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ブログ - 禅の御伽噺(おとぎばなし)熱罵嗔拳(ねつばしんけん)

禅の御伽噺(おとぎばなし)熱罵嗔拳(ねつばしんけん)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
札幌支部 石狩道場 2020/2/7 10:44

札幌雪祭りの雪像

世間では臨済の独参を室内で訳のわからない禅問答をするという位に思っています。

ワイドショーで喝を入れるコーナーがありますが、禅と言えば 喝と言われたりすることを空想します。 

吾人間禅で参禅したこともある居士が、師家の熱罵を大いに誤解して、情緒不安定、癇癪持ちだと評したのには何とも閉口し、この方に何と説明したらよいか思案した経験があります。

この熱罵嗔拳も現代ではもう御伽噺になるのでしょう。

世界の禅者として有名な鈴木大拙氏が洪川禅師の刻苦参究、辛酸苦修の逸話として、次のように述べられております。

 

ある時、洪川禅師が大拙和尚の仏光録(仏光国師―円覚寺開山無学祖元の語録)の講座を聴聞していた時、国師が幼時、父に連れられて、山寺に遊びに行った時 僧が「竹影堦を掃うて塵動ぜず、月潭底を穿って水に痕なし」と漢詩を朗々と吟ずるのを聞いて何か心に思い当たるものを覚えたということを述べられた。

洪川禅師もその講座でその詩を聞いて、忽ち、肺腑に徹し 洞然として胸中に滞っているものが解けていくような気がしました。

和尚の提唱が済んでから、その室内にはいって見解を呈せんとしたら、和尚は怒り罵った上に洪川禅師を打ちのめした。それからというもの、参禅の度に同一の扱いを受けたと言います。

ここのところは「師即ち洪川禅師亦自ら鞭逼(べんひつ)精励、刻苦一日一日よりも甚だし。晨参暮叩(しんさんぼこう)頭燃救う(はらう)が如し」。と

朝晩二回の参禅に向けて、あたかも頭についた火を必死で消そうとするように真剣に公案を工夫したのであります。

そして、拙大拙和尚も「依然として棒喝を捨てず。苟も師の面を見れば、忽ち憤怒を発する事、恰も讐敵の如し」

洪川禅師に対する大拙和尚も棒喝を捨てず、まるで、親の仇にでもあったように憤怒の表情で大いに鍛え抜かれたのであります。

師家の側から見て、熱罵嗔拳は実は慈悲の涙の結晶なのであります。この慈がなかったら、弱り切っている弟子の上に嗔拳を加えることは出来ません。ことに弟子が何かの薄明かりに逢着したという時には、決してこの手段に隙を見せてはいけません。

 

(**せずんば啓せず、悱せずんば発せずといいますが、憤とか悱とかは実は分別意識の底を破る鉄槌、即ち有効な手段なのであります。

 

(**)参考

論語述而編 子曰く、憤せずんば啓せず 悱せずんば発せず。    

          一隅を挙ぐるに三隅を以って反せずんば、即ち復(ふたた)びせず

通釈宇野哲人氏 

人が教えるには、教えを受ける人に教えを受けるだけの素地が出来たのを見て、教えを施すべきものである。もし、ある事を研究して、これを知ろうと求めてもまだよく知ることが出来ないで煩悶しているのを見なければ、その意を開いて知ることの出来るようにしてやらない。

 もし口に言い表そうとしても、言い表すことが出来ないでいるのを見なければ、十分に言い表す事の出来るようにしてやらない。物の道理は類推することの出来るものである。

ちょうど四隅(よすみ)あるものなら 一隅(ひとすみ)を挙げて示せば、他の三隅(みすみ)を知ることが出来るようなものである。もし一隅(ひとすみ)の道理を示しても自ら三隅(みすみ)の道理を考えて語ることができないような者なら、まだ教えを受ける素地がないので、告げても効がないから、再び告げることはしない。

解説宇野哲人氏

この章は学者の自ら勉めて教えを受ける素地をつくることを欲したのである。

憤と悱とは誠意が顔色や言辞(ことば)にあらわれたのである。その誠の至るのを待って後これを告げるのである。既にこれを告げれば、必ずその自得するのを待ってまた告げるのである。

 

憤とかとかはもとより我執とか吾我とかの一念から噴出する心理状態でありますが、これが逆に我執とか吾我を破るところのものになるのであります。

これを単に分別智といってもよいのですが、打(た)たかれる、それに応じて起つものがあります。これが分別界の常事でこの「応じて起つ」ものがないと霊性の自覚(無相の自己、本来の面目)は成り立ちません。

憤悱は一種の非常心理態でありますが、これがないと「応じて起つもの」の根底、源底に見徹できません。禅者は巧みにこの心理を活用して、有用な人材を育て上げるのであります。

非常心理態の爆発ということは、人間が仕事をやる上に大切な意義を持つものであります。

よって、禅者の悪罵には大慈悲がこもっているのであります。
 
千葉 金風記

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