メインメニュー
人間禅 関西道場


関西道場

京都府八幡市橋本東原28
090-3927-1237(法燈)
080-2516-4415
(慶雲)

連絡はお問合せをお使いください。
お問合せはこちらをクリック
 
ブログ カレンダー
« « 2018 8月 » »
29 30 31 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 1
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google

関西ブログ - 今里静坐会(7月26日)報告

今里静坐会(7月26日)報告

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
関西支部 2018/7/29 7:36
7/26()18:30~20:00に宝厳寺(大阪市東成区神路3-17-8,千日前線新深江駅,下図一参照)で,TさんOさんMさん坂本法燈が出席して,第178今里静座会(宝厳寺の部)が開催されました。
 最初に般若心経を唱え,30分間の座禅を2回座った後,人間禅師家一宇庵小野円照老師著「禅入門」(無作の作130~135)を輪読しました。

輪読内容は,自然を人間に較べたときどこに違いがあるかを一口でいえば,人間のすることには作意(目的と効用)があるが自然には作意がないことであり,しかも人間の迷いはこの作意から出てくるので作意を捨てて自然にしなければならぬというのが仏教の教えである(任運自然無効用)。花や鳥は自然の理法どおりにしていてもその価値を知らないが,人間は価値を知っていて価値を問題にしかえって価値に迷っているのであり,それは五欲七情の迷いによって価値を判断しているからであって,その迷いを転じて悟ることにより同時に価値の転換を行い真の価値真理を自覚するのが禅である。弓で的にあてようと作意すれば「あて気」という邪心が出て離れが悪くなってしまうが,自然に離れるならば,最もよい射になりあてようという作意がなく効用なくして結果的には自然にあたるのである。禅でいう無作の妙用とか無作の作というのはこれで,目的も効用も絶したところであり,単に腹が減れば飯を食い,眠くなったら寝るといった境地に作意はなく,ただ自然にそうしているのが平常心で,いいかえれば,当たり前のことを当たり前にすれば平常無事というわけである。しかし,無作の作の境地に達するまでにはよほど心を鍛錬しなければならないのであり,虚妄のわれを殺して真個のわれ無位の真人になっていなければならない,真個のわれにしてはじめて五欲七情の価値判断にとらわれることなく無効用の働きができるのであり,この境涯を詠んだ則(公案)に円覚経の頌がある,といったことでした。

そしてこれに関連して,ここ数回の輪読は,仏教の根底にあるあるいは仏教の本質であるともいわれる自然をテーマ(自然の心とか自然に学ぶ)としてきたが,今回はその自然と人間の生き方の関係を探っている,人間のあるべき生き方は,自己本来の正体である仏性のままに生きること,法爾自然=任運自在=無効用のままに,目的も効用も作意も絶したところで,ありのままに当たり前のことを当たり前に生きるという以外にはないように思われる,しかしながら,当たり前のことを当たり前にすることほど困難なことはないのであって,自己本来のあり方を探求し尽くし,大死一番絶後に再蘇するというような修行を通して,はじめて娑婆を寂光浄土と観て菩薩の遊戯三昧の境に遊ぶことができる無位の真人の境涯を体得することができるようになるのである,そして,その境涯を悟得することができれば,「白隠の隻手音声を聞くよりも両手を打って商いをせん」という境から,「白隠の隻手音声を聞いてから両手を打って商いをせん」という境に至ることができるようになる,といったようなことを話し合いました。
 その後,有志で近所の店で懇親会を行いました(Sさんも仕事から駆けつけて参加されました)。災害のことや,修行のこと,そして,今ここでこの瞬間を生き生きと生き抜く以外にはないといったようなことなどを話し合って,解散しました。
 次回の今里静座会(宝厳寺の部)は,8/9()に宝厳寺で開催いたします(二部構成)
 奮ってのご参加をお待ちしています。
     坂本法燈 
 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (12)

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://www.ningenzen.jp/kansai/modules/d3blog/tb.php/474