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坐のすすめ 禅のすすめ


数息観は、仏教が開かれる前からあった東洋的観法であり、仏教や禅の固有のものではありません。
オーストリアなどのカソリックの牧師さんが本当の祈りに近づくためにという目的で、数息観法を長年実践されておられますが、まさに宗派を超えるこころを磨く観法です。
しかし、坐禅を組むとかいう言葉にしても、数息観と坐禅という言葉の結びつきから、やはり宗派性がないとはいえないという感覚で今でも多くの人に受け止められ続けていることも事実です。
そこで坐禅の坐と禅を切り離して、「坐のすすめ」と「禅のすすめ」に分け、それぞれを明確に特徴づけながら発信します。


◇坐のすすめ


「坐のすすめ」は、大学のサークル活動、公教育に於けるこころの教育、公民館のような公的機関での活動に対して行うものとして位置づけられます。このような場所での静坐会で、禅を抜いた「坐のすすめ」だけに終始して、充分な効果を得ることが出来ます。
禅を抜いた「坐のすすめ」だけでは禅の悟りを得ることはできませんが、人間形成の基盤である人間力を付けることができ、人間形成はかなりのところまで進めることができます。しかし、そのためには環境条件が必要です。

〇数息観の坐によって人間形成をすすめるための条件
1.数息観だけと言ってもやはり経験を積んだ良い指導者が必要です。
数息観に長年骨折っていて、数息観評点(こちらをご参照ください)の高得点に達している人の指導があれば、人間形成のレベルを着実に上げて行くことが出来ます。
2.数息観評点表を活用して、上位にレベルを上げて行く方法を実践していると、目に見えて日進月歩することができます。
3.週例会から始まっても良いのですが、最終的には一日一炷香にまで数息観の坐の頻度をあげると、本格の人間形成の道になります。

〇「坐のすすめ」の定型としての「一日一炷香」・・・1日一炷香とは、線香1本(45分程度)の数息観を行うことです
古来より一日一炷香の大切さを説かれているのですが、その本当の意味は、なかなか理解しにくいものであります。
耕雲庵老師(人間禅の創始者、前円覚両忘庵釈宗活老師の法嗣)は、著書『数息観のすすめ』で、旧制第二高等学校の学生時代に東北帝国大学の総長の奥さん(瑞巖窟老師の法を継がれた方)から一日一炷香の大切さを諭され、
「私(老師)は、それを正直に実行してきたのです。もし私が心から“今日あることを得たり”ということを許されるなら、全くこの奥さんのお陰であると、今に感謝している次第であります。」
と述べられています。
これは人間形成の修行の秘密を白状されたようなものであります。
一日一炷香の意味とその味わいは、嚼めば嚼むほど味が出てくるし、深いものがあります。底が見えない深淵に臨むが如しでありますが、やらなければ判らないし、判らないし見えないから本気で一日一炷香ができないというジレンマがあります。
しかしここを志の強さ深さで継続することが出来れば、本当の人物として大成することができます。
〇三昧力の持続
大脳の記憶は、子供の頃の思い出にしても、漢字のような記憶にしても数十年単位で覚えております。
72時間以内にトレーニングを繰り返すと筋肉の記憶が蓄積されてだんだんと身体能力が向上すると云われています。
では智ではなく慧の感性の記憶はどうでしょうか?すなわち三昧力のポテンシャルの持続はどのくらい持続できるのかということですが、数時間の睡眠でそのほとんどが低下してしまうということを考えますと、24時間以内ということになります。
したがって日々の人間力を最大限に活性化させるためには、どうしても一日に一炷香が欠かせないのであります。
責任の重い仕事に従事している人、即断即決を活発発地に出して間違ってはいけない仕事に従事している人、感性がなければ仕事にならない人ほど、そういう人ほど忙しく時間がない人ですが、数息観の一日一炷香は欠かせないのであります。
一日一炷香の賞味期限は24時間であるということですが、一日一炷香を続け、数息観を深めて行きますと、毎日の一炷香の三昧に到る時間が早くなり、前日の三昧の深さに容易に到ります。
一晩寝ると三昧レベルの大部分は元に戻るのですが、一日一炷香を長く続け、深い三昧が実践行として毎日繰り返されると、少しずつ三昧が身に付き、数息観をする前のベースが底上げされてきます。
三昧力の地力は一日一炷香の長年の継続により、三昧力の基盤が徐々に形成され蓄積されて行くということであります。
これを脳科学の方から云いますと、三昧力の小脳化と云います。
一日一炷香には短期的目的と長期的目的があります。
短期的目的は、その日その日を充実させ、自分の持てる力を最大限に発揮させるためという目的であります。長期的観点は、一炷香の数息観三昧の継続により三昧力の小脳化であります。
これは、当に三昧が身に付くというしっかりとした人間形成になるのであります。


◇禅のすすめ


こちらの方は、師家への参禅弁道を中心に据えて、達磨大師直伝の如是法の体得を目指すものです。
臨済禅は、公案透過に重点が掛かり気味になり、禅学に陥りやすい傾向があります。
これを払拭するためにも、「坐」に重点を置いた人間形成の禅を心懸ける必要があります。
蛇足ですが、公案を用いない、曹洞宗は、いわゆる只管打坐で、一見「数息観の坐」に近いように思われますが、やはり正脈の師家に密着した坐禅によって、その法は継承されていると考えられ、決して禅と切り離された「坐」ではありません。

◾「禅のすすめ」の目標
「禅のすすめ」の最大の目標は、見性をすることにあります。
この見性は、釈迦牟尼世尊が開かれた仏教の原点をしっかり各人が自ら掴むと云うことであり、インドでの伝法の第28世菩提達磨の云われる「直指人心見性成仏」を各人が達成すると云うことです。
紀元前5世紀の頃の釈迦牟尼の悟りである見性は、この時代の老子、孔子、キリストが掴まれた大道、明体、神、に共通する宗教の根源であるということではありますが、「禅のすすめ」によって見性を図ると云うことは、はっきりと宗派性に則ってやるということで、仏教の禅宗の臨済禅の生粋を継承する目標であります。
したがって宗派性の全くない「坐のすすめ」とは根本的に違い、はっきりと宗派性を出して行うことになります。
仏教の中にもいろいろな宗派がありますが、見性するということ即ち釈迦牟尼世尊と同じ悟りを開くことを中心に据えた宗教宗派は臨済宗だけです。
しかもこの見性を人間形成の中核にする人間禅の「禅のすすめ」は、洋の東西の宗教宗派の中でも極めてユニークなものです。
すなわち、われわれの「禅のすすめ」は、僧俗を問わず、老若男女貴賤を問わず、人種を問わず、志ある者には来る者は拒まずで、一人でも多くの人に見性をして貰うというのが基本的スタンスです。
誤解を招くことを厭わず申しますと、老子も孔子もキリストも見性しているのですが、自分と同じように見性をさせる方途を持っているのは、仏教の中でも臨済宗だけであり、更に志ある人に他の宗教宗派の人にまで広く門戸を開いているのは、人間禅だけです。

◾「禅のすすめ」における坐(一日一炷香)の位置づけ
我々の禅は、人間形成の禅であり、禅によって人間形成をしようとするのが人間禅です。
この人間形成は、摂心会や参禅会での参禅弁道によって道眼を開き、日常の一日一炷香の坐の行によって道力を付ける、これら道眼と道力の両輪によって人間形成は、進展して行くのです。
摂心会・参禅会では、数息観三昧ではなく公案三昧を行ずるべきであり、日常の一日一炷香では、公案参究よりも数息観を深く行じて三昧力を身に付けることを主にして人間形成を進めて行くのが基本です。
参禅弁道の車輪が大きく強く、一日一炷香の車輪が小さく弱いと禅学になり、人間形成にはなり得ません。
しかし、やはり望ましいのは、一年間に占める日数の1割未満でしかない貴重な参禅弁道の機会の優先度を上げてしっかり参禅し、一日一炷香を日々に新たに積んで行き、両輪を揃えて、力強く転じて行くことが、人間形成の王道であります。
それというのも、この両輪は、本来一体なもので、参禅弁道があって一日一炷香が深まり、一日一炷香がしっかり身に付いていて初めて、参禅において公案三昧を徹底でき、布団上で死にきることができ、そして道眼が開かれるのであり、人間形成が身に付くというものであります。
耕雲庵老師は、『数息観のすすめ』の中で、旧制第二高等学校の学生時代に云われた言葉を
「立田さん。毎日一炷香だけお坐りなさいね。もし一日でも欠かしたら、それで法が絶えるのだと思って、細くとも長く続けて下さいね。」
と記述されており、この「法が絶える」という言葉は極めて重く含蓄のある言葉であります。
人間形成における一日一炷香の大切さの実証を吐露されているのであります。
すなわち「坐」の行が「法」の伝承か断絶かに直結しているということを示しているところに注目しなければなりません。

◾「禅のすすめ」の究極は「坐のすすめ」に還る
・臨済禅は、古則公案による正脈の師家への参禅弁道と一日一炷香の数息観法の実践が、人間形成の修行の二本柱で、これが原則です。
「澄徹庵老師の思いで」を法爾庵老師が人間禅50年史に書かれており、その一節に、
「親父(耕雲庵老師)は、“坐禅は数息観が全てだ”と云っておられた。」
と当時老居士の澄徹庵老師が述懐されたことを紹介して法爾庵老師が書いておられます。
臨済禅の公案を用いた参禅弁道による人間形成の修行の最初の見性入理においても、見性悟道においても、数息観による三昧力の養成がなければ進みません。
公案三昧といいますけれども、やはり日常における三昧力の養成が、数息観の評点記録を励みにして日進月歩させ、ある程度は三昧力がついていないと公案三昧も上滑りになってなかなか深まりません。
そして更に見性了々からの人間形成の最終段階の仕上げに近づいてくると、数息観による修行(坐の修行)がメインになるのであります。
この修行における数息観の位置づけを耕雲庵老師が、“坐禅は数息観が全てだ”と云われているのであります。
また臨済禅師が『臨済録』の中で、「無修無証」を強調され、曹洞宗の道元禅師が「只管打坐」を奨め「修証一如」を唱えられているのも、同じことを見据えて言われているのであります。
臨済禅の良さは、公案によっての参禅弁道によって、普通の才能の人間が、見性し、見性悟道し、見性了々まで(人間禅の境涯の進級で云えば、水大級、火大級、風大級、空大級、識大級まで)人間形成の歩を進めることができるのであります。
しかし、ここから先は、臨済宗も曹洞宗もないのであります。公案はここまで来るための瓦筌(手段、方便)であり、ある意味でこれからが本当の修行になります。
今までの公案を全て発酵させ堆肥にして肥沃な土に還す。
これを数息観でしっかり行うのであります。
まさに最後の仕上げの修行には、「坐」だけになるのであります。
ここでの坐の数息観は、中期までの単なる一念不生の数息観ではなく、一息一息が正念になる正念息や息を数えることを忘じた忘息観でなければなりません(拙話「後期数息観」を参照されたい)。
正念息、忘息観は、中期の数息観の評点で云えば、1~10までを5回連続して一念不生を達成する数息観評点80点をクリヤーしてはじめて行じ得るハイレベルな「坐」であります。
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