿毘達磨(アビダルマ)に関して深い学識を持ち、瞑想にも通じていて、その徳は高かったことから安世高菩薩と尊称されております。

残念ながら、この大安般守意経はサンスクリット語、パーリ語による原本はもとより、チベット語訳も伝わっておりません。

この難解な大安般守意経について、東大医学部で医学研究していた村木宏昌氏が大森曹玄老師の勧めで西洋医学の立場から釈尊の呼吸についてまとめました。読み下し文として宇井伯寿先生の訳経史研究や仏教学に造詣の深い山辺習学先生の指導を受けながら著作し、ついに春秋社から昭和54年2月大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法が上梓されました。

パーリ語のanapana satiのanapanaを安般と音写し、satiを守意と漢訳し大安般守意経となりました。

anaは入息、apanaは出息という意味で、その原意は出離―出て離れるーが原意、また、satiは念・正念・念行・念住などの意味でありまして、「出る息を主体にした呼吸法に念住すること」となります。

お釈迦様は苦行時代に随分激しく息を止められたことが仏典に記載されています。

強く息を止めるのを怒責(どせき)といいます。この一番の欠点は、血液の循環系を乱すこと、即ち、全身から心臓に送り返さねばならぬ静脈血の流れが妨げられます。脳は強いうっ血と充血で脳圧は上がり、脳細胞は正しい働きができなくなります。

これにきづいた時、釈尊は既に34歳を過ぎておりました。

それに気付いてなさったことは、今までとは逆に呼吸に全力投球されました。いろいろ良い呼吸の中にも短時間で疲れてしまう呼吸があります。それは出入息とも心をこめてする場合です。ラジオ体操の最後で行う深呼吸であれば4~5回しかしません。これはかなり精神力が要ります。普段は無意識呼吸ばかりしているのに、変わった呼吸をすると大脳皮質の運動野を煩わすからです。

全力投球はやがて改良され、出息は長く、入息は短くというもので、出る息には心を傾けるが、入る息は力を抜くといった調和呼吸です。緊張の連続では疲労が早いのですが、緊張と解放の繰り返しならば持続可能なのです。

息をつとめて長く出すこと、長呼気は脳の静脈血を心臓に速やかに返すはたらきがあります。うっ血を解消し酸素を含んだ動脈血が頭部へ向かってスムーズに流れ、脳細胞のはたらきを良くし、精神活動を活発にします。
釈尊の呼吸法(2)に続く
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (29)

洪川禅師の因縁話に酷似した古典落語があり、その題目は肝潰しです。

テレビ笑点で御馴染みの6代目三遊亭円楽の師匠が5代目三遊亭円楽、5代目三遊亭円楽の師匠が6代目三遊亭圓生で、6代目三遊亭圓生の名調子が眼に浮かびます。

さて、その肝潰しが先程の阿類の命を救ったという話に似た処があります。

 

粗筋はこうです。

タミという男が病気で寝ている友人を訪ねますと、「この病気は医者でも治せない。恋患いだ」

誰に恋したと聞くと、夢であった呉服屋の娘に恋したという。思わず、噴き出してしまう。

友人が医者に聞いた処、生まれ年と生まれ月の十二支が同じに生まれた女の生き胆を煎じて飲めば何もかも忘れるという。しかし、人を助ける為に別に一人を殺すことは医者には出来ない。

男は帰り道に、母が「妹のお花は年月が揃っているので誰にも言ってはならない」と言っていたことを思い出す。

夜更け、男は包丁を研ぎ、お花の胸に包丁をつきつけ独白します。

「思えば、俺は両親に早いうちに生き別れ、あいつの親爺に引き取られた。

あいつの親爺には自分が盗みを犯した際に代わりに牢獄に入ってくれた。

妹を殺してまであいつを助ける義理はなくても、あいつの親爺がなくなった今、恩を返せるの相手はあいつしかいない。生き胆を飲ませた後は俺もお花の後を追って死のう」

男の涙がお花の顔にかかり、お花は眼を覚ます。

男は素人芝居の稽古で、寝ている女を殺す男を演じる練習をしていたと誤魔化す。

お花は「本当に肝を潰したわ」と驚く。

それを聞いた男は「何、肝を潰した。ああ それでは、薬にならない」

という落ちで終わりであります。

 

まあ、それにしても皆様、禅者は決して肝を潰してはいけません。

 

洪川禅師は大拙和尚から「危に臨んで変ぜずは真の大丈夫」という七字の語を頂戴し、終生これを護持されました。だから、禅者は如何なる事態に遭遇するとも肝を潰してはいけません。
 
 
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (24)

閉幕した札幌雪祭りの雪像

今まで堅い話が続きましたので閑話、無駄話としてお聞きください。

 

意外に思うかもしれませんが、洪川禅師は経典、諸仏に関する「霊験」なるものを深く信じておられました。金剛経読誦霊験記なるものを表して、因縁話を書き集めておられました。

その中に観世音菩薩霊験の説と題して明治9年(1876年)4月18日東京芝の金地院で一般の方に説教しております。

 

吾人間禅の創設者立田英山老師は立教の趣旨で人間禅は神秘を語らず迷信を説かず、堂々と如是法を挙揚し、合掌して人間禅を宣布すると高邁に宣しておられます。偉大な禅者で英邁なる科学者であられた耕雲庵立田英山老師だからこそ、高らかに宣言できたものであります。耕雲庵立田英山老師は洪川禅師の法孫ですが、こういった因縁話は勿論致しません。ここは明治9年という時代背景を考えてみる必要があると思います。

 

長い説教でありますが、簡単にストーリーをお話しますと

場所は備後岡山の国福山にかうぶん村という処がありました。

その村に伊右衛門、あのサントリー伊藤園のお茶の伊右衛門と同じ名前であります。

その妻は観音信心篤い人で、観音様に祈りますと懐妊しまして、阿類(おるい)という娘を生んだのであります。

 夫婦は仏師に一寸八分の観音の御像を彫っていただき、守り袋に入れ、平日、阿類の首にかけさせておりました。十歳の時、福山家中の渡辺何某という処に奉公に出すことになりました。十句観音経を教えて毎日朝晩に百辺づつ読むように伝えました。

 ある日、渡辺何某、登城の節、血気の若武者5、6人にスッポン二匹買い求めたので、今晩拙宅に参られよ、馳走するにと

渡辺何某、早く、城の御勤めを終わって、すっぽん手料理せんものとした処、図らずも包丁を池に落としてしまった。

渡辺何某、すっぽんは能く人の頼み聞きわかると。そして、すっぽんに申す様「汝命惜しければ、落とした包丁を咥えて来い。そうすれば、命を助けてやるぞ。

そのすっぽん案の上、包丁を咥えて池より出てきたが、約束を違えて、そのすっぽんを料理した。若武者が来て、料理を食べる前に件の話をすると、皆、怖気づいて帰ってしまった。

渡辺何某が一人で全部食べてしまった。夜半から腹痛起こし、七転八倒。明方に医者を呼んだ。薬を出してくれぬ。一家親類手をつくせども、回復せる気配なし。

医者が言うよう是病、女子の生き胆を取り、薬に服すると治る。しかし、是はむごいことで容易にしてはいけません。

渡辺何某は奉公せる阿類が恰好と考え、穢多の六右衛門と阿類に夫々因果を含めた。

阿類は結局生きていたのでした。六右衛門は確かに阿類の胸を刀で刺したのですが、木像の

観音菩薩の胸の当たりより切り裂けていたのでした。
 
千葉 金風記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (33)
Copyright © 2014 人間禅 石狩道場 (Powered by ImpressCMS)
Theme Desinged by OCEAN-NET