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ブログ - 社会人禅者の基本生活について(1)

社会人禅者の基本生活について(1)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
niigata 2018/2/12 12:53

 これから数回に分けて芳賀洞然老師(元東京教育大教授 芳賀幸四郎氏)の「禅者の生活」をご紹介します。一般社会人の修行について学びたいと思います。【『人間禅』誌(現在の『禅』誌)より】(門)

 

  ***** 禅者の生活<上> *****(転載等はご遠慮ください)*****

 坐ることを離れて禅はない坐るとい(ぎょう)をともなわい禅は邪禅ではあっでも坐禅ではな。坐らない禅者はうたわない詩人にもましてナンセンスである

「行」は修行のことで、主に実際の行いを指す。「禅者」は禅の修行者のこと。あるいはそれに相当する人。

1.電車や町の中でも

 毎日必ず線香一本、約四十五分坐禅する。一日一(ちゅう)香、これが禅者の生活の基本である。しかし、これは口でいうのはやさしいが、寒際にやってみると、まことに難中の難である。仕事がいそがしいといってはやめ、風邪気味だといってはなまけ、なんのかんのと、もっともらしい理由をつけで、ついサボりがちなものである。これではいかんと発憤して坐るが、またじき三日坊主になってしまう。しかし、これでは禅者の生活とはいえない。ほんとうの禅者ではない。

「炷」は香のひとくゆりで線香を数える単位。「一炷香」は線香一本の意。

 たしかに、別に本務をもっている在家の私たちの場合は、一日に線香一本坐ることは、なかなか容易ではない。それについて思いだされるのは、恩師立田英山老師が自らの体験にもとづいて、「どうしても一本坐れないと時は、半分に折って坐るがよい。それでも一本だよ」と、いわれた言葉である。詭弁(きべん)のようだが、さすがは達人の言である。これなら、ともかくも休まず続けることができる。こうして半月も休まず続ければ、毎日坐るのが、いつか顔を洗うのと同じように、習慣になってしまう。ここまでくれば、しめたものである。なお。坐るのは朝がもっともよいが、夜でも昼でもかまわない。いつ坐っても一日一炷香に変わりはない。

 しかし、静かな所で香をたいて坐禅する、いわゆる静中(せいちゅう)工夫(くふう)だけが禅の修行ではない。昔から「動中(どうちゅう)の工夫は静中の工夫にまさること万々」ともいわれている。動中の工夫は「行も亦禅、坐も亦禅」という言葉のとおり、歩きながらでも電車の人ごみの中でも、正念の相続をたやさぬことである。バスや電車のなかは、かえって正念の相続によいものである。そんなことをやっていたら、スリにやられると思うかも知れんが、本当に正念の相続ができていたら、スリのつけいるすきなどあるはずはない。線香一本坐って、さらにこの動中の工夫をやったら、坐禅の目標である三昧力(ざんまいりょく)のつくことは、受けあいである。

「工夫」とは心の修養を図ること。修行に専念すること。 「静中・動中」の静中は動かないで行うこと、動中は体を動かして行うこと。坐禅は静中の工夫、歩きながらの数息観は動中の工夫となる。()()も動中の工夫。 ※「正念」は雑念に対する語。今取り組んでいる時の念慮のこと。

 こうして三昧力を養って、何をやるにもそれに全力を集中する、いわゆる一行(いちぎょう)三昧を行ずるのが、禅者の生き方である。読書の時は読書三昧、仕事の時は仕事三昧、遊ぶ時は遊び三昧……これが禅者の生き方である。

       「三昧」は自分を失わずしっかり物事に没頭すること。

(つづく)

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