メインメニュー
このページをシェア!
ここでブックマーク: Twitter ここでブックマーク: Facebook ここでブックマーク: Yahoo ここでブックマーク: Google
検索
トップ  >  座禅の意義
禅とはただボンヤリと座ることではありません。

より深い精神的な意味を持っています。

世間では、座禅というと無念無想になることだと解されているようですが、これは間違いです。

すべての心身の働きをひっくるめて、ひとつの行に三昧になり、正念になりきってゆくことなのです。

この意味を体得するためには、実際の行が必要となります。

例えば登山の場合には、地図を見ただけで山を登ったとは誰も言いません。実際に登ってみると、地図には出ていないことが数多く起こるし、地図だけを信用していては、却って道に迷ったり、時には命とりになる場合だってあります。また、実際に登山したときの醍醐味は、到底地図上の想像では得られません。そこには格段の差があります。

座禅の行は、行そのものに深い意味があり、他人の情報をあてにして、結果を頭で知っただけでは決して身につかず、本当のところはわからない事柄の典型的なもののひとつです。


 

◇精神面における「棚上げ(ご破算)」

そろばんや計算機を使うときは、誰でもご破算を行いその重要性を理解しています。ご破算とは、一度全部消してしまうことです。ゼロにしなければ次の計算が狂ってきます。

このご破算が、実は精神の働きにおいてとても重要なのです。

ところが日常生活ではこのような厳密な意味でのご破算は必要と考えられないばかりか、現代のような目まぐるしい社会状況の中では、次々に出てくる刺激に対して、素早い反応が必要とされます。

このため、現代人は生まれてから、次から次へと連想することを訓練され、またその能力によって頭が良いとされがちです。ひとつひとつじっくり考えていたのでは、世の中から置いて行かれるような一種の強迫観念を持っています。

普段、私たちは雑音の中で生活しています。どれだけ自分の心が定まらずに右往左往しているかは座禅をすればすぐにわかります。

私たちの脳の精神エネルギーは、電気に例えるならば常に漏電している状態なのです。

しかし、人生にはこのように次から次へと連想する訓練だけでは歯が立たない状況にぶつかることがあります。不安、老い、死などの限界状況の中では、知識の集積だけでは歯が立たないのです。

また、自分では今こんなことは必要ないと思っても、とめどない考えが頭の中を支配して、本来考えるべき問題が処理できないとか、不安が次から次へと生じてきて、ますます泥沼に落ち込むことが良くあります。

神経症の不安の大部分は、このご破算を徹底して行えば、消失できるはずです。




◇精神と身体の相互作用


不安という現象を見てみましょう。これは単なる精神だけの働きでなく、身体の働きも加わります。不安になると心臓がドキドキしそのことが不安を強めるという悪循環は、みなさん経験があるでしょう。このように精神と身体の間には、微妙に影響しあう相互作用がみられます。

しかし、悪循環作用があれば、良い循環作用もあって良いはずです。

事実、人間の精神と身体の働きには良い循環作用があります。たとえば、呼吸を深く吸うとか、呼吸時間を苦しくないように延長させる訓練だけで血圧を下げることが可能なのです。古くからさまざまな方面で工夫されている呼吸法は、まさにこの精神と身体の良い循環作用を意識的に利用しているものです。生理学の面からみると、呼吸中枢は、意識によりコントロールされる随意運動と意識によりコントロールされない不随意運動の接点と言われています。つまり、呼吸は意識的に長短深浅が調整可能であり、この結果、意識の力ではコントロール不可能な不随意運動を営んでいる各器官の働きを調整することが可能になります。座禅の場合、呼吸を整える以外にも、身体と精神への大変良い循環作用を活用しているのです。



◇心の安定

座禅の行のひとつの目的は、心の安定を得ることです。

湖水の底にある玉に例えてみましょう。湖水の表面が風によって波立っている場合は、これを鎮めなければ水中にある玉の姿が見えません。連想を遮断するということは、この水面の波立ちを鎮めることです。

もちろん、単に外からの風の影響を避けたからと言って、すぐに水中の玉が見えるわけではありません。

水中には、浮草があるかもしれないし、種々のプランクトンや浮遊物が漂って濁っているかもしれません。このような濁りを透明にしなければ、玉の真の姿をみることはできません。このような浮遊物に例えられる雑念を座禅の力によって、正念に化することができれば玉に例えられる心の真の姿をつかむことも難しくはありません。



◇心の働き

湖水の浮遊物や漂流物は、人間の欲に例えられます。それを捨てる必要はありません。ただ、それらが正念に基づかず、全体の姿を非本来的なものにするように無統一に広がっていることが問題です。もし、浮遊物や漂流物がなければどうなるでしょうか。動物も植物も住めない死水になってしまいます。コイもフナもドジョウも浮草も存在し、時に波立つことも、また時には湖水に周囲の景色が映ることも、その他種々の働きが湖水に存在するのです。

人間の心にも同じことが言えます。欲もあり得もあり、千変万化するのが生きている証拠です。

食欲がなければ人間は死んでしまう。

性欲がなければ子供を産むことができない。

怒りの感情や喜びや悲しみがなければ、生命を生き生きと展開し、人生を味わうことはできず、本当に世の中のためになることができない。

座禅は、このような煩悩を抑えたり捨てるのではなく、その人間らしい本来の姿にかえらせるのです。

座禅によって得られた力で、多種多様な状況の変化に応じ、世間で生きていくための知識や情報、喜怒哀楽の感情、意志の力、などの心の働きを自由に使いフル回転させるのです。

座禅によって得た、何ものにも束縛を受けず自由に、しかも一貫して正しさを失わないで持続してゆく正念の力によって、ほんとうに人間らしい心の働きが発揮されて、「正しく・楽しく・仲の良い」生活が営まれます。
プリンタ用画面
前
現代人と座禅
カテゴリートップ
座禅について
次
禅の修行

Copyright © 2015 Ningenzen