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ブログ - 慧日庵老禅子のフェイスブックから

慧日庵老禅子のフェイスブックから

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
茨城座禅会 2018/9/30 21:08

茨城支部 三浦元真です。
10月6日から潮来坐禅道場にて摂心会が始まります。10月7日(日)に慧日庵老禅子の講演会があります。

日時 平成
30107日 日曜日 14:30 ~ 16:00頃まで  場所  
潮来坐禅道場にて
演題 『今北洪川禅師から山岡鉄舟への手紙――在家禅の意義と人間禅の歴史』
講師  慧日庵 笠倉玉渓老禅子

慧日庵老禅子は私の禅の大先輩でありますがフェイスブックにてお友達になっております。慧日庵老禅子の文章を読んで私は職場での自分の対応の在り方を反省しました。

以下 慧日庵老禅子のフェイスブックの内容です。許可を頂きましたので皆さんでご覧頂ければと思います。  
お母さん講座の振り返り&メモ3」

うちの息子たちが小学生の頃、授業参観の後の保護者会で、お手伝いをどうやったらさせられるか、という議題がしばしばあった。
皆さんおこづかいをあげたり、ご褒美を出したり、はたまた当たり前だと厳しくしつけたりなどされているようだった。
息子たちは1度も、と言いきるが嫌がることはなかったし、大学生になった今朝も、私が昨夜朝5時までロータリーの講演録を書いていたので9時に起きると、ゴミ出しも洗濯もしてあった。

これは私の手柄ではなく、ふりかえれば禅の考え方が生活にあったからだ。
私は子どもが小さい頃から、「お手伝い」という言葉はこの世に存在しません、と言ってきた。
この世に存在するものに本来上下も優劣もない、共同体はそれぞれの質に応じてすでにその時点で完成である。だから親も子どももできることをすることで共同体は円満に機能するのだから、ゴミをひとつしか持てなくてもそれが応分なら充分なのだ。
根底には子どもであってもひとつの尊厳をもった個体であるので所有物という感覚は私にはなかったし、たまたま扶養し、年長者なので何かと助ける立場ではあっても命令などできる関係にはないのが真実だ。
自分が産んだ、自分よりはるかに大切なものであるという思いと共に、そもそも同格なかけがえのない存在を尊重する禅の精神は私の中に第1の真実としてある。

尊重しているからこそ、お手伝いという概念はない、と言ってきたのだが、それは将来社会でもそれはまったく同じてあると身体で知っていてほしかった。

先日連れ子の虐待の話をしていた時、次男が、もし僕たちが子どものいる人と結婚するとか言っても、お母さんはその連れ子を平気で可愛がるね、と言ったので、私の生活の禅も少しは守れたのだろうかと合掌した。

また、ご紹介いたしますね。では、また。


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