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呉坐禅道場

呉坐禅道場
呉市両城2丁目2-11
(呉駅から西 徒歩10分)

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090-5153-3018(増田)


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広島ブログ - 広島禅会さんのエントリ

呉の“旅行の友” 

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広島禅会 2014/8/27 0:55
 第一次世界大戦(1914~1918年(大正3~7年))、日本は日英同盟でドイツに開戦。海軍はドイツの植民地(サイパン、パラオ)へと侵攻した。
 海軍は、ある問題に直面する。
 それは、太平洋の南の島は、気温・湿度が高く、漬物や味噌が腐ってしまうことだった。そこで、呉市で味噌・漬物・瓶・缶詰を製造・販売していた田中食品へ、新しい保存食の開発を要請した。

 そして開発されたのが『旅行の友』(1916年(大正5年))である。

 当時の田中食品の社長は、我が子を戦地に送っており、「戦地で食べ物に困らないよう、少しでも栄養価の高い食べ物をなんとか食べさせたい。」との親心で、工夫を重ねて作り上げたのだった。まだまだ当時の日本は非常に貧しく、殆どの庶民は白飯など食べられない状態だった。つまり“ふりかけ”は、鰹節や海苔などの高い材料が使われている高級品だったのだ。

 この様に元々“ふりかけ”は、兵糧として開発された軍需物資だったのである。“ふりかけ”開発の歴史は、日本の近代戦争の歴史と重なっているのである。

 こうして誕生した“ふりかけ”は好評で、「旅行の友」として一般流通したのだ。また「旅行の友」は、平成22年3月、広島市から「ザ・広島ブランド」にも認定されている。小魚やゴマが入った懐かしい味で、カルシウムも豊富である。長く愛されてきたのには理由がある。

 そしてこの「旅行の友」という名称には、「旅行に持って行くお弁当などに、いつも手軽に使っていただきたい。」という意味が込められている他に、もうひとつ大切な理由があった。
 それは、当時の田中食品の社長の奥さんの名前が「トモ」さんだったからである。家事と仕事を両立してくれる奥さんへの感謝の気持ちも、「旅行の“トモ”」という商品名に込められていたのだ。
 女性を大切にし、心から敬意を払う気持ちを絶対に忘れてはならないことは、何時の時代でも変わらない真理である。

呉の「びっくり饅頭」

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広島禅会 2014/8/19 21:14
 レンガ通り、びっくり堂「びっくり饅頭」。
 巴屋「アイスモナカ」、福住「フライケーキ」の三つで、呉の三大スイーツなのだそうだ。どうなのだろうか。(笑)
 要するに「二重焼き」である。
 所変われば名が変わる「難波の芦は伊勢のハマユウ」。
 知っているだけでも「大判焼き」、「今川焼き」、「太鼓焼」、「回転焼き」etc.各地で色々と呼び名が変わるお菓子である。そうだ「御座候」もあった。

 この様に、同じものを別の呼び名で顕すことはよくある。

 先に記した、杉本五郎中佐の「尊王」などもそうであった。
 因みにその杉本五郎氏であるが、広島で弁護士をされていた高橋光治氏と二人で、「維摩会」という在家の禅会を作り、10~25人の有志を集め、現在の広島市小町にある金龍寺を道場とし、当時の仏通寺管長、吹毛軒山崎益州老師を拝招して、毎月一回、三日間の参禅会を催していたのである。まったくこの人の、「自利利他」の「利他の工夫」も、尋常ではなかった事が窺える逸話である。

 そして実に広島の『在家禅』の歴史は、杉本五郎氏らによって、昭和の初期、正式に発祥したのである。

 益州老師は常々、これらの在家禅者に対して「わしの真似をするな、あんたらは坊主の真似をするなよ、官吏が坐禅したら、本当の官吏に成ればよいのじゃ。軍人が坐禅したら、本当の軍人の道に徹したらそれでよいのじゃ。」とよく言っておられたそうである。
 この広島の伝統は、法嗣である青松軒藤井虎山老師、そのまた法嗣で、人間禅 広島禅会の名誉会員であった関照軒浜田徹道老師へと受け継がれて来たのである。

 甘くて美味しい呉の「びっくり饅頭」。
 まだ食べていないなら、ぜひ一つ口に入れ、よくよく味わっていただきたい。

「坐り終わって梅湯(ばいとう)うまそうな君のひげづら」 大山 澄太

後生うなぎ 

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広島禅会 2014/8/17 14:11
 古典落語の『後生うなぎ』である。
 別題を「放生会(ほうじょうえ)」というのだそうだ。これは旧暦8月15日に、生き物を放してやる風習があることに因んだとのことである。
 
 さる大家のご隠居さん。殺生(せっしょう)が大嫌い。蚊に刺されても、つぶさずにじっと我慢しているほど。
 
 ある日、観音さまにお参りした帰りがけ、鰻屋が、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。
 ご隠居さんは、早速、義憤を感じて、鰻の助命交渉をする。
「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない。」
「それじゃあ、ウチは潰れちまう。」
 すったもんだ悶着の末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。
「あー、いい功徳(くどく)をした。」
 
 翌日はスッポンで、今度は八円。
「生き物の命はおアシには換えられない。買いましょう。」
 というわけで、またボチャーン。
 
 これが毎日続く。鰻屋は喜んだ。日銭が転がり込むから、たちまち左うちわ。
 
 ところが、このご隠居さんがぱったりと来なくなった。
 
 少しふっかけ過ぎたかと、心配しているところへ久しぶりに「福の神」。
「ああいうのは、何時くたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう。」
 
 ところが毎日、ご隠居さんを当てにしていたから商売は開店休業。
 肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。
 
「生き物でなきゃ、しょうがねえ。金魚、ネズミ…。もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊。」
 生きているものならいいだろうと、赤ん坊を裸にして、割き台の上に乗っけた。
 驚いたご隠居さん。
「おいおい、その赤ん坊をどうすんだ。」
「へえ、蒲焼きにするので。」
「馬鹿野郎。何てことをしやがる。いくらだ。」
 ご隠居さん、生き物の命には換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。
「あー、いい功徳をした。」
 
 というブラックユーモアな落ちが付いている。
 
 たとえどのような理由があっても、人は人を殺してはいけない。

 ましてや国家間の戦争など、何があっても全力で回避しなければならない。
 言い換えれば、戦争を起こさせないことに注意深く配慮することを、常に怠ってはいけないのである。
 
 しかしその一方、諍い、争いは人の世の常でもある。お互いが、よりよく生きようとすればするほど、大なり小なり必ず生じて来るものである。そして理性だけでは、どうしても解決できない感情の問題もある。時として人は人を恨み、憎しみを抱いてしまう。そしてその究極的な解決手段に殺生がある。

 何もこれは人間だけでなく、弱肉強食は大自然の摂理の中に本能的に常に観られる、全ての生命体にある現象でもあるのだが、人間の場合にはより複雑である。
 単純に道徳的解釈やスローガンだけで、簡単に解決できるような問題ではない。
 
 昔はよく「後生が悪い」、「後生が良い」という言い方をしたらしい。後生とは、仏教の輪廻転生説でいう来世のことである。現世で生き物の命を助けて功徳(=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせるものと、ご隠居さんも考えた様である。ちょっと考えれば、前世や来世が有るのか無いのかなど知りようが無いことなのだが、人はとかくこんな絶対に誰も知り得無い事、考えても仕方のないことにも、ともすればつい惑わされてしまうものである。

 そして何時かこの様な、良因良果、悪因悪果と因果応報する迷誤な世界を解脱し、皆供に如来の世界に入ることが説かれる訳なのだが…。何かの為などではなく、その時、その場で成すべきことを、只、無心に三昧に成って行なうことさえ出来れば、それでいいのだ。しかし自分自身を含めて、人はつくづく手のかかる面倒な生き物である。
 
 その歴史的な功罪は別として、五代将軍、綱吉の「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」が、天下の悪法として世に名高いのも、時の権力者によって、この思想を極端に歪んだ形で庶民に強制したからである。
 
 何事も、程々がよろしいようで。
 

広島の盆灯籠

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広島禅会 2014/8/14 20:38
 
 今年も早いもので、もう、お盆になった。
 
 広島では8月のお盆になると、各所のお墓には、カラフルな盆灯篭が林立する。呉でもやはりそうである。小高い山の中腹の墓所が一斉に彩られる。由来や由緒はよく知らないが、おそらく、広島市周辺部、つまり浄土真宗西本願寺派、俗にいう安芸門徒の地区だけで見られる風習だと思う。
 
 灯篭の構造は簡単なもので、竹を六角形のアサガオ型に組んだ物に、赤・青・黄などの色紙を貼って作る。表面に金粉などをつけることもある。風や雨水を通すために、1面は上辺だけ貼っておいて下部を空けてある。さらに、六角形の頂点から金紙などの飾りをつける。
 
 いずれも高価なものでなく、コンビニやスーパー、花屋などで簡単に購入でき、1本600から1000円程度である。
 
 いわゆる卒塔婆に相当するもので、盆の時期に墓参りを行う者がその墓の周囲に立てる。親族がそれぞれ持ち寄るため、1基の墓の周囲に何本も立てられることも多い。
 初盆(新盆)には色紙や装飾は用いず、白い紙のみの盆燈籠を供える。
 
 そもそも浄土真宗は、お盆といって、特別な飾りや行事はしない。卒塔婆を立てることもしなければ、迎え火・送り火もなく精霊棚もない。お供えは霊にではなく如来に捧げるものとしている。
 
 この様な安芸門徒の、何にもとらわれず、こだわりを持たない、広島人の気質は、在家禅の特徴とピッタリと符合する。
 
 まさに『在家禅』は、宗派性を全く持ち合わせていない、この様な安芸の門徒衆のためにこそ用意された、心のメンテナスケアのためのレッスンプログラムである。
 

杉本五郎中佐の「尊王」とは 

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広島禅会 2014/8/12 20:45
 「汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、尊皇精神ある処、常に我在り。」
 
 杉本五郎中佐の辞世である。
 
 参禅の師であった、当時の仏通寺管長、吹毛軒山崎益州老師は、後に「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長として、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった。」と述べている。
 (杉本五郎は、支那事変出兵後に少佐に昇進しており、死後、叙従5位陸軍歩兵中佐となっているが、きっと益州老師にとっては、何時までも陸軍歩兵中隊長の杉本五郎大尉だったのだ。瞼に入れても痛くない、外弟子だったのであろう。)
 
 そして、もはやここには、一片の生死も覗えない。
 
 即ち、杉本五郎中佐の「尊王」とは、ただ単に皇国の武士(もののふ)として、陛下に真を尽くすということを遥かに超えて、言い換えれば、宇宙の命、絶対の自己、仏、あるいは本来の面目のことを云っているのである。
 
 軍務の傍ら、広島から毎週末には必ず三原の仏通寺に通い、益州老師に欠かすことなく昼夜に参じ、毎度のように徹宵で夜坐し、また夏末・臘八の大接心には禁足で詰めていた。出征までの9年間、これをずっと続けていたそうである。
 もとより出家の意志などは微塵もなく、ただ一介の歩兵部隊の帝国軍人として、純粋に国家のために献身することだけが、人生の目標で有ったことは明白な人である。その為だけの参禅弁道だったのである。
 
 昭和12年(1937)9月、支那事変(日中戦争)の戦闘において戦死。
 手榴弾を浴びて倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がり、再び倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対し、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。俗に云う立ち往生、すなわち立亡(りゅうぼう)である。38歳の生涯であった。坐脱立亡の立亡であるが、近世では極めて稀だと思う。常日頃の鍛錬が慮れる一事である。
 
 死の寸前まで、四人の息子達への遺書として書き継がれた、20通の手紙を妻へ送っている。これは同志らによって、20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938)5月に刊行された。
 これは、当時の青年将校や士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ねて29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。
 本書は、戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、本書を読んで軍人を志した者も少なくなかったといわれている。
 
 益州老師の法嗣の故青松軒藤井虎山老師や、そのまた法嗣で、広島禅会の名誉会員であった故関照軒浜田徹道老師が、たしか「著書の内容からして、おそらく洞山五位の調べも透過した老居士級の境涯であろう。もしこの人が、戦後まで生きていれば、もっと視野の広い世界観に成っていたのではないだろうか。」という意味のことをいっておられた様に思う。
 
 三原市の仏通寺の境内に、杉本五郎を記念する小さな碑と、渓流を隔てた岩壁に杉本五郎が大書した「尊皇」の二文字が今でも残っている。

夏 野

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広島禅会 2014/8/10 15:31
 先日の山口参禅会は、俳句部との合同参禅会だった。今年は冷夏との長期予報だったが、台風がよく来る。この時も、小雨の蒸し暑い中での草刈り作務だった。夏草が目に映える季節である。青々とした草いきれ、一面に夏草が生い茂ったのを「夏野(なつの)」というのだそうだ。

 松尾芭蕉の句に「馬ぼくぼく 我を絵に見る夏野かな」というのがある。夏野の中を、ぐったりして歩く馬。遅々とした歩みは、いかにも我が身自身を画中に見るかのようである。

 「涼しさや 荷を卸したる裸馬」(禅林世語集より)などもある。「如今抛擲西湖裏 下載清風付與誰」下載の清風(あさいのせいふう)に吹かれて、やれやれといったところであろう。

 それは一体何時になる事だろうか。さて「夏草や兵(つわもの)どもが夢の後」にならぬよう、陽炎に揺れる峠の向こうまで、もう一頑張りするとしようか。

伝説の巻物 ~浮鯛抄~

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広島禅会 2014/8/6 4:06
 嘘か本当かといえば、嘘であろう。しかし、これはこれで歴史的に立派にまかり通ってきた本当の事実でもある。
 
 私がこの「浮鯛抄(うきだいしょう)」の話をはじめて聞いたのは、広島禅会の名誉会員になって下さっていた、故 関照軒浜田徹道老師 からだった。
 老師は、広島県三原市の風早という漁師町のご出身だった。その近くに能地という所がある。ここは家船(えぶね)と呼ばれる、陸には住居を持たず、家族で船に暮らし、漂泊して漁労した漁民たちの本拠地である。
 
 この地では、浮鯛現象が見られた。これは「流れが速すぎて浮き袋の調節が出来なくなった鯛が、海面に浮かび上がってくること」で、日本書紀にも記述がある大昔から有名な現象である。
 そしてこの漂泊の漁民たちは、この能地をその本拠地とし、「浮鯛抄」という巻物によって彼らの権利を裏づけて来たのである。
 
 沿岸の漁業権を持たない家船の民は、漁業権の及ばない沖合で漁をし、女たちがその付近の町で売りさばくことで生計を立てていた。魚が捕れなければ死活問題なので、先進漁法の開発は、家船の民だった。そして、そんな新漁法を地元漁民に教えることでも共存してきた。
 そんな家船の民が遠くの海で漁をする際、「浮鯛抄(うきだいしょう)」という巻物を、証明書として来たのだった。この巻物を見せると、本当に全国どこの漁村でも漁業することが出来たのだ。
 これには日本書紀の神功皇后伝説から説き起こし、本拠地の浮鯛のこと、神功皇后から、日の本諸国の浦浜での漁業権を認められ、かつ家船漁民は運上金を出さなくていいとの由緒が書いてある。
 
 老師は、このことを得意そうにお話されていた。その話にはこんな尾ひれがついていた。
 ある時、この能地の衆が、播磨の須磨で博打に負け、この「浮鯛抄」を博打の形に取られたのを、当時、風早の網本をしていた老師のお爺さんが、単身で須磨まで出向いて請け出して来たというのだった。
 いかにも漁師町らしい話で、面白可笑しく聞いていたものだった。今ではそれもまた懐かしい。
 
 そして話は、いつも「嘘」と「真」のことに言及されていた。
 嘘はついてはいけないのである。
 「嘘の有る世界」、「嘘の無い世界」これを「相対」と「絶対」の両面から取らまえ、どう絡み、どう見るのか。
 
 大体話がこの辺になると、随分と酔いも回って、こんがらがってしまっていたものだった。(笑)
 もっと確り聞いておけばよかった。

戦艦大和のカレイライス

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広島禅会 2014/7/29 22:22
 この秋に、NHK広島 BSプレミアムで、元AKB 秋元才加 主演ドラマ「戦艦大和のカレイライス」が放送される。
「広島発地域ドラマ」として、呉が主なロケ地・舞台のドラマになる。
 
≪ストーリー≫
呉羽沙織(こと秋元才加)は、呉市の地方情報誌『KURE:YON』の編集部に勤める24歳。そんな沙織の前に、ある日突然、屋台通りで働く凛々しい料理人、長二が現れる。
心ときめく沙織。彼のカレーは、土地の古老たちに、戦艦大和で作られたカレーとそっくりだと評判だった。
旧軍港の町・呉は、海軍グルメブームを武器に、全国的な知名度を得ようとしていた。開催が近い『海軍グルメフェスティバル』で横須賀、佐世保、舞鶴を迎え撃つ事ができるのは長二のカレーしかない! と、心躍らせる沙織。
しかし頑として受け入れようとしない長二。
彼は実は、撃沈された戦艦大和から現代にタイムスリップしてきた割烹手だったのだ……。長二が隠し通してきた秘密とは?
そして沙織との恋の行方は。
恋とグルメとファンタジーがギュッと詰まったエンタテイメント。
 
ドラマには、呉のグルメや見慣れた町並みなどが、たくさん登場しそうである。
両城町の呉坐禅道場の直ぐ上の家も、どうやら回想シーンで、8月中半頃にロケがあるのだそうだ。
この頃何だか少し、子供の様にワクワクしている。
 
 甘藍(かんらん)とはキャベツの和名である。

 時には呉のスーパーなどで見かけることもあるが、現在では広甘藍は「幻のキャベツ」扱いされている。広甘藍は、小玉で葉脈が密で甘い。呉市広町の大新開で、戦前は生産が盛んだったが、戦後には広町の宅地化が進んだこともあり、次第に終息へ向かった…

 広に豊栄新開、弥生新開、大新開という地名がある。埋立地である。江戸時代、広島藩の官営事業として干潟を干拓し、嘉永3年(1850年)頃にはほぼ現在の形になり、広村は、三千石の米を収穫する広島藩きっての裕福な村となった。

 しかし満潮になると海面より低いため、堤防が破壊するたびに被害を受け、農作物の不熟で広村は困窮した。堤防の修復には巨費を要したが、ほとんど庄屋などの私財が宛てられた。

 こうした広村の苦境を救ったのが甘藍、キャベツである。

 甘藍は広村の新開地で良く育った。少しずつ改良も加えられ冬場の青物として栄養的にも貴重なものとなった。

 呉に海軍鎮守府が開庁した明治22年以後、呉は一躍海軍の町として賑わっていく。海軍は、日持ちがよくて調理が簡単、輸送が便利で俵つめして積みあげても傷まないという甘藍を、軍用食材として指定し大量に買い上げるようになった。呉は甘藍の一大消費都市となり、広村は全国的にも裕福な村となった。

 広村以外に、呉近郊では甘藍を栽培できる地域がなかったので、広の甘藍は無競争で海軍へ納入され大きな利益が得られるようになった。日清戦争(明治27~28年)、日露戦争(明治37~38年)には、広甘藍は軍艦に積まれ中国大陸まで運ばれた。

 1000円で家が建つと言われた明治43年頃には、一反(300坪)当り300円/年の収入があった。全国的にも裕福になった広村は、日露戦争後の外債支払いに窮していた海軍に、多額の寄付を行ない、明治40年には広島県、更に明治44年には内務省から「模範村」として表彰された。広村が背負っていた堤防修復などによる莫大な借金(村債)を完済したばかりか、租税を滞納する者が一人としていない裕福な村に改善したのである。

 明治20年代以降、歴史的にも大きな役割を果たしてきた広甘藍だが、昭和20年の海軍消滅と共に、徐々に栽培量が少なくなっていった。

 戦後はいろんな野菜が品種改良によって栽培されるようになったこともあって、広甘藍は隅に追いやられ、昭和35年以降は栽培されなくなった。

 

 この様に、キャベツ一つで、広という地域の浮き沈みを見てきたが、栄枯盛衰は人の世の常でもある。

 私自身が、そして誰しも皆が例外なく、無常の風の中で過ごしている。少しもじっと留まってなどいない。一期一会の出会いと別れを繰り返しながら、流れうごめいている。

呉の“お医者さん通り”

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広島禅会 2014/7/23 0:20
 呉市内のコンビニ店で、タウン誌を見つけてページをめくっていると、思わずニヤリと笑ってしまった。

 確かに“お医者さん通り”と呼ばれている界隈がある。

 呉共済病院から、堺川(さかいがわ)を挟んでレンガ通りの南口辺りまでの、約1キロ足らずの間に、20軒近いお医者さんが並んでいる。内科、外科、整形外科、産婦人科、小児科、眼科、耳鼻咽喉科、皮膚科、腎臓科、脳神経外科、心療内科、リハビリテーション科、歯科、調剤薬局など、まるで総合病院のようなエリアである。

 どうやらこれも、明治時代に海軍鎮守が置かれ、海軍関係の医療施設が続々と誕生したことに始まったのだそうだ。そしてその流れで呉に個人病院を開業し、町に根づいたお医者さんが多いというわけである。

 調べてみると、救急病院は7軒あった。都市の規模からすると多い方だろう。呉市の医療機関で検索してみると、541軒出て来た。産婦人科は16軒あった。

 因みに、幼稚園は32軒、公立保育園が14軒、私立保育園が37軒あった。呉坐禅道場のすぐ上にも保育園がある。朝晩、若いお母さん達が子供の手を引いて送り迎いに、石段を昇り降りされているのに出会う。

呉市は“コンパクトシティー”として、一際、医療介護環境が充実している街として知られている。

 かつては南海ホークスや西鉄ライオンズが、呉の二河球場でキャンプしていた位で、冬は温暖で暖かい。食べ物やお酒も美味しく、水が良く、医療が充実した街である。そして意外なほど若い人も多くて活気があり、数多くの製造企業群もあり、将来に渡って比較的安定した税収が見込める。近未来的に急激な人口減少が予想される我が国の中では、例外的に有望な地方自治行政地区の一つである。

 よろしければ、こんな呉市の一角に移住して来て、禅のある余生を一緒に過ごしてみませんか。必ず安心感のある、充実した日々が過ごせますよ。

 呉市の不動産価格も、きっと今が底値なのかもしれません。(笑)

砂漠に咲く花

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広島禅会 2014/7/19 15:52
 「この秋は 雨か嵐かしらねども 今日一日の 田草とるなり」

 

古い友が、広島市内の禅寺で、戦前から続く坐禅会を、ひっそりと守っている。その坐禅会の案内のはがきに記してあった。有名な歌である。

 

田の雑草も強いが、クレオソートブッシュという強烈なのもある。ハマビシ科の植物で刺激臭があり、生命力が強い。

「周囲に他の植物が生えないように、土壌に毒の成分を放出しながら繁殖する。」(『ヤバイ経済学』フリーク・ブァーミューレン著より)著者は、これを経営の世界に例えている。

一つの有力商品が出現すると、他を駆逐して同種の製品が市場から消えてしまう現象が起こるというのだ。

経営の世界だけでなく、都市圏への人口移動などもそうである。2040年。26年後には、日本の人口は激減すると、様々な公的機関の推計が指摘している。

更に「日本創生会議」(増田寛也元総務相:座長)は、この人口移動により、全国半数の自治体で、20~30歳代の女性が半減するといっている。一人の女性が生涯に産む子供の数を「合計特殊出生率」というのだそうだが、いくらこの数字が上がろうと、女性の絶対数が減少すれば、当然、子供の数も減少する。

その結果、例えば具体的に中四国地方の県単位でいうと、鳥取県、島根県、高知県などは、急激な人口減少によって、自治体そのものが単立では成り立たなくなり、26年後には消滅しているというのである。

こうして見ると、現在、人間禅で推進しているブロック制は、いつの間にか大局的見地からの、将来への布石にも成っている。

また「呉のメロンパン」でも指摘した様に、呉市の地方自治体としての優位性は、今後は一層拍車をかけて際立って来るということでもある。

26年前の1988年には、東京ドーム完成、瀬戸大橋開通、ソウル五輪開催、リクルート事件があった。26年後とは、この頃から現在までの間の期間の感じである。過ぎてしまって振り返れば瞬く間である。

バランスのとれた発展は、一極だけでは成り立たない。花一輪だけでは、ムリであり、余りにも寂しい。

梅雨明けももうすぐだ。

一人、今日も、ただ黙々と草を引いている。
本因坊 秀策は、文政12年(1829)、備後の国、現在の 広島県 尾道市 因島 の 生れ である。尾道には生家や墓碑、記念館などがあり、広島観光の隠れた名所である。
アニメ『ヒカルの碁』のヒットによる「囲碁ブーム」で、今や子供たちにも「囲碁史上最強の棋士」として親しまれ人気が高い。
若干20歳で本因坊の跡目となり、将軍の御前対局「御城碁」で19連勝し、一度も負けなかった。惜しくもコレラで33年の短い生涯を閉じた。
本因坊 秀策が無敵だったのは、優れた人格形成から醸し出される「平明秀麗な碁風」と、堅実無比で「正確な形勢判断」にあるといわれている。
囲碁は、石で囲んだ「地」を競う陣取りゲームである。しかし「地」ばかり取れば勝てるというものでもない。「地」と「厚み」のバランスが大切になってくるのである。つまり目先の損得だけでなく、大局的見地からの、将来への布石が必須の遊びなのである。
そして何といっても究極のロマンは「耳赤の一手」といわれる、真正の一打であろう。
そんな快心の一手を、痛快にピシッと打ち込んでみたい。

呉のメロンパン

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広島禅会 2014/7/5 4:42
呉のメロンパンは、フットボール状の長細い形で、中にクリームが入っています。通常のメロンパンは、呉ではコッペパンというのです。メロンパンという名前のパン屋さんもあります。
呉は小さな港町ですが、神戸や長崎のようにオリジナルのスイーツがあります。呉のメロンパンもその一つです。他にも、フライケーキ、アイス最中、ビックリ饅頭、鳳梨饅頭(おんらいまんとう)、イガ餅、広のカレーパンetc.いろいろあります。
また海軍で栄えた街だけに、美味しい食べ物が沢山あります。呉の細うどん、海軍さんのカレー、呉レーメンetc. また、肉じゃが も、舞鶴とその発祥の地を争っています。一節によると、航海中に海上で出来たのだとも・・・。
水が良く、近くの安芸津に有数の杜氏がいることから、全国優勝や金賞を受賞するような日本酒の蔵元も多くあります。
呉は不思議な街です。海軍で栄えた戦前には60万人もいた人口は、平成の大合併で島嶼部や周辺の市町村を統合しても、今は23万人と半分以下に減少しています。全体的には高齢化が進んで過疎化しているはずなのですが、年齢構成は必ずしも上がっていません。
それは、I H I (石川島播磨重工)などの造船業、日新製鋼、寿スチール、淀川製鋼、バブコック日立、王子製紙、セーラー万年筆などの製造工場がこの小さな街にひしめいていること。自動車のマツダも広島市の東側に本社工場群を持っており、さらに海上自衛隊があり、海上保安大学校、呉高専などの学校もあります。そして国立病院まであるのです。この小さな町に全国から若い人が集まって来ているのです。
また、JR駅沿線は、広島市のベットタウンとしてマンションが建ち並ぶようになり、特に呉駅周辺部は、大和ミュージアムや大型スーパー、スーパー銭湯などの施設もあり発展しています。そして旧来の繁華街であるレンガ通りも、意外なほど人通りが多く、若い人も多数見かけます。決して地方都市にありがちなシャツター通りなどではありません。市役所も庁舎の建て替えをしているくらいなので、自治体としての収益も悪くないのだろうと思います。
元々が海軍以来、明治以降に栄えた街であり、古くから住んでいるといっても、呉の場合には、ほとんどが海軍や海軍工廠の関係などで住み着いた人がほとんどだと思われます。市街地は、そんなに歴史的に古い町ではありません。
この「呉坐禅道場」以外の呉市街地での他の座禅会も、曹洞宗の寺が1軒と、臨済宗の寺が1軒ある位で、それもそのお寺の檀家さんが中心の坐禅会であり、「在家禅」の 坐禅会 はここだけです。競合先はほとんど無いのに等しいです。
このように詳細に検討してみますと、呉駅から徒歩10分程の好立地で、この呉の街の中心地に広島禅会の道場が持てましたことは、はじめに思いました以上に、とても幸運なことだったのだと再認識しています。
そして、有形無形にご支援をいただきました多くの全国の会員の方々に、改めまして心から深く謝辞を申し上げます。
本当にありがとうございました。


旅の終わりの悲哀

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広島禅会 2014/7/1 12:12


ある駅で一人のご婦人が、さめざめと泣いているのを見かけた事があった。「どうされたのですか。」と声を掛けたら、「とても楽しかった旅行がもうすぐ終わってしまう。また明日から、職場に帰ってまた働かなければならないと思うと、悲しくて涙が止まらない。」と言って泣き続けていた。

他界してもう久しいが、私の叔父は牧師をしていた。その叔父のハガキ布教の小冊子に見つけた一節です。

同じような経験が私にもあった。お茶の同好会のオフミーティングに参加して、四国に旅行した帰り道であった。その女性は名古屋で歯科衛生士をしているとのことだったが、数人が最後に岡山駅で別れる時に、同じように泣いているのを見かけた事があった。

どうやら女性は多感なようだ。

この様に、一般に「楽しさ」の向こう側には「苦しさ」が有る。

楽あれば苦あり。苦あれな楽あり。

それでいいのだ。

しかしこの様に、相対的な世界があるのと同時に、絶対的な世界もある。

これは云ってみれば「只、楽しい」、「只、苦しい」という切り口である。

人は生れて直後には、この絶対的な見方しか出来なかった。苦楽や損得あるいは自他というか、自分と母親との区別すらも出来無かったのである。

それが次第~~に智慧ついて、ものの分別がついてくると、違いが判りだして損得心が出来てくる。自分にとって都合の良いものと、都合の悪いものを見分けて、取捨選択することで、より上手く生きることを覚えていく。

そして逆に、相対的な見方しか出来なくなってしまう。

実に人間の悩みや苦しみは、ここから生じ始める。

ではどうすれいいのか。

赤子の時の様な、絶対的なものの見方を、同時に取りもどしたらいいのです。

つまりこれは、「三昧」を身につけるということで繋がるのです。

バランスよく、両方の見方が同時に出来たら、素晴らしいと思いませんか。

「禅」にはそのための、伝統的に極めて高度に完成されたトレーニングツールと、これを身につけるためのスキルがあります。

そして本当の知恵を身に着けた自分になろうではありませんか。

そんなに難しいことではない。

チャンスをつかむ人

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広島禅会 2014/6/28 10:40
あるテレビ番組のことである。
インタビュアーの村上龍さんが、スターバックスのハワード・シュルツ最高経営責任者に、「チャンスをつかんで成功する人  とはどんな人か。」 と問いかけた。
シュルツ氏は、「自分が世の中のために良いと信じることを、他の人に伝えたいという強烈な思いを持つことだ。」 と答えた。
 
善きことを広めるために、志を同じにする仲間を求めて組織体を作る。『社会貢献の意識』 がその根底にあり、チャンスをつかむ人の多くが、沢山の人々から支へられる理由がそこにあるというのだ。
この会社はアメリカでは初めて、全ての従業員に健康保険を与えたことでも知られている。一般的には企業の利益にならならないことであっても、正しいと思ったことは遂行する。「良心と魂を持った会社を作りたかった。」とシュルツ氏は語っていた。
その根底を貫いているのは、『社会をより良くしようとする意志』 であり、これはどの組織体にも共通する普遍の真理でもある。
耕雲庵立田英山老大師が、まず 「立教の主旨」 第一項 に掲げられた、
「人間禅は、自利利他の願輪を廻らして、ほんとうの人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのを目的とする。」 ということであろう。
そして大切なのは、『 それをより多くの人に伝えようとする 熱い強烈な思いを持つ 』 ことなのだ。
この熱きエンジンの始動こそが、幾多の苦難をも乗り越えて、人をして成功へと導いてくれるのである。
反対に、これをただの建前としか捉えられないというのでは、チャンスなどそこにあっても見えないということになる。
このごろ何度も反芻しながら、頻りに自分自身に問いかけている。

音戸ちりめん漁 解禁

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広島禅会 2014/6/25 12:42
 音戸のちりめん漁が、今年も解禁しました。

まだ新鮮なうちにUPしときます。(笑)

関西などでは「ちりめんじゃこ」と云っている様ですが、要するにカタクチイワシの稚魚ですね。

この辺では音戸の「秋いりこ」など、味噌汁などのダシも、いりこダシをよく使います。また「こいわし」の刺身や天ぷらなども、ごくポピュラーな料理です。

健康維持のためには、このような小魚からカルシュウムなどのミネラル分を摂取することが大切です。

しかしよく考えてみると、こんな日常生活のありふれた当たり前の事を、ごく自然に何の隠し事や嘘も無しに普通に話せると云うのも、在家禅の良さの一つですね。

お寺だと、こんなご時世の今でも戒律なのかどうなのか、一応不自由な建前がある様ですから。

音戸の瀬戸と云えば、平清盛がこの海峡を切り開く際に、沈む夕日を扇で返して工事を急いだという伝説があります。また人命を尊んで、人柱の代わりに一字一石の経石(一切経)を海底に沈めて、難工事を完成させたと伝えられています(1165年7月完成)。

きっと、つまらない迷信や悪しき慣習などに囚われない、心根の優しい人だったのでしょう。 

呉 市 歌

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広島禅会 2014/6/22 13:53
1 大和島根の 瀬戸の海に 久遠の光 仰ぐ国
  あゝ新潮の 高鳴りに 天翔り行く 鳳や
  呉市 呉市 大呉市
2 二河の流れ いや浄く 灰ケ雄峰の いや高き
  めぐしき自治の わが呉市 愛と正義の 光あり
  呉市 呉市 大呉市
3 聴け芸陽の 天高く 愛国の鐘 鳴りひびく
  こゝぞわれらの 理想の地 共に讃へむ 大呉市
  呉市 呉市 大呉市
 
作曲は、呉市出身の藤井清水(ふじい きよみ)である。
(童謡作曲家、民謡研究家。広島県 安芸郡 焼山村 出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲。あまり 世に知られていないが、『日本民謡大観』の元となる民謡の楽譜化を推進し、日本民謡の音楽的研究に多大に貢献した人である。)
 
こんな風な、世に密やかに、しっとりとした着実な真摯な生き様に憧れる。
 
♪ ~ くれし くれし だいくーれし ~ ♪ のフレーズだけは、呉市民なら大概知っている。
ほとんど軍歌調の歌なのが、呉らしくて好きだ。

円居

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広島禅会 2014/6/18 12:47
 

「氏人のまどゐる今日は春日野の

  松にも藤の花ぞさくらし」 (宇津保物語り 春日詣より)

 

ご承知のことでしょうが、「円居」は「まどい」であり、「集まってまあるく居並ぶ。また、一ヶ所に集まって会合をする。団欒する。」ことです。

最近、「円居」をなさいましたか。「円居」の習慣があるでしょうか。

学校の頃のことを想い返してみてください。遠足や運動会でのお弁当タイム、部活動でのミーティング、試合中の集まり、クラスでの打合せなど、きっと車座になって仲間たちと意見をぶつけ合ったり、多くのことを語り合ったりしたのではなかったでしょうか。

みんなが、お互いの気持ちを察しながら、お互いに育て合い、磨き合う。そんな「円居」の時間をもって、仲間たちと善きことに励み、本当の意味で楽しく過ごそうではありませんか。

クリエイティブな人の22の違い

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広島禅会 2014/6/12 0:34
ネットを見ていましたら、こんなのがありました。
クリエイティブな人は、外見からはまず判りません。
普通の人との違いは、日常のちょっとした物の見方の違いだそうです。
相当変わった人だと云う事だけは確かですね。

1.まったくアイデアが出そうに無い時にこそアイデアが閃く。
2.夢想ばかりしている。
3.すぐに飽きる。
4.子どもの心で物事を見る。
5.失敗しても、性懲りも無く、もう一回挑戦したがる。
6.「ちゃんと、きちんとした仕事をしなさい。」と言われ続けて来た。
7.理性では違うことを考えていても、心の赴くままに行動する。
8.時間を忘れて没頭する。
9.人が働いている時に寝たり、普通の人が寝ている時に働いたりする。
10.多くの人が「難しい。」と思った時に「チャンスだ」と思う。
11.自分の作品を気に入っていても、翌日には嫌いになる。
12.自分の作品を憎悪していたのに、12時間後には好きになっている。
13.謙虚なのにプライドが高い。
14.自分を表現する新しい方法を常に探している。
15.物事を平気で先延ばしにする。
16.コインの裏側を見ている。
17.限度という言葉が嫌い。
18.あまり数字は好きじゃない。
19.観察することが得意。
20.常に新しいことをしようとする。
21.平気で始めからやり直す。
22.どんなことでも愛する(感動する)。

もちろん、この全てが当てはまる分けではないのでしょうが、あなたは思い当たる事がいくつあったでしょうか?
大体、研究肌の人って、何処かこんな感じですよね。
かえって、こんな人こそ、禅に向いていたりするのかもしれませんが・・・。
お待ちしています。(笑)

「Let It Go:ありのままで」

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執筆 : 
広島禅会 2014/6/3 10:41
大ヒット中のディズニー映画『アナと雪の女王』の劇中歌「Let It Go:ありのままで」が、松たかこさんの日本語版などで話題を呼んでいます。
 
作品のテーマは、ありのままの本来の自分自身の姿を肯定的に再確認し、本当に自分らしい自分となって、自由自在に力を発揮すること。「レリゴー」と自分自身の本当の意味を読み解くことにあります。

今、老若男女を問わず、世界中の人々の共感を呼んでいるのは、やはりこの一点にあると云う事なのですね。
 



松たかこさんの日本語バージョンの歌詞
 
降り始めた雪は足跡消して 真っ白な世界にひとりの私
風が心にささやくの このままじゃダメなんだと
 とまどい傷つき 誰にも打ち明けずに悩んでた それも もう やめよう
 ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの
何も怖くないわ 風よ吹け 少しも寒くないわ
 
悩んでたことが嘘みたいね だってもう自由よ、なんでもできる
どこまでやれるか 自分を試したいの そうよ 変わるのよ 私
 ありのままで空へ風に乗って ありのままで飛びたしてみるの
二度と涙は流さないわ
 冷たく大地を包み込み 高く舞い上がる 思い描いて
花咲く氷の結晶のように 輝いていたい もう決めたの
 
これでいいの 自分をすきになって
これでいいの 自分信じて
光あびながら 歩きだそう
少しも寒くないわ