広島ブログ - 広島禅会さんのエントリ
来年6月に88歳となるので、皆様に早々と米寿を祝って頂きました。大変ありがとうございました。
幸いまだ元気で済生会呉病院の方で働かせていただいております。そして私自身の病気や、家族の病気などとも、付き合いつつ、何とか毎日を送っております。
最近の日常生活でいちばん困っているのはデジタルの波についていけないことです。仕事のデジタル化のスピードは驚くほどです。最近スマホを買ったのですが、この機械がまた、なかなかゆうことを聞いてくれません。
それでもまた最近、運転免許の更新をしたのですが、これがまたビクビクものです。家族から免許返納を強くすすめられています。しかしなかなかそうもゆかないので、極力注意をしながら乗っています。広島へ行くのは、電車かバス、夜は絶対乗らない、などです。
フレイル防止の為の運動などは、とくにしていません。その代わり日常生活の中で少しでも身体を動かすように努めております。なるべくエレベーターでなく、階段を使うなどです。しかしその際、怪我をしないことが最も重要なことです。
年を取って最も有難いことのひとつは、朝早目が覚めることです。コロナで飲酒する機が減ったこともあって、朝4時頃には起きて読書をしています。むかし買ったままツン読になっていた本を取り出してきて早朝の時間にこれを読むとゆうのは最高です。まさに至福の時間です。
今最も関心を持っているのは、坐禅です。毎週土曜日には、わたくしの病院の近所にある、人間禅呉道場へ行って、坐禅をします。ひとときすべてを忘れて、自己を見つめるとゆうことは一番大切なことです。死ぬまで続けてゆきたいと思っております。
優秀なスタッフのサポートもあって、仕事は楽しくさせてもらっていますが、至らぬ事ばかりです。これからもご迷惑をおかけすることと思いますが、どうかよろしくお願いします。
コロナ第5波が収束して、ほっとしていましたが、もう既に第6波が始まっています。気を引き締めてゆかなければならぬと思っています。
( 野間 仁翁 記 )

自動車の自動制御なども、目覚ましく高度に進化して来ている。
おそらく10年もすれば、このAIの発達によって、我が国の様々な仕組みも大きく変化していることだろう。明るい未来を切り開く、最も夢のある最先端分野の一つである。
我が国における、この分野の先駆者といえば、ロボットコンテスト(通称、ロボコン)の創始者であり、ロボット工学の世界的パイオニアである、森 政弘 東京工業大学 名誉教授であろう。膝が伸縮するタイプの 二足歩行ロボット と、その制御理論など、数多くの世界的な研究成果をあげて来た ロボット博士 である。

ロボットといえば、我々の世代は、直ぐに“鉄腕アトム”を思い浮かべる。
マーブルチョコレートに付いた“おまけ”のシールやワッペンを、筆箱や下敷きなどに貼って喜んでいたのを思い出す。その子供の頃の夢の世界も、今では一部はかなり現実化しつつある。

この 森 政弘 先生が、仏教、とりわけ“禅”に造詣が深いのもまた有名である。
静岡県三島市にある 臨済宗 妙心寺派 龍澤寺 の 後藤 榮山 老師 に、長年指導を受けられて来られたそうである。そして「二元性一原論」によって、多くのヒラメキを得たのだという。
冒頭の「 歩くロボット ~ 倒れないものは 歩けない ~ 」というのもそれである。
人は二足歩行するが、それはまず一旦バランスを崩して倒れようとする動きと、それを支えて倒れまいとする、相反する二つの動きの連続で歩いているのだというのである。
逆にいえば、初めから倒れようとしないのならば、歩けないというのだ。
我々、一人一人の人間もまたそうなのだろう。
人は皆“寂しい”ものである。だからこそお互いに支え合う。
ホモサピエンスという種が、社会的動物として群れを形成して生きる由縁がここにある。闘争し競争するのも本能だが、反面、協調し共感して仲良くするのも また本能である。
時には、その“寂しさ”に一人徹して、しっかり噛みしめてみることも、存外大切なことなのだろう。どんなに通信網が縦横無尽に発達した現代の日本においても、たとえインスタグラムを盛んに発信していても、その本質は、そんなに変わってなんかいない。
案外、思いもしない処で、独りションボリと佇んで居るのかもしれない。
いつか AI にも、この人間の持つ自然な情緒、“寂しさ”も、高度にプログラミングされる日が来るのだろうか。
( 光 禅 記 )
全豪オープン女子シングルス決勝戦。大阪なおみとレフティ(左利き)のクビトバとの対戦。自宅で強盗に襲われ、利き腕の左手を重症して、一時は引退かと目された どん底から、ここまで勝ち上がって来たクビトバ。この一戦に勝った方が世界ランキング1位だった。
大阪なおみは、第1セットを奪い、第2セット目もリードしていた。

しかし、3回連続のマッチポイントをクビトバにしのがれ、4ゲームを連続で失って、第2セットを奪われてしまった。
この時、大阪なおみは涙を流し、耳をふさぐしぐさを見せた。明らかに動揺していた。「勝つまえから、勝った気に成ってしまっていた。観客の声が、どうしても気に成ってしかたなかった。」のだという。
その直後、タオルを被って、トイレ休憩に向かい、心の持ち様をリセットしたのだ。
「私は、今、ここで、世界最高峰の選手の一人を相手にプレーしているのだ。昨年は4回戦で敗退だったが、今年は決勝まで来れた。自分に与えられた、今のこの時間 を 楽しもう。」と、思い直したという。
1分40秒 の トイレット ブレークの後、その表情はまるで別人のように落ち着いていた。「まるで 新たな試合をこれから始める様に見えた。」と、対戦相手のクレトバが後でそう語った。

どうやら彼女も 1分40秒 で、自分自身の 心の幻影 の 呪縛 から 離脱 し、正念の相続 に 回帰 できたようだ。
( 光禅 記 )

みなさんは子供の頃に、親ごさん や お爺さん お婆さん と一緒にお風呂に入って、数を数えたことがありませんか。
「温まるまで、50、数えようね!」などと言われて、私は小さい頃、母と一緒に肩まで湯につかって、よく数えていました。早くお湯から出たくて、必死に数えたのを覚えています。
大人になった私は、船で働くようになりました。私の船のブリッジには天井も窓もなく(笑)、今の時期、ブリッジの椅子に二時間も腰掛けていると、北風と仲良しになって、体が冷え切ってしまいます。
船から上陸して、一番初めに向かうところは、どこだと思いますか。そう、お風呂なんです。
家のお風呂じゃなくて、銭湯など、湯船の大きな処に行くことが多いですね。
はやる気持ちを抑えて体を洗い、しずしずとお湯に体を沈めると、「嗚呼!」と自然に声が出てしまいます。
銭湯や温泉などは、湯温の高めなところが多いじゃないですか。先ほどまで北風と一緒に過ごして冷え切った体には、お湯の温かさが沁みてきます。

目を閉じると、自然と心の中で数えてしまいます。「ひとーつ、ふたーつ、みぃーつ」、どこまでも、数えられちゃいます。子供の時には早く出たかったのに不思議ですね。
そのうち陶然としてきます。
天井からポトリと落ちた雫が顔に当ったり、女風呂からオバチャン達の笑い声が聞こえてきたりして、ふと我に返ります。
「あー、気持ちよかった!」と満足して、また船に戻るのです。
こんなお風呂の入り方を、今の大人の私は楽しんでいます。みなさんは、どんなお風呂の入り方ですか。
( 渡辺 大海 記 )

この本は渡辺和子さんの全集の中の一つですが、他にも 若い人向けの講話や、入学式や卒業式での告辞などが収められていました。「雑用などありません。用を雑にした時に雑用になるのです。」「卒業式には さようなら ではなく、必ず いっていらっしゃい と伝えています。」などの言葉が収められています。
彼女のお父さんが 渡辺 錠太郎 陸軍中将 なのは、ご存じの方もあると思いますが、彼女が小学校3年生で9歳の時に、自宅で二・二六事件に遭遇し、大好きだった父親が、目の前で43発の銃弾を浴びせられて惨殺されるのを目撃したことが、彼女がキリスト教に生涯を捧げられた、大きな動機だったのだそうです。幼かった彼女の 恐怖、胸の痛み、喪失感は、一体どれほどのものだったでしょう。
幼き日に、そんな壮絶な体験をされた彼女だから、卒業生には「さよなら」でなく「いってらしゃい」と伝えているという言葉は、胸に強く響いてきます。
私は或る総合病院の事務の仕事をしているのですが、昨年の春に転勤で岡山から呉市に移り住んで来ました。そしてこの夏には、豪雨災害に見舞われた呉市で、様々な人の悲報を直接見聞きしました。また今年は、大阪や北海道などで、台風や地震の災害も群発しています。
この街の何処かにも、突然、大切な人との別れを経験された方もいらっしゃるかと思いますが、私自身も「別れ」や「死」について、今一度、真正面から、逃げずに、静かに捉え直してみたいと思います。
そして、渡辺和子シスターが説かれているように、たとえ一般の多くの他の人達とは違っていても、いつの日か 自分だけの、自分らしい、かけがえのない人生を、暖かく肯定して受けとめ、大切にしていきたいと思います。
( 増田 安風 記 )
あるいは、そのころ街で流れていた、流行歌の場合もあります。聞いたり歌ったりしていると、何となくその懐かしい日々の気分に浸れるものです。
しかし、このような視聴覚から入ってくる情報などより もっと強烈なのは、匂いや味、季節の風などです。北風と焚き火の煙の匂い、思い出のチャーハンの味、金木犀の花の香り、夏の日の熱風など、出会った瞬間に心は急激にワープします。
先日、女流作家で 天台宗の僧侶の 瀬戸内 寂聴 師 が、俳句番組で「テレビで話すのは、ほんとはとても恥ずかしいのですが、自作の俳句の中で一番好きなのは 『 むかし むかし みそかごとあり 桜餅 』 と云う句です。」と話されていました。高齢の尼僧には余り似つかわしく無い、艶っぽい句ですが、若い頃には文芸に命を捧げ多情に生きた彼女にとって、春の“桜餅”は、やるせなく甘く切ない道ならぬ恋の一つに通じた、かけがいの無い一筋の大切な付箋なのでしょう。
もしかしたら この度の豪雨災害で、辛く哀しい思いをされた方も、あるかも知れません。しかし そんな中、

そして時の移ろいは、いつしか全ての思い出を、美しく 愉快で 楽しい ものに、自然に浄化してくれるからです。辛かったこと、哀しかったこと、苦しかったこと、腹が立ったこと、悔しかったこと、恥ずかしかったこと、恋しかったこと、切なかったことなど、行き場の無い全ての思いを、心の中の大切な宝物に浄化してくれます。
本当に豊かな人生の宝物とは、そんな様々な小さな思い出を手繰り寄せる、ささやかなタグ(付箋)のことなのかも知れませんね。
( 光 禅 記 )

このごろ刑事物のテレビドラマを見ていますと、警視庁 捜査1課 という部署は、どうやら凶悪犯罪の担当部署のようです。
そして赤い丸バッジを左の襟元に付けた、警視庁でも花形の部署のようです。
そして、そこの代表者である 捜査1課長 と云うのは、いわゆる警察のキャリア組などではなく、また昇進試験に合格して出世してきたのでもなく、ただ兇悪犯を数多く逮捕してきたと云う実績と実力とで評価されてきた、いわゆる叩き上げの人物として描かれています。
おそらく現実にも、きっとそんな人材が多いのでしょう。俗に「1課長(イッカチョウ)」とよばれる人物です。
そしていつもドラマを見ていて面白いと思うのは、いつか将来「1課長」にでも成るかも知れないと云う有望な新人を「1課長の運転担当」として選んで、秘書役的に常に傍に随行させていることです。
もちろんそう云う仕事をする人が必要なのでしょうが、これはそれ以上に教育的な意味合いが大きいのだと思います。
運転担当と云うのは、ほとんど四六時中、代表の責任管理者に随行しているのですから、急な呼び出しも多く、仕事的には大変過酷な部署なのだと思われます。しかしその反面、とても遣り甲斐のある光栄な役職の一つなのでしょう。
我々の禅の集いでも、侍者(隠侍)と呼ばれる役目があります。
摂心中(一ヶ所に集まって、集中的に坐禅や作務、公案の工夫をする期間)などでは、常に老師(指導者)の傍らで、秘書的な仕事を担当するのですが、食事を作ることや、洗濯、掃除、風呂の用意、薬の用意、床の上げ下ろしなど、老師の生活全般の世話を全て担当します。
もちろん、この様な細やかな心配りに元々向いている人を選任する場合もあると思いますが、同様に、教育的な意味合いもあるのだと思います。
そんな風に人から人に直に何かを伝えていくと云うのが、きっと どの世界でも大切な日本の伝統なのでしょうね。
( 光 禅 記 )

(両城の石段、摂心初日の早朝に踏破)
〇 二百段 霜の朝闇 一歩づつ
〇 子規も見る 大船寒し 呉の海
(佐久間艇長の遺碑を拝して)
〇 鯛の宮 遺文を胸に 花堅し
常 明

蔵六庵 廣内 常明 老師 が、この度の1月25日~28日に行なわれた短期摂心会から、広島をご担当してご指導して下さっています。上の俳句は、その時、呉坐禅道場の近隣を散策されて詠まれたものです。
老師は、英語がとてもご堪能で、横浜や岳南(熱海)などでは、外国の方の禅のご指導もされておられますよ。
映画『永遠の0』の、ワンオクの挿入歌『Fight The Night』です。

ONE OK ROCKのボーカルTakaの透明な歌声が素敵な歌ですね。
Taka(森内貴寛)は、随分前に別れていますが森進一と森昌子の、男子 三兄弟の長男としても有名ですよね。
1. Here comes the rain
So many scars never fade
This is the price of war And we've paid with time
We'll fight fight till there's nothing left to say
(Whatever it takes)
Fight fight till your fears they go away
The light is gone and we know once more
We'll fight fight till we see another day
2. Let's move along, it's late
The sun will rise once again
This field is lined with the brave Souls in relief
We'll fight fight till there's nothing left to say
(Whatever it takes)
Fight fight till your fears they go away
The light is gone and we know once more
We'll fight fight till we see another day
Another day
Whatever it takes…
Whatever it takes…
3. Here comes the rain
So many scars never fade
This is the price of war And we've paid with time
We'll fight fight till there's nothing left to say
(Whatever it takes)
Fight fight till your fears they go away
The light is gone and we know once more
We'll fight fight till we see another day
We'll fight fight till we see another day
We'll fight fight till we see another day
正確では無いでしょうが大体の意味としては、こんな様なことですかね。
雨が降ってきた。
沢山の傷跡は 決して消えたりはしない。
これが 戦いの代償なのだろう。
そんなことに 多くの時間を費やしてしまってきた。
そして 言葉ではもう言い尽くせないところまで 唯 戦うのだ。
闘い抜くのだ。
何があっても。恐れが 消えて無くなるまで戦うのだ。
そして、闘う光が消えて。漸く微かに知るのだ。
目指すべき 更なる日を見るまで、闘っていくのだ。
さあ前へ進んで行こう。悔やんでも もう遅いから。
日はまた昇る。
大地には 勇気の証 が立ち並ぶ。
救いの魂たちが。
表面上の意味は、戦争とその悲惨な傷跡のことなのでしょうが、私たち一人一人が 生きて行く中での様々な内なる葛藤、『心の闇との闘い』を歌っているのですよね。
とてもとても受け入れ難いことを、受け止めなくてはいけないのは、時間もかかるし、恐ろしく莫大な エネルギー がいる事です。
本当の答えを得心する瞬間は、夜の闇が明けた時、明日を迎えた自分にしか無いのですから。
今は何も見えなくても、答えなど判らなくても、唯、自分自身を信じて、勇気を出して、前に進もう! 飛べ!
さぁ・・・!!
( 光 禅 記 )

呉や広島では、そのせいなのかどうなのか、映画が封切られてすでに数年経った今でも、時々 この歌を聞く事があります。
(ただ歌いやすくて、いい歌と云うだけなのかもしれませんが (笑) )
本来は男女の出会いと愛情がこの歌のテーマなのでしょうが、潜水士は2人一組でバディ(相棒)を組んで潜る事から、そのお互いの友情と信頼関係にも通じているのかもしれませんね。
呉坐禅道場の南正面に、『海猿』の映画で、ロケ地に成って有名に成った『両城の200階段』がよく見えます。
① Destiny

この出会いは奇跡のように ほら、君と二人巡り合えた Suddenly
You have changed my life
その全てが、いま きらめきを放つ memories
明日への ray of light 輝く空に続く道
離さない(I Believe) このまま たとえどんなことが あっても
もう離れない(I Believe) 必ず 君といくよ あの場所へと
一人じゃない I'll be by your side 信じる勇気を 強く胸に抱いて
I Believe
② Silently
言葉なんていらないから そう、君がそばにいるのなら Hand in hand
はじめは小さな力でも We can make it through 大きくなる
希望の ray of light 輝く空に続く道
変わらない (I Believe) 想いは たとえどんなことが あっても
もう怖くない(Don't be afraid) 'Cos I'm with you 共に描く未来の先へ
一人じゃない I'll be by your side 信じる勇気を 強く胸に抱いて
I Believe
③ I'll be strong
いまなら 振り返らない 乗り越えていく you and me, yeah
この地球(ほし)の上で 繋げてゆく愛は 消えないから I Love You
離さない(I Believe) このまま たとえどんなことが あっても
もう離れない(I Believe) 必ず 君といくよあの場所へと
一人じゃない I'll be by your side 信じる勇気を 強く胸に抱いて
I Believe
( 光禅 記 )

日本には、2週間くらい滞在し、東京より西の、神社や寺院などを参拝して周っておられるのだそうです。
この後、宮島に行かれ、九州の小倉にある人間禅の鎮西道場を拠点として、鹿児島などを歴訪されるそうです。
日本の神社仏閣巡りの旅の途中に立ち寄って、呉道場で一泊されたのですが、学長さんは呉駅の近くのスーパー銭湯『大和の湯』に行かれて『景色も素晴らしく、人生最高の入浴だった。』と、とても感激されていました。
どうも向こうでは、湯船に浸かる習慣はないのだそうですね。

海外から来た人が、いったい何に感動され喜ばれるのかは、判らないものですね。
( 光禅 記 )

私が総裁になったのは11年前ですが、それから残念ながら4支部が支部から禅会に降格になりました。そして今までに新しい支部が、11年間で3支部設立され、この広島で4支部目であります。
支部の数としたら差し引き同じということではありますが、実はそれで単にイーブンというのではなくて、降格した4支部は、すべてしっかり禅会として再起を賭けております。そして新しい、広島も含めた4支部は、この4支部とも全く1からの出発なのであります。
その4支部の中の最後のこの広島支部は、特に今までの支部と異なって、全く0から立上げて支部と成った、昨今では稀な支部であります。
よその周辺の会員が集まって、その支部のある所の新到者と一緒になって支部を立ち上げるというのが通例であった訳ですが、この広島は、光禅親子を中心にして静坐会が始まり、そして禅会が始まってから16名の人たちがこの広島から参上して、そして会員になった、まさにこの広島の純正のマツダ自動車と同じように、純正の広島支部であります。
ここまではとにかく、いろいろな方々、まさに天の時、地の利、人の輪が揃って、今日の支部創設になったわけであります。直近の広島禅会の担当師家の目から見ましても、老若男女、バランスの取れた、そして魅力的な支部になったという風に思います。
しかし「創業は成り易く、守成は成り難し」であります。どの時代、どの時代にもそれぞれのその時代の風土といいますか、価値観といいますか、そういうものをよくしっかりと掴んで、その時代に適合した布教の在り方をやらなければならない訳です。
次の世代、次の 次の 世代 まで持続発展するために、これから「守成は成り難し」という段階を、しっかりとやっていただきたい訳であります。今日ももちろん、さることながら、やはり何が大切かと云いましても「正しい修業が、熱く継続され続ける。」ということであります。その修業全体に『徳が生きている。』。そういう集まりであってほしいと思います。
藏六庵老師のご指導の下に、これからますます精進して、次の世代、次の 次の 世代、次の 次の 次の 世代 まで 悠々と、広島全体に、この人間禅の法帖を広げていってもらいたいと思います。
平成29年10月15日
人間禅 広島支部 呉道場 に 於いて。

講談で有名な「眞壁の平四郎」の一段ですが、東北の松島、瑞巌寺に伝承されてきたお話しです。
瑞巌寺は、老大師( 耕雲庵 立田 英山 人間禅 第一世 総裁 )が見性された因縁のお寺です。
時は、本能寺で信長が討たれた天正年間。
東北の小藩主、真壁の時幹(ときもと)の下僕、平四郎のお話です。
ある冬、凍てつくような寒い雪の日のこと、平四郎は真壁時幹(ときもと)のお伴をして侍屋敷に出向きました。
よほど困難な案件だったのか、なかなか時幹は戻ってきません。
東北独特のしばれるような寒さの中で「時幹様のお履物が凍てついてしまったら大変だ。お帰り道にお困りになる。」とばかり、身を切る寒さの中で平四郎は、時幹の下駄を自分の懐の奥深くに仕舞いこむ。
ただでさえ震えるように寒い玄関口で、我が体温を主人の履物に送り、温め通す平四郎でした。
何時かが過ぎ「郡主殿、お玄関、御出まし~!」の相図で、素早く温かい履物を玄関口にお揃えする平四郎。
手柄を誇るつもりはなかったが、少なくとも喜んでほしかった。
下駄に冷え切った足をすっと入れる時幹。その瞬間、鋭敏な時幹は、足裏に伝わる暖かさに気づく。
それと同時に時幹は「おのれ平四郎、わが下駄を尻にでも敷くとはけしからん。これへ参れ!」と命じた。
全く思いもかけぬことに、時幹は平四郎の労をねぎらうどころか「私の下駄を腰掛にしよって、今の今まで横着にも休憩していたに違いあるまい。」と曲解し「こんな汚れた下駄が履けるものか。」と、下駄を手に取りあげ、平四郎の頭上めがけて有無を言わせず何回となく打ちすえた。
平四郎の頭は割れ裂け、周囲の雪面に赤い鮮血が散らばった。
噴出する血を手で抑えもせず、平四郎は頭を垂れてなされるがまま立ちつくすほかない。
「おのれトキモト、この恨み晴らさずにはおられまい。きっと、きっと、きっとこの平四郎に向かって平伏させてやる。」と腹を固める平四郎。
時幹のもとを飛び出し、平四郎が目指した場所はなんと中国(宋の時代)。
主人に対して単純な報復をしても始まらない。
平伏させ、平謝りさせる方法をいろいろと考えた結果、平四郎は僧として大成する道を選んだ。
立派な僧侶になれば、殿様といえども頭を下げさせることができる。
中国で高名な径山(けいざん)の 無準禅師のもとを訪ねた平四郎。
中国語がさっぱり分からない。
おまけに仏教用語もわからない。
皆目 訳が分からない、見当もつかない中で修行が始まりました。
無準禅師が書いてくれた「丁」の文字を連日ながめながら、座禅と修行の生活に入る平四郎。
「丁」ってなんだ????わからない。いくら考えてもわからない。
やがて、わからないこともわからなくなるほど、わからなくなっていきました。
やがて考えることをやめ、ひたすら目の前のことにひたすら専心するようになりました。
時は移り、九年たったある日、ついに平四郎は大悟し、悟りを極めたのです。
無準禅師から法身性才禅師と名づけられるほど、堂々たる禅師になっていました。
勇躍帰国し、大殿様・伊達政宗候の帰依を得て、瑞巌、円福寺を再興させた法身性才禅師。
ある日、政宗候とともに瑞巌円福寺に招きを受けた、小藩・真壁の郡主時幹は、床に飾ってある下駄をみてけげんな表情を見せました。
その様子を見て、法身性才禅師こと平四郎は、
「 一上径山弄風光 帰来応天目道場
法身覚了無一物 咄是真壁平四郎
(一たび径山に上りて風光を弄す。帰り来って天目道場に応ず。
法身を覚了すれば無一物。元是れ真壁の平四郎。) 」
と、唄うかのように叫びました。
「あっ!」とおどろく元主人の時幹。
「あの平四郎・・・」
「さよう、あの真壁の平四郎なり。あの下駄殴打を今すぐここで謝罪されたし。」などと野暮なことは言わない。
平四郎が時幹に言った言葉は、意外にもこんなものでした。
「ご主人様のあの下駄のお陰で、今日瑞巌円福寺が再興を果たせたのでございます。」と当時の郡主に頭を下げ、心からなる御礼を申し述べたというのです。
「主人を平伏させる。」という復讐の動機で、中国に渡った平四郎だが、道を究める過程で恨みは、いつしか感謝の心に変わっていたのでした。
人は感謝の心で、幸福感を得られるのだそうです。
「我が身に起こる困難は、自分自身の心を成長させるために起こる。」と受け止めて努力もし、困難を乗り越え、ついに困難にも感謝することになったということなのでしょうか。
皆、人々、それぞれ置かれた立場々々で、進学・就職、恋愛・結婚、出産・育児、転勤・昇進、配置転換、更には独立起業、ついには定年、継承、そして患病、介護、果ては老後、末後終焉に至るまで、とかく心波立つことの多いのが、人の世の常の様です。
しかし例えどの様な風であっても、お互いがいつか 暖かい感謝の思いで受け止められる様でありたいものです。
光 禅 記
【 旗旒信号とモールス信号 】
少し前ですが、古い友人が呉を訪れた際、港に出入りする艦船が用いる信号旗とアルファベットの対応表を一緒に見る機会がありました。
彼が「これは面白い・・」と笑ったのが、Z旗で、もともとの意味は「本船はタグボートを必要とする」というもので、推進装置が故障したから助けてくれ・・という情けない内容です。
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しかし、ご承知の通り、Z旗は日本では特別な意味を持ちます。日本海海戦の際に旗艦「三笠」に掲げた旗です。「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ」ということで、国力を消耗した日本にとって、まさに後が無い最後の戦いだったから、アルファベットの最終文字を使った訳です。
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聞くならく、Z旗は真珠湾攻撃の際にも掲げたそうですが、これはどうでしょうか?
この作戦は戦争を開始する緒戦だったのですから、A旗の方が適切だったのではないでしょうか?全ての戦いは乾坤一擲ですが、真珠湾攻撃の場合は、その後にも多くの海戦が予想される長期戦の始まりだったのですから、これでおしまいというZ旗は似合いません。
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私がかつて勤務した製鉄所にはZプロジェクトという組織が存在しました。ジリ貧の鉄鋼の業界で画期的な技術革新をしなければ生き残れないという考えで、精鋭の技術者を集めた横断的組織としてZプロは作られ、技術開発と研究を推進しました。そのチーム長の席の後ろの壁には、大きなZ旗が掲げられていました。確かにZプロからは画期的な技術が生まれ、成果を挙げたのです。しかし、経営方針の変更で、やがてZプロは解散となり、その後、技術開発は停滞していきました。Zプロを率いたチーム長は閑職に異動となり、その後亡くなりました。その十数年後にその会社はライバル会社と経営統合になり、Zプロが開発した技術の幾つかは、ライバル会社の競合する技術に置き換えられ、姿を消しました。なんだか日本海軍みたいです。
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今は他の通信手段が普及し、信号旗で船舶や艦船が連絡を取り合うことは殆どなさそうです。民間船舶の場合、船舶電話がありますし、衛星携帯電話も使えます。
軍艦の場合は傍受や暗号解読が難しいデータリンクというシステムを使います。
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旗を用いた旗旒信号やモールス信号を用いた発光信号、手旗信号などといった古典的な通信はまず登場しまい・・と思っていましたが、そうではありませんでした。
1980年代、樺太上空で大韓航空のジャンボジェット機がソ連(当時)の戦闘機に撃墜された際、墜落現場に日本の海上保安庁の船が向かう途中でソ連の警備艇に妨害されました。警備艇には、3字信号の旗旒信号PP1が掲げられました。その意味は「我を追い越すな」です。
実は便利なデータリンクは自国の軍隊または友軍の間でしか使えません。敵国、あるいは違う言語やプロトコルを用いる国の船とは使えません。
ソ連の艦船と日本の船が連絡を取り合う時、そこで国際信号旗が役に立つのです。
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敵国の艦船との通信の場面は、多くの映画に登場します。「レッドオクトーバーを追え」では追跡するアメリカ海軍の原潜が、ソ連の原潜「レッドオクトーバー」と何とか通信しようとして、艦長が発光信号機を用いてモールス信号を送信します。「アナポリス(海軍兵学校)以来だから、自信がないが・・」と言いながらアルファベットの英文を送るのですが、不可解です。相手はロシア人で、ロシア語を話し、使用する文字はキリル文字です。「通じるのかしら?」と思いますが、問題はありません。なぜならレッドオクトーバーの艦長はショーン・コネリーで、艦内の乗組員も、なぜか全員英語で会話しているからです。実に奇妙な映画です。
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モールス信号や旗旒信号に最もこだわったのは、宮崎駿のアニメです。モールス信号は、「天空の城ラピュタ」にも登場しますし、「崖の上のポニョ」では5歳の幼稚園児が、猛烈な速さでモールス信号を発光して沖を通過する船に連絡します。 そんな事はある訳ないさ・・と思いました。
そして、旗旒信号が登場するのは「コクリコ坂から」です。この映画では、海で亡くなった父を想う少女が、毎日、旗旒信号を掲揚するという習慣がひとつのポイントになっています。映画を見た時には、掲げられる信号旗の意味を解読する余裕は無かったのですが、後でタイトルの絵を見れば、2字信号でUWとなっています。
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これは出船に対しては「ご安航を祈る」、入船に対しては「ようこそ」の意味の国際信号です。 「Von Voyage」または 「一路平安」 に近い意味です。
港の入り口などに、この信号旗が掲げられているそうですが、「普通の民家で旗旒信号を掲げるなんて、そんな事はある訳ないさ・・」と思っていたら、実はありました。
・・・・・・
呉の港を見下ろす傾斜地の上にある、一軒の家には、いつも2文字信号のUWが掲げられています。「海猿」で有名になった200段の階段の上の方で、海上からも見える場所です。他人の家の写真を勝手に掲載するのもどうかと想いますが、既にGoogleのStreet Viewでは見られますし、ご本人も見られることを前提に旗旒信号を出されているものと思い、アップします。
・・・・・・
なるほど、本当の「コクリコ坂」は、横浜ではなく呉にあったのだ・・と気づきます。
そして呉では、港から離れた場所に、もうひとつ旗旒信号を掲げる場所があります。
呉の休山の高台にある長迫公園は海軍墓地でもあります。でも特定の個人の墓ではなく、第二次大戦までの多くの艦船の記念碑が、所狭しと並んでいます。そして奇妙なことにそれらの石碑の前には十字架のように、アルミニュウムのポールが立っているのです。
http://www.geocities.jp/hashirouvx800/kaigunboti.htm
・・・・・・
「キリスト教徒という訳でもないのに、この十字架は何だ?」
怪訝な顔をすると、海上自衛隊の幹部自衛官だったNさんが教えてくれます。
「これは旗旒信号を掲げるための檣(マスト)を模したものです。慰霊祭などの式典の時にはここに旗を飾るのですよ」
・・・・・・
「なるほど、日本海軍の軍人はやっぱりZ旗なのだな・・」と思いますが、「待てよ?」とも思います。 信号旗にはいろいろ意味があるけれど、死者を悼む信号旗、鎮魂を祈る信号旗などありません。 「一体、どの旗を掲げればいいのだ?」 丘を埋め尽くす、夥しい数の軍艦の墓標を前に私は粛然とした気持ちになりました。
水夫(かこ)の碑の 旗無き棹に 秋の風
心鏡 記
「一見、ムダに見えるものでも、実は大切な役割を果たしている。」 という お話し です。
ムツゴロウこと 畑 正憲 さん に、次の様な お話し が有ります。
あるサーカスに10頭の虎がいました。8頭はシベリア産の虎で、2頭はインド産です。
シベリア産の虎は、とても頭が良く、芸もすぐマスターします。
しかしインド産の虎は、怠け者で頭も悪く、まったく芸を覚えません。
「なぜこんな物覚えの悪い虎を置いておくのですか ? 全部シベリア産にすればいいじゃないですか。」
と、ムツゴロウさんが聞きました。
するとサーカスの人は、
「これでいいのです。全部シベリア産にすると、すぐケンカします。インド産の怠け者がいることで全体がなごやかな雰囲気になり、調和が保たれているのです。」
と答えたそうです。
これはサーカスの虎だけでなく、アリにも似た様なお話しが有ります。
100匹のアリがいると、その中の20匹は、必ず怠けているそうです。

皆が働いている時に、ノラクラと働かない怠け者がいるのです。
「それじゃ、どうしょうも無いから、働かない怠け者の20匹は除けてしまえ。」と、その20匹を除けると80匹になります。
すると、その中の2割が、また働か無くなってしまいます。
これは何匹にしても、必ずその中の2割が働かないそうです。
そういう習性がアリには有るそうです。
「無用の用」という荘子の言葉があります。
決して合理的でも効率的でも無く、損得で考えても、ただ単なる「無駄」というもの。
そんな「何の役にも立たないもの」も、実は大切な働きをしているというのです。
ムダを排除することは必須条件でも、「必要なムダ」もあるということです。
例えば、車のハンドルの「アソビ」のようなものでしょうか。
アソビがなければ、ハンドルをちょっと動かしただけで直ぐ曲がってしまって、車は運転できません。
日常、毎日の生活の中で「一日一炷香」と云った、他に何もしない、何も考えない、只坐禅だけをすると云う、一見無駄とも思えるような時間を持たないなら、およそ味もそっけもない、つまらない人間、つまらない人生にしか成り得ないのかもしれませんよ。
光 禅 記


きっと大抵の人はご存知なのだとは思いましたが、少し調べてみました。
やはり理由があるようです。
日本は地形上、夏の季節風、つまり太平洋高気圧からの湿った風が山脈に当たり、湿った空気が溜まりやすいのだそうです。
人間は汗をかいて、気化熱で体温を調整するのだそうですが、湿度が高いと気化しにくいとのことです。
どうやら赤道に近い乾燥地帯の方が、よほど過ごしやすいようです。
「人は皆 炎熱に苦しむも、我は夏日の 長き事を愛す」と云う禅語もありますが、今の日本の夏は、とにかく蒸し暑く不快なだけでなく、熱中症による生命の危険すらあります。
やはり太平洋側にある都市の、アスファルトやビルに囲まれた市街地区などでは、エアコンと上手に付き合う必要がありそうですね。
暑い夏、涼しい滝や山の小川の水に触れてみたいものです。
友 松 記
単なる宴会ではなく、俳句の句会も兼ねていた事は知っていましたから、いずれ俳句は作らなければ・・と思っていたのですが、まだ作っていませんでした。
そこで咄嗟に浮かんだ駄句を書き込みました。慌てたので、その直前まで頭の中で考えていた事を盛り込みました。
我が駄句を、そのままここに紹介するのも厚顔の極みですが、恥を忍んで書きます。
「 漆黒に 汝(な)がVie(ヴィ)の如く 花火降る 」

Vieは、フランス語で人生の意味ですが、俳句の文句にフランス語の単語を入れるのは、かなり気障ではないか・・・と自分でも思います。
では、なぜそんな気障な言葉を使ったかと言えば、その直前まで、芥川龍之介の「舞踏会」のことを考えていたからです。
芥川龍之介の「舞踏会」は、フランス海軍の士官だったピエール・ロティが書いた小説「お菊さん」を元に、そのモデルとなった老婦人との会話を書いた短編小説です。
作品「お菊さん」自体は、エキゾチックな存在と思われた鹿鳴館時代の日本人女性をロマンチックに紹介するだけの駄作と言うべき小説だったようです。(私はあらすじだけを知っており、本文は読んでいません。・・・フランス語を読めないので)。
西洋人の青年と、アジア人の女性が恋に落ち、やがて男性が去って女性が残されるというパターンは、よくあります。
私はこれを「蝶々夫人型」と呼びますが、「ミス・サイゴン」も映画「慕情」も皆このパターンです。ピエール・ロティの「お菊さん」も典型的な蝶々夫人型作品です。
面白いのは、芥川龍之介がこの作品を研究し、そのモデルとなったH夫人へのインタビューを小説にしている事です。
小説ですから、本当にH夫人に面会したかは不明です。
そじて、その「舞踏会」に、フランス人将校と日本人女性(明子)が、舞踏会場の外に出て、夜空に上がる花火を眺める場面があります(以下、青空文庫から引用)。
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その時露台に集つてゐた人々の間には、又一しきり風のやうなざわめく音が起り出した。明子と海軍将校とは云ひ合せたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧してゐる夜空の方へ眼をやつた。其処には丁度赤と青との花火が、蜘蛛手に闇を弾きながら、将に消えようとする所であつた。明子には何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」
暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた。
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この中で、フランス人将校は人生(Vie)を花火に例えています。
鹿鳴館に集い、ダンスに興じる人達も、一生を通じて華やかな生活が続く訳ではなく、若い男女がきらめいているのは、花火のごとくほんの一瞬です。
そして日本の歴史を見ても、鹿鳴館を中心として、ヨーロッパ的な社交界が存在したのは、ほんの一時期です。
その刹那の輝きを花火に例えたのは、多分ピエール・ロティではなく、芥川龍之介でしょう。
不思議なことに、芥川龍之介も菊池寛も、処女作は老人をテーマにした作品です。
自分自身が若い頃に、敢えて老人の視点を研究して小説を書いているのです。
そして芥川の場合、「舞踏会」でも、既に老境に達した女性が若き舞踏会の日々を回顧する形の小説にしています。
これも、よくあるパターンで、私は「舞踏会の手帖型」と名付けています(誰も支持してくれませんけれど)。
面白いのは、芥川の「舞踏会」を三島由紀夫が研究していることです。
彼が指摘したことですが、芥川は、初版と後期の版で、小説の結末を変更しています。
最初の版では、H老婦人は、かつて自分がダンスの相手をしたフランス人青年がピエール・ロティその人であり、自分が「お菊さん」のモデルであることを知っていましたが、後の版では、それを知らないことになっています。
これは芥川が推敲した結果の変更であり、私如きがコメントする事はできませんが、変更後の、老婦人がピエール・ロティと「お菊さん」を知らない結末の方が、小説として優れているように思えます。
三島由紀夫はどちらがいいとは書いていません。
しかし、三島がこの作品をリスペクトしていたことは間違いなく、それに対する回答として、戯曲の名作「鹿鳴館」を書いたのだと・・私は思います。
ちなみに、芥川と同じ早熟の天才作家、三島由紀夫は16才で処女作「花盛りの森」を書いていますが、これは老人の視点で書いた作品ではありません。
芥川と三島の違いの一つです。
そんな事を考えた直後に、俳句を書くよう迫られたので、私は思わず花火をVieに例えて表現しました。
「なんだ、芥川の小説からの盗用か・・・」と言われる前に、このブログで白状します。
本当なら、ピエール・ロティ=芥川龍之介=三島由紀夫と続く系譜の後に、小生も文学作品で表現できればいいのですが、そんな才能は全くありません。
せめて、呉の花火大会を眺めて、また駄句でもひねりたいな・・と思うだけです。
心 鏡 記
