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関西ブログ - 今里静坐会報告(2月8日)

今里静坐会報告(2月8日)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
関西支部 2018/2/10 14:25
 2/8(木)に宝厳寺(大阪市東成区神路3-17-8,新深江駅,下図一参照)で,今里静座会(宝厳寺の部)が開催されました。内訳は(第一部)第161回今里静座会(宝厳寺の部) (18:30~20:00)と,(第二部)第18回「大阪で夜一番遅い座禅会」(宝厳寺の部) (20:30~22:00)となっており,第一部はSさん・鶴井随心さん・坂本法燈が出席し,お寺の和尚さんも参加され,第二部はTさん・Mさん・鶴井随心さん・坂本法燈が出席しました。
 第一・二部とも,最初に般若心経を唱え,30分間の座禅を2回座りました。
その後,第一部は,人間禅師家一宇庵小野円照老師著「禅入門」(把住・放行83~87頁)を輪読しました。 輪読内容は,①「殺人剣・活人剣」という禅語があり,仏性を本体においてとらえれば唯一無二ただ一つでありこれが現象界に現れれば多様化していくことを前提として,殺・活の関係を一・多の関係として,また把住(とらえる)・放行(はなつ)の関係として考えることができる,②無門関に,趙州が一庵主を訪れて“おいでになりますか”と問うと庵主はこぶしをぐっと差し出したので趙州はさっさと出ていったが,趙州が別の庵主を訪れて同じように問うとこの庵主も同様にこぶしを差し出したのを見て,趙州は今度はこの庵主は活殺自在の大宗匠だとうやうやしく礼拝したという則(竪起拳頭)がある,両庵主には全く相異はなく善悪も優劣もないのに,一方を蹴落とし他方を祭り上げている,つまり一方を殺して他方を活かしている,③このことを自然界の事象についていうと,同じ春風の下で一本の樹でも陽当たりのよい枝では花を開き陽かげの枝では固くつぼんでいるように,憎い可愛いといったものは少しもなく無心にしてしかも自然に活・殺を行っている,④また,相手から自分の名前を尋ねられて平然と相手の名前を答えるという慧寂慧然の則がある,といったことでした。 そしてこれに関連して,①全宇宙をとらえて(把住)握りつぶすと一つになりこれは殺であり平等であり色即是空に帰着する,次にとらえたものをはなつ(放行)と元の全宇宙に多様化しこれは活であり差別であり空即是色に帰着する,②竪起拳頭の則の趣旨を詠った私の好きな句が「一樹の春風兩般有り,南枝は暖に向ひ北枝は寒」であり,春風は一味平等に吹いているが,大自然には憎い可愛いといった気持ちは全くなく,そのままが自然の摂理で自然法爾であり,しかも南枝も北枝も各枝がそれぞれの立場で仏として輝いているのである,③仏祖の天上天下唯我独尊・山川草木悉皆成仏という悟りと,上記自然法爾のこの現世(娑婆)とには一見落差があるかのようにも感じられるが,平等と差別・自と他・生と死・有と無・是と非・善と悪・盛と衰などの相対は一枚のコイン(仏性)の表と裏のような仮性のものであり,座禅の修行を重ねて境涯を高めることによって相対を絶してしまえば,この相対界を娑婆即寂光浄土と観照しつつ自由自在の境地を得て菩薩の遊戯三昧の境涯を楽しむことができるようにもなる,といったようなことを話し合いました。
 第二部は総裁老師著「人間形成の禅-その効用・効果について-その15(禅の功徳は求めるものではない(蛇足))29~31頁」を輪読しました。①その文章の中では,修行している学人には,専ら禅学になっている者と,そんなに旧参ではないが隠徳を積んでその日常の言行の行持が篤く他に親切で自然と人から慕われる者とがあり,何処にその相違があるかといえば結局はその修行の原点となっている道心の純・不純と打ち込みの実・不実の違いにあるといってよい,自分一己の得力を求め勢誉に傾斜する者と仏の誓願を純一に護持し行道に打ち込む者との違いといってよい,こればかりは隠すことができない,自らを欺くことができないからである,と述べられていて,まるで自分のことを見透かされているような気がしました。しかしながら,釈迦・弥陀も今に修行中とか申しますように,人は間断なき修行を継続していけば誰でもいつかは仏祖に近づけるものと信じていけばいいものだろうと思います,②禅の功徳は求めるものではないという意味は,ⅰ法理的には衆生本来仏なりであって禅は無功徳であるといわざるを得ない(般若心経でも「無智亦無得以無所得故」といわれる),すなわち,禅は捨てるものであって得るものではないとか,求める心を捨てよとか言われるように,他から得られるものは皆偽物であり,唯々自分の中に向かって本当の自己の正体や生きている真実を見出すことのみに徹して空に徹していけば,自己の本当の姿である自覚覚他覚行円満の仏性に気付くものでありますし,ⅱ功徳を他に求めるということは,自己に不足・不満があることを自認しこれにとらわれるものであり,そのような心境には経験上も仏性があるとは到底いえないのであって,禅は無所得無所悟であると全てを捨て切ったときに初めて自己に仏性を感じることができるに至るものであると思われます,ⅲ私は現在では,人間形成の禅を究めてゆく動機が功徳を求めるということではなく強いていえば道そのものを求めるということであるべきであるという筆者の立場には,「ただ我が身をも心をも放ち忘れて,仏の家に投げ入れて,仏の方より行われて,これにしたがいもてゆくとき,力をも入れず心をも費やさずして,生死を離れ仏となる」という道元の言葉が最も近いものであろうと感じています,といったような話をしました。

 次回の今里静座会(プレジデント今里の部)は,2/15(木) 18:30~20:00にプレジデント今里1006号室で開催いたします。(二部構成。開催場所をお間違えのないようにお願いいたします)
 奮ってのご参加をお待ちしています。
     坂本法燈 記
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