先日style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>2/14(
style='font-family:SimSun'>木
)style='font-family:SimSun'>に宝厳寺
(style='font-family:SimSun'>大阪市東成区神路
3-17-8,新深江駅,下図一参照 style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>)
style='font-family:SimSun'>で,
今里静座会style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>(style='font-family:SimSun'>宝厳寺の部style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>)style='font-family:SimSun'>が開催されました。内訳は
style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>(
style='font-family:SimSun'>第一部
)style='font-family:SimSun'>第
195style='font-family:SimSun'>回今里静座会
(宝厳寺の部 style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>) (18:30~20:00)
style='font-family:SimSun'>と,
(style='font-family:SimSun'>第二部
)style='font-family:SimSun'>第
39style='font-family:SimSun'>回「大阪で夜一番遅い座禅会」
style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>(
style='font-family:SimSun'>宝厳寺の部
) (20:30~22:00)となっていまして,第一部はT氏style='font-family:"MS 明朝",serif'>・
Kstyle='font-family:SimSun'>さん
・style='font-family:"MS 明朝",serif'>Y居士
・style='font-family:SimSun'>鶴井随心さん
・style='font-family:SimSun'>坂本法燈が出席し、第二部は鶴井随心さん
・坂本法燈が出席しました。 第一style='font-family:"MS 明朝",serif'>・
二部とも,最初に般若心経を唱えて, style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>30
style='font-family:SimSun'>分間の座禅を
2回座りました。その後,第一部は,人間禅師家一宇庵小野円照老師著「禅入門」 style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>(style='font-family:SimSun'>愚かな男の話190~ style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>193lang=ZH-CN style='font-family:SimSun'>頁style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>)style='font-family:SimSun'>を輪読しました。輪読内容は,style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>①style='font-family:SimSun'>一人の若い僧が修行に励みながらも色欲を制しきれないために日頃悩んだ末に,男根を断ち切らぬ以上立派な僧になれないと決意し,ある日鋭利な斧を借りてきて自分の男根をあわや切り落そうとしたとき,釈迦が来られ男の愚かさをたしなめて,仏の知恵を得ないためにお前はそんな馬鹿なことをする,そのようにして自らを傷つけるならば長く苦しむことであろうと諭され,転迷開悟とは愚かな振る舞いによって欲を断つものではないことを教えられた(愚かな男の物語style='font-family:"MS 明朝",serif'>・法句比喩経), style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>②style='font-family:SimSun'>晩年のトルストイの崇高な求道心を慕って各地から巡礼者が集ってきた中に,一人の風変わりな老人(かつて巨万の富を蓄えた商人だったが,富は他人の財産を収奪して作られる不正なものであることに気づき,全財産を貧者に与えて自活しながら style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>30style='font-family:SimSun'>年余り各地を遍歴している人物であり,ボロをまとい手製のパンをこねて常食とし,水だけを飲んでいた style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>(style='font-family:SimSun'>牛乳は牛に対して相すまないstyle='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>)style='font-family:SimSun'>)がいて,トルストイが見かねて茶を出すと,茶を飲むとstyle='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>(style='font-family:SimSun'>中国人は良い土地を茶の栽培で占領され麦を撒けないのでstyle='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>)style='font-family:SimSun'>中国人からパンを奪うことになるといって固辞したstyle='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>(style='font-family:SimSun'>パンだけは人間の弱さに妥協していると言ったstyle='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>)style='font-family:SimSun'>という実話がある。この老人は神の国を非常に窮屈に考え,自己の欲望を断ち切る消極的な行為を他への憐みと取り違えている,style='font-family:SimSun'>といったものでした。
そしてこれに関連して, style='font-family:"ÿ2dÿ33 0b40b70c30af",serif'>①> 人間は,食慾style='font-family:"MS 明朝",serif'>・性欲style='font-family:"MS 明朝",serif'>・睡眠欲などの欲望がなくなっては,生命を維持することもできず,完全に欲望を断ち切ることは不可能であり,それは人間であることを否定することになるのであって,大切なのは,自分の欲望や心を,自分で自由自在に自然のままに,使いこなせるようになることであり style='font-family:"Century",serif'>(心の欲する所に従えども矩を踰えず)style='font-family:SimSun'>,それができれば,煩悩即菩提となるであろう。②大乗仏教では,人が自己の本心本性を尋ね行きこれを徹見し体得すると,全ての自他の畔が消滅して自他不二となってしまい,自己も貴方もさらには宇宙の万物>(尽一切)style='font-family:SimSun'>も全てが本来ひとつの仏であり,煩悩や欲望を持ったこの身このままで,すべての衆生が仏であるという悟りに至るといわれます。「善人なおもて往生をとぐいはんや悪人をや」>(親鸞)style='font-family:SimSun'>ともいわれ,欲望(style='font-family:SimSun'>泥)style='font-family:SimSun'>も大きければ大きいほどでき上がる喜び(style='font-family:SimSun'>仏)style='font-family:SimSun'>も大きいともいわれるところであります。③理屈をいうと,禅や大乗仏教においては色即是空はそのまま直ちに空即是色なのであって>(般若心経>),この境涯に徹すれば,娑婆即寂光浄土と観て,菩薩の遊戯三昧を行じることができるようになるであろう。そして,禅のような自力宗>(自己の裡に無限絶対のものを見出し自己を絶対者にまで育て上げる>)と,浄土宗のような他力宗>(自己に絶望し自己を棄て切って自己以外の絶対者にすがる>)とは究極において一致する,なぜならば,自他不二に徹すれば,絶対者である自己と自己以外の絶対者は同一に帰するのであるから。即ち,己を空しくして真に己を活かすという仏教の根本原理は自力style='font-family:"MS 明朝",serif'>・他力ともに共通しており,そして一切のはからいを離れるとき,天style='font-family:SimSun'>真自然に通ずる道,自然法爾といった究極の世界が広がってきます,といったようなことを話し合いました。
法堂 記