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ブログ - 仲秋の日曜座禅会

仲秋の日曜座禅会

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
札幌支部 石狩道場 2017/9/24 21:40
昨夜石狩地方はひどい雷でした。稲が実るこの時期は稲妻とか稲光と言った方がふさわしかもしれません。
 

いなびかり北よりすれば北をみる     橋本多佳子
 
いつも稲光を見ると、この俳句を思い出します。そういえば、橋本多佳子も人間禅で禅の修行をしたことがあり、梅香という道号を貰っています。
 
さて、今日は一転して気持ちの良い秋晴れ。禅堂で窓を開けて坐っていると、啄木鳥が鳴いているのがよく聞こえました。今日の参加者は初めて来られたMさんとTさんを含めて11名でした。直日、助警、聖司も揃うと、やはり座禅会らしい雰囲気になり、気が引き締まります。
 
輪読は「座禅の効用」(その15)「禅の功徳は求めるものではない」(蛇足)でした。これについて、磨甎庵劫石老師著『槐安国語抄講話』第三十則「大随問僧」が引用されています。素晴らしい内容なので、引用文をそのまま以下に記載します。
 
 「修行をしている学人を見ていると、公案は透過し、見地は拓けてくるが、人間としての香りや徳が身につかず、その人柄が人を惹きつけることがなく、専ら禅学になっている者と、そんなに旧参ではないが、隠徳を積んで、その日常の言行の行持が篤く、他に親切で、自然と人から慕われる者とがある。
 何処にその相違があるかといえば、結局は、その修行の原点となっている道心の純・不純と打ちこみの実・不実の違いにあるといってよい。
 自分一己の得力を求め、勢誉に傾斜する者と、仏の誓願を純一に護持し、行道に打ち込む者との違いといってよい。こればかりは隠すことができない。自らを欺くことができないからである。
 禅の修行というものは、どんな動機から入っても悪いことはない。神経衰弱を治したい、意志を強くしたい、集中力をつけたい、自分を取り戻したい、自分が一番緊要としている目的のために入って差し支えない。
 しかし本格の祖師禅の修行は、そのような他のためにする行ではない。行それ自身が目的である、無上道の行修である。
 それは、人間としてこの世に生を享けたこと、そのことの本旨を明らかにし、生きることの大眼目を明らかにする見性悟道を目指すものである。
 見性とは、自己の本性を如実に見ることである。それによってこそ、真実に人間として生きることの尊さ、有難さがつくづくと噛みしめられる。
 自分というものが本来仏であることが証得されるからである。仏の三身四智が開示されて、仏の慈悲と智慧と戒律の心が自ずと現れ、そして四弘誓願が生々世々と転じられてゆく。
 故に、修行というものは、あくまでも道のためにして、己の一身の名利勢誉のためにしてはならない。そうでないと、その辱さが骨身に沁みて分からず、徳というものが身につかないのである。
 これは畏るべきことで、隠すことができない。」
 
輪読の後、お釈迦様は何故出家したのかという疑問が提示されたり、生きる目的は何かと生徒に突然問われたことがあるがどう答えるかという話になったりして、内容の濃い茶話会となりました。
 
「座禅の効用」の輪読は今週で終わりましたので、来週からは立田英山著『数息観のすすめ』を輪読します。どうぞ、楽しみにしていてください!
 
珠玉 記

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