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ブログ - 座禅の効用(その15)「禅の功徳は求めるものではない」

座禅の効用(その15)「禅の功徳は求めるものではない」

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
札幌支部 石狩道場 2017/5/12 9:00

(その15)「禅の功徳は求めるものではない」(蛇足) 丸川春潭

 
 「人間形成の禅」~その効用と効果~、と題して、人間禅八王子支部のHPにブログを13回にわたって投稿し、それを見たS居士の要請によって一連の読み物に書き直しましたが、やはりどうしても最初に書き出しにある「禅の無功徳!」の根拠と、人間形成の禅の修行の位置づけを付け加えておかねばと思い、蛇足を更に付けました。
 
 人間禅の第三世総裁磨甎庵劫石老師の不朽の名著『槐安国語抄講話』の一節を以下に引用致します。
 
 「修行をしている学人を見ていると、公案は透過し、見地は拓けてくるが、人間としての香りや徳が身につかず、その人柄が人を惹きつけることがなく、専ら禅学になっている者と、そんなに旧参ではないが、隠徳を積んで、その日常の言行の行持が篤く、他に親切で、自然と人から慕われる者とがある。
 何処にその相違があるかといえば、結局は、その修行の原点となっている道心の純・不純と打ちこみの実・不実の違いにあるといってよい。
 自分一己の得力を求め、勢誉に傾斜する者と、仏の誓願を純一に護持し、行道に打ち込む者との違いといってよい。こればかりは隠すことができない。自らを欺くことができないからである。
 禅の修行というものは、どんな動機から入っても悪いことはない。神経衰弱を治したい、意志を強くしたい、集中力をつけたい、自分を取り戻したい、自分が一番緊要としている目的のために入って差し支えない。
 しかし本格の祖師禅の修行は、そのような他のためにする行ではない。行それ自身が目的である、無上道の行修である。
 それは、人間としてこの世に生を享けたこと、そのことの本旨を明らかにし、生きることの大眼目を明らかにする見性悟道を目指すものである。
 見性とは、自己の本性を如実に見ることである。それによってこそ、真実に人間として生きることの尊さ、有難さがつくづくと噛みしめられる。
 自分というものが本来仏であることが証得されるからである。仏の三身四智が開示されて、仏の慈悲と智慧と戒律の心が自ずと現れ、そして四弘誓願が生々世々と転じられてゆく。
 故に、修行というものは、あくまでも道のためにして、己の一身の名利勢誉のためにしてはならない。そうでないと、その辱さが骨身に沁みて分からず、徳というものが身につかないのである。
 これは畏るべきことで、隠すことができない。」
  槐安国語抄講話 磨甎庵劫石老師著 第三十則「大随問僧」よりの抜粋
 

これは 「参学の功、自ら其の充ることを知らざれども、自ら四体に溢る矣」に対する講釈ですが、実に味わい深い一文です。

人間形成の禅の進むべき方向を明確に示されており、われわれ在家禅者の日常における規範であると思い、30年前から茨城支部の亀鑑にしています。

 

この中で、禅の功徳の位置づけが明確に示されていると思います。すなわち、
「禅の修行というものは、どんな動機から入っても悪いことはない。神経衰弱を治したい、意志を強くしたい、集中力をつけたい、自分を取り戻したい、自分が一番緊要としている目的のために入って差し支えない。」と、自分のための功徳を求めて禅を始めるのは結構であるとされています。十人が十人と云っても良いくらいそうでしょう。小生も十人の中だったと思います。
 
 しかし禅をやり出し、深く入れば入るほど、当初目的にしていた功徳が何と小さな目的であったかと恥ずかしくなるほど、禅には大きな功徳があることに気づかされるのです。

功徳があるとかないとかと云うことではなく、功徳を超えたものと云いましょうか、この槐安国語の文章の中にある「名利勢誉」を超えた次元の違う大事なものが禅にはあると云うことに気づくのです。
 
 しかし深く禅に入れば入るほど功徳から離れると云うことではない。むしろ人間形成の禅が深まれば深まるほど、(その1)~(その13)までに書いた功徳は強く大きくなります。そして未だ禅に縁の無い方には、その素晴らしさを回向したいと自然に想うようになってくるのです。
 

ただ、人間形成の禅を究めてゆく動機が、功徳を求めてやるということではなく、強いて云えば道そのものを求めるということになるのです。

つまり功徳は、道の修行の後から自然に付いて来るのです。それを求めなくても付いて来ると云うことであり、何かのためにするのは本当の禅の修行ではないということです。

また大なり小なり誰でも功徳を求めて禅の修行に入ってくるのですが、想定もしなかった予見の出来ない異次元の功徳に出くわし、当に先人の例えようもない凄い法乳を頂くということになるのです。

 
鴻恩は尽きること無しを、しみじみ噛みしめ、燓香 九拝するのみです。合掌
 
(掲載責任:珠玉)

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