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関西道場

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関西ブログ - 今里静座会報告(5月23日)

今里静座会報告(5月23日)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
関西支部 2019/5/26 14:02

5/23()18:30~20:00に宝厳寺(大阪市東成区神路3-17-8,千日前線新深江駅,下図一参照)で,Tさん・Uさん・Mさん・Kさん・坂本法燈が出席して,第206今里静座会(宝厳寺の部)が開催されました。(望月さん・金谷さんは初めてのご出席です)

 最初に般若心経を唱え,30分間の座禅を2回座った後,人間禅師家一宇庵小野円照老師著「禅入門」(孤貧219~226)を輪読しました。

輪読内容は,禅における人間の究極の理想像は,偉人も英雄も意識していない至極平凡な凡夫であり,その思想の根底には,孤貧とかすりきり貧乏とかいう,「貧」の境涯を非常に高く評価して,孤貧に徹しなければ自己完成が終わらないとする思想がある,その理由は,禅は与えるものではなく奪うものであるため,禅の修行でなんら得るものはなく,失うばかりで一切を失い尽くすならば,当然孤貧に徹せざるを得ないからである,といった内容でした。

これに関連して,禅や仏教はその大前提として,衆生本来仏なりといって,只一人の例外もなく人々は本来仏なのだと考え,そうであるからこそ,本来は完全で全く欠けるところのない仏性を,実際には曇らせている煩悩や雑念を取り除き,孤貧に徹することができさえすれば,本来の仏が完全円満なギラリと光り輝く姿を顕すのだとするのである,禅の修行で,見性入理によって自他の畔(境界)を取り去って天上天下唯我独尊と絶対的な自己を悟り(能所両忘),次いで,迷いだけでなくせっかくの悟りさえも捨て去って(迷悟両忘),初めて人は本当に自分の心を自由自在に使うことができるようになる(随所に主となれば立処皆真なり(臨済))さてここで,至極平凡な凡夫が究極の理想像であるなら禅修行など不要ではないかという誤解もありうるところであるが,一度高い山頂を極めた後と前では目に入ってくる風景は同じであっても,これを受け止める境涯が大きく変わっているものであるし,また,あたかも高速で回転する独楽は一見すると止まっているようには見えるが,実際には止まっている独楽とは大違いで,何か(雑念)が当たっても(全く執着せず)軽々とこれを跳ねとばしてしまうのと似ている(一見すると止まっているように見える急流に毬を投げ込んだときに,一瞬にして毬を流し去ってしてしまうのも同様),といったようなことを話し合いました。

その後,有志で近所の店で懇親会を行いました(これには障害児に対する水泳のボランティア活動に参加されていたSさんも駆け付け参加されました)。吉野の金峯山寺にお祀りされているご本尊の金剛蔵王大権現は激しい忿怒の相をしているが,観る人によってはその相の中に優しさを観る人もあるということである。優れた仏像は,観る人の心の在り様をそのまま反映させるものなのかもしれないし,何者をも焼き尽くすような怒りはそのまま万物を許容し抱擁する仏そのものなのかもしれない。そういえば,昔湖北で観た十一面観音(向源寺と思う)の真後ろを向いた顔は暴悪大笑面というまるで獣のような顔をしており,これには当時圧倒され未だに私の記憶に鮮明に残っている。仏が鬼のような顔を持つということの意味を深く考えさせる驚くべき経験であった,といったようなことを話し合って、解散しました。

次回の今里静座会(宝厳寺の部)は,6/6()に宝厳寺で開催いたします(二部構成)

    坂本法燈 記

 
 

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