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呉坐禅道場

呉坐禅道場
呉市両城2丁目2-11
(呉駅から西 徒歩10分)

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広島ブログ - 最新エントリー

絶妙なバランス

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広島禅会 2016/6/25 10:05
ある映画でコマを題材に面白い話があった。
コマは高速で回り続ける時、一点を軸にほとんど静止したように動かなく見える。
しかし回るスピードが下がってくると、軸にしていた一点から徐々にずれるようになる。そしてコマの軸は傾き、揺れ始める。
前者の状態を「千早振る(ちはやぶる)」。後者を「荒振る(あらぶる)」とも表現できるそうだ。


荒振るコマはバランスが悪く、不安定であることに対して、千早振るコマは猛烈な旋回で真ん中の軸を中心に均整がとれている。
その話を聞いた時、コマのほとんど止まったような凛としたとした姿がイメージとなって映画の後も頭の中に残っていた。


ハイスピードで回るコマは一見止まっているかのようであり、それでいて凄まじいエネルギーを内包している。
コマはコマそのものの材質、力学的なバランス、コマを支える床の性状、周囲環境、観察する人の位置など多方面に影響して存在している。一見止まるという表現はコマの前に立った観察者の一つの見方にすぎない。


似たような例えとしては、綱引きの真っ最中の綱の中心もあげられるかと思う。
両側からそれぞれの思惑で、引き手が力の限りで自分の方向に引っ張るのだが、双方の力が全く同じ時に、やはり張り詰めたような静止した状態となる。


コマといい綱といい、一部に注目すれば止まった姿しか我々には見えないが、その背景を垣間見ることができれば物事がどのようになりたち、それぞれのファクターがお互いに影響し、融合し、干渉し、攻め、守り、支えているかを感じることができるのではないか。


これは別の表現をするならば、「絶妙なバランスが醸し出す美しさ」ともいえる。その絶妙なバランス、というものが実は坐禅に通ずるのではないか、とも思う。
自分にとって坐相を整えることはとても難しいと感じている。
このことは体のどこに気をつけるという力学的な部分のみならず、その他様々な要素のバランスが試されているのではないか、と思う日々である。


心眼 記

ゼロの発見 再び

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執筆 : 
広島禅会 2016/6/15 12:32
 誤解の無い様に最初にお断りしておきますが、このお話しは、どうぞ私の一つの或る思い出話しとして受け止めて下さい。けっして生きた禅を、学問的に「禅学」として頭で捉えようなどという、本質的に間違った指向の思いなど、今は全くありません。
 なお禅的な「無」や「空」につきましては、白田 劫石 著 「東洋的無」 〔東信堂1986(昭和61)〕などの名著もございますので、どうぞそちらなどをお読み下さい。いえ、それよりも何よりも、自分自身で参禅弁道なされる事をお勧めします。

・・・・・・・

 かつて、米国や欧州にいた頃、とんでもない質問を受けたことがあります。
例えば飛行機で隣り合わせた人から、私が日本人だと分かると、「日本人の思想の根本にあって、西洋人と違うものは何か?」と訊かれたり、夕食のテーブルで、一緒になった人達との会話で、「西洋と東洋の根本的な違いは何か?」と哲学的な問題について訊かれたりします。

 普通は、そんな難しい質問には、回答できないのですが、私もお酒を飲んでいたりすると、思わず饒舌になり、つまらない回答をしてしまいます。

 あるクルーズ船の夕食の際、円卓を囲む我々が、それぞれ自己紹介した後に、やはり彼らから東洋の思想の特徴を訊かれました。東洋人は私と家内の2人だけだったのです。
 酔った私は、以下のことを口走りました。

 「古代に限って言えば、アジアの思想の特徴の一つは、ゼロを知覚(recognize)することだった。

 我々アジア人は、目に見えないもの(invisible object)、触れないもの(untouchable object)でも、その存在を強く意識することがある。例えば、アラビア数字の1から9まではアラビア人によって発見されたが、0(ゼロ)はインド人に発見された。

  0(ゼロ)、即ち、自然数を離れた、存在しない存在を認識する事で数学は飛躍的に進歩した。
 十進法が確立し、桁(digit)という概念が登場し、大きな数を表現できるようになった。
 その根底には、非存在(null-existence)を認識するインド人の哲学があった。
 テーブルを囲んでいた、アメリカ人夫婦、カナダ人夫婦は、その回答に少し驚き、少し拍手してくれました。

 その時、私は、東洋の思想では「無」という概念を大切にするのだ・・と本当は言いたかったのですが、それはできませんでした。「無」または「空」を表現する英単語を知らなかったからです。
 Nothingやempty、vacancyでは通用しませんし、だから数字のゼロだとかNull-existenceという奇妙な言葉を用いたのですが、概ね意味は通じました。

 勿論、私がアメリカ人とカナダ人に説明した内容の多くは、私のオリジナルではありません。
 吉田洋一先生が書かれた、数学の啓蒙書として知られる「零の発見」からの引用です。
 恥ずかしいことですが、その席上では、私自身の発想であるかのように語ってしまいました。

 しかし、私が説明したかったのは、古代のことです。その後、「無」の概念は、洋の東西でそれぞれに進化したように思います。

 抽象化を進めていった西洋の数学では、早い時期に、目に見えない虚数あるいは複素数の概念が登場し、ガウスらによって複素関数論が確立しました。
また哲学では実存主義に於いて、existenceのrealityが議論されています。
 これなどは、般若心経の「色即是空、空即是色」に通じるのではないか?などと勝手に思ったりしています。

 では東洋の方はどうか?というと、私にはさっぱり分かりません。東洋に於ける「無」や「空」の概念は、禅に於いて深く理解されているはずですが、あいにく、私は入門者なので、ここで語るほどの理解はしていないのです。
 そこで、古代「無」や「空」という漢字を発明した中国の、現在はどうか?と考えてみます。

 現代中国にも、無論、零や無(无)、空という漢字があり、その意味も明確ですが、それ程強く「無」の概念は意識されないようです。
 「無い」という事実は肯定的表現ではなく、「没有=(ありません)」という否定の形で表現されることが多いと感じました。「零」の方は、ゼロという意味もありますが、ごく僅かのもの、或いは小さなものという意味で用いられることが多いようです。
 でも中国は禅の発祥地ですから、私が知らないだけで、「無」の研究は深く進んでいるはず・・とは思うのですが・・・。

 そして20世紀以降の現代物理学に於いても、「無」の概念は再び重要になっているようです。
 先日、物理学を専攻するある学生と話した時のことです。彼によれば、ディラックの物理学では、真空の空間は「無」ではなく、負のエネルギーを持った電子で満たされていると解釈されたそうです。
 その後の現代物理学では、宇宙空間は真空ではなく、圧倒的な量の見えない何か(暗黒物質)が多くの空間を占めている・・という説が有力だとか? 物理学者は「無」を嫌うのか?

 暗黒物質には質量はあるものの、電磁波と反応しないため、見る事はできず、観測することもできません。
 本来「無」なのですが、「無」ではありません。
 そして暗黒物質の一種とも考えられ、空間を飛び交うニュートリノも、殆ど他の物質と反応しません。
 質量はかすかにあり、スピンはあるものの、電荷はなく、観測は困難です。スーパーカミオカンデで、何とかそれを観測した日本の物理学者達がノーベル賞を受賞したのは、記憶に新しいところです。 
 実際、日本の研究者が明らかにするまでは、ニュートリノの質量はゼロだと考えられていたのです。

 従来なら、それは「無」であると断定された、何かを、物理学者達は追い求めています。
 「無」あるいは「空」を見つめ続けるのが、東洋の哲学であり、物理学なのだ・・と言いたいのですが、私にはうまく説明できません。

 私が「そうすると、現代物理学では『零の再発見』が必要になるね」と言うと、くだんの物理学科の学生はニヤリと笑いました。
 どうやら彼も、少年時代に吉田洋一先生の「零の発見」を読んだようです。

  心 鏡 記

ある一人の石工の話し

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執筆 : 
広島禅会 2016/6/12 3:57
 民俗学者の宮本常一が、『庶民の発見(1961)』の中で、広島県の西条、西高屋で出会った、ある一人の石工の話しを記している。


 “  金が欲しゅうてやる仕事だが、決していい仕事なんかじゃない。
  ことさら冬に川の中でやる仕事など、泣くに泣けない辛い事がある。
  子供は絶対石工になどしたくない。
  しかし自分は生涯これで暮らしたい。”

 ” 田舎を歩いていて、何でもない田の岸などに見事な石の積み方がしてあるのを見ると、心を打たれる事がある。
 「こんな所にこの石垣をついた石工は、どんなつもりで、こんなに心を込めた仕事をしたのだろうか。」と思って見る。
 「村のほんの一部の人くらいしか、誰も見てくれる人もいないだろうに……」"

 " しかし石垣積みは、仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。
   二度と崩れない様な……。そしてその事だけを考える。
   築き上げてしまえば、それっきり、その土地とも縁が切れる。"

 " それでも、いい仕事をしておくと楽しい。"

 " 後から来た者が、他の家の田の石垣をつく時など、やっぱり粗末な事は出来ないものである。前に仕事に来た者が雑な仕事をしていると、こちらもツイ雑な仕事をしてしまう。"

 " 親方取りの請負仕事なら、経費の関係で手を抜く事こともあるが、そんな工事をすると、大雨の降った時などは、崩れはせぬかと夜も眠れぬ事がある。"

   
 " やっぱりいい仕事をしておくのがいい。"

 "「俺のやった仕事が少々の水で崩れるものか。」と云う自信が、雨の降る時には湧いて来るものだ。"
   
 " 結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、後から来る者も、その気持ちを受け継いでくれるものだ。”

 また、” 褒められ無くても、自分の気がすむ仕事がしたい。”  とも、この石工は語っている。


 この言葉を承けて、宮本常一は、「誰に命令されるのでなく、自らが自らに命令することができる事の尊さを、この人達は自分の仕事を通じて学び取っている。」と云っている。


 この石垣積み職人は、或る時、”見事な石積み” に出会って感動し、自分も将来、同じ職工の眼に触れた時に、恥ずかしくない仕事をしておきたいと思ったのである。

 つまりこの時の、この石工のこだわりは、おそらく会える事も無い、未来の職工達に宛てられているのである。


 はたして自分自身を振り返って、目先の評判や評価、利害損得などで無く、遠い先の世代が見聞きしても、決して恥ずかしくないものを遺すと云う、この一人の石工の様な、心の中に密かに秘めた、ささやかな矜恃を持って、この今を生きている、と云えるだろうか。

 世の中の悪い例なら、新聞や雑誌を見るまでも無く、幾らでも無数にある。

  光禅 記

大徳寺から、こんにちは!

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執筆 : 
広島禅会 2016/6/1 12:48
 広島禅会の龍舟です。

 学生時代から続けてる茶道上田宗箇流、その流祖はそのまんま上田宗箇さんなんですが、流祖の活躍した安土桃山は今よりも禅と茶道の関係が密接だった時代です。

 宗箇という名前も大徳寺三玄院の春屋宗園に参禅して得度した道号です。

 この大徳寺三玄院では毎年5月、流祖上田宗箇を偲んで宗箇忌が行われ、以前よりお手伝いに参加させていただいております。

 このお寺、大徳寺ですからそれだけすごさが伝わりますが、だけじゃない三玄院。石田三成らによって建立され、あの古田織部も参禅、長谷川等伯には断られても勝手に上がり込んで襖絵を書くなど、とてつもないお寺です。

 残念ながらすばらしい景色の院内は撮影禁止となっておりまして、門外にて記念撮影。

 三玄院なので「3」です(笑)

 旅の思い出としてはたくさんあって、鴨川に張り出した床で、同行した野鳥博士からサギなどの講釈を聞きながら一献かたむけたり、和物セレクトショップ「木と根」ですごいかわいい和菓子「鉱物の実」と出会ったり、といろいろあるのですが、それはおいといて、禅にまつわるちょっとした話を。


 流祖は自分にとても厳しい人で、点前にもそれがよく現われています。

 ひとつひとつが凛としているので、それが好きで長く続けている理由でもあります。

 流祖の作った立ち蹲踞が和風堂に遺されていて、これも形から厳しさが伝わる逸品ですが、なんと「心径苔生(しんけいたいしょう)」と彫られているのです。

 すごいですよね。

 心の奥まで苔が生えるまでじっとする、みたいな意味なんでしょうが、今のようにフワフワした時代どころか、本当にいつ死ぬか分からない時代においても心を動かさないことを求めています。

 まさに禅で説かれる不動心。

 禅の修行がすすんできたのか、顔の皮が厚くなったのか、少々のことでは動じなくなってきた今日この頃です。

 そんな「心径苔生」、こちら大徳寺三玄院の住職、長谷川大真和尚が掛け軸に書かれていました。

 こんなすごいお寺の住職でありながら、大真和尚はいつもほがらかに接してくださり、まさに心径苔生だなぁといつも思っていましたが、そのままの掛け軸が出てきて驚きました。

 しかもちゃんと大徳寺表具です、当たり前ですが。

 私もしっかり心径苔生したい、と思った京都での思い出です。

  龍 舟
71年前の雲一つない明るい朝、空から死が舞い降り、世界は変わった。

閃光(せんこう)と火柱が都市を破壊し、人類は自ら自身を破壊する手段を手にすることを示した。

 我々はなぜ広島に来たのか。

そう遠くない過去に解き放たれた、残虐な力に思いをめぐらせるためだ。

我々は命を落とした10万人を超える日本の男女、子供、何千人もの朝鮮半島出身者、十数人の米国人捕虜を悼む。

その魂が私たちに話しかけてくる。彼らは我々に対し、もっと内なる心に目をむけ、自分の今の姿と、これから成るだろう姿を見るように訴える。

広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。

過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことを我々に教えてくれる。

初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。いずれの大陸も文明の歴史は戦争で満ちており、食糧不足や黄金への渇望に駆り立てられ、民族主義者の熱意や宗教上の熱情にせき立てられた。帝国は台頭し、そして衰退した。民族は支配下に置かれ、解放されたりしてきた。

転換点において罪のない人々が苦しみ、数え切れない多くの人が犠牲となり、彼らの名前は時がたつと忘れ去られてきた。

 広島と長崎で残酷な終焉(しゅうえん)を迎えた世界大戦は、最も豊かで強い国家間で勃発した。彼らの文明は偉大な都市と素晴らしい芸術を育んでいた。思想家は正義と調和、真実という理念を発達させていた。

しかし、戦争は、初期の部族間で争いを引き起こしてきたのと同様に支配あるいは征服の基本的本能により生じてきた。抑制を伴わない新たな能力が、昔からのパターンを増幅させた。

 ほんの数年の間で約6千万人が死んだ。男性、女性、子供たちは我々と変わるところがない人たちだった。撃たれたり、殴られたり、連行されたり、爆弾を落とされたり、投獄されたり、飢えさせられたり、毒ガスを使われたりして死んだ。

 世界各地には、勇気や勇敢な行動を伝える記念碑や、言葉にできないような悪行を映す墓や空っぽの収容所など、この戦争を記録する場所が多くある。

 しかし、この空に上がった、きのこ雲のイメージが、我々に人類の根本的な矛盾を想起させた。我々を人類たらしめる能力、思想、想像、言語、道具づくりや、自然とは違う能力、自然を我々の意志に従わせる能力、これらのものが無類の破壊能力を我々にもたらした。

 物質的進歩や社会革新がこの真実から、我々の目を曇らせることがどれほど多いであろうか。高邁(こうまい)な理由で暴力を正当化することはどれほど安易なことか。

 偉大な全ての宗教は愛や平和、公正な道を約束している。一方で、どの宗教もその信仰が殺人を許容していると主張するような信者の存在から逃れることはない。

 国家は、犠牲と協力を結び付ける物語をつむぎながら発展してきた。さまざまな偉業を生んだが、この物語が抑圧や相違を持つ人々の人間性を奪うことにも使われてきた。

科学は我々に海を越えてコミュニケーションを取ることを可能にし、空を飛び、病気を治し、宇宙を理解することを可能にした。しかし同じ発見は、より効果的な殺人機械へとなり得る。

 現代の戦争はこうした真実を我々に伝える。広島はこの真実を伝える。人間社会の発展なき技術の進展は我々を破滅させる。原子核の分裂につながった科学的な革命は、倫理上の革命も求められることにつながる。

 だからこそ我々はこの地に来た。この街の中心に立ち、爆弾が投下されたときの瞬間について考えることを自らに強いる。惨禍を目にした子供たちの恐怖を感じることを自らに課す。

 無言の泣き声に耳を澄ませる。我々はあの恐ろしい戦争やその前の戦争、その後に起きた戦争で殺された全ての罪なき人々に思いをはせる。

 単なる言葉でその苦しみを表すことはできない。しかし、我々は歴史を直視し、そのような苦しみを繰り返さないために何をしなければならないかを問う共通の責任がある。

 いつの日か、生き証人たちの声は聞こえなくなるだろう。しかし1945年8月6日の朝の記憶は決して風化させてはならない。記憶は我々の想像力を養い、我々を変えさせてくれる。

 あの運命の日以来、我々は希望をもたらす選択もしてきた。米国と日本は同盟関係を築くだけでなく、戦争を通じて得られるものよりももっと多くのものを国民にもたらす友情を築いた。

 欧州の国々は戦場に代わって、交易や民主主義により結ばれている。抑圧された人々や国々は自由を勝ち取った。国際社会は戦争を回避し、核兵器の存在を規制、削減し、完全に廃絶するための機関を創設し協定を結んだ。

 それにも関わらず、世界中で見られる国家間のテロや腐敗、残虐行為や抑圧は、我々がすべきことには終わりがないことを示している。我々は人類が悪事を働く能力を除去することはできないかもしれないし、我々が同盟を組んでいる国々は自らを守る手段を持たなければならない。

 しかし、わが国を含む、それらの国々は核兵器を貯蔵しており、我々は恐怖の論理から抜け出し、核兵器のない世界を希求する勇気を持たなければならない。こうした目標は私の生きている間は実現しないかもしれないが、粘り強い取り組みが惨禍の可能性を引き下げる。

 我々はこうした保有核兵器の廃棄に導く道筋を描くことができる。我々は、新たな国々に拡散したり、致死性の高い物質が狂信者の手に渡ったりするのを防ぐことができる。しかし、まだそれでは不十分だ。なぜなら、我々は今日、世界中で原始的なライフル銃やたる爆弾でさえ恐るべきスケールの暴力をもたらすことができることを、目の当たりにしているからだ。

 我々は戦争そのものに対する考え方を変えなければならない。外交を通じて紛争を予防し、始まってしまった紛争を終わらせる努力するために。増大していく我々の相互依存関係を、暴力的な競争でなく、平和的な協力の理由として理解するために。破壊する能力によってではなく、築くものによって我々の国家を定義するために。そして何よりも、我々は一つの人類として、お互いの関係を再び認識しなければならない。このことこそが、我々人類を独自なものにするのだ。

 我々は過去の過ちを繰り返す遺伝子によって縛られてはいない。我々は学ぶことができる。我々は選択することができる。我々は子供たちに違う話をすることができ、それは共通の人間性を描き出すことであり、戦争を今より少なくなるようにすること、残酷さをたやすく受け入れることを今よりも少なくすることである。

 我々はこれらの話をヒバクシャ(被爆者)の中に見ることができる。ある女性は、原爆を投下した飛行機の操縦士を許した。本当に憎むべきは戦争そのものであることに気付いたからだ。ある男性は、ここで死亡した米国人の家族を探し出した。その家族の失ったものは、自分自身が失ったものと同じであることに気付いたからだ。

 わが国は単純な言葉で始まった。「人類は全て、創造主によって平等につくられ、生きること、自由、そして幸福を希求することを含む、奪うことのできない権利を与えられている」

 理想は、自分たちの国内においてさえ、自国の市民の間においてさえ、決して容易ではない。しかし誠実であることには、努力に値する。追求すべき理想であり、大陸と海をまたぐ理想だ。

 全ての人にとってかけがえのない価値、全ての命が大切であるという主張、我々は人類という一つの家族の仲間であるという根本的で必要な概念。我々はこれら全ての話を伝えなければならない。

 だからこそ、我々は広島に来たのだ。我々が愛する人々のことを考えられるように。朝起きた子供たちの笑顔をまず考えられるように。食卓越しに、夫婦が優しく触れ合うことを考えられるように。両親の温かい抱擁を考えられるように。

 我々がこうしたことを考えるとき71年前にもここで同じように貴重な時間があったことを思い起こすことができる。亡くなった人々は我々と同じ人たちだ。

 普通の人々はこれを理解すると私は思う。彼らは、さらなる戦争を望んでいない。彼らは、科学は生活をより良いものにすることに集中すべきで、生活を台無しにすることに集中してはならないと考えるだろう。

 各国の選択が、あるいは指導者たちの選択がこの単純な分別を反映すれば、広島の教訓は生かされる。

 世界はここ広島で永久に変わってしまったが、この街の子供たちは平和に日常を過ごしている。なんと貴重なことであろうか。これは守るに値し、すべての子供たちに広げていくに値する。これは我々が選択できる未来なのだ。

 広島と長崎の将来は、核戦争の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの契機の場として知られるようになるであろう。

そうした未来こそを、我々は選び取るのである。

そろそろ「とうかさん」

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執筆 : 
広島禅会 2016/5/24 12:49

広島三大祭りの一つ「とうかさん」が近づいてきました。

今年は、6/3(金)4(土)5(日)に開かれます。

もちろん広島では、えびす講と並んで有名なお祭りですので、浴衣の着始めのお祭りとして知られています。

しかし「とうかさん」というのは・・・

中央通りにある「圓隆寺」の御神体である「稲荷大明神」が、この3日間だけ御開帳されるのをお参りするお祭りなんです。

御神体の「稲荷大明神」を、「いなり」と読まずに、音読みで「とうか」と読むことから「とうかさん」と云われているのです。

それでも浴衣の着始めのお祭りと思っている人は多いのですが、ウチワを売る祭りと思っている若い子もいる様です。

(^^;)

とは云え、御神体の「とうかさん」をお参りしたことが無い人も多いと思いますので、御利益などは捌として、ぜひ、お参りされてみてはいかがでしょうか。

(^^)

とうかさんが終わると、広島ではそろそろ梅雨入りですね。

  光 禅 記

私が入会した理由

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執筆 : 
広島禅会 2016/5/10 12:42
今年で41歳になる私ですが、20数年来、探し求めていたものがありました。

それは「あらゆる宗教、哲学に共通する根源その一点は何物なのか。」と云うことです。その答えが有るという確証は、ありませんでしたが…

思えば肉体的にも環境的にも何不自由ない状態の私ですが、不満と不安の中で生きていました。
何をどう生きるべきか。
どうすれば自分は救われるのか。
心の底で、常に探していたのだと思います。

 西洋哲学の本を読んでみたり、キリスト教信者の方と文通をしてみたり、お寺の宿坊を泊まる旅をしてみたり、論語や老荘思想の本にもかじりつきました。

 どこにおいても気づきや学びはあり、無駄な時間だとは思いませんが、どこにも答えはありませんでした。

そんな時、縁あって広島禅会の参禅会で、参禅を勧めていただきました。

「四十にして迷わず」論語の「不惑の歳」を迎えるに当たり、私は腹を決めました。

 この参禅会の間だけは、全てを棚上げして、参禅修行に徹しよう。そして一日一炷香を毎日間断無く死ぬまで続けていこうと。

今は「神、仏、天、愛は、どこを探しても無かった。自分の行いにあったんだ。」と云う様に思います。これは、これから参禅修行が深まれば、もっと違って来るかもしれませんが、それもまた、今は楽しみです。

インドの偉人ガンジーは「方法が違うだけで真の宗教の行きつく先は皆同じ、そこに優劣は無く争うことは無い。」と云う意味のことを言われたそうですが。
どうやら日本人の私には、禅が馴染んだのでしょう。

 正直に曇り無く堂々と生きたときこそ、そこに答えがあるんだと思います。

 ようやく見付かった!ここからが新たな出発です。

合掌

  友松 記

 「 45分法 」

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執筆 : 
広島禅会 2016/5/5 2:52

やらなければいけないことは、よく分かっている。

でも、何を何処から取り掛ればいいのか、よく解らない。

あるいは、よく判っているけど、もう一つ何かヤル気にならない。

こんな時には「45分法」を使うと良いそうなので、引用して紹介します。


「45分法」とは、とても簡単で単純な方法です。

まず45分間アラームをセットして作業し、アラームが鳴ったら、とにかく15分間休憩を取る。このインターバルで作業する。

たったそれだけである。

 0~45分間 … 作業・仕事・勉強などに集中する。

45~60分間 … アラームが鳴ったら、作業中でも強制的に休憩する。
               なるべく机を離れて、作業を止める。
               作業に関係の無いことは、何をしていてもいい。


なぜこれが有効なのかと云うと、人間が集中して作業出来るのはせいぜい1時間前後で、それ以降は疲れてしまって作業効率が落ちるからなのだそうだ。

集中出来ずに作業を続けると、モチベーションも下がる。

一度下がってしまったやる気を、また上げる為には、やる気をあげる為のやる気を出すことが更に必要になってしまう。

やる気を上げる為のやる気を出す為、そのための時間が別に必要に成ってしまう。

この無駄を断ち切るため、とにかく座ったら、まず直ぐに作業の45分間と、休憩の15分間のアラームをセットする。

こうしておくと一々時間を気にしなくていいので、集中が出来てダラダラすることが無くなる。

アラームは、携帯でもいい。

作業と休憩のインターバルを2段階ずつセットしておけば、15分休憩後の作業再開も忘れ無くて良い。

何時から何時まで、この作業と休憩のインターバルで、何を何処まで作業するのかを、予め計画して決めておけばいいのだ。


考えてみれば、一炷香も基本的に45分間である。これによると、理に適っている事に成る。


光禅 記

広島に南極の氷が届きました

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執筆 : 
広島禅会 2016/4/24 13:02
  広島参禅会の懇親会に南極の氷が届きました。
よく見ると氷の中にたくさんの気泡があるのに気づきます。
そのつぶつぶに禅者は何を見るのでしょうか。





参禅後の茶席。

見晴らしのよい部屋での静かな

時が流れます。



返り咲きのキンギョソウ

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執筆 : 
広島禅会 2016/2/20 10:20
 我が家にキンギョソウが来たのは昨年の冬になる。年の暮れには寒さも厳しくなり庭も寂しくなる。そこで娘と相談してホームセンターからキンギョソウの苗を買ってきた。冬のうちに花がひとつ咲いており、しばらくは寒くても持つとのことであった。その花も寒さがさらに厳しくなるころには落ちてしまい、ポツンと小さな苗は凍えて春を待っていた。


 春になると気温の上昇とともに見る見る株分かれして大きくなり、黄色の金魚のような花を鮮やかに咲かせた。そしてさらなる気温の上昇でキンギョソウの花作りは種作りにシフトしていく。キンギョソウの種はツボの様な殻に大量に入っている。ひっくり返せばサラサラと1ミリにも満たない種がこぼれ落ち、さながら調味料の瓶のようでもある。娘と一通り種をガラスの容器に入れた。一粒の種からこれほどたくさんの種ができることにびっくりした。それでも元の株にはまだいくつもの種の殻を残している状態である。


 その後しばらく放って忘れていたのだが、娘に言われ 1週間ぶりに鉢をみて驚いた。茶色の種の殻を一面に抱えていた姿から、見事に黄色の花をつけて返り咲いた。全く短期間のことであった。種を一通り私たちが採取したことが刺激となったのだろうか。草花によるが、花が終わった後切り戻すと二度咲きが楽しめる種はかなりあるようである。キンギョソウは寒さ、暑さにも比較的強く強健でありその部類に入るそうだ。四季咲き性と言われて、ほっておいても一年に何度も花をつけてくれるありがたいタイプだそうである。加えて花がらをこまめに取ることでその後により多く花をつけることができる。つまりキンギョソウは適度に手を入れることで割と容易に二度以上の開花を拝めるということになる。


庭の草花は栽培される環境や天候によって様々な形で育つ。結果的にタネを作るまで天寿を全うするものあれば、暴風雨や干ばつによる天候のどうにもならない影響で成長せずに終わることも多いだろう。さらに人為的な行動も結果に左右する。晴れが続いて乾燥気味になれば、草木に水をやろうという気が起こるかも知れないし、それでも仕事が立て込んで世話をしないということも起こりうる。水は間に合っても、雑草のほうが成長力は桁違いに強く、ほっておけば雑草に栄養も取られてしまう。


それらすべてを包括し、現象として枯れるものは枯れるし、咲くものは咲く。しかし更に花が咲く、咲かないに関わらず私たちがそれを見るかどうかでまた、我々の庭に対しての印象も変わってくる。忙しさにかまけて見ずに放っておけばせっかく再び開いた花びらもまた散ってしまい、やはり私たちの心にとどまることもない。「花の命は結構長い」とはどこかの生命保険の CMのセリフではある。品種改良を重ねて花期の長い一種を企業に作ってもらっても、企業努力のできることはそこまで。私の不精な性格のお陰でこれまでおそらく幾度もシャッターチャンスを逃してきたのだろうと思う。


結局のところ一度咲きとしても二度咲きとしても、品種改良して人間好みにバージョンアップしようとも、草花としてはやれることをしたまでなのかもしれない。「花は偉い」だの「花は儚い」だの物語をくっつけるのは私たち次第というか勝手な話ともいえる。ただ結果的に自分の庭でキンギョソウの二度咲きを楽しむことができたこと、その心の余裕を持ち合わせていたことに感謝したい。娘が二度咲きしたことを告げてくれたことが思えばラッキーであった。種という形に残るものだけでなく、心にも黄色の温かみを我々に分けてくれた。ほっこりとした出来事であった。

合掌
心眼 記


笑うオヒョウとは何か?

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広島禅会 2016/1/25 12:48
 この「笑うオヒョウ」の題名で、ここ数年、心鏡居士が自身のブログを綴っておられます。ご興味のある方は「笑うオヒョウ」で検索すると出てきますので、よろしければ暇つぶしに読んでみられるといかがでしょうか。
 そのブログの第1回目の記述をご紹介します。別に取り止め無い、特に何かの為になる様なものでもありませんが、ファンタスティクで楽しいお話です。(笑)

・・・・・・・・・・・


 この表題「笑うオヒョウ」とは、ロンドンにあるフィッシュアンドチップスの店、“Laughing Halibut”にちなんだものです。

 しかし、それ以外にも私がオヒョウに拘る理由はあります。
以下は私が考えた寓話です。ずうずうしくも以下に書いてみます。
・・・・・・・・・・・

 佐渡と越後の間の日本海を、一尾のトビウオが泳いでいました。
 ある夜、トビウオはむしょうにジャンプしたい衝動に駆られ、水面から飛び出しました。彼が見た天空には、月と共に無数の星が光り、さらに大空を渡る形で大きな乳白色の帯が見えました。トビウオの目は魚眼であり、空気中では極端な近視です。それでも、それらの雄大な光景を見て驚きました。「『荒海や佐渡に横たふ天の川』とはこの事だったのか!」と感心し、再び彼は水中に戻りました。

 翌日の昼間、彼は誰かにこの驚きと感動を伝えたくなり、深い海の底を目指しました。多分、青い海中を泳いでいるだけの凡百の魚には、海の上の空の光景を話しても理解できないだろうし、深い海の底には知性の塊とも言うべき賢人(賢魚?)がいると聞いていたからです。彼ならこの感動を理解してくれるに違いない。

 水深300mを過ぎると殆ど真っ暗です。やがて、トビウオは海底に到着しました。
 そこには巨大なオヒョウが1尾、動かずじっとしていました。エラだけが時々思い出した様に動きます。
 トビウオは、オヒョウに、唐突に空の風景、宇宙の風景の事を語り始めました。しかし、海底のオヒョウには全く理解できません。

 オヒョウはトビウオの説明を途中で遮り、問いただしてきました。

 「お前の言う海面とは何か?上に行くと、この水には限りがあり、その海面の上にはもう水は無いというのか?嘘をつけ。
 この世界には、水中と底しかない。
 海底より下の世界には、我々は行けない。
 だから、水中だけを我々は見ておる。
 水の中には光もある。音もある。だから、全てを知覚できる。
 俺は、かつて海底ぞいに下って、更に深い海底に辿り着いた事がある。そ こには、既に光はなく、深海魚には目が無かった。
 彼等に『より浅い海底には光があり、空間の全てを瞬時に把握できる』と 言っても、よう理解はせなんだ。無理も無い。真っ暗なのだから。
 だが、俺は違う。全てを理解しておる。
 だから、海に天井があり、その上には水の無い世界が広がっているなどという戯れ言を信用しない」

 そう言って、オヒョウは近寄ってきた小エビをパクリと食いました。
トビウオがどう説明したものか・・・と思案していると、普段はもっと浅い場所にいるタコが、目の前に現れました。

 オヒョウは「よいところに現れた」とタコを捕まえ、問いただしました。

 「おいタコ、この小魚が、海には天井があり、その上には、水の無い広大な空間が広がっていると言うが、本当か?お前は、もっと浅い海を知っているから、こいつの言う事が正しいかどうか分かるだろう?」

 タコは驚いてスミを吐きながら答えます。
 しかし、もともと暗い海底では、あまりスミの効果はありません。

 「ああ、確かに、海には天井があります。海面というやつですが、
下から見ると、昼間はギラギラと光っています。夜は真っ暗です。
 その海面の向こう側に行く事は我々にはできません。
 だから、トビウオの言う様に、海面の上に広大な空間があって、雄大な景色があるなんていうのは嘘に決まってまさあ」

 トビウオは焦りました。タコの証言は、トビウオの説明を半分認めましたが、半分は否定したのです。
 オヒョウは思案します。
 トビウオの証言を認めるべきか、嘘と断定すべか・・・で迷っていたのです。
「うーむ、もう少し証言が欲しい」

 そこに、一尾のマンボウが現れました。マンボウは普段海面を漂い、クラゲなどを食べています。そのマンボウが水深300mの海底に現れるなど、奇跡というべきですが、喜んだのはオヒョウです。

 「オイ、マンボウ、ちょうどいいところに現れた。この世界には海面というものがあることを、俺は今知ったところだ。聞けばお前は海面付近を漂っているそうではないか?
 だから尋ねる。海面のその上には水の無い空間が広がり、さらに天空の彼方には、月や星や銀河があると、この小魚が言うのさ。これは本当か?」

 マンボウは、小さな口で答えました。
 「海面の上には空がある。空は確かに雄大で美しい。晴れれば紺碧の空が美しく、曇れば曇ったで雲が美しい。特に夕焼けの空の美しさは、海の中で暮らしている者には分からないだろうよ。」

 「では夜空の月や星は美しいのか?天の川は?」

 「夜空の星?はて、知らないね。俺はな、夜は寝るんだよ。夜行性の獰猛な肉食魚以外は、魚は夜眠るものと決まってるんだ。だから夜空など知らないね。」

 といってマンボウはマブタを閉じました。

 不思議な事に、マンボウにはまるで人間の様なマブタがあります。
 眠る時、そして絶命する時、マンボウはそのマブタを閉じるのです。
 人間に捕らえられて死ぬ時、マンボウはとりわけ悲しそうな表情でマブタを閉じるので、その有様を見た人は、一生マンボウを食べる事ができなくなるそうです。

 実は、他の魚にもマブタはあります。しかしそれは人間の瞬膜に近いもので、半透明です。マンボウのものとは違い、瞬きもありません。

 脱線しましたが、マンボウも、トビウオの証言を半分しか、認めてくれませんでした。オヒョウは不機嫌そうに、トビウオを見ています。

 「トビウオよ。結局、お前の説を全部認める者はいない。みな、半分ずつしか、お前の説を支持しなかったではないか。お前は嘘つきだ」

 「オヒョウさん、それは違うじゃないか。タコが認めなかった事をマンボウは肯定した。マンボウが認めなかった部分は、彼が知らないだけであり、僕が言った事が否定された訳ではない。むしろ否定されたのはオヒョウさんの考えじゃないか」

 最後の一言を聞いた瞬間、それまで動かなかったオヒョウが突然口を開け、トビウオを食べてしまいました。ほんの一瞬の事です。
・・・・・・・・・・

 どうも、人の知らない事を多く知っている事が、必ずしも良いことではなさそうです。また人は、自分に理解できない事を示されても、拒否する事があります。オヒョウは深海魚に比べて、自分は物知りであると自負していましたが、所詮底棲魚です。何も知りませんでした。
・・・・・・・・・・

 人間も同じかも知れません。何となく、自分はものを知っている様に錯覚して、新しい知識や新しい考えを拒否しているのかも知れません。私自身は、オヒョウとそっくりです。

 ところで、この寓話は私のオリジナルですが、インスピレーションは、中島敦の「悟浄出世」から得ています。「悟浄出世」と「悟浄歎異」は、中島の作品の中ではやや異色と言えるものです。これを私が読んだのは角川文庫ですが、今は青空文庫で読む事ができます。「悟浄出世」では、三蔵法師や孫悟空に出会う前、混沌と不安の中で、「我とは何か」と迷い悩んでいる沙悟浄の有様を紹介しています。彼は流沙河の水底に棲む多くの師匠に会って、教えを請い、悩みを相談しますが、結局、悩みを解決できませんでした。

 深海に目のなき魚の棲むといふ。目の無き魚のうらやましきかな。

 心鏡 記

平成28年 総裁年頭垂示

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広島禅会 2016/1/20 0:29
  ここに全国の人間禅道友各位に、平成28年、西暦2016年の年頭に当たり、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
皆さん『明けましておめでとうございます!』
 
 今年は人間禅創立68周年になります。
 創始者である耕雲庵老師が亡くなられて今年4月で37年が経過したことになります。
 そして、現在の人間禅では、耕雲庵老師にお目にかかったことのない会員が、80%を超えています。
 耕雲庵老師の謦咳に触れた者の一人として、耕雲庵老師の熱い思いを語り継がねばならないと常々思っている次第であります。
 
 耕雲庵老師は、「正しく・楽しく・仲良く」を提唱され、常々唱えられましたが、その中で「仲良くが一番難しい、どうか人間禅の道友は仲良くしてほしい」と言い残されています。
 
 耕雲庵老師のおっしゃられる「人間禅の道友は仲良くしてほしい」という思いは実に深くまた遠い将来にまでを見越された箴言であります。そして深い慈悲のお言葉であります。
 
 耕雲庵老師は、道友が集まる宴会が大変お好きでした。好き以上に、たとえば摂心会の後の宴会は不可欠なそして大切な行事と位置づけられていました。
 そして時には、お酒を飲んでの真っ赤な顔をして、舞台に飛び出し、禿頭に手ぬぐいではちまきをして、ひょっとこ踊りを踊られたことも未だに目に残っています。
 
 当時は小生もまだ若く、みんなと一緒に拍手して楽しんでいただけでしたが、今から思うとぞっとする菩薩行をなされていたのであります。
これが人間禅の精神であり、これが正脈の伝法の姿なのだと、思い出すだけでも寒毛卓竪であります。
 
 現在の人間禅には、老若男女貴賎を問わず人種を問わず、そしてまたあらゆる職業の人が集った会になっています。人種を問わずと云えば、過去6年以内で入会した外国人は9カ国、13名に上り、内10名が道号を授与されています。
 入会の経緯も十人十色であり、思想信条もまた十人十色であり、修行歴も1年未満から60年を超える人もいます。
 こういう人たちが、同じ僧伽を構成して仲良くして行くことは、考えてみれば、僧堂にはない人の集まりであり、不思議な集まりあります。
こういう会で仲良くを本当に実現することは、本当にすばらしいことです。
耕雲庵老師はその難しさを理解し、そしてすばらしさを願って、ひょっとこ踊りをされていたのです。
 
 三禁令と五戒は新規入会者が入会の時唱えますが、その内実は深く高いものであります。
 人間禅の会員は、この三禁令と五戒を目標にして修行をしていると云っても過言ではありません。これを如実に実践するとなると容易なものではありません。
 三禁令の一つ「道友の信を裏切ってはならない」は、仲良くの初歩であり、きわめて大切ですが、こういう組織としても永遠の目標です。すなわち大変難しいことです。
 
 五戒の中の「人に迷惑をかけてはいけない」「我がまましてはいけない」の二つは、仲よくのための基本的なルールです。しかしこれはまた永遠の努力目標であります。容易なことではありません。
 
 事ほど左様に、人間禅の会員は、人間形成の禅の修行をしている途中の、敢えて言えば、まだなにがしかの未熟なところを持っており、その克服に骨折っている修行途中の人の集まりであります。私もそうです。
 
 未完であるが故に、自分の未熟なところはあまり見えず、他人の未熟なところはよく見えるのが当然であります。
こういう状況(Situation)において、こういう未熟な者が集う中で、仲良くするにはどうしたら良いかであります。
 
 年末には、忘年会がいろいろなグループで行われたと思います。またこれからは新年宴会が催されることと思います。
 年末には、小生も忘年会にいくつか出ました。
 その一つは、人間禅付属の剣道の会である宏道会の忘年会でした。走り回る小学生も乳飲み子を抱っこしているお母さん方もいる賑やかなそして楽しい一年の納めの会でした。
 剣道歴も今年から始めた者も居るし、60年近く宏道会に居る者もおり、また参禅を未だ始めていない者から禅の修行歴50年近い者も居る。まさにごちゃ混ぜの集まりですが自然に調和があり、実に楽しく盛り上がっていました。宏道会は、正しく・楽しく・仲良くができていると見えました。
 
 もう一つは、東京支部の忘年会であり、20名近くは集まりましたが、来られなかった顔もかなりな人数になり、やや寂しい忘年会でしたが、2月初めに開催する択木道場創建100周年記念式で東京音頭をやるということで、最後はその踊りの練習会になりました。全員参加で小生も引っ張り出されました。音楽に合わせて全員で輪になって踊るのですが、10分もすれば何となく体が動くようになり、そして全体が一体となって踊れるようになる。全員が想定以上の楽しさを共有していたようでした。こういうことの積み重ねが、個をつなぎ仲良くの場を形成してゆくのだと実感しました。
 
 耕雲庵老師が道友との宴会がお好きで、また、たこ踊りをされた所以の一つは、厳格な参禅弁道には、素っ裸になるくらいの腹を割った気持ちが必要であるということと、それを師学がそしてまた支部全員がそれを共有する必要性を示唆されていたのだと思います。
 
 厳格な参禅弁道はまさに「正しく」の実践であり、その後の宴会は「楽しく」の実践であり、その後に自然と「仲良く」が醸成されると云う方程式になると思います。
 別の見方では、参禅弁道は、師家と学人の個別の関係であり、宴会は師家も学人も等しい人間禅の家族の一員として集うという、個別ではなく、みんなの会すなわち僧伽がそこに誕生するのです。したがって参禅弁道だけで、後は散り散りに解散となると僧伽の建立ができなくなるのです。僧伽が建立できなければ、『立教の主旨』の進展はもちろんのこと、人間禅の永続は不可能になります。
 
 宴会嫌いな人も多いし、酒癖の悪い人もかなり居られるのも承知で、酒宴のポジティブな意義を考えてみますと、人はいつも理知的な鎧をまとった人間関係になっているのですが、酒を飲むことにより裃を脱いでの胸襟を開いた人間関係になる効果があると思います。
 
 これを例によって脳科学的に解釈しますと、お酒を飲むことによって、常に自他の区別をしながら自分の位置づけを模索している頭頂連合野の働きが不活性になり、感性を司る前頭葉が活性になると云えます。
 これはまさに座禅での数息観三昧の効果と似ているところがあります。違うところは、個人ではなく複数の人間でその状態に入り込めると云うことであろうかと思います。
 勿論、お酒はその人その人の適量が前提ですが、こういう良き効果もあると考えます。
 
 小生は、かって和歌山での南海禅会やかっての坂東支部を立ち上げる課程で、月例会には必ず懇親会を設けて、「しっかり座り、楽しく飲む」を実践して仲間作りをしてきました。
 
 現代におけるネット時代は、HPツールでもって人脈によらない多くの人を道場に呼び込むことができます。しかし、リピートがきわめて悪いのも特徴的です。すなわち人脈布教の場合は、最初から知り合いという仲間が居るのですが、ネット布教で来参する人は、全く孤独で道場に来る訳であります。
 
 ネット布教時代においては、人脈布教時代よりももっとしっかりした仲間作りの施策を設けておかねば、必然的にリピートが悪くなるのです。
 ひとりで黙って修行に打ち込むだけではなく、裃を脱いで胸襟を開いて繋がり合う仲間づくりがネット時代以前より現代では余計に必要になっているということです。
 
 新しい来訪者を受ける道場側に、しっかりした仲間の場ができていなければ、すなわち仲の良い集団が形成されていなければ、新しい来訪者は落ち着ける場をそこに見つけることができず、また再び来ようという気になれないのは当然であります。
 
 いつの時代もそうですが、特にネット時代の現代においては、支部の会員同士の「仲良く」が、道場の維持発展において不可欠なファクターになっているということです。
 
 支部内の会員同士での「仲良く」の醸成には、懇親会とかの酒宴だけではありませんが、とにかく厳格な座禅行や参禅弁道には、必ず同時に会員同士が打ち解け、楽しさを共有する場がなければ、これから先その支部は発展してゆかないということです。
 
 耕雲庵老師が云われていた「仲良くが一番難しい、どうか人間禅の道友は仲良くしてほしい」と言い残され、摂心会円了後の懇親会や記念式における懇親会を大切にされた真意は、現代において益々重く大切になって来ていると思います。
 
 今年は、『立教の主旨』第三項「わが人間禅は、正しく・楽しく・仲良く 人間味の豊かな人々の家庭である。」の中の特に、「仲良く」をしっかりと根付かせることにみんなで注力したいと思います。
 
 繰り返しになりますが、今年は名誉会員もKUJ会員も含め、人間禅の隅々まで、「仲良く」を徹底してゆきたいと思います。人間禅の全ての会員のご協力をお願いいたします。
 
 皆様が一年間ご健勝に過ごされますことを、また支部・禅会がますます発展されますことを祈念し、平成28年総裁年頭の挨拶と致します。
 
合掌
 
平成28年1月3日       人間禅総裁 葆光庵春潭
 
 元海軍兵学校はとても広く、荘厳さがあり、ピリッとした、何とも言えない趣がある場所でした。

 兵学校の松はみな、不思議と曲がっておらず、スッと真っすぐ伸びています。

 これは、いつも、「気を付け!!」と言われている中で育つからとのことですが笑、本当にスッと真っすぐで、まんざらでもないのではないかと思いました。

 想えば、私が、禅門に入門した時の師匠が、寶鏡庵老師であり、海軍兵学校を卒業されたお方でした。

 兵学校時代の、厳しい上下関係と規律を、よくお話しされていましたが、老師もここで生活しておられたんだなと感慨深いものがありました。


 やはり特攻隊の方々や戦争で亡くなられた方々の遺書等を見ると、なんだかんだ今こうして己がここに生きていることに、無駄な時間は過ごしちゃいかんなぁという気持ちになります。

 遺書の中には、私と同じ名古屋大学の先輩のものがあり、そこには、「遺書ナシ」と書かれていました。

 ガイドの方は、言いたいことが有りすぎたが故に、「遺書ナシ」となったのではないかと話されていました。

「遺書ナシ」・・・


 戦後70年と言われておりますが、私達は過去の戦争の体験や悲劇、亡くなっていった方々の想いを活かせているのだろうか。

 ガイドの方が最後に語った言葉、「負けるのは分かっていたが、死ねことで1日も早くこの戦争が終わるならという想いで死んでいった」と言う言葉は、心に残りました。

 生きるとは。あらためて己に問う形になった意義のある参禅会でした。

 広島からの帰り道は、総裁老師と、お酒も少し入りながら、5時間もお話しができるという贅沢で貴重な時間でした。

 広島禅会のみなさん、参加されたみなさん、本当に有難うございました。得るものが多い、行ってよかったなと心底思える参禅会でした。

 有難うございました。 カイダンズ万歳!!!


青年部 粕谷玉道 拝

青年部の粕谷玉道じゃけえ― その②

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広島禅会 2015/10/16 8:54
 さて、朝の茶席では、禅会長の光禅さんによる上田宗箇流(武家茶)のお点前を拝見することができました。

  その朝の茶席で、こんな話が出ました。

 近くには両城の200階段と呼ばれる、海猿達がボンベを担いで訓練で駆け上がるという石階段がある。

 スイッチが入りました。

 これだ!と思いました。若者学生参禅会と坂および階段というのは切っても切り離せません。

 過去に小倉の鎮西道場に行った時も、近くの坂道をダッシュしては、夜坐をし、また、眠くなるとダッシュして、坐禅をしました。

  周りの人たちからは、奇異な目で見られますが(笑)、この、坂道ダッシュと、坐禅のコラボレーションが我々青年部の浪漫であり、下半身が立てなくなるまで、つまり、頭で何も考えられなくなるまで走った後、坐禅に打ち込むのが、最高だと信じてやみません。

 今回も、近くになんと、うってつけの階段があるという。

 これは、運命としか言いようがない。

 程なく我々は、200カイダンズを結成し、その日の夕方と翌朝に、階段ダッシュを繰り返しました。

 3往復で、足が上がらなくなり、ぶっ倒れましたが、這うようにして、頂上に登り、そこから見た呉の景色、海は、最高の思い出になりました。

 また、200カイダンズ、唯一の学生のK君は、高校時代山岳部だったらしく、階段を登るうちに、活き活きと輝きだし、最後は、先頭で突っ走り、我々は彼の背中を追いかけ続けました。

 彼は、禅に入門して、最初の関門で煮詰まっていたが、カイダンズに入会し、「新しい方向性を見つけることができた、体を動かした方が、参禅に行ける」と、目を輝かせながら、言っていたのが、カイダンズ何よりの収穫でした。




 その日は、午後にかけて、江田島の元海軍兵学校に見学に行ってきました。

 行きの連絡船では、江田島に着いたにも関わらず、若者5人で思い出話に花が咲き、気づきませんでした。

 あれ、また船が動き出したなと思ったら、すでに遅しで、そのまま同じ船に乗って、呉まで戻り、さらにもう1度同じ船に乗って、江田島までやってきました。

 この日は、呉と江田島を2往復することができました。有難い(笑)。

 そのことだけで、懇親会までの宿題とされていた、俳句が一句できてしまいました(笑)。



つづく!

青年部の粕谷玉道じゃけえ― その①

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広島禅会 2015/10/14 8:11
 今回は、ここ数年では、めずらしく2日間仕事の休みをとって、広島参禅会に参加しました。

 人生初の広島・・・。

 広島駅から電車で海岸線沿いを走りましたが、秋晴れの中、海がやけにキラキラしていて眩しかったのが印象的でした。

 呉駅に着くと、同じく関東から来た、中央大学禅の会「五葉会」のホープと合流し、一緒に禅道場へと向かいました。

 (彼とはこの後、ともに200カイダンを、立てなくなるまで往復し、熱い絆で結ばれることになろうとは、知る由もなく・・・)


(両城の200階段の立て看板。さすがに3往復は疲れました)
 
 呉の禅道場は、石階段の途中にある古民家でした。

 とても雰囲気の良い建物で、蔵を改造した男性更衣室も、趣が素晴らしかったです。

 また、道場からの景色も見晴らしが良く、坂の町、呉ここにあり!という感じでした。
 
 夜は、総裁老師による「在家禅者の行と願 ―若者・仕事における現役世代へ― 」という提唱があり、人間形成と仕事の関係について貴重なお話をいただけました。

 「3年後の稽古をする。」ということが、相撲の世界で言われているが、これと同じことが、人間形成の修行にも当てはまる。

 目先の仕事に流されずに、長期的な視点でどんなに忙しくても、聖域的に、長期的な人間形成の時間を確保する。

 これを続けていると10年20年と経つ内に、人間力も備わって、仕事と修行とが不二一如になってくる。

 修行して仕事が本物になり、仕事の中で修行が磨かれる。

 修行と仕事とが一緒になってくる。これが本当の在家禅者の形である。

 まさに、我々の世代にぴったり当てはまる、貴重なお話をいただけました。有難うございました。

つづく。

広島禅会で句会が開催されました!

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広島禅会 2015/10/13 14:53
真道です!

かつての大本営、広島は呉市の「呉禅道場」にて4日間の参禅会が厳修され、その懇親会において「句会」が開催されました。
今回は江田島の旧海軍兵学校と大和ミュージアムの見学会開催後の句会とあって、かつての英霊に向けた句も散見されました。
ここにご紹介させていただきます。


江田島に集う若者天高し  葆光庵春潭総裁老師
二百段の石段の先高き天  葆光庵春潭総裁老師
赤井心鏡居士道号授与に際し・・・神妙に巨体の被受者時鳥草  葆光庵春潭総裁老師
江田島に降りてただよう秋の風  玄徳
秋の陽のあきの海にもあかあかと  心鏡
七竈ともに坐れり呉道場  露香
秋晴れにすっからかんが駆け上がる  玉道
英霊の魂感ず秋のもと  富嶽
秋空に明治を学び日本知る  玄性
秋の潮若手気づかず降り忘れ  富嶽
遺書ナシという文字カナシ秋の空  慈恩
特攻隊悲しみつのる秋日より  玄徳
坂道を下る先には秋の海  慈恩
とんぼ舞う 兵学校の天高く  玉道
安芸灘の秋風清くさぞや佳し  光禅
網はねる白き横腹秋日を受けて  法燈
秋の海思い出話しで降り忘れ  玉道
秋空の下にて感ず遺書の文  富嶽
木犀をにおい残して終りけり  玄徳
秋空に白き講堂スッキリと  玄性
名月に手が届きそな呉道場  心眼
花と散る防人たちの秋の江田島  法燈
石畳登る彼方にいわし雲  真道
江田島に先師と渡る秋の風  露香
月の影うさぎがもちをついている  日香莉
秋の瀬戸君死にたもうことなかれ  法燈
呉湾や行方知らずに秋来たり  光禅
椎茸の煮加減に見える親子愛  真道
あきの海篠枝の故郷太き骨  光禅
防人を偲ぶ桜の紅葉かな  露香
秋天に雪風という名をきざむ  慈恩



(呉道場から見渡す呉湾)

旧 江田島 海軍兵学校

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広島禅会 2015/8/9 21:11
〔旧江田島海軍兵学校の概要〕
 第二次世界戦以前、江田島といえば、海軍兵学校を意味した。1888年(明治21年)に、東京・築地から広島県 呉市の呉鎮守府に近接した 江田島 に移転した。

 海軍兵学校は、その規模ではイギリスのダートマス(王立海軍兵学校)、アメリカのアナポリス(合衆国海軍兵学校)とともに、世界でも最大の兵学校の一つで、全78期、総計1万2,433名の卒業生を出した。

 江田島が兵学校の地に選定された理由は、
  1.軍艦の錨泊が出来る入江がある。
  2.世間の空気から離れ、教育に専念できる環境である。
  3.気候が温暖で、安定している。
 の3点を備えていたからだと云われている。

 また一説によると、我が国の歴史上、王家(天皇家)が半島や大陸へ進攻する際には、必ず広島の地(軍津いくさつ)で舟揃えし、戦勝祈願して出兵し、そして必ず勝利したことから、この地に海軍の要衝を集めた為と云われている。

 現在、江田島海軍兵学校の跡は、1956年(昭和31年)から、海上自衛隊の第1術科学校および幹部候補生学校になっており、明治時代の赤煉瓦の校舎や、大講堂、教育参考館などが残されている。

〔五省〕
 海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は、兵学校の精神を代表するものとして名高い。戦後、英訳されてアメリカ海軍のアナポリス海軍兵学校でも採用され、現在の海上自衛隊にも引き継がれている。

    一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか (真心に反する点はなかったか)
    一、言行(げんこう)に恥(はじ)る勿(な)かりしか(言行不一致な点はなかったか)
    一、気力(きりょく)に缺(か)くる勿(な)かりしか(精神力は十分であったか)
    一、努力(どりょく)に憾(うら)み勿(な)かりしか(十分に努力したか)
    一、不精(ぶしょう)に亘(わた)る勿(な)かりしか(最後まで十分に取り組んだか)

〔訪問する意義について〕
 第二次世界戦以前においては、海軍将校養成の基地として、東京帝国大学を凌ぐ教育レベルを誇り、幾多の優秀な人材を集めた教育機関であり、当時は若者達の憧れの的であった。

 そして終戦後も、出身者はその能力を遺憾なく発揮し、各分野で活躍してきた。

 また構内にある教育参考館には、旧海軍関係の資料など14,000点が展示されており、特に、神風特攻隊員たちの遺書や遺品なども有り、戦後70年間の平和な時代の中で生まれ育ち、生活して来た我々にとっては、我が国で実際に起こった近代の大戦において、“戦争”の持つ一面について深く思いを馳せる良い機会になる。

 今、これらのことを明確に知っておく意義は、とても深くて大きいと思う。

 光禅 記

雨田 豊子 16才

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広島禅会 2015/8/5 21:38
 もうすぐ今年も、原爆慰霊祭の日が来る。

 子供の頃、近所の人が『平和公園の慰霊祭なんかによう行かん。テレビで観て黙祷しているだけで、嗚咽して気を失いそうになる。とても立ってなんかいられない。』と言っておられたのを思い出す。

 1945年8月6日。人類史上初めての原子爆弾「リトルボーイ」が、広島に投下された。

 広島で被爆した祖母の体験を元に描いたネット漫画「原爆に遭った少女の話」が、アクセス数49万を超えたと話題になっている。

 主人公は、この作品の作者「さすらいのカナブン」さんの祖母、雨田豊子さんである。

 8月10日(月曜日)夜7時半から、NHK総合で、『一番電車が走った』という題名で、戦後70年記念ドラマの放映がされる。

 豊子さんは、出征で男手が減る中、路面電車の運転手育成のために設立された『広島電鉄 家政女学校』へ、第1期生として1943年に入学したのだった。

 勉強のかたわら、路面電車の運転手や車掌を務めていた。

 8月6日の朝8時15分、宇品方面に電車を運転中に原爆の閃光を浴びた。

 幸い生き延びたものの、多くのクラスメートの死に直面した。

 そして終戦で、女学校は一人の卒業生も出すことなく廃校になった。

 戦争の中でたくましく生きる姿が、淡々としたタッチで79ページの作品にまとめられている。

 作者が中学生の時、祖母に「絵が上手いけえ、御幸橋の上で見た被爆者の絵を描いて」と頼まれたのが、漫画を描くきっかけになったという。


 “戦争”これは哀しく、とても辛い記憶であっても、絶対に過ちを繰り返さない為に、決して風化させ忘れ去られてはいけない大切な事である。

 そして、"平和の実現"の為に、何をどう成すべきなのかを考えて議論する前に、まず、しっかりと認識しておくべきことである。


 この原爆投下直後、広島の街に奇蹟が起きた。

 原爆投下からわずか3日後、一台の路面電車が焦土と化した広島の街を走り出したのだ。

 生き残った電鉄会社の社員たちが、原爆投下の翌日から、曲がったレールに槌を振り下ろし、架線を張り直して復旧作業して運転を再開したのである。

 時にこの国が持つ底力は、実に震えが来るほど恐ろしいものがある。この逞しさには、愕然とした畏怖さえ憶える。

 光禅 記

洋館付和風住宅

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広島禅会 2015/6/26 15:41
 『呉坐禅道場』が在る呉市両城2丁目は、斜面の階段に、雛壇状に住宅が立ち並んでいる町である。

 明治の富国強兵策で、それまで農漁業で生計を立てていた呉一帯は、一躍軍港と軍需生産の中心地と成っていった。

 明治19年、呉に鎮守府が置かれ、やがて造船部・砲兵部が建設され、それらは明治36年には呉海軍工廠となり、呉はまさに水兵と職工の町と成った。

 以来、軍港として栄え、戦艦「大和」も呉で建造された。JR呉駅近くの大和ミュージアムには、年間90万人もの観光客が訪れている。

 人口も明治38年には7万6千人だったのが、大正9年には15万人に倍増した。そして第2次大戦中には、旧呉市街地の人口は40万人を越えた。

 平地は軍の施設に充てられたので、新たに移住してきた軍関係者や工廠の職工等の住む住宅は、周囲の傾斜地に建てられた。中でも両城地区には、海軍上層部との関係者が住む、当時流行したモダンな和洋折衷の『洋館付和風住宅家』が建てられた。

 この両城2丁目の斜面に、高い石垣を積み上げて雛壇状に組上げられた宅地は、まるで城壁を思わせる。

 これには当時、隣町の吉浦に、海軍関係の石工職人が多くいたことが関係しているのだそうである。かつては、呉の海軍諸施設、黒瀬の二級峡ダム、広島の宇品港などにも、この両城の花崗岩が切出されて使われたのだそうである。つまり石切り場の岩盤の跡地利用なのである。そして高い石組み技術を持った職人集団が居たからなのである。

 『呉坐禅道場』も、昭和の5年頃に、ここ両城2丁目に建てられた、そんな『洋館付和風住宅家』の古民家の一つである。したがって建物は約85年が経過しているが、敷地も建物も、かなりしっかりした作りで、60段ほど家一軒分の階段を上った、日当たりの良い、とても静で快適な環境である。『坐禅道場』としてはコンパクトなものの、地方道場としては必要充分であり、呉駅にも近く、とてもありがたいスペースである。

 玄関の横に洋館が接続しており、和室の奥へと廊下が続いている。洋館の屋上はバルコニーに成っていて、2階から出られる構造である。奥に倉が接続しているのは、夏と冬で部屋の設えを総入れ替えするための収納スペースなのだそうだ。今、洋館の部屋は琉球畳にして禅子寮(女子専用室)にしている。

 両城の200階段・100階段などと名付けられている階段は、映画『海猿』の訓練のロケ地で有名に成って、今では呉の観光名所の一つである。

 光禅 記

『この世界の片隅に』

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広島禅会 2015/6/2 20:04
 『この世界の片隅に』は、第二次大戦中に広島や呉で過ごした主人公、“すず”の生活を描いた長編アニメである。

 物語りとしては、至って普通の家族愛が描かれている。

 第二次世界大戦中、広島の江波(漁師町)に生まれ育ち、絵を描くことが好きだった少女、“浦野 すず”は、軍港の呉で、海軍に勤務する“北條 周作”に嫁ぐ。

 戦時中とはいえ、当初は比較的普通の夫婦生活を送り始める。

 戦争中の庶民の日常生活がリアルに描かれており、気楽でもなく、かといって極端に悲惨でもなく、現代においても、どこにでもある様な家族愛に包まれた日々を過ごしながら、ストーリーが展開していく。

 漫画家“こうの 史代”の代表作である。

 これを『マイマイ新子と千年の魔法』や『BLACK LAGOON』などで知られる“片渕 須直”が監督・脚本し、『坂道のアポロン』『残響のテロル』などを手掛けた“MAPPA”がアニメーションを制作する。

 そしてこの劇場版長編アニメ『この世界の片隅に』の制作実現を目指した、クラウドファンディングが、2015年3月9日から実施されて、先月末の5月29日に終了した。

 2016年公開を目指して、企画実現のためクラウドファンディングを実施したのだ。

 これはスタートから大きな注目を集めたプロジェクトであったが、終了直前に支援者がさらに増え、最終的には当初目標としていた2千万円を大きく上回り、3千6百22万4千円の資金を集めた。

 この資金調達額は、これまで国内で実施されたクラウドファンディングとしは、過去最高額となった。

 集まった資金は、作品の制作スタッフの確保や、パイロットフィルム制作に活用されるのだそうだ。

 予想を上回る金額は、プロジェクト前進の大きな力にもなった。

 そして『この世界の片隅に』のプロジェクトで注目されるのは、支援者の熱度の高さである。

 クラウドファンディングでは、献金の御礼として、サポーターに何らかのリワードを渡すのが恒例である。

 例えば、映画のBlu-rayやDVDなどのグッズ類が多いのであるが、『この世界の片隅に』では、主人公からの手紙、支援メンバー証など、とてもシンプルでささやかなものである。

 もっとも、ファンミーティングへの参加権や、本編エンドロールへのクレジットなど、品物ではなく権利としてのリワードもあるのだが、支援金額の大きさからすると、これらのリワードは決して比例はしていない。

 つまり『この世界の片隅に』のサポーターは、「映画制作実現の支援をする」という気持ちと願いが、それだけ大きいのだといえるのである。

 そうした気持ちを持つ支援者が、3,374人もいたというのである。

 これは日本のクラウドファンディングでは、とてもレアケースであり、エポックメイキングな出来事でもある。

 ともあれ、“呉・広島を舞台とした物語り”が、今や日本を代表する世界的なカルチャーとなったアニメーション映画として注目を集めているのは、何となく誇らしく、まるで自分達の事の様に嬉しくもある。

 光禅 記