メインメニュー
人間禅 関西道場


関西道場

京都府八幡市橋本東原28
090-3927-1237(法燈)
080-2516-4415
(慶雲)

連絡はお問合せをお使いください。
お問合せはこちらをクリック
 
ブログ カレンダー
« « 2019 10月 » »
29 30 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 1 2
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google

関西ブログ - 今里静坐会報告(6月27日)

今里静坐会報告(6月27日)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
関西支部 2019/6/30 14:53
6/27()18:30~20:00に宝厳寺(大阪市東成区神路3-17-8,千日前線新深江駅,下図一参照)で,Y居士・坂本法燈が出席して,第209今里静座会(宝厳寺の部)が開催されました。
 最初に般若心経を唱え,30分間の座禅を2回座った後,人間禅師家如々庵芳賀洞然老師著「禅入門」(宗教についての無知と偏見,宗教の本質11~18)を輪読しました。

輪読内容は,能力の有限と欲望の無限,現実の相対と理想の絶対,そこに生ずる満たされがたい永遠の渇き,それが人間の悲劇といえば悲劇の根源である。人間の人間たる本質であるこの無限絶対なものへの渇きをいやす唯一の道こそ,まさに宗教なのである。有限で相対的で不完全である人間と,無限絶対で完全円満なもの,いいかえれば神や仏や法(ダルマ)との間に,正しく確かな通路を開き,無限絶対の世界の中に人間に安らかな座席を与え,あるいは見出させること,これが宗教の宗教たる本質であるところの救済であり,安心である。宗教の本質と使命とは,まさにこの意味での救済にある。ただし,一口に救済といっても,それに低次の救済(肉体的苦痛・病気や心理的な悩みを解決し物質的な幸福などの有限相対な願いをみたす)と高次のそれ(無限絶対なものへの人間のやみがたい渇きを瘉す)との区別がある。また,善因善果・悪因悪果という因果応報の理で人々を教化することをもって宗教の本質ないし使命だと考える向きも多いが,宗教の何たるかに徹しないものである。宗教の本質としての救済とは,この因果の鉄鎖にしばられ,自らの犯した罪業のおそろしさにせめられ,自己に絶望している人間を,その因果の鉄鎖から解き放し,因果の追究のとどかぬ絶対の世界,本来の意味での「聖域」に引取り,そこに遊ばせることにほかならない,といった内容でした。

これに関連して,耕雲庵老大師も全く同旨を述べられており,鈴木大拙も「絶対の他力これを宗教という,自分のはからいをもたずに(自分を全く棄てて)神の前に自分を絶対的に没入させることそういうところに本当の宗教的なものがある」と述べています。自力と他力の二門については,次回に輪読しますが,いずれの門も自己を殺し尽くして自他不二となることを求めており,この境涯に至れば,絶対他力と絶対自力は一致するものといわれ(老大師・山田無文),結局のところ自力も他力も,上記のとおり「有限で相対的で不完全である人間と,無限絶対で完全円満なもの,いいかえれば神や仏や法との間に,正しく確かな通路を開き,無限絶対の世界の中に人間に安らかな座席を与え,あるいは見出させて救済・安心を与える」ことになるものと思われる。洞然老師は,上記の後段の部分で,親鸞・歎異抄から「善人なほもて往生す,いかにいはんや悪人をや」を引用しているが,実に感動的な言葉である,といったようなことを話し合いました。

その後,有志で近所の居酒屋に赴き,懇親会を開催しましたが,台風やサミットの厳戒態勢などもあり,早目に解散しました。

次回の今里静座会(宝厳寺の部)は,7/11()に宝厳寺で開催いたします(二部構成)
 奮ってのご参加をお待ちしています。
 よろしくお願いいたします。
  坂本法燈 記

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (71)

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://www.ningenzen.jp/kansai/modules/d3blog/tb.php/533