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上座部仏教長老のスマナサーラ師は言います。
智慧とは、特別に「何かがある」ことではありません。
じつは、「何もない」ことなのです。
心の中に、ある価値判断や尺度をもっていると、それに
当てはまるものしかみえません。
何か知識にしがみついていると、それで頭がいっぱいで、
他のものが入らなくなってしまいます。
頭の中に何もない場合は、そのときそのとき、何でも入って
しまい、理解がはやいのです。
さらに、得たものに執着しないでもち運ばないのが、智慧
ある人なのです。
坐禅をし、数息観を行ずるということは、呼吸と一つとなり、
一切の概念から心が解放された状態になろうということです。
3月18日(金)18時半から3月21日(月)17時まで
第207回摂心会(坐禅の集中修行期間)が石狩道場で開催され
ます。
本格的な坐禅修行を体験するよい機会だと思いますので、ご興味
のある方は是非ご参加ください。初心の方の参加も大歓迎です。
期間中早朝午前5時位から夜21時30分まで、坐禅、作務(
掃除等)、提唱(禅の講義)等がございます。食事、宿泊施設も
ございます。参加の皆様のスケジュールに合わせての部分参加も
可能です。
千葉 金風記
に細めます。
坐禅儀に「目は須らく微(すこ)しく開き昏睡を致すこと
を免るべし。もし、禅定を得ればその力、最も勝る。」と
あります。目を閉じる方が三昧に入り易いという方もおられ
ますが、仏祖正伝の坐禅は永年の体験から「微(すこ)しく
開く」のです。目を閉じていると「昏睡を致」し、眠気を催し
心が暗く、沈んで活気がなくなります。所謂、無念夢想を
楽しんでいるのとは違います。活気凛凛として五体に充満し、
一切の万境に接しながら少しもそれに煩わされたり、動揺
させられたりしないという禅定力は目を開いて坐ることに
よって練り上げられます。
「もし禅定を得ればその力、最も勝る」ゆえんです。
千葉 金風記
されています。集中して余念のないこと、一心不乱に物事
に集中することです。数息観についていえば、数息の一念
だけが生き生きと働き、それが切れ目なく一貫相続している
ことです。是は精神の活動の停止したポカーンとした空白状態
、一種の恍惚とした忘我の境や無念無想とは全く異なるものです。
息を数える我と数えられる息が一体となり、不二一如となること
です。三昧になっているからといって、何も聞こえず、何も
見えないわけではありません。何が聞こえても何が見えても、
邪魔にならないだけです。
数息観をしていて見えたら見えたまま、聞こえたら聞こえた
ままにして、それに拘泥しないで、二念をつながないように
するのです。二念をつぐと、これが起点となって三念、四念
と思慮分別に発展し、次から次へと連想がおこり、いつしか
雑念妄想のとりことなってしまいます。
なかなか、難しいことですが、気長に坐禅を楽しみましょう。
気長に続けていると、今日はちょっと違うぞという日が必ず
来ると思います。肩の力を抜いて悠々と坐禅をしましょう。
千葉 金風記
を契機として様々な雑念が常に出てきます。それが連想を
よび、自分の意思とは無関係に連想を続けるということに
なります。雑念の出方は呼気で比較的消失しやすく、吸気
の時に出易い。ある場合は呼気、吸気の切れ目に出てくる
ことがあります。
一念が起こる時、それをそのままにして二念を継がない
ようにするのが良いようです。雑念を相手にしない。
坐禅儀には「念起らば即ち覚せよ、之を覚すれば即ち失す。
久々に縁を忘ずれば、自ら一片となる」とあります。
念が起こったら、来たなと覚して、相手にしないでいるという
のです。
吸気に注意して吸気の時だけ、数を数える方法もよいようです。
数息観を実行していると、呼吸を数えるというのは単に
頭だけの働きでないことに気付きます。
古人は「足の踵で数を読め」とか、「身体全体をつっくるめて
数息観をするように」とか言われています。
心を左の掌の上におき、肩の力を抜いて自然の呼吸をしている
と自然に気が臍下丹田の方に下りてゆきます。
千葉 金風記
―かんきいっそくーをすると坐禅三昧に入り易いと言われて
います。
欠気というのは、胸から肚の奥底までたまっている息を全部
吐き出し、新たな息を吸いこむ深呼吸のことです。
その深呼吸のやり方は鼻から空気を腹部、胸部そして肺尖部まで
充分に吸い、そのまま息を吐き出さずに肩甲骨を下げると自然に
横隔膜が下がるので、肺のすみずみまで空気がしみ通るように
感じられます。
しばらくそのまま呼吸を止めておき、徐々に鼻孔から細く長く
吐き尽くします。それを2~3回反復し、その後は自然の呼吸に
任せます。正しい坐相で無理のない自然の呼吸を続ければ、自然と
気海丹田に気が充実します。その息を数えてゆき、次第に心を調える
方法を数息観といいます。
オミクロン株の急拡大によって、27日から道内は蔓延防止措置が
適用されました。新型コロナが発生してから2年、静坐会参加者は
著しく減少してきました。本日のあいの里静坐会も蔵燈居士と小生
の二人でした。こういう不安な時期だからこそ、自宅で坐禅をし、
本来の自分を取り戻してください。次回のあいの里静坐会は2月12日
(土)午前9時からです。場所はあいの里教育大駅隣のあいの里地区
センター和室です。感染対策に十分留意しておりますので、
宜しければ、ご参加ください。
千葉 金風記
を以てし、衆人(普通の人)の息は、喉を以てする)という
言葉があります。これは白隠禅師の「夜船閑話―やせんかんな」
にも引用されています。
普通の生活でも立っているということが非常に多いわけです
が、坐禅の道場でも立っている時は、そういう呼吸をすると
良いようです。
坐禅の時は全身から下腹に吸い込んで、
ずーっと肛門を締めて、ずーっと吸い込んで、臍のあたりに
心を置いてずーっと息を吐き出す。ー「摩訶止観」
立っている時は、更にそれを足の裏即ち踵、足心(足の裏の真ん中)
に心を集中して吐く。
そういうことに心掛けると健康に非常に良いようです。
千葉 金風記
昨日、新年互例会が開催されました。昨年は、コロナ禍のため互例会自体が中止でした。今年は、恒例の昼食会&句会は取りやめとなりましたが、とりあえず、老師と会員が一堂に会することができました。
8時半集合。耕尽庵老居士が早朝から暖房を入れ、水道が使えないので、水の入ったバケツやポリ容器を用意しておいて下さいました。老居士は禅堂内のストーブについている室温計を見て、「なかなか温度が上がってこない」と言っていましたが、それでも10度以上はあり、まぁまぁ暖かでした。
9時より老師のご垂示。
初めに、新型コロナや地球温暖化という、地球規模で対処すべき問題について述べられた後、1月3日に行われた本部の新年互例会で総裁が、「担当師家のもとに信をもって結集し、力をつけていっていただきたい。そのためには節目を大事にしていただきたい。」とおっしゃったことにふれ、令和7年の札幌支部75周年に向けて、一歩一歩、歩を進めて行っていただきたい、と話されました。最後に前担当師家で、現在は宇都宮在住の了空庵老師から届いた励ましの葉書を読んで、垂示を締めくくられました。
9時15分より静坐、10時半に参禅。
参禅後、後片付けをして解散いたしました。
芙蓉記
全国的に連日の暴風雪が続いております。
15日早朝、蔵燈居士から電話があり、以前
同居士の友人が同じような暴風雪の日でJR等交通機関
が運休していた時、お子さんをセンター試験会場の
あいの里教育大まで車で送ったところ、車の渋滞で身動く
取れず、結局、歩いて会場まで行ったことがあるそうです。
そのような訳で不要不急の外出は自粛したいとの申し出
がありました。申し出もっともと思いました。
小生も自粛したいと思いましたが、あいの里静坐会の開催日時は
ホームページに掲載されており、誰か来られる可能性があるので
欠席出来ません。結局、静坐会は小生一人でした。
坐禅儀という書物の中に「乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し、
身心一如にして動静(どうじょう)間(へだて)なかるべし」と
いう言葉があります。人間は四六時中、いろいろな事に縛られ、
煩われて、僅かな時間の坐禅もなかなか出来ないものです。
坐禅をしようと心に決めたならば、万事をなげうってという覚悟
が必要という訳です。ところが実際はなかなか困難です。
そういう場合はあいの里静坐会に参加されては如何でしょう。もっとも
荒天の日は勿論無理ですが..。次回のあいの里静坐会は
1月29日(土)午前9時~11時です。初心の方大歓迎です。
(お詫びーこのブログで次回は2月12日と広報しましたが、
1月29日(土)の誤りでした。お詫びして訂正します。)
千葉 金風記
本日は、道場の屋根の雪下ろしをしました。年間行事予定では、23日(日)にすることになっていたのですが、今年は雪が多く、それより前の実施になりました。三連休の中日だったため、すでに予定があり、参加できない会員もいましたが、集まれるメンバーで、2時間弱、汗を流しました。
毎冬、2回ほどの雪下ろしは必須です。
耕尽庵老居士のご家族も応援に来て下さり、有難く思いました。
芙蓉記
上座部仏教の長老スマナサーラ師はこう言います。
生きるとは、複雑なようであって、じつはとても
単純です。歩いたり座ったり、喋ったり、寝たり
起きたり。それ以外、特別なことはありません。
この単純さを認めないことが、苦しみのもと
なのです。
この単純さ以外に、何か人間を背後から支配して
いる「宇宙の神秘」のようなものがあると思うのは、
妄想です。
老いて、体が動かなくなれば苦しい。病気になれば
苦しい。生きること自体苦しい。大切なのは、将来で
はなく、「いま」の行為に充実感と喜びを感じられるか
否かだと。
「いま」の行為に集中する為、坐禅をしましょう。
数息観や随息観をしてもなかなか無心になれません。
人間には「習気―じっけ」というものがあり、自分で
は煩悩を尽くせたとしても、煩悩の残り火が残って
います。無になるとか、無心になろうと思わず、仕様
もない奴だと諦めて坐禅し、数息観をしてみては如何
でしょうか?
千葉 金風記