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トップ  >  人間禅とは
どのようにして、正しい嗣法(正脈)の師家が、在家禅に生まれたのでしょうか?

在家禅はどのように始まり、現在の人間禅につながったのかをご紹介します。


◇在家禅の始まり

山岡鉄舟居士・高橋泥舟居士・鳥尾得庵居士・中江兆民居士ら、その他100数名の有志が一団となり、鎌倉円覚寺の蒼龍窟今北洪川老師(1816-1892)を、東京に春秋2回拝請し、摂心会を行っていました。
これを両忘会(りょうぼうかい)と言いました。
洪川老師は、鎌倉円覚寺の管長となった後、寺内の雲水のみならず「世に人を得るためには寺院が門戸を閉ざしていてはならぬ」との考えから、広く一般大衆に対する禅の指導に力を注がれました。
鉄舟らは、出家することなしに在家で禅の修業に励み、激動の時代に"今を生きる"ことを実践しました。
しかし、この両忘会は、いつしか中絶してしまいました。




-----------------山岡鉄舟居士には禅に関するこのような話も------------------

明治維新前後の昔、ある武家の息子があった。
維新のゴタゴタで遂に父子生き別れになった。子供は父親を思うあまり、日本全国を二年、三年と尋ねまわったが、もちろん汽車のない時代、どうしても解らない。そこで、山岡鉄舟居士のところにやってきた。鉄舟居士はこの話を聞き、“ウムそうか。それならわしがその父親に会わしてやろう。今、手紙を書いてやるから、この紹介状を持って座禅の修行をせよ。そうしたらその探し求める父親に会うことができる。遂には坐禅の蒲団上において、今までお前が尋ねまわっている父親に会うことが必ずできる。”と言われて、ある道場で師家について修行することになった。すると半年一年の坐禅の結果、座布団上で不生不滅の真の父親に相見した。この男は遂に出家し、得度を受けて鉄眼といい、東山の辺りに草庵を結んだ。

 



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◇両忘会の再興-両忘庵釈宗活老師とは-

 

中絶した両忘会ですが、在家の有志らと両忘庵釈宗活老師によって、再興されます。
その経緯の前に、両忘庵釈宗活老師とはどのような方であったのか、少しみていきましょう。

両忘庵釈宗活老師(1871-1954)は、20歳の時に、山岡鉄舟らとともに今北洪川禅師に参じていた叔母に紹介を頼み、今北洪川禅師に相見、入門を許されました。
そして洪川禅師のもとで、転迷開悟の実を挙げることができました。

宗活老師は当時について
「洪川禅師は、この青年居士を非常に可愛がって下され、時々書き物写し物をさせたり、其謝労には茶菓などを与えられた。洪川禅師は“お前も弟子となって出家禅僧になる気はないか。わしの看るところではお前が禅僧となって修行三昧になろうなら、他日法器を大成なし得ることは受け合いである”と再三その話をされた」と話しており、宗活老師ご自身も、生涯の事業として心身二つながら投じてこの修行を成し遂げたいと考えておりましたが、出家の時節を待つうちに、洪川禅師は77歳で亡くなりました。

その後、洪川禅師の法を嗣がれた楞迦窟釈宗演老師に就いて引き続き朝参暮参します。
参禅をする中で、宗活老師は、宗演老師のことを「これは一生師と仰ぐべき、明眼の師家である」と思推するようになり23歳で出家しました。

毎月の摂心では、居士禅子(在家で坐禅修行を行う男女のこと)が、宗演老師のもとを訪れました。
出家後の修行の中で、宗活老師は、「之も陰徳の一端であるから」と労を厭わず、これらの居士禅子の世話を深切に行いました。
これが自然因縁となって、後の両忘会の師家として、居士禅を指導する結果につながったのです。



 

◇両忘会から両忘協会へ

29歳の時に、大事了畢(臨済宗における全ての公案を透過すること)した釈宗活老師は、釈宗演老師から両忘庵の号を授りました。

その2年後、かつて一緒に修行していた居士らが、東京で居士会を創立したいと両忘庵釈宗活老師を東京へ招待すべく嘆願してきたのです。

“衲は薄徳で人の世話などするつもりはありません”と辞退した宗活老師に、先師である宗演老師が“大事了畢の上は、四弘の誓願を全うしなければならぬ。利他の願輪を廻さねばならぬ”と云われ、両忘庵釈宗活老師は山を下ることとなったのです。

この時に、宗演老師が「両忘庵主」という表徳号を与え、中絶していた「両忘会」の名をそのままに「両忘会」としました。

両忘会は、東台山後の根岸の里、御院殿坂のあたりに仮の草庵を卜し、家財道具を持ち寄って一時ここに落ち着きました。

はじめのうち両忘庵老師は、居士禅子10~15人程度に対して、法話をし、参禅を聴き、傍ら毎日草履ばき、手に錫(すず)杖を持って、市内の托鉢巡回を3年続けました。

次第に会員が多くなったため、日暮里に居を遷しました。
また各地方の摂心会に赴き、地方にも両忘会の分身ができるようになりました。

先師である楞迦窟釈宗演老師は、両忘会に対して「其の儘では、未だ将来の資格が確固として居らぬ。宜しく公認を得て置く可きである」と注意しました。
そして大正4年に、日暮里駅の谷中墓地側に土地を選び、工事半年落成したのが、擇木道場です。

 

現在の日暮里 人間禅 擇木道場


両忘庵老師は、「公認を得て以て永久的施設をも定め、吾が嗣法の居士をして師家たらしめ、独立独歩各宗派に属せざる居士専門の道場として永久に相続せしめる」と、大正14年には「財団法人・両忘協会」の認可も受けました。



 


◇在家の師家の誕生

両忘庵釈宗活老師は、両忘会協会総裁となりました。

谷中道場(擇木道場)を本部と定め、創業以来35年後、昭和9年時点で、師家分上(これは、両忘庵釈宗活老師から正しく法を嗣いだ者ということです)が4人生まれていました。(うち1名は禅僧)

この師家分上された中に、のちの人間禅第1世総裁耕雲庵立田英山老師がいるのです。

両忘庵老師は昭和9年当初、このように述べられております。

「衲自分一代は出家剃髪の師家であるが、次は居士の代になるから、在家の居士が師家としてやってゆくには、今の中に永久的本道場を建設するのみならず、どうしても専門の修行以外に両忘協会居士全体がそこで活躍すべき二三の付属事業が必要である。何ぞ社会的事業を創業して志ある居士禅子たちが修行すると同時に、その修行した力を活用できるところの会付属の事業機関に従事して、心身二つながら投じて働く。そうすれば自然と衣食住の三つにも差支えなく法の為め終始することができるので、この理想を実現致し度きものと望んで居ったのであります。」


 


◇人間禅の創始者 耕雲庵立田英山老師

両忘会から人間禅となった由縁の話の前に、耕雲庵立田英山老師の話を少ししましょう。


耕雲庵立田英山老師は動物学を究めようと仙台の第二高校の二部乙に入学しました。
或る日、学内に掲示されていた「本当の人生を知るには、禅より他にない」という元気の良い文章をみて
「なるほど、仏教はお念仏ばかりではなかったわい。一つ自力の禅にあたってみてやれ」という気になり、掲示された日時に、北山の東昌寺に出かけたのです。

この時、松島の瑞巌寺の盤龍老師という70歳くらいの真っ黒な老僧が『臨済録』の講義をされました。

その時は何のことやらさっぱりわからなかったが、老僧の質朴な様子と、先輩たちの気合いに打たれるものがあって、7日間通い詰めたといいます。

そして最後の日、真っ黒な顔に真白い歯をむき厚い唇をそらして“大法に不可思議なし”と大獅子吼せされたときは思わず頭をさげてしまった、とその当時のことを語っておられます。

この時、真剣に禅の修行をやろうと心に誓い、後に雲水たちにまじって、真剣に朝参暮請しました。

「一日、大いに雪が降った。私は古人の辛参苦修の跡をしのび、雄島の岩窟の中で打坐して、ひそかに“若し見性せずんば、この座を起たず”と誓って工夫三昧になろうと努力した。後で気づいたことであるが、前後およそ8時間坐りとおしたらしい。大死一番絶後に再蘇がいけて、忽然と立ち上がった時は、まったく別の世界観があった。思わず雪の中を駆けだして、“親爺悟った”と老師の方丈へ飛び込んだ。老師は何か書見をしておられたが、別にお叱りもなく、そのまま数段の因縁を看せられて、ズバズバ透過してしまった。」


大正4年の春、二高を卒業した耕雲庵立田英山老師は、東京帝大の理学部動物科に入学したが、一年間は諸々方々の提唱を聴いて廻って師家と仰ぐ人を求めました。

大正5年に谷中にある両忘会を訪ね、「居士禅の挙揚」という看板が気に入り、ついに入会を願い出て、両忘庵釋宗活老師に相見して入門を許されました。

大正12年に大事了畢して耕雲庵の庵名を授かり、昭和3年に師家分上に補せられ、初心者だけの参禅を聴きましたが、その後は老師名代として、次第に各支部の摂心会を厳修しました。


 
 

◇両忘協会から人間禅へ

  

昭和22年12月14日 両忘協会の閉鎖が両忘庵釋宗活老師により宣せられました。
その原因は告げられなかったといいます。

その時の立田英山老師の心境が当時の日記にあります。

「12月14日老大師両忘協会の閉鎖を宣せられる。
12月15日両忘協会はひとつの組織に過ぎない。余の入門当初にっはそんな組織はなかった。しかし修行には差支えなかった。老大師はその後、組織の必要を力説せされ、余等をして組織を結成せしめ、今これを閉鎖せらる。それだけのことであって、別に修行に差支えを生じたわけではない。もし今後組織の必要を認めたら、皆で相談してもっと時世に適応したものを作ったらよい。それまでは慣習に従って行動し、既成の道場を利用し、只々上求下化の願輪を廻らして行けばよいのである。」

そして、法人としての両忘協会は発展的解消をとげ、昭和23年新たに人間禅が創立されました。
耕雲庵立田英山老師は、推されて第1世総裁に就任しました。
戦後の民主主義にふさわしく、運営面も新たに会費制度や会規を定め、性別や社会的立場を超えて、誰にでも開かれた禅道場を作ろうという理想の元に、立田英山老師の後、総裁は妙峰庵佐瀬孤唱老師(経営コンサルタント)、磨甎庵白田劫石老師(千葉大学名誉教授)、青嶂庵荒木古幹老師(精神科医)と受け継がれました。


現在は、葆光庵老師(元住友金属技監・大阪大学大学院客員教授)が総裁となっております。
正しい法脈を嗣いだ13名の師家を有し、本格の禅の修行が行われています。


 

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