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石狩座禅道場



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札幌大通公園にて
天台小止観に坐禅中の呼吸についての記述があり、四つの段階―風・喘・気・息―で息(そく)がもっともよいとしてします。
呼吸を乱れている状態から整った状態に整えるものです。
息は「出入綿綿として、存するがごとく亡きがごとくと」と。呼吸の出入が綿綿として、存するがごとくとそういう状態にならなければならないと
いうことです。
最初からそういう理想的な呼吸になることの出来る人は少ない。
そこで三つの方法を説明しております。
その第一「まず心を下に置け」
下というのは左の手の平の上、あるいは臍、丹田。そういうところにズーッと心を下に置く。
その次は、「全身を寛放せよ」 どこかに力が凝ってないようにせよ。力が凝っていたら、それを抜いてしまうようにせよ。
その次は「全身の皮膚の毛口から息を吸うようにせよ」全身の皮膚の毛穴で呼吸をせよと。
そういう呼吸の三法をやっていると段々「出入綿綿として、存するがごとく亡きがごとく」とそういう状態になるという訳です。
それから摩訶止観には「息は臍より出でて還り入って臍にいたる。出入は臍をもって限りとなす」と
臍で息をせよということです。
ズーッ全身から下腹に息を吸い込んで、それを臍のあたりから静かにしっかり吐いていく。
 
たんぽぽの花輪うれしき宴かな 立田幽石(70歳の時の句)
子供達 美女谷温泉に集いて、吾等夫妻の金婚式を祝い呉れる。
摘みて来し山菜料理箸軽ろし 立田幽石
 
千葉 金風 記
 
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深沈厚重の徳を養う

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札幌支部 石狩道場 2020/4/21 21:12

札幌大通公園の開拓記念碑 横にある解説碑 書聖王羲之の書から五文字拾ったそうな
明の時代の哲人呂新吾の著作に呻吟語という書物があり、その中に次のような記述があります。
深沈厚重は是れ第一等の資質磊落豪雄は是れ第二等の資質。聡明才弁は是れ第三等の資質。
 
どっしり深く沈潜して厚み、重みがあるというのはこれは人間としての第一等の資質である。大きな石がごろごろしておるように、線が太くて物事にこだわらず、器量があるというのは、これは第二等の資質である。頭が良くて才があり、弁が立つというのは、これは第三等の資質である。
 
陽明学者安岡正篤氏はこう解説する。
大抵はこの順序を逆に考えて、聡明才弁が一番偉くて、深沈厚重をまるで鈍物のように思う。
聡明才弁の人はとかく鋭角的になり過ぎる。したがって自己を磊落豪雄につくるように修養しなければならないのですけれども、そうするとどうも人間は気負う。だからやっぱり深沈厚重の徳を養うことを第一にしなければならない。
 
麓より咲き登りくる山桜 立田幽石
早蕨や雲ほかほかと立ち昇る 立田幽石
自作農として開拓地に入殖せるも配給とて全くなし。自ら穫りし蕎麦と馬鈴薯を主食とし、野菜のとれる迄は、樹の芽・草の芽を副食とせり。二句。
楤(たら)摘むや谷の鶯頻りなり 立田幽石
 
千葉 金風 記
 
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札幌大通公園の開拓記念碑
于武陵(うぶりょう)の有名な漢詩に「勧酒」があります。
友人との別離に際し、別れの盃をすすめながら作った詩であります。
勸君金屈巵 君に勧む*金屈巵(きんくっし)   *黄金製の酒杯 柄がついておりそれを持って飲む
滿酌不須辭 満酌辞するを須いず
花發多風雨 花発けば風雨多く
人生足別離 人生別離多し
作家井伏鱒二は下記のように意訳し、原典以上の名訳と言われています。
この盃を受けてくれ どうぞ、なみなみつがしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ 「さよなら」だけが人生だ
4月18日は二十四節気で穀雨 歴上は晩春であります。
苗床に うす日さしつつ 穀雨かな 西山 泊雲
伊勢の海の 魚介ゆたかにして 穀雨 長谷川かな女
本読むは 微酔のごとく 穀雨かな 鳥居 おさむ
風眠り 穀雨の音か 夕早し 小倉 緑村
千葉 金風 記
 
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大通公園の聖恩碑 1938年建立 明治・大正・昭和天皇に限りない感謝を込めた
GHQに解体されようとしたが、札幌農学校の英語教師カッターの将来水道施設建設に役立てほしいと遺言で建てられ、米国の資金も含まれ解体を免れた。
 
戦前の教科書では足利尊氏は北朝を立てた逆賊と教え込まれていましたが、なかなかの人物、武家、政治家として傑出したものを持っています。
 
尊氏の師は禅僧夢窓疎石です。夢窓疎石は初め天台、真言を学んだ後に禅に帰し、一山一寧(いっさんいちねい)らに参じた末、高峰顕日の法を嗣ぎました。生前3つの国師号、死後更に四つの国師号を追贈され、七朝の帝師と呼ばれています。
この名僧が「我、尊氏にかなわざるもの三つあり」兜を脱ぐ程の器量人でした。
その第一は「戦場にのぞみて恐怖の色なし」
その第二は「吝(ものおしみ)することなし」
そして第三は「酣宴爛酔(かんえんらんすい)の余といえども、一坐の工夫なければ眠らず」
 
第一の「戦場にのぞみて恐怖の色なし」 どんなに大胆不敵な男でも、初めて戦場に出れば、やはり恐ろしいものです。
尊氏は卒然として、それをやってのけた。これは武将として並々ならぬ資質です。
例えば、舷々相摩す海戦で 敵の砲弾が 炸裂すると 兵はいっせいに大将の顔色を見る。
その時、艦長が微動だにせず、神色自若として敵艦を睨んでおれば、兵は勇を鼓す。
バルチック艦隊と戦った東郷平八郎大将もそうだった由。
 
第二の吝(ものおしみ)しないこともなかなかできない。尊氏は部将に遠慮なく恩賞を与えた。何度か敗れて京を下ったが、九州から再び京に上り、部将は続々と尊氏の傘下に入り
ついに室町に幕府を開いた。
 
第三の「酣宴爛酔(かんえんらんすい)の余といえども、一坐の工夫なければ眠らず」
酣宴爛酔は盛大な宴会を開いて痛飲することです。普通の武将なら、たいていさしつさされつ泥酔することまではたいていやれる。
しかし、その大宴会の後、家に帰ったら、坐禅を組み、工夫をしなければ絶対に寝つかないということです。
これは、なかなか出来ない。小生も会社人間だったので、酒の付き合いをかなりしましたが、
家に帰って坐禅を組むと船を漕いでしまって坐禅をしているのか、坐ったまま寝ているのかわからないということがよくありました。
 
4月13日は啄木忌
鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
みすぼらしげに歩むものかも 石川啄木
 
千葉 金風 記
 
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呼吸は二種に大別されて、第一は脳幹といって大脳に覆われるように位置し、生命の直接維持に必要な中枢が集まっている場所ですが、そこにある呼吸中枢によって自律的に営んでいる自然呼吸であり、睡眠中の呼吸がそのよい例である。第二は、人間が進化して生じた大脳の皮質中枢を始め上位中枢によって統御された呼吸であり、数息観をしながらの坐禅の呼吸は、上位中枢によって統御された呼吸である。併し数息観に習熟すると上位中枢によって統御していることも忘じた状態となり心身の高度の安定が得られる訳です。
 坐禅中の酸素消費量は睡眠中より少なく、炭酸ガスの発生量は身体を安静にしている時より少ないということである。又静坐中の新陳代謝率は我々が生きて行く為ひ必要な最低基準の基礎代謝率よりも、20%低いという実験成績がある。以上の如く、坐禅時の呼吸循環系統は、とくに心身の乱れた時に比べ、一段と良好な動的平衡状態にあることは明瞭である。
 磨甎庵老漢も『坐禅和讃新講』の中に引用して【坐禅三昧の時には、その心の状態は、一方では熟睡時のように全く安静で雑音に乱されることがない。ところが他方、一度外から刺激が与えられると、まことに鋭敏に反応してとぎすまされ、ゆきとどいた神経がピリピリと働いている。前者だけだと無反応の鈍感になり下がり、後者だけだと神経衰弱になる。この相反する二面が共在して見事に調和している。つまり寂然不動と大機大用は一であって別物ではないのである】と書かれている。
 つまり睡眠時とも覚醒時とも異なった脳波、α波の出現を見、動的平衡状態を呈する。
 
 
満開の 花の中なる 虚子忌かな 秋元不死男
虚子忌たり 椿に鵯(ひよ)の よく来る日 石田波郷
墓前うらら 弟子等高声 虚子忌かな 山口青邨
4月8日は俳人高浜虚子の忌日。椿を愛したところから椿寿忌ともいう。
千葉 金風 記
 
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蠢蠢(しゅんしゅん)と市電近づく のどけしよ 八條凜子
縁に坐すや 落花一片  膝の上 立田幽石(耕雲庵老師72歳の句)
牡丹花は 咲き定まりて 静かなり 花の占めたる 位置のたしかさ 木下利玄
牡丹の麗麗しくもその存在のたしかさをうたった。牡丹花は無言 作者も無言 作者は
牡丹の圧倒的な存在感に言葉を失い ただ そこにいるだけ。
坐禅もこのようでありたい。
 

第一、   数息観を訓練すること、これは容易なようで難しい訳です。なかなか境涯が上がらないと三昧になれない。耕雲庵立田英山老師の名著『数息観のすすめ』を読むことが大切です。この本は極めて小さな本であるが、熊本支部が泰勝寺で摂心をやっていた時代ですから今から10数年も前(昭和35年頃)、老漢は講座で少しニヤッとして(私にはそう感じた)“あの本は識大級の者の為に書いたのだ・・・”と言われたことを、ホウそういうもんかと不思議な気持ちで聞いたものですが、今は紙背に透徹する親爺の眼光の鋭さと、法愛の深さに頭が下がる思いです。
第二に、公案を頂いてから、公案三昧にならないといけないのであるが、色々と問題はある。父母未生以前本来の面目如何という公案に対する解答のようなものが、どうしようもなく出てくるから室内に持っていき、全部否定されてしまう。一摂心二摂心、三摂心永い時は数年かかって漸くゆきづまることになる。
 親爺は室内で“布団上で死んで来い!!”と突っ返す。どうしようもなく、苦しくて苦しくて仕方がない。ここが正に、百尺の竿頭を上りつめたところである。ここで大死一番、ガーッと突っ込まねばならないのであるが、そこが出来ない。師家に許されない、つまり、見性出来ないのは、一寸覗こうとして、つまり悟りの一歩前で引っ返してしまう訳です。
摂心ごと或いは一摂心に何回かこの状態になっている。勿論、見性の遅速が、最終的な境涯と関連がある訳は毛頭ないのであるが、兎に角、第一関門は透過して師家に許されねば、どうしようもないない。あんまり焦ると却って悪い場合があり、苦しい時は暫く数息観に戻ることも必要である。
 
千葉 金風 記
 

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市電のはるか向こうに手稲山系が垣間見える
閑庭や 花散る音の まぎれなく 立田幽石(耕雲庵立田英山老師の俳号)
詞書に細川家別邸には老杉古樟の茂れる庭園あり。余は自然の庭を最も愛す。
風凪いで なほ散る花の 夕べかな 立田幽石
 
青嶂庵荒木古幹老師は帰寂されてもう10年位になると思いますが、熊本県宇土市で内藤病院という精神科の病院を経営していたお医者さんでした。
昭和50年5月「人間禅」に下記のような記述があります。
親爺(耕雲庵立田英山老師)がよく頭で考えるなということをいいます。

頭で考えないでどうするのだろうと思い勝ちですが、元来は頭で考えていると思っていること自体が錯覚なのです。
これはもう、誰もが陥っている錯覚であります。意識上に上った観念を頭部に浮かんでいると認識することは、生理的に不可能なのです。頭蓋骨の中には、確かに大脳があり、大脳がなければ認識したり考えたりすることは出来ないし、意識も生じません。併し脳はあくまで器官であります。
 感覚中枢というのが脳の中にあり、その中枢左手の痛みを感ずる部分を刺激すると、左手がピリッと痛むのであり、脳に痛みを感ずることはない。又、左手の運動を司る中枢を刺激すると、左手が動くのであり、脳が動くわけではない。
 同じように観念とか考えそのものも脳の作用によって生じるが、その結果意識に上る場所は形而上であった、脳の中とか頭部とか指定し、認識することは、動物としての人間には不可能なのです。形而上のことであって、臍下丹田でもいいし、足の裏でもいいわけです。
 数息観をやる時に、息を数える意識を、頭部に集中させてする人は誰もいないでしょう。
英山老大師が講座の中で、佐々木指月というアメリカで布教しておられた方はよく“足の裏で考えよ”と言っていたということを聞きましたが、決して不合理なことでなく、極端に言えば、大地で考えよといってもよいし、前方の山で考えよといってもいいわけです。
 
千葉 金風 記
 

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すっかり春の装いの札幌駅前通り
石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 
萌え出づる 春になりにけるかも 志貴皇子
東京荻窪支部中川香水支部長より支部設立を記念して名誉総裁の近著を札幌支部に寄贈しますとのことでつい先日郵送されました。
その中で公案修行について下記のように申されております。

公案修行というのは、公案の数を多く見るというのが目的ではなく、公案を手掛かりにしてちっぽけな自分という殻を破り、自意識で濁った眼の鱗を落とす為の修行です。
公案は全て非常識なもので頭頂葉(知性、左脳)では理解しがたいものです。この公案に対する真正な見解は知識の引き出しをいくらかき回してもそこにはありません。
公案に込められた宗旨や境涯に公案三昧になって近づいてゆき、公案と一体になれば自然と見解は見えてくるものです。
これは全て絶対樹の場で行われることであり、公案の宗旨も境涯も前頭葉(感性、右脳)で悟るのです。
 公案修行は透過が目的ではなく、どう公案を透過するかというプロセスが大切であり、このプロセスを真摯に修行することで人間形成が進むのです。即ち この公案を透過のプロセスに於いて前頭葉が活性になり道眼(胆識)が開かれていくのです。
 見性(悟ること)した後の大切なことを申しておきます。見性が許されて道号が授与されて1年位の時間が公案修行で最も危ない時期です。参禅した室内で師家が初関を許した時は紛れもなく三昧に入り前頭葉で悟っているのですが、摂心会が終わって家に帰って日常生活に戻った日から三昧は急激に落ちていき、前頭葉で悟った本来の面目の感性の境地はみるみる薄れてしまい、それは頭頂葉の知性の記憶に移行してしまいます。
 そうすると見性の感激も納得も夢から覚めたように消えて行き、取戻しを再現することが難しくなります。
また そこまでいかない人でも数ケ月後の次の摂心会が始まっても前の摂心会の見性直前の三昧の境地までなかなか戻りにくいことになり、次に師家から授与された公案大変苦労することになります。
 こうなる理由は公案修行に入る前の道力(胆力)が未だ貧弱であるということが第一の原因であり、第二原因としては摂心会後の生活の中での一日一炷香が精彩を欠いていることです。
 私は見性した時にまた道号を授与した時に、一日一炷香で本来の面目を毎日呼び起こすようと強く指導しているのですが、なかなか難しいようです。
千葉 金風 記
 

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僕の名はニャンタです。石狩道場の隣の六川農場のネコ一家の一匹です。
恋猫の 恋する猫で 押し通す 永田耕衣


日本人初のヨガ直伝者となった中村天風師に次のような話があります。


中村天風師は明治35年参謀本部諜報部員として旧満州に派遣され、日露戦争下めざましい活躍をします。


帰国後、奔馬性肺結核にかかり、救いの道を求め欧米の高名な学者等を巡るも回復せず、日本に帰り、死を覚悟しましたが、ヨガの聖者カリアッパ師に奇遇し、師から「おまえはやるだけのことはやったといったが、たった一つの大事なことに気づいていない。それがわかればお前は助かるのだよ。だから、俺について来い」と言われ、素直について行った。


師と会ったのはカイロでそこからヒマラヤまで約3ケ月かかった。
到着して いつ教えてくれるか、期待して待っていたが、一向に教えてくれない。


痺れを切らして2ケ月後、とうとう、カリアッパ師に直訴しました。
師曰く「私はここへ着いた翌日から教えたいと準備が出来ていた。」
天風師曰く「えっ 私は着いた翌日から、教わりたい準備が出来ていました。」
師曰く「準備が出来ていたのは私だけで、この男、いったい いつになったら本当に教わる気になるのかなと、催促しようと思っていたところなのだ」
天風師はカリアッパ師に準備は出来ているのに、何故、教えてくれないのか詰め寄り問答を繰り返す。


とうとう、カリアッパ師は天風師に何故、準備が出来ていないか説明するので、そこの大きな丼のようなカップに水を灌げと言いました。
天風師は言われた通りします。
カリアッパ師はこんどはお湯をいっぱい持って来いと命じます。
そして、そのお湯を水がいっぱい入っているカップに注げと命じます。
そこで、天風師は癪に障り、「いっぱい入っている水にお湯を注ぐと両方ともこぼれます。
この国ではどういうふうに考えているのかわかりませんが、文明国ではそれくらいのことは皆知ってます」と答えた。
カリアッパ師「それがわかれば、さっき私が言った意味がわかる筈だ」天風師は憤然とわからないと答え、理由を問うた。
「聞かせよう。私が毎日毎日、お前を連れて来た翌日からでも教えたいと思って、お前の顔をじっと見ていると、お前の頭の中はな、私がどんないいことを言っても、そいつをみなこぼしてしまう。いつになったら、この水を空けて来るかな。いっこうに空ける気配がない。
お前の頭の中はいままでの役に立たない屁理屈がいっぱい詰まっている以上、いくら私が尊いことを言っても、それをお前は無条件に受け入れない。そんな愚かなことは私はしない。」こう言われて、心の底から「ああ そうか」と思った。
その顔を見たカリアッパ師は「よし、わかったようだな。今夜から私のところに来なさい。生まれたての赤ん坊のようになって来なさい」と言われた。
 
千葉 金風記

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曹洞宗の経行について

カテゴリ : 
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執筆 : 
札幌支部 石狩道場 2020/3/25 5:48


石狩道場より手稲山方面を望む 残雪あるがすっかり春の気配
筆取りて むかへば山の 笑ひけり 蓼太
 


2.曹洞宗の経行について


曹洞宗の大徳 澤木興道老師に経行に関して興道老師自伝に興味ある話があります。


澤木興道老師がまだお若い頃で経行の仕方がどうもわからなかった。その頃、同じく曹洞宗の大徳として有名だった西有穆山禅師はもはや90歳晩年でほどなく遷化された。


西有門下隋一の丘宗潭老師に随身(教えを乞う為、膝下で修行すること)したいと思っていた。


大正2年(興道老師34歳)奈良県吉野郡下北山正法寺にて丘宗潭老師が「正法眼蔵弁道話」「三物秘弁」の提唱されるということを『宗報』で知り、矢も楯もたまらず、松坂(その頃興道老師は三重県松坂)を飛び出した。


そこで早速、経行の仕方について丘老師に尋ねたら、老師自ら歩いて実際に教えてくれた。


経行というのは、坐禅が長くなって疲れた時、眠くて容易に目が覚めぬ時、坐より静かに起って静かに呼吸を合わせ、歩幅は一呼吸に半歩の割で進むのである。これは『寶慶記』に一息半と簡単に説明してあるのみで、どういうふうに足を運んだらいいものか、図解して説明したものがないので、いろいろの流儀で行われていて、どれがよいのかわからなかった。


この時教えられた丘老師流の経行を、儂はなんといっても天下の丘老師の直伝であるので、自信をもって、自分もやり、他人にも教えていた。


この経行は最初の一呼吸に、先ず右足を半歩出し、次の一呼吸に左足を半歩進めて右足に揃える、そしてこの動作を繰り返すのである。


ずっと、後になって 別府長松寺の臘八参禅会に行って、経行軌のことに触れて例の丘老師流の経行をやってみせた。


その翌朝、朝参の時 長松寺の堂道和尚、古城石雲老師が自らお茶を持ってきながら


ヘッヘッヘッ、経行にも…いろいろ流儀がございまして…なんぞ図にでも、はっきり書いたものがあるといいのですが…。


儂は若い時からこれには相当に苦労したものでして…越後の是三和尚から『一息半歩、歩の量はに等し、鵞歩の如し』と習いましたでございます。」


「儂は昔それで 鵞鳥はいったいどういう歩き方をするか、半日の間、見ておりましてな、右足を先に出し、左足をあとから出して、それに揃えて歩くというようなことは、


していなかったように思いましたが」


そこまで来たら、とうとう、儂も兜を脱がざるを得なくなってしまった。


道元禅師の『寶慶記』には如浄禅師が「歩する時すべからず、一息半趺の法を行ずべし、歩を移すこと半趺の量を過ぎず、足を移す必ず一息のあいだなることを謂う。」と言っておられます。


『鵞歩の如し』というのは鵞鳥は水鳥の特長として、脚が極度に短くて、その割に足は水掻きに便利なように非常に大きい。そのうえ、身体があまりに重いので、歩行は不器用で大股には歩けない。自然に小足でよちよち歩きしかできない。したがって、その深意は極めて子足で歩くという比喩である。


趺というのは足の甲のことであります。歩幅は一呼吸の間に半歩の割合で進むのであります。一呼吸は吸って吐くことであります。


経行軌の正解は先ず右足を最初の一息で半趺だけ踏み出し、次の一息で左足を一趺前進させる。更に次の一息で右足を一趺前進させる、この動作を繰り返して緩やかに進めばよいのであります。


実際に曹洞宗の僧堂、寺院で坐禅を経験されるとわかりますが、歩は極めてゆっくり、静止しているように見えます。
 
千葉 金風記

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