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トップ  >  禅の修行

◇禅の修行の効果
 

禅の修行の実際的な効果をわかりやすく言うならば、それは「自分の心を自分で自由自在に使い得る」ことにあると言えます。

こういうと簡単なように思われますが、実はこれが一番難しいことです。


例えば何かやろうと決心したとします。

自分で自分の心を決したのだから、何事もその通りにやれそうなものですが、実際は決してそんな容易なものではありません。

また、こういうことは止めようと決心したのなら、これも自分で自分の心に言い聞かせたのだから、すぐにでも止められそうなものですが、中々思うように止められるものではありません。

もし、自分の心を自分の思うように使いこなせるならば、

「われ言うが如く行い、行うが如く言う」
と顔を真直ぐに挙げて断言できるでしょうし、

「己れが欲せざるところ 他にほどこすことなし」
と、誰にはばかることなく言い切れるでしょう。


それが実行できたならば、それはもう聖人・仏陀の境涯であるとさえ言えるのです。
 

 


◇自分の心を自由に使いこなすために

自分の心を自由に使いこなそうとするならば、まず「心」とはどんなものであるか見極めなければなりません。

自分のこころを把握せずに、自分の心を自由に駆使しようとするのは、馬をなくして馬を自由に駆使しようとするのと同様で、こればもとよりできない相談です。

世の中には、「心を修める」とか「心を清める」とか「心を磨く」とか言いながら、案外このことを忘れているものが多いのではないでしょうか?


まず、心をつかまえることが先決問題です。
 

禅では、心を把握することを「悟りを開く」「道眼を開く」「見性する」と言うのです。
 
 








◇禅宗の悟り 見性成仏とは?

 


普通おおざっぱに「心」と言っていますが、それは例えてみれば水の上に立った波のようなものです。

「憎い、可愛い、惜しい、欲しい」と働かせているいわゆる「心」を水の上に立った波とするならば、
波の基たる水に相当する心の基になるものがなくてはなりません。

この心の基を、仏教では「性」と言うのです。

禅宗の宗祖達磨大師は【直指人心(じきしじんしん)見性成仏(けんしょうじょうぶつ)】という言葉を唱えだされました。



わたしたち人間が日常働かせている「憎い、かわいい、惜しい、欲しい」
などの人心が起こるところの根源を、ざし端的に尽くして、
その本心本を徹することができれば、るということを意味しているのです。






 





◇心を把握するためには?-禅宗の行 実参実証(じっさんじっしょう)-
 

心を把握しようとするならば、その基である性を把握するのが近道でもあり、確実でもあることが判りましたが、実際にはどうすればよいでしょうか?

千波万波 大涛小浪が静まれば、水の本当の相が判るように、喜怒愛苦哀悪欲というような差別の念慮を納めてしまえば、性をみることができます。

そのために坐禅工夫するのです。

坐禅して工夫するとは、何を工夫するのでしょうか?

ここが禅宗の独壇場で、他の宗派にはないことですが、それは公案を工夫するのです。

公案とは、公府の案牘(あんどく)というところから出ている語で、一人の臆見や私法でない、公の法文であるという意味です。

要するに私的のものでない、宇宙の生命(命体)とか、大自然の真相(性相)とか、天地の公道(道用)とかいったようなものにつながる大問題、大疑団を公案というのです。

その公案を禅定にあって工夫し、仏祖の見解に心から納得がいけたのを悟ったというのです。

そもそも公案というものは、大悟徹底した先覚者が、その通身是れ道 全身是れ法という境涯から、無造作に運び出した行為や言葉が、後世 公案となって残っています。

覚者の境涯に到っていない者の側からみると、さっぱりその言行云為が腑に落ちない。

自己の境涯さえ、先覚者の境涯まで向上させ得たなら、公案は自ら開けて疑団は氷解し、真正の見解に到達し得るものです。

この見解を師家に呈して、その鑑別を請うことを参禅と云い、証明を得たら、道眼が開けたとか悟りを開いたとか云うのです。

こういう悟得の仕方を、実参実証というのです。


 

◇師家の重要性
 

そこで師家たる者の資格が非常に重要性を帯びてきます。
古来、禅宗に於いては、伝法を第一義にしてきたのはこの理由で、法を誰々に嗣ぐということを明確にしなければ、仏祖に代って化を挙げる資格はないのです。

ですから、古人の伝記を見ても、必ずこのことをうたってあり、師家たる者の資格の証明にしています。
もしこれがなかったら、師家の看板は出していてもモグリです。

その代り、嗣法の正しい師家に対しては、修行者の方は、絶対の信を置かねばなりません。
でなければ、疑団は永遠の疑団に終わるか、その見解は自分免許のいい加減なものになってしまいます。



どのようにして在家に嗣法の正しい師家が生まれたのか?
人間禅の歴史については、こちらです。




 

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