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広島ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

古くて新しい座禅(21) 春潭

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
広島禅会 2014/1/17 9:09
広島禅会の担当師家、葆光庵丸川春譚総裁老師が執筆されたので、転載いたします。座禅にもいろいろあるということをご存知ないかたも多いでしょうから、この分かりやすい文章でご理解されると良いですね。

 明けましておめでとうございます。
お正月のお茶のお菓子は、全国のどの流派のお茶席に云っても、花びら餅のようです。
今年は、3日に市川の本部道場で有楽流の茶席で、また5日に熊本道場で肥後古流のお茶席で、6日に名古屋では表千家のお茶席で花びら餅を頂きました。
いずれも花びら餅でしたが微妙に土地柄の特徴があります。
 
 
6日の名古屋の茶席での花びら餅は岐阜のお菓子屋さんと云うことでしたが、今まで食べたことのない新鮮さが少しありました。
それは真ん中に通している牛蒡に塩気が少しあり、また少し歯ごたえがあるもので、これはこれでなかなかのものだと感心しました。
そして贅沢を言えば、お濃茶が花びら餅にはぴったりであります。よく練られたお濃茶を名古屋禅会で頂き幸甚でありました。
 
今日は、座禅における数息観法の長所と短所についてお話ししましょう。
座禅において数息観法を取り入れているのは、人間禅の法系である臨済宗系であります。
これに対して、曹洞宗系では、大体において、数息観法に依らず、只管打坐一本で、ただひたすら無念無想の座禅のようであります。すなわち数息も行わず、ひたすら雑念を切って行く座禅であります。
 
座禅にはこの二つがあるのですが、それらの長所と短所をちゃんと認識した上で、座禅をすると良いと思います。
 
数息観法の良さは、座禅の初心者に向いている点であります。
考える葦である人間が、いきなり無念無想になるということは、極めて難しいことです。
何故かですが、脳科学で云いますと、頭頂葉は常に何かを考えている状態が定常状態であります。したがって目が覚めた覚醒状態でこれを意識的に止めると云うことは、非定常・非日常ということになります。
 
以前に、アメリカの脳科学の専門家がチベットの瞑想僧の脳を詳細に実験して、瞑想・三昧に入ったときは、頭頂葉がSilentになり、変わって感性を司る前頭葉が活性(Active)になるということをこのブログでご紹介しました。
 
そして前頭葉を活性(Active)にすることが、感性を磨き、人間力を増加し、創造力を付け、人間形成を深めるのだと申しました。
したがって座禅の目的は、頭頂葉をSilentにし、前頭葉をActiveにすることであります。
 
数息観法が初心者向きだという根拠を脳科学的に云いますと、頭頂葉を数息という仕事に専念させる方法だからです。
頭頂葉をいきなりSilentにすると云うことは、頭頂葉の定常性・日常性から考えると大きなギャップであります。
 
なかなか容易ではないのですが、取りあえず何も考えるな!ではなしに、数息だけはやりなさいと許すのです。
当然こちらの方が、ギャップが少ないだけ入りやすいというものです。
 
しかも数息観初期は、1から100までを少々何か考えていても、息を数えることを忘れず、数息を間違えない程度の緩い縛りで始めることを奨めています。
 
中期に進むと1から10までをチラッとした念慮も差し挟ませない一念不生に厳しくした数息になるのですが、これでも未だ頭頂葉は、息を数えるという働きをしていますから、完全なSilentにはなっていません。
 
数息観の後期というのが、曹洞宗系の只管打坐で、全く数息もせず完璧に頭頂葉をSilentにする段階であります。
この後期はもう数息をしないのですから、数息観法とは言えないのであり、ここは深い座禅三昧のところです。
 
これでお解りのように、まさに数息観座禅の長所であり且つ短所は、頭頂葉を少しは動かしているというところです。
 
しかし中期を卒業して後期すなわち息を数えない只管打坐まで行くには、毎日座禅を一日一炷香としてやって、居士禅者の場合は、普通の人では10年はかかると思います。
 
小生は50年以上数息観座禅を一日一炷香でやっていますが、毎日の座禅(45分)の三分の二から四分の三は数息観法で、最後の三分の一から四分の一が只管打坐になっています。
 
これをご参考に一日一炷香を毎日少しずつ深めていって頂ければ幸いです。前にも申しましたが、継続は力なりです。
 
年初に当たり、一日一炷香の誓願を立てられたら如何でしょうか?ご精進を心よりお祈りします。
合掌
春潭 拝
龍舟です。広島禅会の担当師家、葆光庵丸川春譚総裁老師が執筆されたので、転載いたします。名古屋の参禅会についてかかれていますが、わたしも明日から参加したいと思います。山口に続いて、よその会に入れてもらうのは二回目。楽しみです。座禅を続けていると、前頭葉の働きが変わってくるんだよ、と老師に言われたことがありますが、たしかにそれは実感します。では、どうぞ。


 先週一週間は、市川の本部道場での摂心会で、最後の土曜日の夜は臘八会に因んで、徹宵座禅を行いました。

 今週は、昨日から名古屋参禅会で、名古屋市西区にある善光寺別院願王寺を拝借して、来週の月曜日まで参禅会です。
 日曜日の午後には、前回に引き続き「般若心経」の講演会も予定されています。
 
 お菓子の旅は、京都まで来ており、最初に鍵善の葛きりを取り上げました。
京都は和菓子の本場であり、和菓子は日本文化の粋の一つであります。
京都を代表するお菓子として、八つ橋はどうしても外せないのでしょうね。古くからあるのは、固い八つ橋ですが、その後おたべとか、生八つ橋が工夫されて出回ったように思います。
お茶のお菓子としては、小生はあんの入らない生八つ橋が一番だと思います。



 
 座禅のお話しは、少し角度の変わったお話をします。
 
  過去・現在・未来という時の流れの認識は、人間だけにしかない「知性の概念」であります。すなわち動物には過去も未来もないのであります。
 
 実際に、過去はもうこの世にはなく、記憶の中だけにしか存在しない。
 
 未来も幾ら確実に実現すると云ってもそれは仮想でしかない。まさに想像上の存在でしかない。
 
 実際にあるのは、現在という今だけである。
 
 しかもこの今は、時間の幅はなく、過去と未来の境界が今という現在であり、今は瞬時にして過去になってしまう。
 
 座禅というものは、この過去と未来の境界線上にある「今」をしっかりと捉え、そこにどっしりと根を下ろして揺るがない自分を発見し、この「今」に立脚して立ち上がるための最もシンプルで洗練された道である。
 
 脳科学で云えば、過去の記憶と未来の想像は、頭頂葉のはたらきであり、今を捉え、そこに立脚すると云うことは、前頭葉のはたらきである。
 
 前頭葉を活性にする最適の手段が座禅である。
 
 如何ですか?質問はありませんか?
 質問がなければ・・・・・・・・・・今日はここまで、さようなら 春潭

広島禅会の担当師家、葆光庵丸川春譚総裁老師が執筆されたので、転載いたします。

  龍舟 拝


このシリーズの(17)を発信してから、あっという間に3週間が過ぎてしまいました。
 11月最後の週末は、日暮里の択木道場で、座禅セミナー、座禅フロンティアが定例行事としてあり、その翌日から、中国瀋陽市の東北大学へ4日ほど出張しておりました。
 大学の中に新しい国際会議場ができ、それに併設された新しいホテルに泊まり、毎朝、一日一炷香の座禅は当然ですが、ブログ書きまで手が回りませんでした。
 帰国してからも、水戸静坐会座禅会に続き、先週末から市川の人間禅本部道場で、京葉支部臘八摂心会(座禅会)に入っております。
 今日11日水曜日は、中日の放参日ですので、久し振りのブログを書かせて頂きます。

 先ず、お菓子の旅ですが、和歌山の和歌浦せんべいまでだったと思います。次は、京都ですが、京都は銘菓が沢山あって絞り込みが難しいですが、鍵善の葛きりを先ず挙げたいと思います。八坂神社に向かって左側の老舗の菓子屋さんです。
 ここの葛きりは、座禅の先輩で、熊本の浜田圭巌老がお好みでありました。

 前回は座禅の数息観法による三昧力向上のために、座禅三昧力評価基準とその記録についてご紹介しました。
 数息観座禅は、なかなか味わいにくいところがありますが、やればやるほど、その深い味わいは段々と素晴らしく噛みしめられてまいります。

 朝の座禅によって、その日一日の充実のためと同時に、その座禅の継続が、着実な人間形成の道の一歩一歩になるのです。理屈抜きに「行」の効果です。

 最近感ずることは、座禅だけではなく、浄土宗の念仏三昧も、神道系の滝行なども、全て座禅三昧と同じ方向を目指していることをつくづく感じます。
 
 一日一炷香の座禅を基軸にして、仕事でも、趣味でも、余暇でも、三昧の尺度で評価して行くと、何でもありで、それが全て人間形成の道につながっていることを感じています。
広島禅会の担当師家、葆光庵丸川春譚総裁老師が執筆されたので、転載いたします。
龍舟 拝

総本家駿河屋 和歌浦せんべい
総本家駿河屋 和歌浦せんべい
 http://souhonke-surugaya.co.jp/products/area/wakaura.html

 13日ぶりに自分の書斎に入り、電気を付けるとカメムシが飛び始めました。夏の虫だと思いますが、この寒い時期までよく生き延びたというのか、どういうご縁で我が書斎に入り込んできてくれたのかね?

 この択木道場のHPへの小生のブログの最新は、「信と禅」の3回目で、11月14日です。たった4日前ですが、それがこのブログの2ページ目になっております。皆さん活発で直ぐおいて行かれてしまいます!?
 海香さんの「忘念会」を一緒にやりましょう、を流行語にしたいものですね。
 また龍吟さん紹介の、メルセデスが宣伝に禅を使っているというのも憎いというのか、禅のイメージが一般にそういう風に受けているのは面白いですね。
 心印さんはバイタリティがありますね。慧日庵は、まめで粘り腰があると高く評価していました。

 このタイトルでのブログは、8日ぶりになります。この間に「信と禅」が3回入っていますが、ご無沙汰です。
 書き出しは、お菓子の旅で、岡山の大手まんじゅうから始まり、姫路の白玉椿から、神戸の瓦せんべいまでだったと思います。

 神戸の次は大阪ですが、大阪のお菓子は直ぐに出てきません。飛ばして9年間いました和歌山ですが、和歌浦せんべいが有名です。
 40年以上前になりますが、和歌山から上京するたびにお邪魔していました磨甎庵老師へのお土産は、いつも黒い缶に入った和歌浦せんべいでした。
 神戸の瓦せんべいと同類項でしょうが、卵とミルクが効いていてソフトです。お抹茶のお菓子には向かないでしょうが、懐かしいものになりました。

 このタイトルの続きですが、前々回で数息観座禅の評点基準とその記録ということの説明をしました。そして前回は、その実践事例を恥書きでご紹介しました。
 座禅の数息観法は、深く入れば入るほど、すなわち数息が進めば進むほど、自分がまだまだだと思えてくる不思議なものです。

 数息観座禅は奥が深い。
 その奥の深さが、初めのころは判らない。なかなか数息ができない、数息することが難しいくらいな感想だけで、数息観座禅を味わうところまで行くのには、少なくとも10年はかかるでしょうね。

 この10年をどう乗り越えるかの一つの武器が、数息観評点基準と記録です。

 小生もそうでしたが、評点記録は、最初はどうしても甘めに評点を付けるものです。主観評価ですから仕方がないし、またそれで良いのです。
 そして甘めの評点でだんだんと点数が上がって来たときに、またデノミネーション、平価切り下げのように、主観評価をより厳しい主観評価に自分で軌道修正すれば良いのです。

 数息していて、平行して何か念慮がよぎっても数息ができていれば、そのまま続けていたのを、より厳しくちらっとした念慮が生じても、また一からやり直しにする、と云ったように自分で基準を変えながら、だんだん厳しく、だんだん深めて行けば良いのです。

 前にも書きましたが、兎に角、一日一炷香をやる前後で、集中力のレベルが全然違うという座禅ができるようにならないと、すなわち数息観評点が、最初と最後で全然違うという一炷香の座禅ができるようにならないと、数息観座禅も面白くならないというものです。

 カメムシが電気の暖かさのあるところで飛ばないでじっとしてきました。
 くさい臭いはするし、農作物の害虫で厄介者ですが、生き物は生き物で、今日は書斎に仲間がいるという感じです。
 今日はここまで、さようなら  春潭

信と禅 (3)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
広島禅会 2013/11/23 20:40
 お菓子の続き、塩まんじゅうの赤穂から東へ行くと、姫路の白玉椿の生菓子が忘れられません。
 小生と同じ歳だったと思いますが、むかし三木淨光居士というくそ真面目な道友がいました。彼は姫路出身で大きな生家に住んでいましたが、土産によく白玉椿を頂きました。もう久しく頂いていないので、彼を思い出しながらお濃茶と一緒にもう一度味わいたいものです。

 坐禅修行の要訣として、大信根が大切で、その信には三つの信があると前回お話ししました。

 三帰依文の中に、「信和の人間禅これ我が僧伽なり」という一説があります。
 また、三禁令の一つに、「道友の信を裏切ってはならない」があります。

 この二つの信は、僧伽の中での信であります。この信はどういう信であるかは、『立教の主旨』の第三項「わが人間禅は、正しく・楽しく・仲よく 人間味の豊かな人々の家庭である。」と、第四項の「我が人間禅は、禅 本来なる自由と平等とを尊び、各自の人格を尊重する。」の中に謳われている人間禅の精神から発せられる信です。

 ここにあります「仲良く」は、お互いに相手の中にある仏性に対して合掌し合うということであり、そういう信を持ち合った人々の家庭が、すなわち人間禅であるということであります。
 それは取りも直さず根源的な意味から「各自の人格を尊重する」ということになります。僧伽内における対人関係での信は、こういう信であります。

 ここで前回述べました「信」に対する説明ですが、広辞苑での説明に加えて、信というものには、「自分には認識することができないことを承認するという意味」が付け加えられると申し上げましたが、それに更に別の切り口から、信についての説明を付加します。

 一般的な信は、脳科学で云えば「頭頂葉で考えた信である」といえ、これに対して、坐禅修行での大信根や僧伽内での信は、「前頭葉において感得せられる信」であります。

 数息観三昧に入ると頭頂葉がsilentになり、入れ替わるように前頭葉がactiveになるということが脳科学の実験で証明されていますが、禅における信には、三昧が付いて初めて信というものになるのであり、三昧が付かず前頭葉が不活性なままでは、信というものは形骸化されてしまい本当の信にならないと云うことです。

 そして、三昧が深くなればなるほど、信も深く揺るぎないものになると云うことです。

 同様に人間禅の『立教の主旨』も、三昧が深く身に付くにつれて、それを真に理解し認識することができるようになるし、三昧が浅く前頭葉が不活性なままでは、皮相的にしか理解できないものです。

 前回、急に寒くなりましたのでお風邪をひかないようにと言いましたが、どうも小生が鼻風邪をひいてしまったようで、くしゃみと鼻水でキーボードを叩くのも容易ではありません。改めてご自愛下さい。  合掌  春潭

信と禅 (2)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
広島禅会 龍舟 2013/11/22 8:07

元祖播磨屋 塩味饅頭 /http://www.ganso-harimaya.com/


 お菓子の続きですが、実は小生は辛党で、甘いものは苦手です。
 しかしお抹茶の時にはお菓子がなければならないし、結構お菓子にはうるさい方かも知れません。
 多くは要らないのですが、美味しいその土地その土地の伝統的なお菓子は好きです。
 岡山県の東端の町に三石という耐火煉瓦原料を産する父の出の町があり、その三石と県境を隔てて昔から塩田で栄えた有名な赤穂の町があり、塩まんじゅうが有名です。
 甘みに少し塩気が入っている昔ながらの菓子です。

 いよいよ座禅における信について今日はお話しします。

 祖師禅(正脈を嗣法している師家の下で転迷開悟の見性を第一とする座禅およびその集まり)における信についてお話しします。

 修行の三大要訣として、大信根、大疑団、大勇猛心が昔からやかましく云われています。

 一般社会での「信ずる」の意味は広辞苑で見ますと、「誠と思う。正しいとして疑わない。間違いないものとして頼りにする。」等という意味でありますが、宗教においての「信」「信ずる」は、これらの意味の上に更に少し違うニュアンスが加味されると考えます。

 すなわち、自力とか他力とか、一神教とか多神教とか、東洋文化とか西洋文化とかによらず、信というものには、「自分には認識することができないことを承認する」という意味がある。
 逆に言うと、自分がはっきりと認識することができる場合には、信ずるという言葉は相応しくないと考えます。

 したがって確信すると言う意味には信という文字が入っていますが、これは一般社会での使い方の「正しいとして疑わない」に使う言葉であり、宗教的なニュアンスは加味されていない使い方です。

 何故こういう細かなニュアンスを問題にしているかということには理由があり、それについて追々触れて行きます。

 元に戻って、大信根ですが、何に対する信かをはっきりさせておく必要があります。
 そしてこの大信根は座禅修行を始めた人、座禅修行を続けている人に必要な要訣であり、三つの意味があると昔から云われています。

 一つは、学人の自分は未だ悟りを掴んでいないけれども、お釈迦様はすごい悟りを開かれたのだということを信じることです。
 すなわち悟りというものがあるんだと云うことを信ずることで、これがしっかりと腹になければ命を賭けた骨折りの修行はできないのです。
 そしてこの信は見性入理だけのことではなく、見性悟道、見性了々底にも同様に云えることです。

 二つ目は、師家はお釈迦様の悟りを正しく嗣法しているんだと信ずることです。
 これも自分では判断し認識することができないことですが、先輩の云うこととかいろいろな資料・情報とかから推定して正脈を伝法している師家を信ずる必要があるのです。
 この信がなければ、自分が確信した見解を否定されたとき、素直に自分の持っている見解をすぱっと捨てきれない、そしていつまでもグジグジと自分の見解に拘るということになり、人間形成の修行が進みません。

 また自分が考えたこともないことを師家から指示されたとき、自分では納得できなくても、それには何か深い仔細があることと信じて素直に従う。
 これができないと云うことは、師家に対する信がないと云うことで、その僧伽に留まることは本来的にはできないことになります。

 三つ目は、自分もしっかり修行をすれば、お釈迦様の悟りを得ることができると信ずることです。
 悟りというものは悟ってみないことには全く判らないものですが、師家の指導の下に、道友の導き助言を頂いて、自分も先輩道友と同じように見性することができると信ずる。
 これを信ずることができるから、難関に直面しても必ず突破できるという確信を持って挑戦し続けることができるということになります。

 本日はここまで、また次回に。
 急に寒くなりましたが、お風邪をひかないようにご自愛ください。合掌
                                     春潭 拝
 

信と禅(1)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
広島禅会 龍舟 2013/11/21 11:40
 関西道場の門前には立派な黐(もち)の大木があり、濃い緑の葉っぱの陰に真っ赤な実が点在させています。
 木の形と云い、幹の肌の美しさと云い銘木の風格があります。小鳥たちにとっては、冬場の格好のえさ場になるようであります。

 今日からしばらく、「信」について考えてみたいと思いますので、お付き合いください。

 他力宗と自力宗での信の意味合いの違い、一神教と多神教での信の意味合いの違いにも配慮しながら、禅にとっての信とは?を考えてみたいと思います。

 門外漢のそと見でしかありませんが、一神教と他力宗(多神教での)での信には近いものがあるように思いますが、東洋と西洋の文化の違いが信の違いも投影しているようにも感じられます。

 仏教(多神教)の中での他力宗の代表は、浄土宗・浄土真宗であり、自力宗の代表は、禅宗であります。

 浄土宗の開祖の法然上人についての伝記を見てみますと、15歳の時に比叡山に登られ、父君の遺戒を守って、切磋琢磨の年月を重ねられ、天賦の才と比類ない努力精進により、難信難解の天台教学のみならず、諸宗の教義にも悉く精通された。40歳を迎えられた頃には、叡山に比肩する者なき学識を備えられるに至った。

 しかし、上人の心は晴れなかった。すなわちいくら学識を積み名声や地位を得ても、本当に納得のいく大安心に到ることができなかったのである。

 そこで、やむなく叡山を降り、膨大な一切経が収められていた黒谷の報恩蔵に入られ、想像を絶する忍耐力で、一切経を何度もひもとかれたが、心の闇は晴れず、絶望の深淵に立たされていた。

 そういう時分に、中国の善導大師の著された『観無量寿経疏』の一節に上人の目が止まった。そして「一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥が、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これ正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に」の文章を読まれた。

 ここにおいて法然上人は阿弥陀仏の絶対の救済にあい、煩悶も焦燥も氷解なされたのである。

 この善導大師の一節で法然上人は一種の悟りをつかまれ大安心を得られ、そして浄土宗を開くことになった。すなわち阿弥陀佛を本尊とし、「南無阿弥陀仏」をひたすら念仏する浄土宗が始まったのです。

 己をむなしくしてひたすら念仏して阿弥陀仏に帰依し、西方浄土へ救われて行くことを信ずるのであり、他力の信はすべてに先だって先ず信ありきです。

 法然の弟子の親鸞は、如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。

 これは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとしして、絶対他力を強調するのです。

 したがって浄土宗よりもより深くより徹底した他力であり、それだけ信というものも純粋に強くなっていると思われます。

『歎異抄』第2章の有名な親鸞の言葉である「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」も、絶対他力の信を覗わせるものです。

 浄土宗・浄土真宗の信は、南無阿弥陀仏を念ずれば、救われ浄土に行けるんだという信であり、典型的な他力の信であります。

 次回から、禅の信についてお話しします。

今日はここまで、さようなら  合掌




岡山備前銘菓 大手まんぢゅう http://www.ohtemanjyu.co.jp/



 今日はお菓子のことについて少し。

 小生は岡山出身で、吉備団子が有名ですが、お茶菓子としては、大手まんじゅう(薄皮で小豆のこしあんの酒まんじゅう)がお勧めです。これと似たものが倉敷にあり、藤戸まんじゅうと云います。倉敷には「むらすずめ」という銘菓もあります。

 そして中国地方の菓子処は、何といっても山陰の松江で、不昧公というお茶好きの大名によって伝統的にお茶が盛んで、銘菓も沢山あります。

 切りがありませんので、今日はこの辺で。



 前回は、座禅の質を上げるために、数息観評点基準を作ったと云うことで、その評点基準をお示ししたのですが、本日はそれを使って実際に座禅の質をどのように向上させたかという小生のまあ云えば、恥をさらさねばならない一段であります。



 小生は18歳の大学一年生の時に入門してから、約五十年経過して、自分で前回お示しした数息観評点表を数年前から付け出したのです。

 その最初の時の評点は70点(数息観を1から10まで一念不生で数息しきることができるレベル)でした。

 すなわち50年かかって積み上げた三昧力のレベルが70点であったわけです。もちろん室内は終え嗣法し聖胎長養をしているところでしたが、その程度であったわけです。



 その70点からスタートして、一ヶ月が経過した時点の月末に2回ほど75点(1から10までを二回連続して一念不生の数息ができるレベル)に到達しました。

 そして、二ヶ月目の平均は75点となり、二ヶ月目の月末には、80点(1から10までの一念不生の数息を連続5回達成する三昧レベル)に一回だけ達しました。

 そして、3ヶ月目には、一ヶ月で7回80点に到達できました。



 ほとんどの日が一日一炷香で、時々朝晩の一日二炷香での結果でしたが、自分でも気合いを込めて真剣に取り組みました。

 昨日よりも今日は更に、先週よりは今週は更にと取り組みました。



 それができるのも定量化ができ、数値ではっきりと進歩の度合いが目に見えるから励めたのです。



 その後は、何度か自分で評点をだんだんと厳格にして行き、現在はその厳格な基準で毎日80点超えを自分のノルマとし、更に85点を目指して毎日精進しているところです。



 評点基準は目安であり、その評点は主観評価ですから、絶対値にはあまり重きを置かず、毎日向上する一日一炷香であることが、何よりも大切です。



 尚、誠に老婆親切の押し売りですが、小生の担当している支部・禅会・静坐会の会員に対して、ひと月一回の数息観評点をメールで送って来た人には、コメントを付けて返すことをこの数年続けております。



 新到の方でまだ入会していない方でも、あるいはKUJ静座倶楽部の会員の方でも、小生に評点記録を見てくれという方が居られれば、ウエルカムです。

 数息観の質の向上について参考になれば幸いです。

 今日はここまで、さようなら   丸川春潭

Marukawa_k@sky.bbexcite.jp



 昨日の午後は関西道場へ行く時間調整をかねて、京都の細見美術館で光琳派の日本画展を見ました。終わって迎えの車が来る間、美術館の前の川沿いの桜並木の紅葉を堪能しました。
 桜の紅葉は、紅葉の紅葉に比べ、華麗さはなく地味ですが、それはそれで趣を感じさせてくれます。

 前回までは、一日一炷香の短期的・長期的効果について述べ、そして一日一炷香の取り組みの狙いに二つ(現状の三昧力復元と現状の三昧レベル格上げの二種類)あることをお話ししました。

 今日は、その後者(現状三昧レベルの格上げ)の事例とそのための数息観座禅の評点記録付けの効果についてお話ししましょう。

 数息観座禅の三昧深さレベルを定量的に数値で表すことは、未だかって歴史にないことです。ある意味、非常識なことであるとも云えますし、新しい進歩であるとも云えます。

 量的な言い方は、一日一炷香の座禅とか、一日に五炷香坐ったとか、一年に千炷香の座禅を目標に掲げるとかは従来からあるのですが、座禅の質に関する表現はほとんどなく、あっても極めて抽象的なものでしかありませんでした。

 四年ほど前からもっと三昧力を深めねばならないのだが、単に時間を長く坐禅しているだけでは深まらない。すなわち量ではなく質にもっと注力しなければならないと考えていました。

 その時、NHKの「ためしてガッテン」で、体重を減らす効果的な方策として、毎日の体重測定と記録表示が効果的であるという放映があり、それにヒントを得て、数息観評点基準とその記録表を作り実践を始めました。

 数息観評点基準を以下に掲げます。(それを使って座禅の質をどのように向上させたかは、また次回の楽しみに・・・。)

「数息観評点記録のすすめ」    丸川春潭

 小生の実践経験ですが、数息観評点基準に従って一日一炷香の評点付けをすることにより、従来では踏み込めなかった数息観の質の点検に踏み込むことができ、己の修行レベルに客観的視点を加えることができるようになった。その結果、昨日よりも今日、今日より明日こそはと、日進月歩で自分の数息観を深めてゆくことができ、ややもすればマンネリに陥りやすい一日一炷香に精彩を加えることができるようになった。
 それは数息観の一日一炷香という地味な努力の継続という修行が、明確な客観的数値の目標の設定により、その結果を自分で確認できる方式が確立できたからである。その効果には、始めてみなければ、実践してみなければ予想もできなかった驚きがあった。

 日常における人間形成の手堅い道がここにあったのである。そもそもわれわれの人間形成の禅は、公案を用いた道眼を開く参禅弁道と、三昧を身に付け道力を養う数息観法の日常的実践から成り立っており、この両方の柱によって臨済宗の人間形成教育システムは構築されているのである。
 しかし従来より、前者の参禅弁道の修行の方は、明眼の大宗匠耕雲庵老大師の瓦筌集によって人間形成の過程に従う明確な目標設定がなされ、それにしたがっての正脈の師家の厳しい指導が実態として確立されていたが、後者の方は、耕雲庵老大師の「英山の今日あるは、一日一炷香を正直に続けてきたからである」との述懐に基づく、「一日一炷香のすすめ」の連呼に終始しており、最初に述べた数息観の質的検証と、そのレベル(目標)の設定がなされないまま今日に到っていたのである。それでは参禅弁道では低きから高くへとの段階を歩めるが、修行の両輪である数息観による道力の進歩については成長過程がつかめない状態におかれることになる。そこに踏み込む試みがこの数息観評点基準と評点付けなのである。

 この数息観評点基準は、人間形成の最初から、人間形成を全うする最後までの全行程を網羅したものである。一人でも多くの方が、本当の自分探し(人間形成の禅)の道に入り、全ての人が本当の自分をしっかりつかみ(人間形成を全うし)、正しく楽しく仲の良い社会建設プロジェクト推進が進展する縁(よすが)にこの試みがなることを祈念し筆を擱く。       合掌

【注意】次頁の数息観評点基準を見て実践される人は、先に耕雲庵英山著『数息観のすすめ』を読んでおいて下さい。(数息観初期、中期、末期、あるいは「二念を継がず」「一念不生」等は、そこで定義されて説明されています。)
 特に、70点以上に進まれた人は、拙話「提唱録:「数息観を深め味わう」(中期数息観)をお読み下さい。また80点以上の方は、提唱録:「数息観を深め味わう」(後期数息観)をお読み下さい。

【数息観評点基準】2010.8.10設定、・・・2012.1.1.改訂
0点:その日数息観をせず。
30点:ちょっとした待ち時間、通勤途中の電車内などで、初期の数息観を実行した(数息の質は問わない)。
40点:始業前、休憩時間など、空いた時間に(椅子に座って)合計15分以上数息観をし、数息観初期の1から100までを実行した。
45点:半炷香(約25分間)以上静坐し、数息観初期の1から100までを
間違えずに数えられた。
50点:一炷香静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに1回は数
えられた。
54点:数息観初期の1から100までを一炷香を通して間違えずに数えられ
た。(45分間では、100までを3から4回数えられる。)
55点:数息観中期の「二念を継がず」を1~5までは何回か達成できた。
    (54点までが、数息観初期、55点からは、数息観中期に入る。)
58点:数息観中期の「二念を継がず」を1~8まで、1回は達成できた。
60点:数息観中期の「二念を継がず」を1~10まで1回達成できた。
 (ここから以上は、数息観中期の「一念不生」が始まり、数息観のメインは「一念不生」になる。*ここから数息観の質は大きく変わることに注意。「二念を継がず」に比べ、「一念不生」は頭燃を掬うが如き気合いと集中力がなければできない領域になる。質の点検に留意。
65点:「一念不生」を1~5までは達成できるようになった。
70点:数息観中期の「一念不生」を1~10まで、1回は完璧に達成できた。
    *この70点の達成が一つの大きなステップとなる。初関を透過し道
号を持った段階の者はここはクリヤーしてしかるべきである。
75点:数息観中期の「一念不生」1~10までが2回連続も含めて安定して
できた。(ここから少しずつ数息観後期(息を数えない数息観)を試み
始めても良い。)
*ここからさらに質が変化し、数息観の真の力を感じることができる
ようになる。
*人間禅の風大級に進級した者が、日常において五蘊皆空を実践する
には、ここはクリヤーしておくべきである。
80点:数息観中期の1~10までが5回連続も含めて安定してでき、後期が
数分安定して続けられた。
*ここからさらに質が変化し、数息観の醍醐味を感じることができる。
85点:一炷香において、完璧な正念息が20分継続できた。
    *数息観中期でも後期でも問わず、正念息(雑念が入らなくて良しで
はなく、正念に住した数息を厳密に追求するために導入した新語、一
念不生より数段厳しい。)の継続が必要である。
*後期の更に先にある忘息観法(数息観法から離れ、純粋に只管打坐
になる)の世界に入る。
90点:一炷香が、ほぼ正念息となった。
100点:【              】
 
【備考】
評点付け :この評点付けは、主観評価であるから、絶対値に重きを置かず、
      自分の向上を自分で反省することに意味があるものである。
:5点刻みではなく、1点刻みで評点を記録すること。
          :表に記入すること。望ましくは折れ線グラフにしてその推移を
残し、自分の反省の糧とするとよい。 
:一週間、一ヶ月の平均値も出して、励みにすると良い。
:主観評価であり、絶対値に重きをおかずという前提の元に、仲間
 で(東海支部や西東京が行っているキャラバン)この評点を交換
しあって励まし合うのも良いでしょう。

 今日はここまで、さようなら  春潭

数息観評点のファイルはこちらに置いてあります(剣外追記)
http://keiyo.ningenzen.jp/modules/pico4/index.php?content_id=2

秋桜のトンネル(写真提供/@showaphoto06020 関剛様より転載許可)

 秋桜(コスモス)も秋の代表的草花です。
 ギリシャ語・英語での意味は宇宙です。秋桜が「美しい秩序」の花言葉からコスモス(宇宙)という名になったようです。
 近年は、休田補償の田圃に植えられて、楽しませていただいていますが、休田補償がなくなりそうで、秋桜田圃も無くなりそうですかねェ。
 秋桜は一本でも美しいし、群れても目を見張るような美しさがあります。また花もさることながら、その姿が美しい。小生の好きな花です。

 前回までは、一日一炷香の短期的・長期的効果について述べました。
 今日は、一日一炷香の取り組みの狙いに二つあることを小生の最近の日常を元にお話しします。

 一つは、前々回の一日一炷香の短期的な効果狙いと関連したもので、数息観座禅の現状の三昧レベルを回復保持するための一炷香座禅であります。
 小生の場合、このための座禅は30分でも十分目的を達することができます。

 しかし以前にも申しましたように、座禅を開始した直後の数分間は、自分の現状レベルの三昧レベルより低い、集中力のない状態です。小生の場合、開始当初は70点レベルですが、それが30分以上の座禅になると大体80点レベルになります。これが現状三昧レベルの回復保持できた状態です。

 これに対して、自分の現状レベルから向上しようとする場合は、一炷香では足りないのが実感です。すなわち80点を85点に向けて向上しようとすると、急に困難となり骨折りを必要とします。(評点は主観評価であり、絶対値は気にしないで、その傾向に注目下さい。)

 数息観評点記録を小生に送ってきている人の中で、何ヶ月も月平均値がフラットで変化のない人が居られますが、これは一日一炷香の座禅が原状回復の座禅に終始しているということです。

 人間形成の禅の修行は勿論のこと、限りある命の一生であります。どの人生においても現状レベルで満足し、そこに腰を下ろしたら、人生が単に現状をキープと云うことにとどまらず、マンネリと退歩になってしまいます。

 初関を透過し道号授与の時に、どうしても外せない垂示の文言として、「この事の修行は、うたた入ればうたた深く、うたた上ればうたた高いのであります。一端の見所に腰を下ろすことなく、益々道心堅固に精進するように」と云わなければならない文言があります。

 自分の数息観座禅の三昧力レベルを、昨日よりも今日、今日よりも明日へと向上さす熱い志が何よりも大切です。真剣に生きようとする人間にとっては自然に備わってくる向上心です。

 小生の最近のこの限界を超える挑戦的座禅は、夜2時か3時に目覚めたときに、起きて線香2、3本の数息観座禅に打ち込むことでやっています。
 摂心会とか参禅会では、5時起きが決まっていますのでできませんが、通常週に2、3回は、この夜中座禅をこの数年やっております。

 モチベーションは勿論自分のためではなく、みんなのためにもっともっと上に向上せずんばおれないという気持ちです。自分が限界を高めるんだ! と云う気概でやっています。
 今日はここまで、さようなら。

春潭 拝

宏道会剣道場脇に咲く野菊

 秋たけなわの今日この頃、日本の秋には菊が相応しい。
 菊のことを別称として「隠逸花」という。目立たない陰に咲いてもその香りによってその存在が知られるという意味で付けられたのでしょうか?
 利休が、正親町天皇から利休号を賜ったとき、千宗易(利休)の参禅の師である大徳寺の古溪和尚が祝意を込めて贈った偈頌の一節に、「風露新香隠逸花」という句がある。
 菊の花の花言葉は、「高潔」「高貴」だそうです。

 前回までは、一日一炷香の短期的な必要性とその効果についてお話ししてきました。すなわち、今日の一日を自分の持っている個性も含めて全力を発揮するために、今日の一炷香の座禅が必要欠くべからざるものである、ということでした。
 これは一日一炷香の座禅の短期的な効果について述べたものであります。しかし、一日一炷香の大切さは、これだけではなく、長期的観点での効果もあるのです。

 耕雲庵老大師が『数息観のすすめ』で書かれていることですが、旧制第二高等学校の学生時代に、東北帝国大学総長の奥様(瑞巖窟老師の法を継がれた方)が、一日一炷香の大切さを諭され、「私はそれを正直に実行してきたのです。もし私が心から“今日あることを得たり”ということを許されるなら、全くこの奥さんのお陰である。今に感謝している次第であります。」と述べられている。
 これは人間形成の修行の肝心要(かなめ)なことを白状されているのです。

 数息観座禅による三昧状態、すなわち前頭葉の活性状態は、睡眠によって大部分は元にもどってしまうと申しましたが、実は少しは次の日以降にも持ち越され「三昧に関わる何か」が残留しているのです。

「三昧に関わる何か」には、三昧に入る時間が早くなるとか、三昧のレベルがだんだんと深くなって行くとか、いわゆる三昧が身についてくると云うことであります。

 東邦大学医学部の有田秀穂教授は、坐禅の呼吸法を継続し続ければ、セロトニン神経を恒常的に高いレベルに維持することが可能になる。」と表明されています。

 また、京都大学医学部名誉教授の本庄巌医学博士は、「数息観を長年継続することにより、前頭前野を活性にする機能を小脳化(集中力・三昧力を短時間に深く強くできる体質化)し、集中力・三昧力が身に付いてくる。」と申されています。

 耕雲庵老師の絶大なる人格にいたる人間形成に、大きく寄与しているのが長年の一日一炷香の積み重ねであります。それを最新の脳科学から有田先生、本庄先生がそれを証明しているのです。

 肝心なことは、一日一炷香という地味な「行」を、この生き馬の目を抜く繁忙な生活の中で、優先順位を上げてsteadyに毎日毎日継続して、10年20年30年やれるかどうかということです。

 少しずつの積み重ねが、数十年経つと雲泥の差になってくるのです。
ローマは一日にしてならずです。

 今日はここまで、さようなら。

春潭 拝

筑波山の夕景(写真提供=ブログ「土浦の自然」http://blog.goo.ne.jp/ tedy様より転載許可)

 季節の移ろいは早いものです。
 あれほどの酷暑も・・・8月の初めの水戸内原の参禅会は、室内はクーラーなしで、最低室温32度(明け方未明)、夜10時になっても35度、昼間は38度でしたが・・・そして、残暑が長かったですねえ^! しかし、さすがに11月ともなれば、朝夕は肌寒くなりました。
 日本に四季があると云うことは、日本人の感性を豊かに育んできたとつくづく思うこの頃であります。
 茨城県は高い山がありませんが、唯一筑波山があり、関東平野のどこからでも筑波山が見られます。急に日が短くなりました。夕日を後ろに浮かび上がる筑波山は何度見ても良いものです。

  筑波山つるべ落としに動かざる (拙句)

 前々回(10回)は、朝の一炷香の座禅によって、前頭葉が活性になり、感性豊かな一日になるとお話ししました。

 前回(11回)は、一日一炷香の座禅の前後で三昧力・人間力が大きく向上するという実感と実証が大切であると云うことと、だから忙しく責任ある者ほど、一日一炷香は欠かせないと申しました。

 しかし、朝一炷香の数息観座禅をして三昧力が付いたとしても、夜睡眠を数時間取ると、三昧力はほとんど元に戻ることを小生は常に経験しております。

 すなわち数息観の座禅で深い三昧に入り、前頭葉が活性になっても、睡眠でその三昧力は元に戻り、前頭葉の活性も元に戻ってしまうのです。

 ここに、毎日の座禅実践が必要な根拠があるのです。

 何百年もの間、禅宗の師家方が、一日一炷香の大切さを言い続けて来られた根拠がここにあったのであり、最近の脳科学によって、それが明確に裏付けられたのです。

 一日に一回の数息観座禅が、毎日前頭葉を活性にし、毎日を感性豊かにし、毎日セロトニンを出すために必要なのです。

 以上は、一日一炷香の座禅の短期的な見方ですが、一日一炷香の座禅の大切さは、これだけではないのです。その事については次回にお話ししましょう。さようなら。

春潭 合掌


 石蕗(つわぶき)が似合う季節になってきました。名前を忘れましたが、女流作家が、石蕗の黄色を暗い黄色と表現し、その魅力を語っておられました。派手な黄色ではなく、しっとりと地味な黄色ですが、それだけに深い味わいがあります。そして大きなつやつやとした葉っぱからすっと立っている風情がいいですね。

 前回は、朝の一炷香の座禅によって、前頭葉が活性になり、感性豊かな一日になると、一日一炷香の大切さについてお話ししました。
 しかし、この一日一炷香の座禅の中身について深く入らないと、一日一炷香の座禅の不可欠な理由がはっきりせず、一日一炷香の座禅実践のドライヴィングフォースが自発的になりません。

 どういうことかと云いますと、一炷香(40分から50分間)の座禅の最初の15分間と真ん中あたりの15分間と最後の15分間における三昧の深さを注意深く点検する必要があります。

 ここで三昧の質・レベルは本来的に云って、尺度できるものではないのですが、尺度せずにただ闇雲に一炷香の時間を主観的に一生懸命坐禅していると云うばかりでは、目標もないし、進捗の結果も判らず、多くの人の場合、一日一炷香がマンネリになり、一炷香の座禅をやってもやらなくても同じように思われてきて、終には一日一炷香が歯抜けになってしまいがちなものです。

 そこで座禅の本義の第一義から云うとあまり好ましいことではないのですが、第二義に下がって、数息観評点基準と数息観評点表を小生が作り、公にしております(当ホームページ、「坐禅のすすめ」に掲載してあります)。

 一般的に云いますと、座禅の時間が進むに従って、三昧が深まって行くものです。すなわち、最初の15分間では雑念なしに数息できるのが1から5までもなかなか数息できないという状態が、中の15分で、1から5まではでき出す。しかし10まではできない。最後の15分で1から10までがやっとできるようになって、70点の評価まで到達する、という標準的なパターンがあります。

 この70点を毎日クリヤーするには10年くらい平均して掛かるもので、初心者では、1から5までが、最後にやっとというくらいなものです。

 申し上げたいことは、一日一炷香を始めた当初の三昧力は、非常に低い状態であり、それが一炷香の間でだんだんと三昧力が付いて来るということで、もし一炷香ができなかったら、とてもひどい低レベル三昧力・人間力の状態で、仕事に掛かることになったり、人と対面したりすると云うことです。

 責任ある人であればあるほど、また大切な一日であればあるほど、この一日一炷香なしに、すなわち低レベルの感性で低レベルの人間力で事に当たると云うことはあまりにもお粗末であり、無責任であるということです。

 もう一度繰り返しますと、一炷香の前後で、三昧レベルの大きな差があるという認識がなされれば、一日一炷香をやめるわけにいかないということになるのです。

 ここが大切なところであり、居士禅者(社会人で人間形成の禅の道を進もうとしている人)にとってゆるがせにできないところです。理屈抜きに行が実践できるかどうかです。
 今日はここまで、さようなら!

春潭 拝

(写真提供/@Yuka110ryo3)

 ススキ(芒、薄)も素晴らしい草花です。何より日本的です。
 この良さは、薄の穂の若いときから、ふさふさと枯れ枯れになるまで、いろいろな姿があり、その時々の美しさがあります。
 若いときも凜々しくて良いし、ふさふさの穂を逆光で見るのも又素晴らしい美しさです。また群れて咲いているのも良いし、単独をフォーカスして見ても良いのです。
 ちょうど人の人生を見るようです。

 前回は、「信と向上心を牽引車にして、忙しさや疲れや安易さへの流れやすさに抗して、黙々と一日一炷香の座禅を忠実に実践する」と云う、一日一炷香の数息観座禅の難しさと大切さについてお話ししました。
 今日は、更に踏み込んだ一日一炷香の座禅についてお話しします。

 一日一炷香の座禅の大切さを、最新の脳科学の情報から見てみたいと思います。アメリカの脳科学の学術雑誌に、瞑想状態・三昧状態に入ったときの脳がどう変わるかという実験結果が報告されています。
 それによりますと、三昧に入ると脳の中の頭頂葉(記憶の蓄積、ロジカルな思考、自他の識別区別をする、相対的判断をする等、デジタルコンピューター機能の部位)がsilent(不活性)になり、入れ替わって前頭葉(感性を司る部位、人格を形成する場所)が活性になることをチベットの瞑想僧を実験者にして明らかにしています。

 数息観の座禅をして、三昧が深まってくると、頭頂葉が不活性になり、前頭葉が活性になると云うことです。更に云えば、一時的にも頭頂葉をsilentにしなければ、前頭葉が活性にならないということです。

 座禅の効用の一つがここにあるのです。(前頭葉が活性になったらどんな効果効用があるかについては、別途包括的なお話をします)

 ここでは一日一炷香との関連でお話ししますと、朝の一炷香によって、その日一日が感性豊かな一日になり、これによって、仕事が創造性豊かになり、対人関係が円滑になり、精神的安定をもたらすのです。

 また前頭葉が活性になると、α波が発生し、脳内物質であるセロトニンが分泌され、自律神経のバランスが良くなるという健康面の効果もあります。

 一日一炷香の座禅によって三昧が深まり、頭頂葉が活性になるのは確かで、その効果については、小生の実際に経験するところです。

 したがって朝の一炷香の座禅は、すべての人を活性化にするのですが、とりわけ、責任の重い判断を間髪入れず下さねばならない一日、あるいは大事な場に立って緊張が予想される一日、あるいは絶体絶命の場面の一日においては、特に欠かせません。

 朝の一炷香の座禅により、しっかりと前頭葉を活性にしてから出掛けると云うことが、責任ある人の義務です。

(以下、次回へ)

春潭 拝
 ホトトギスと書けば、鳥の名前と草花の名前と両方を意味する。
 草花のホトトギスは、間違いなく鳥のホトトギスから来ていると思われる。鳥のホトトギスの胸から腹に掛けての色と模様から、草花のホトトギスが名付けたれたに違いない。ほんとに感じがよく似ていますね。
 鳥のホトトギスは、杜鵑、霍公鳥、時鳥、不如帰などの沢山の漢字が当てられていますが、草花のホトトギスは、杜鵑草とだけ書くようである。
 秋の草花として、ハッと秋を感ずる素晴らしい草花であり、茶花として用いられている。

 一日一ブログが、間遠になっておりました。山口参禅会があり、その後、広島禅会、岡山の中国支部に寄り、禅フロンティアになりました。
 前回と前々回は数息観についての小生の若い頃の評論を二回に分けてお送りしましたが、今回は、最新の全くオリジナルの数息観評論を今から書き下ろしてみたいと思います。

 居士禅者(社会人で座禅などの仏道修行をしている人の総称、脱俗出家僧に対する社会人修行者を指す)にとって、一日一炷香(一日に一回は、線香一本分の時間、約40-45分間の座禅)は本当に大切な行事であります。これは居士禅者にとって生命線とも言えるものです。人間形成の座禅にとって、これがないと人間形成が進まないし、幾ら公案の参禅弁道が進んでも、人間形成としては砂上の楼閣になりかねないものです。

 耕雲庵老師の名著『数息観のすすめ』に、「一炷香が途切れたら、法が途絶えるのだと思って、続けてください・・・」の下りがあります。「法が途絶える」とは恐ろしいことです。それくらい一日一炷香の座禅行は、重く大切だと云うことでます。

 この一日一炷香の座禅実践が、居士禅者にとってなかなか難しいのです。自分の経験からもそう思うのですが、人間形成がある程度進んでくると、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、一日一炷香ができるのですが、人間形成が進まないとなかなか一日一炷香ができない。日常の優先順位の中で、ともすれば一日一炷香が後回しになり、そうするとこれは鶏と卵であり、二律背反、ジレンマであります。

 人間形成にとって一日一炷香が大切であると耕雲庵老師が、妙峰庵老師が、磨甎庵老師が、青嶂庵老師が、異口同音に申されていましたが、その真意が、人間形成途上の者にはなかなか判らないのです。

 真意は判らないまででも、師家の指示に従って一日一炷香の座禅ができるかどうかは、一つは「信」があるかないかです。
 もう一つは、向上心の強さ弱さであり、その人の人間の器の大きさに掛かってくるものです。

 信と向上心を牽引車にして、忙しさや疲れや安易さへの流れやすさに抗して、黙々と一日一炷香の座禅を忠実に実践できる者だけが、人間形成が進み、一日一炷香の座禅が何の抵抗なく楽しみとして実践できるようになるのです。

(以下、次回へ続く)

春潭 拝
 先週の金曜日の夜から、山口県宇部市の小野湖のほとりアクトビレッジ小野(宇部市市営設備)で参禅会をしておりました。

 小野湖はダム湖で7,8キロもある細長い湖で、素晴らしい景観を四季折々展開しているようです。
 今は背高泡立草(セイタカアワダチソウ - Wikipediaで写真があります)が主役です。
 背高泡立草は、かって喘息の原因だと濡れ衣を着せられたこともあって、雑草の典型のように思われている節もありますが、ウィキペディアの写真をご覧ください、近くで見ると大変きれいな花です。
 植物には雑草というものはないのです。人間だってそうです。

 前回から、3日経って、もうお忘れかも知れませんが、数息観についての小生の20年以上前の文章を半分くらい紹介したところでした。残りを続けさせていただきます。

 実はわたくしも長年長息をしていました。1分間に3呼吸くらいであり、吐く息を長くゆっくりとし苦しくなり始めるとすっと息を吸い込むやり方である。

 ペースもかなり安定で正確であり、駅とか病院の待合いで15呼吸なら5分、30呼吸なら10分であまり狂わないくらいになっていました。

 そしてこれは、雑念を切りやすい方法であると云えるかも知れません。何故なら、これは「自然」の息を数えるというよりは、数を数えるのに呼吸を合わせる方へずれてきているからである。しかし、これは本物の数息観ではない。どちらかというと凝念(ぎょうねん)に近いものである。

 安静に健康に眠っている状態の呼吸は,自然の呼吸ということができるであろう。少なくとも意識した頭脳に支配されたものではない。
 また、公案三昧になり切れている状態の呼吸のペースを振り返ってみると、これが眠っている時の呼吸数に近いことがわかった。

 そして、呼吸していることさえ忘れて真剣に公案三昧に打ち込んでいる時の呼吸と、数息観の時の呼吸とが大きく異なるのはおかしいと気がついた。これが『数息観のすすめ』に再び帰るきっかけであった。

 長息が腹式呼吸で胃腸の血行に良かったりすることは大いにあり得ることであろう。健康法の一つとしてはあってもいい。

 しかし、数を数えて没頭しやすい呼吸法というのは数息観の醍醐味を味わうべくもなく、禅学的数息観であったと思っている。あえて云えば、これは「数数観」である。すなわち、人間形成のための禅の基盤ともいうべき本物の数息観にはなり得ない。
 
 耕雲庵老大師の『数息観のすすめ』には、自然の呼吸を強調されている。「1炷香44分は330くらいであるが、呼吸数にはこだわるな」と説かれている。

 一行庵義堂老居士は、教団講演会での数息観についてご講演時の会場からの質問に対して、腹式呼吸のような故意の数息観をはっきりと否定されておられました。

 数えるという意識的所作によって自然の呼吸を保つことも厳密に検証してみると難しく、『数息観のすすめ』の中期である1から10までの数息をパーフェクトにやりきるのは極めて骨の折れることである。

 正念相続の難しさとそれを達成するための血みどろの骨折りの不可避なことも見えてくる。ここが本当の修行の中心的な場であり、腰を据えて真正面からトコトン取り組まなければならない。

 意識下において管理されるということではない「自然」の息を、そのままに数えてゆく数息観を積み重ねてゆくと新しい景色が見えてくる。そして、たとえ短くてもそれが噛みしめ味わえるともう止められない。

 数えるという意識的所作も限りなく透明に近くなる。ちっぽけな小自我の呼吸が、大自然の呼吸に融合し、不二となる。

 数息観が「自然そのもの」になるときである。

 『数息観のすすめ』の後期の場になってくる。
 ここが宗教的救済の原点、本当の大安心の原点である。
 すなわち、本当の自信と本当のやさしさの源である。
 そしてまたそれは、真善美の発現する拠点でもある。
 数息観はロマンである! 更に参ぜよ30年 !

 恥ずかしながらの小生の若かりし頃の文章です。如何でしたか?

春潭 拝
人間禅道場の両忘塔
人間禅道場の両忘塔

 伊豆大島の台風災害で行方不明になった方の救出作業が未だ続いているときに、更に大きな台風が同じような軌道に乗って来ているというニュースが出ており、心配なことです。

 日本の秋は、素晴らしい季節ではありますが、台風のシーズンでもあるわけで、良いことばかりということは何事にもないということです。今元気で若々しく大活躍をしているといっても、生老病死は必ずつきものであります。

  閑庭や花散る音のまぎれなき  幽石

 さて、三昧について三回難しいお話をしましたが、次はどうしても数息観のお話に行かざるを得ないと思います。数息観についてのお話は、法話とか提唱だけでざっと数えても30回はやっています。その最初は、二十年前くらいになりますが、二十年前にどんな話をしていたのか、恥ずかしながら、紹介させていただきます。

 数息観は自然そのものであり、ロマンである

 耕雲庵老大師の『数息観のすすめ』は、「坐禅」の規範であり、人間禅の原点であるとつくづく思うこの頃である。
 「息」は心と体の接点であると教えられた。「息」という字は【自】ずからの【心】と書く。

 無意識でも息は続き、意識して止めることも出来る。心臓のように意識して止められないものではない。また、手足のように意識しなければ動かないものでもない。息は体の一部であり、心の続きでもある。

 「心」はどうか? 意識して変えることは出来るが、無意識に夢も見る。また意図しない心の働きや思うまいとして止めようもない心の動きもある。間違いなく動いている心があるが、捉えようとして捉えられないものでもある。息は心とはやはり異なり、もう少し「自然」である。

 したがって息は、肉体と精神(心)の両方の接点であり、その息を整えると云うことは、心身全体を整えることである。数息観というものは、本来的に肝心要なところを押さえている観法なのである。

 数息観は坐禅を始めた最初の時からの行であり、そして奥が深く終わりがない。数息観は誰にでもできるが、最も難しいものともいえる。

 実際に数息観を行じてゆくとき、自分の呼吸が自然のペースからずれてくることがある。雑念を入れないように数えやすいように、力を入れた息になったりする。また、市販本の呼吸法などには長息を奨めたり、臍下丹田に力をこめることを勧めるものが多く見受けられる。

(以下、次回へ続く)

春潭 拝


 台風一過の秋晴れの朝、百舌がしきりに鳴いております。百舌の名前も面白いですが、よくしゃべるからこういう名前になったのでしょうか、何でもよく食べるところからこの名前を付けられたのでしょうか?

  百舌の声聞いて寝覚めの難からず (拙句)

 前回の続きの「三昧」の説明の三回目です。
 三昧の三番目の意味は、「正受にして不受」の三昧であります。すなわち、この三番目の三昧の意味は、正受であり且つ不受であるところの三昧という意味であります。

 正受とは、明鏡が物を映すように、そっくりそのまま受け入れるということであり、三昧になるとこれが出来るようになるというのであります。
 不受とは、明鏡の前から物がなくなれば、鏡には物は跡形もなく消えてしまうということであり、三昧になるとこれが出来るようになるというのであります。

 数息三昧でいいますと、数息観をしているとき、庭で百舌が鳴く、目の前を蚊が過ぎる、下の典座(台所)から美味しいにおいがする。百舌の声、蚊の姿、美味しいにおいをそのまま受け止めるが、それを聞いたまま、見たまま、嗅いだままで二念を継がない。数息観は淀みなく続く。(正受)
 何が聞こえても、何が見えてもそのまま写し取るように見え、それがなくなれば、見えなくなり聞こえなくなり臭わなくなるだけで、数息観は淀みなく続く。(不受)
 数息観でも後期の熟達のレベルであります。

 禅の著語(じゃくご)に、この「正受にして不受」の三昧を的確に歌った句があります。
「雁長空を過ぎて影寒水に沈む、雁に遺蹤の意なく水に沈影の心無し」
 雁が湖の上に掛かると、雁の姿がそのまま水に映る。雁が湖の上を通り過ぎると、湖面の雁も映らなくなる。雁は水に映ろうという意思を持たず、また水の方も雁を映そうとする心はない。

 また、社会生活においても、この三昧力は有効に働きます。近年、情報社会の中では、便利にはなりましたが、極めて多義にわたる情報が交錯し積層して入り込んできます。我々はそれに対応して行かねば生きていけません。
 まさに、正受と不受をきちっと実践していなければ、仕事にならないし、そればかりでなく健康な精神を維持してゆくことも難しい時代なのであります。

 情報対応に止まらず、家庭生活、会社生活、様々な日常の生活の中で、場面は連続してどんどん変わって行くのですが、その主体の人間は替わらないので、その場面その場面、そこの役割・役柄毎に、この正受と不受を鮮やかに繰り返し使って行じねばなりません。
「自ら瓶を携え去って村酒を買い 却って衫(サン:裃)を着け来たって主人となる」

 これが鮮やかにきちっと行じられれば、随所に主となることが出来ますが、それが中途半端な正受・不受になると、鮮やかな立ち居振る舞いが出来ないばかりか、精神的な疲れがどんどん蓄積してくることになります。

 現代社会で、精神的正常さを保持することは極めて難しい、人類史上経験のない時代であるといっても過言ではなく、意識的にそれに対する対応策を講ずる必要があります。

 まさに、昭和時代のリクリエイションから始まって、最近の種々の癒し系が取り揃えられておりますが、根本的な対策にはなりません。
 根本的対策は、この三昧を日常生活の上で行ずることであり、そのための一日一炷香の行(一日に一回は、線香一本の時間約45分間の数息観の座禅行)の実修こそが、最も根本的な対応であることを多くの人に知らしめる必要があると考えます。

 以上、三昧に三種類の意味があることを説明いたしましたが、これは解析であり解釈であります。実際はこの三つが一体となっているのが三昧であります。
そして、三昧は解析し、解釈しても、判ったようで決して判るものではありません。実際に長年座禅を行じ、このタイトルにあるように、まさに「易しそうで深い」数息観座禅を自ら味わっていただかないと判らないものです。

 難しいお話にお付き合い頂き、お疲れ様です。合掌

春潭 拝


 台風26号の被害はありませんでしたか?

 名古屋参禅会の帰途、昨晩から千葉県市川市の本部道場の隠寮に来て泊まっておりましたが、今朝6時過ぎに玄関の分厚い窓ガラスが、太い枯れ枝でぶち破られ、たたき起こされました。
 大島の方では、痛ましい災害があったとか、何が起こるか判らない無常の世界に生きていることを改めて感じさせられます。

 前回の続きの「三昧」の説明の二回目です。
 三昧の二番目の意味は、「心境一如・物我不二」であります。心境の「心」とは、自己・主体であり、「境」とは、自己以外のもの・客体を指すもので、主観と客観が一枚になることであります。

 心境一如とは、万物と我(自己)が一体という意味です。 物我不二とは、これを言い換えたものですが、万物と我(自己)が別々ではなく、不二であるという意味です。これが、釈迦牟尼が悟りを開かれた境地であり、仏教(宗教)が誕生した根源になります。

 お釈迦様の悟りの時に作られた有名な投機の偈として「山川草木悉皆成仏」「天地と我と同根、万物と我と一体」とあるように、まさに「見性」(悟りを開く)には、この「心境一如・物我不二」の三昧に至ること無しにはできません。
 科学や常識の合理的思索を越えた領域の場面であり、字面で、「心境一如、物我不二」を解釈し理解できても、全く届きません。本当の宗教の独壇場の場であり、この透徹した深い三昧の座禅なくして悟りは成立しないものであります。

 この三昧は、仏教だけの特徴ではありません。世界宗教のような本当の宗教には、すべてこの三昧に到る何らかの方法を持っております。
 祈り、礼拝、読経、座禅、賛美歌、祈祷等々どんな方法でも良いのですが、心境一如、物我不二の境地に深く透徹する方法を実際に行じて初めて、宗教の入り口に入って行くことが出来るのであります。

 座禅の数息三昧に即していいますと、息を数えている我と数える対象の息とが一体になり、不二にまでなった数息観であり、数息観法の中期以降の高いレベルのものであります。すなわち1から10までを一念不生で、ちらっとした念慮も差し挟ませず数息し切る数息三昧の座禅観法です。

 臨済宗系の禅門の修行においては、見性入理、見性悟道、見性了々と境涯に従っての公案がありますが、このいずれの公案においても最も大切なことは、公案と一体になる座禅の行が必須なのであります。

 逆にいいますと、座禅による行によって公案に一体に成らずして真正の見解は得られないし、境涯の進展はあり得ません。得てして類推とか字義についてまわっての解釈をしたりして、堂々巡りをしがちなわけですが、それは禅学であって本格の祖師禅の修行にはならないのであります。常に、公案と不二一如になることが修行の仕方として何より大切であり、不可欠なのであります。

 茶道においては、忘筅の境涯といい、茶筅を振っていて茶筅をあたかも忘れたように茶筅振り三昧をやって到る境涯であります。
 剣道においては、刀を持っていて刀を忘れるほど、無心に相手に立ち向かっている三昧状態で、山岡鉄舟居士の剣道は、無刀流と名付けられています。

 今日はここまでで、何か疑問なことがあったらご質問下さい。外の風も急に収まってきたようです。ご安全に!

春潭 拝
 名古屋市内の願王寺を拝借して、名古屋参禅会を開催しています。門前には、立派な木彫りの仁王像が向かい合って、二体突っ立っており、その前に1メートルくらいもある大きな草鞋が掛けております。

  仁王にも大き草鞋や秋日和(拙句)

 前回、「人間形成とは、三昧を身につけることである。」とお話しし、三昧についてお話しする約束になっておりました。

 三昧とは、インドの梵語のSamadhi を漢字に音写したもので、三摩地とも書かれ、「正受」と意訳されている。
 三昧は、精神を集中して余念がないこと、一心不乱に物事をすることでありますが、精神集中が、方向性を示して動的なニュアンスを持っているのに対して、三昧は、精神集中した「こころの状態」を指しており、禅門では深い意味があります。そして、三昧に三つの意味があるとされています。

 その一つを今日は、ご説明しましょう。
 最初の三昧は、「正念の相続一貫」の三昧であります。これは、読書三昧というように使われている意味で、最も一般的な使われ方であります。

 禅門では、坐禅をして「数息観」をやりますが、「数息三昧」というように使われ、背筋を伸ばして坐禅を組み、静かに自分の息を一から百まで数える。その息を数えるという念慮以外には何も考えないで、息を数えることに三昧になることを修するのです。

 これは、興味のある本に引き込まれるように、一心不乱に読書三昧に成ることに比べ非常に難しいものがあります。それは、「考える葦」である人間が、意味のない「息を数える」ということ以外の念慮を、自分の意志により一次棚上げにして、それを継続するという、ある意味で無理(非自然)なことをするためであります。

 しかし、この非自然さを克復して身に付く、集中力・三昧力こそが、人間形成そのものであり、人間力の涵養につながるものであります。
 
 小学生から、体操とか持久走とかを体育として実修し、丈夫な体をつくるということをやっています。これと同じように、しっかりした心をつくるためにも実修が必要であり、それに最も適したものが、この「数息観」であり、「数息三昧」の実修であります。

 数息観における数息三昧は、息を数えようとする一念だけが生き生きと働き、それが切れ目なく一貫相続することです。これを正念の不断相続といい、精神状態として最も充実した状態といえます。
 
 この正念の不断相続の集中力が付くということは、社会的な活動において、極めて大きな力となります。すなわち、例えば、職場での仕事の成果は、この正念の不断相続の集中力にきわめて良く比例するということが出来ます。実社会での個人の仕事能力の差は、知能指数の差ではなく、この集中力の差であると云っても過言ではありません。何故なら、その人その人の持ち味、個性の十分なる発現には、この正念の不断相続の集中力なくしてはあり得ません。

 大学受験までの学校教育における偏差値にたいしても、知能指数が影響しないとはもうしませんが、勉強に向かう集中力の差の方が格段に大きいと考えております。生まれつきの性格において、一つの物事に打ち込む気質か、いろんなことに興味を発展させる気質かの違いがあり、集中力にも素質として違いがあります。しかし、これも体力と同じように教育し、訓練することによって、持って生まれた素質の違いを越えるものを身につけることは十分可能なものです。

 学校教育において、集中力を付けるという体力と並ぶ心の教育の座標軸が、明確に位置づけられていないために、単に知識の習得という結果だけが強調されている嫌いがあります。本来は逆であって、国語、理科、社会の教科を手段として、その勉強のプロセスが集中力をつける教育課程であると位置づけるべきと考えます。

 三つの意味を持つ三昧の中で、この最初の正念相続が、全体の基盤となる位置づけの三昧であります。三昧の最初であり、最後であるわけであります。いいかえますと、禅門での最初の修すべき入門の行であるとともに、法の淵源を極め仏祖の境涯に達するための達道の行でもあります。 

春潭 拝