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呉坐禅道場

呉坐禅道場
呉市両城2丁目2-11
(呉駅から西 徒歩10分)

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090-4577-3108(小畠)


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広島ブログ - 最新エントリー

広島支部 結成記念式 の 総裁垂示

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広島禅会 2017/10/24 22:32
 広島支部が誕生したことは、本当におめでたいことであります。総裁としても法喜禅悦であります。
私が総裁になったのは11年前ですが、それから残念ながら4支部が支部から禅会に降格になりました。そして今までに新しい支部が、11年間で3支部設立され、この広島で4支部目であります。
支部の数としたら差し引き同じということではありますが、実はそれで単にイーブンというのではなくて、降格した4支部は、すべてしっかり禅会として再起を賭けております。そして新しい、広島も含めた4支部は、この4支部とも全く1からの出発なのであります。

その4支部の中の最後のこの広島支部は、特に今までの支部と異なって、全く0から立上げて支部と成った、昨今では稀な支部であります。
よその周辺の会員が集まって、その支部のある所の新到者と一緒になって支部を立ち上げるというのが通例であった訳ですが、この広島は、光禅親子を中心にして静坐会が始まり、そして禅会が始まってから16名の人たちがこの広島から参上して、そして会員になった、まさにこの広島の純正のマツダ自動車と同じように、純正の広島支部であります。

ここまではとにかく、いろいろな方々、まさに天の時、地の利、人の輪が揃って、今日の支部創設になったわけであります。直近の広島禅会の担当師家の目から見ましても、老若男女、バランスの取れた、そして魅力的な支部になったという風に思います。

しかし「創業は成り易く、守成は成り難し」であります。どの時代、どの時代にもそれぞれのその時代の風土といいますか、価値観といいますか、そういうものをよくしっかりと掴んで、その時代に適合した布教の在り方をやらなければならない訳です。
次の世代、次の 次の 世代 まで持続発展するために、これから「守成は成り難し」という段階を、しっかりとやっていただきたい訳であります。今日ももちろん、さることながら、やはり何が大切かと云いましても「正しい修業が、熱く継続され続ける。」ということであります。その修業全体に『徳が生きている。』。そういう集まりであってほしいと思います。

藏六庵老師のご指導の下に、これからますます精進して、次の世代、次の 次の 世代、次の 次の 次の 世代 まで 悠々と、広島全体に、この人間禅の法帖を広げていってもらいたいと思います。


平成29年10月15日
人間禅 広島支部 呉道場 に 於いて。

 
 講談で有名な「眞壁の平四郎」の一段ですが、東北の松島、瑞巌寺に伝承されてきたお話しです。

 瑞巌寺は、老大師( 耕雲庵 立田 英山 人間禅 第一世 総裁 )が見性された因縁のお寺です。

 時は、本能寺で信長が討たれた天正年間。

 東北の小藩主、真壁の時幹(ときもと)の下僕、平四郎のお話です。

 ある冬、凍てつくような寒い雪の日のこと、平四郎は真壁時幹(ときもと)のお伴をして侍屋敷に出向きました。

 よほど困難な案件だったのか、なかなか時幹は戻ってきません。 

 東北独特のしばれるような寒さの中で「時幹様のお履物が凍てついてしまったら大変だ。お帰り道にお困りになる。」とばかり、身を切る寒さの中で平四郎は、時幹の下駄を自分の懐の奥深くに仕舞いこむ。

 ただでさえ震えるように寒い玄関口で、我が体温を主人の履物に送り、温め通す平四郎でした。

 何時かが過ぎ「郡主殿、お玄関、御出まし~!」の相図で、素早く温かい履物を玄関口にお揃えする平四郎。

 手柄を誇るつもりはなかったが、少なくとも喜んでほしかった。

 下駄に冷え切った足をすっと入れる時幹。その瞬間、鋭敏な時幹は、足裏に伝わる暖かさに気づく。

 それと同時に時幹は「おのれ平四郎、わが下駄を尻にでも敷くとはけしからん。これへ参れ!」と命じた。

 全く思いもかけぬことに、時幹は平四郎の労をねぎらうどころか「私の下駄を腰掛にしよって、今の今まで横着にも休憩していたに違いあるまい。」と曲解し「こんな汚れた下駄が履けるものか。」と、下駄を手に取りあげ、平四郎の頭上めがけて有無を言わせず何回となく打ちすえた。

 平四郎の頭は割れ裂け、周囲の雪面に赤い鮮血が散らばった。

 噴出する血を手で抑えもせず、平四郎は頭を垂れてなされるがまま立ちつくすほかない。

 「おのれトキモト、この恨み晴らさずにはおられまい。きっと、きっと、きっとこの平四郎に向かって平伏させてやる。」と腹を固める平四郎。

 
 時幹のもとを飛び出し、平四郎が目指した場所はなんと中国(宋の時代)。

 主人に対して単純な報復をしても始まらない。

 平伏させ、平謝りさせる方法をいろいろと考えた結果、平四郎は僧として大成する道を選んだ。

 立派な僧侶になれば、殿様といえども頭を下げさせることができる。

 中国で高名な径山(けいざん)の 無準禅師のもとを訪ねた平四郎。

 中国語がさっぱり分からない。

 おまけに仏教用語もわからない。

 皆目 訳が分からない、見当もつかない中で修行が始まりました。

 無準禅師が書いてくれた「丁」の文字を連日ながめながら、座禅と修行の生活に入る平四郎。

 「丁」ってなんだ????わからない。いくら考えてもわからない。

 やがて、わからないこともわからなくなるほど、わからなくなっていきました。

 やがて考えることをやめ、ひたすら目の前のことにひたすら専心するようになりました。

 時は移り、九年たったある日、ついに平四郎は大悟し、悟りを極めたのです。

 無準禅師から法身性才禅師と名づけられるほど、堂々たる禅師になっていました。

 勇躍帰国し、大殿様・伊達政宗候の帰依を得て、瑞巌、円福寺を再興させた法身性才禅師。

 ある日、政宗候とともに瑞巌円福寺に招きを受けた、小藩・真壁の郡主時幹は、床に飾ってある下駄をみてけげんな表情を見せました。

 その様子を見て、法身性才禅師こと平四郎は、

 「 一上径山弄風光 帰来応天目道場

  法身覚了無一物 咄是真壁平四郎

 (一たび径山に上りて風光を弄す。帰り来って天目道場に応ず。

  法身を覚了すれば無一物。元是れ真壁の平四郎。) 」

 と、唄うかのように叫びました。

 「あっ!」とおどろく元主人の時幹。

 「あの平四郎・・・」

 「さよう、あの真壁の平四郎なり。あの下駄殴打を今すぐここで謝罪されたし。」などと野暮なことは言わない。

 平四郎が時幹に言った言葉は、意外にもこんなものでした。

 「ご主人様のあの下駄のお陰で、今日瑞巌円福寺が再興を果たせたのでございます。」と当時の郡主に頭を下げ、心からなる御礼を申し述べたというのです。

 「主人を平伏させる。」という復讐の動機で、中国に渡った平四郎だが、道を究める過程で恨みは、いつしか感謝の心に変わっていたのでした。

 人は感謝の心で、幸福感を得られるのだそうです。

 「我が身に起こる困難は、自分自身の心を成長させるために起こる。」と受け止めて努力もし、困難を乗り越え、ついに困難にも感謝することになったということなのでしょうか。

 皆、人々、それぞれ置かれた立場々々で、進学・就職、恋愛・結婚、出産・育児、転勤・昇進、配置転換、更には独立起業、ついには定年、継承、そして患病、介護、果ては老後、末後終焉に至るまで、とかく心波立つことの多いのが、人の世の常の様です。

 しかし例えどの様な風であっても、お互いがいつか 暖かい感謝の思いで受け止められる様でありたいものです。

  光 禅 記

旗旒信号とモールス信号

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執筆 : 
広島禅会 2016/12/7 10:07

【 旗旒信号とモールス信号 】

 

少し前ですが、古い友人が呉を訪れた際、港に出入りする艦船が用いる信号旗とアルファベットの対応表を一緒に見る機会がありました。

彼が「これは面白い・・」と笑ったのが、Z旗で、もともとの意味は「本船はタグボートを必要とする」というもので、推進装置が故障したから助けてくれ・・という情けない内容です。

・・・・・・

しかし、ご承知の通り、Z旗は日本では特別な意味を持ちます。日本海海戦の際に旗艦「三笠」に掲げた旗です。「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ」ということで、国力を消耗した日本にとって、まさに後が無い最後の戦いだったから、アルファベットの最終文字を使った訳です。

・・・・・・

聞くならく、Z旗は真珠湾攻撃の際にも掲げたそうですが、これはどうでしょうか?

この作戦は戦争を開始する緒戦だったのですから、A旗の方が適切だったのではないでしょうか?全ての戦いは乾坤一擲ですが、真珠湾攻撃の場合は、その後にも多くの海戦が予想される長期戦の始まりだったのですから、これでおしまいというZ旗は似合いません。

・・・・・・

私がかつて勤務した製鉄所にはZプロジェクトという組織が存在しました。ジリ貧の鉄鋼の業界で画期的な技術革新をしなければ生き残れないという考えで、精鋭の技術者を集めた横断的組織としてZプロは作られ、技術開発と研究を推進しました。そのチーム長の席の後ろの壁には、大きなZ旗が掲げられていました。確かにZプロからは画期的な技術が生まれ、成果を挙げたのです。しかし、経営方針の変更で、やがてZプロは解散となり、その後、技術開発は停滞していきました。Zプロを率いたチーム長は閑職に異動となり、その後亡くなりました。その十数年後にその会社はライバル会社と経営統合になり、Zプロが開発した技術の幾つかは、ライバル会社の競合する技術に置き換えられ、姿を消しました。なんだか日本海軍みたいです。

・・・・・・

今は他の通信手段が普及し、信号旗で船舶や艦船が連絡を取り合うことは殆どなさそうです。民間船舶の場合、船舶電話がありますし、衛星携帯電話も使えます。

軍艦の場合は傍受や暗号解読が難しいデータリンクというシステムを使います。

・・・・・・

旗を用いた旗旒信号やモールス信号を用いた発光信号、手旗信号などといった古典的な通信はまず登場しまい・・と思っていましたが、そうではありませんでした。

1980年代、樺太上空で大韓航空のジャンボジェット機がソ連(当時)の戦闘機に撃墜された際、墜落現場に日本の海上保安庁の船が向かう途中でソ連の警備艇に妨害されました。警備艇には、3字信号の旗旒信号PP1が掲げられました。その意味は「我を追い越すな」です。

実は便利なデータリンクは自国の軍隊または友軍の間でしか使えません。敵国、あるいは違う言語やプロトコルを用いる国の船とは使えません。

ソ連の艦船と日本の船が連絡を取り合う時、そこで国際信号旗が役に立つのです。

・・・・・・

敵国の艦船との通信の場面は、多くの映画に登場します。「レッドオクトーバーを追え」では追跡するアメリカ海軍の原潜が、ソ連の原潜「レッドオクトーバー」と何とか通信しようとして、艦長が発光信号機を用いてモールス信号を送信します。「アナポリス(海軍兵学校)以来だから、自信がないが・・」と言いながらアルファベットの英文を送るのですが、不可解です。相手はロシア人で、ロシア語を話し、使用する文字はキリル文字です。「通じるのかしら?」と思いますが、問題はありません。なぜならレッドオクトーバーの艦長はショーン・コネリーで、艦内の乗組員も、なぜか全員英語で会話しているからです。実に奇妙な映画です。

・・・・・・

モールス信号や旗旒信号に最もこだわったのは、宮崎駿のアニメです。モールス信号は、「天空の城ラピュタ」にも登場しますし、「崖の上のポニョ」では5歳の幼稚園児が、猛烈な速さでモールス信号を発光して沖を通過する船に連絡します。 そんな事はある訳ないさ・・と思いました。

そして、旗旒信号が登場するのは「コクリコ坂から」です。この映画では、海で亡くなった父を想う少女が、毎日、旗旒信号を掲揚するという習慣がひとつのポイントになっています。映画を見た時には、掲げられる信号旗の意味を解読する余裕は無かったのですが、後でタイトルの絵を見れば、2字信号でUWとなっています。

・・・・・・

これは出船に対しては「ご安航を祈る」、入船に対しては「ようこそ」の意味の国際信号です。 「Von Voyage」または 「一路平安」 に近い意味です。

港の入り口などに、この信号旗が掲げられているそうですが、「普通の民家で旗旒信号を掲げるなんて、そんな事はある訳ないさ・・」と思っていたら、実はありました。

・・・・・・

呉の港を見下ろす傾斜地の上にある、一軒の家には、いつも2文字信号のUWが掲げられています。「海猿」で有名になった200段の階段の上の方で、海上からも見える場所です。他人の家の写真を勝手に掲載するのもどうかと想いますが、既にGoogleStreet Viewでは見られますし、ご本人も見られることを前提に旗旒信号を出されているものと思い、アップします。

・・・・・・

なるほど、本当の「コクリコ坂」は、横浜ではなく呉にあったのだ・・と気づきます。

そして呉では、港から離れた場所に、もうひとつ旗旒信号を掲げる場所があります。

呉の休山の高台にある長迫公園は海軍墓地でもあります。でも特定の個人の墓ではなく、第二次大戦までの多くの艦船の記念碑が、所狭しと並んでいます。そして奇妙なことにそれらの石碑の前には十字架のように、アルミニュウムのポールが立っているのです。

http://www.geocities.jp/hashirouvx800/kaigunboti.htm

・・・・・・

「キリスト教徒という訳でもないのに、この十字架は何だ?」

怪訝な顔をすると、海上自衛隊の幹部自衛官だったNさんが教えてくれます。

「これは旗旒信号を掲げるための檣(マスト)を模したものです。慰霊祭などの式典の時にはここに旗を飾るのですよ」

・・・・・・

「なるほど、日本海軍の軍人はやっぱりZ旗なのだな・・」と思いますが、「待てよ?」とも思います。 信号旗にはいろいろ意味があるけれど、死者を悼む信号旗、鎮魂を祈る信号旗などありません。 「一体、どの旗を掲げればいいのだ?」 丘を埋め尽くす、夥しい数の軍艦の墓標を前に私は粛然とした気持ちになりました。

 

水夫(かこ)の碑の 旗無き棹に 秋の風

 

心鏡 記

無用なもの達

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広島禅会 2016/12/4 19:09

「一見、ムダに見えるものでも、実は大切な役割を果たしている。」 という お話し です。

ムツゴロウこと 畑 正憲 さん に、次の様な お話し が有ります。

あるサーカスに10頭の虎がいました。8頭はシベリア産の虎で、2頭はインド産です。

シベリア産の虎は、とても頭が良く、芸もすぐマスターします。

しかしインド産の虎は、怠け者で頭も悪く、まったく芸を覚えません。

「なぜこんな物覚えの悪い虎を置いておくのですか ? 全部シベリア産にすればいいじゃないですか。」

と、ムツゴロウさんが聞きました。

するとサーカスの人は、

「これでいいのです。全部シベリア産にすると、すぐケンカします。インド産の怠け者がいることで全体がなごやかな雰囲気になり、調和が保たれているのです。」

と答えたそうです。


これはサーカスの虎だけでなく、アリにも似た様なお話しが有ります。

100匹のアリがいると、その中の20匹は、必ず怠けているそうです。

皆が働いている時に、ノラクラと働かない怠け者がいるのです。

「それじゃ、どうしょうも無いから、働かない怠け者の20匹は除けてしまえ。」と、その20匹を除けると80匹になります。

すると、その中の2割が、また働か無くなってしまいます。

これは何匹にしても、必ずその中の2割が働かないそうです。

そういう習性がアリには有るそうです。


「無用の用」という荘子の言葉があります。

決して合理的でも効率的でも無く、損得で考えても、ただ単なる「無駄」というもの。

そんな「何の役にも立たないもの」も、実は大切な働きをしているというのです。

ムダを排除することは必須条件でも、「必要なムダ」もあるということです。

例えば、車のハンドルの「アソビ」のようなものでしょうか。

アソビがなければ、ハンドルをちょっと動かしただけで直ぐ曲がってしまって、車は運転できません。


日常、毎日の生活の中で「一日一炷香」と云った、他に何もしない、何も考えない、只坐禅だけをすると云う、一見無駄とも思えるような時間を持たないなら、およそ味もそっけもない、つまらない人間、つまらない人生にしか成り得ないのかもしれませんよ。

光 禅 記
龍舟です。
 
 今月もあちこちへお仕事させていただき、予定パンパンの毎日を送っておりますが、そういえば先月の終わり頃、大学の研究室からの依頼で現況実測調査のために道場をお貸ししました。工学院大学の冨永祥子研究室から15名ほどの学生さん。泊まりがけで道場も含めて周辺の数軒を実測。ちょっとのぞいてみたら、かなり本格的な野帳とスケッチです。私は、この建物を改修したということもあって、あれこれの質問に答える役です。
 
 道場についてのお話をしていて改めて思うのは、天井の高さと石垣の堅牢さ。両城地区として建物に特徴めいたものがあるようでもないというか、つかみにくそうでしたが、温暖な瀬戸内海地域の、私らからするとよくある系統の建築です。全国を見て回ってる学生さんからはどんなふうに見えたのでしょうか?
 
 さて、来月も10/20〜23は呉坐禅道場にて参禅会です。がんばっていきまっしょい!
 
龍舟 拝

海に行ってきました。

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執筆 : 
広島禅会 2016/8/24 13:00
 友松さんが暑い暑いと書いてらしたので、涼みに海水浴してきました。
 
 普段は家族で出掛けることはないんですが、ちょうど都合が付いたので、島根の海に行ってきました。とはいえ、ひとの多いところは苦手なので、少し外れたマイナーな海水浴場。潮の流れがちょうどいいのか、ごみが流れ着くこともなく、透明な海水は気持ちよかったです。
 
 家が山の中にあるので、坐禅をしながら生活するのに最適だなぁと思っていましたが、もしかして、潮騒に包まれながら坐禅をする生活もいいのではないでしょうか? 地名については詳しくないのですが、だいたい出雲です。海も山も近く、空がきれいで、比較的(高知県に比べて)平野も広く、こんなに住みたくなるほど気持ちの良い土地もめずらしいです。さすが、太古から人が集まり、神様も集まる地域です。
 
 数年ぶりの海水浴で、しかも息子たちとの楽しすぎるひとときで調子に乗ってしまったせいか、火傷のような日焼けをしてしまい、夏休み残り二日間は苦悩の時を過ごすこととなりました。
 
ちゃんちゃん
 
龍舟

日本の夏

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広島禅会 2016/8/10 12:38
 日本の夏は、何故これほど暑いのでしょうか?

 きっと大抵の人はご存知なのだとは思いましたが、少し調べてみました。

 やはり理由があるようです。

 日本は地形上、夏の季節風、つまり太平洋高気圧からの湿った風が山脈に当たり、湿った空気が溜まりやすいのだそうです。

 人間は汗をかいて、気化熱で体温を調整するのだそうですが、湿度が高いと気化しにくいとのことです。

 どうやら赤道に近い乾燥地帯の方が、よほど過ごしやすいようです。

 「人は皆 炎熱に苦しむも、我は夏日の 長き事を愛す」と云う禅語もありますが、今の日本の夏は、とにかく蒸し暑く不快なだけでなく、熱中症による生命の危険すらあります。

 やはり太平洋側にある都市の、アスファルトやビルに囲まれた市街地区などでは、エアコンと上手に付き合う必要がありそうですね。

 暑い夏、涼しい滝や山の小川の水に触れてみたいものです。

 友 松 記

ピエール・ロティと芥川龍之介

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広島禅会 2016/7/24 7:58
 先日、呉の座禅道場に遅れて駆けつけたところ、玄関でまず俳句を書けと、促されました。
 単なる宴会ではなく、俳句の句会も兼ねていた事は知っていましたから、いずれ俳句は作らなければ・・と思っていたのですが、まだ作っていませんでした。

 そこで咄嗟に浮かんだ駄句を書き込みました。慌てたので、その直前まで頭の中で考えていた事を盛り込みました。

 我が駄句を、そのままここに紹介するのも厚顔の極みですが、恥を忍んで書きます。

 「 漆黒に 汝(な)がVie(ヴィ)の如く 花火降る 」

 Vieは、フランス語で人生の意味ですが、俳句の文句にフランス語の単語を入れるのは、かなり気障ではないか・・・と自分でも思います。
 では、なぜそんな気障な言葉を使ったかと言えば、その直前まで、芥川龍之介の「舞踏会」のことを考えていたからです。


 芥川龍之介の「舞踏会」は、フランス海軍の士官だったピエール・ロティが書いた小説「お菊さん」を元に、そのモデルとなった老婦人との会話を書いた短編小説です。

 作品「お菊さん」自体は、エキゾチックな存在と思われた鹿鳴館時代の日本人女性をロマンチックに紹介するだけの駄作と言うべき小説だったようです。(私はあらすじだけを知っており、本文は読んでいません。・・・フランス語を読めないので)。


 西洋人の青年と、アジア人の女性が恋に落ち、やがて男性が去って女性が残されるというパターンは、よくあります。
 私はこれを「蝶々夫人型」と呼びますが、「ミス・サイゴン」も映画「慕情」も皆このパターンです。ピエール・ロティの「お菊さん」も典型的な蝶々夫人型作品です。


 面白いのは、芥川龍之介がこの作品を研究し、そのモデルとなったH夫人へのインタビューを小説にしている事です。
小説ですから、本当にH夫人に面会したかは不明です。


 そじて、その「舞踏会」に、フランス人将校と日本人女性(明子)が、舞踏会場の外に出て、夜空に上がる花火を眺める場面があります(以下、青空文庫から引用)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その時露台に集つてゐた人々の間には、又一しきり風のやうなざわめく音が起り出した。明子と海軍将校とは云ひ合せたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧してゐる夜空の方へ眼をやつた。其処には丁度赤と青との花火が、蜘蛛手に闇を弾きながら、将に消えようとする所であつた。明子には何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」
 暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この中で、フランス人将校は人生(Vie)を花火に例えています。
 鹿鳴館に集い、ダンスに興じる人達も、一生を通じて華やかな生活が続く訳ではなく、若い男女がきらめいているのは、花火のごとくほんの一瞬です。
 そして日本の歴史を見ても、鹿鳴館を中心として、ヨーロッパ的な社交界が存在したのは、ほんの一時期です。


 その刹那の輝きを花火に例えたのは、多分ピエール・ロティではなく、芥川龍之介でしょう。
 不思議なことに、芥川龍之介も菊池寛も、処女作は老人をテーマにした作品です。
 自分自身が若い頃に、敢えて老人の視点を研究して小説を書いているのです。
 そして芥川の場合、「舞踏会」でも、既に老境に達した女性が若き舞踏会の日々を回顧する形の小説にしています。
 これも、よくあるパターンで、私は「舞踏会の手帖型」と名付けています(誰も支持してくれませんけれど)。


 面白いのは、芥川の「舞踏会」を三島由紀夫が研究していることです。
 彼が指摘したことですが、芥川は、初版と後期の版で、小説の結末を変更しています。
 最初の版では、H老婦人は、かつて自分がダンスの相手をしたフランス人青年がピエール・ロティその人であり、自分が「お菊さん」のモデルであることを知っていましたが、後の版では、それを知らないことになっています。


 これは芥川が推敲した結果の変更であり、私如きがコメントする事はできませんが、変更後の、老婦人がピエール・ロティと「お菊さん」を知らない結末の方が、小説として優れているように思えます。
 三島由紀夫はどちらがいいとは書いていません。


 しかし、三島がこの作品をリスペクトしていたことは間違いなく、それに対する回答として、戯曲の名作「鹿鳴館」を書いたのだと・・私は思います。
 ちなみに、芥川と同じ早熟の天才作家、三島由紀夫は16才で処女作「花盛りの森」を書いていますが、これは老人の視点で書いた作品ではありません。
芥川と三島の違いの一つです。


 そんな事を考えた直後に、俳句を書くよう迫られたので、私は思わず花火をVieに例えて表現しました。
 「なんだ、芥川の小説からの盗用か・・・」と言われる前に、このブログで白状します。
 本当なら、ピエール・ロティ=芥川龍之介=三島由紀夫と続く系譜の後に、小生も文学作品で表現できればいいのですが、そんな才能は全くありません。


 せめて、呉の花火大会を眺めて、また駄句でもひねりたいな・・と思うだけです。

  心 鏡 記

7月の参禅会、たのしかったです。

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広島禅会 2016/7/19 14:06
 7月15日から18日までの四日間、参禅会が行われました。それぞれにとてもいい会でした。
 
 私は仕事があるので、二日間だけ、それも仕事が終わって駆けつけて、参禅したらまた夜には帰宅する、の繰り返しなのですが、それでも貴重な経験の積み重ねです。長い目で見た時の今は、仕事に注力するときなんだと思います。会社としても踏ん張り時ですし、次のステージに進む切り替わりなので、あっちもこっちもするから身体がいくつあっても足りない毎日です(笑)
 
 そんな日々をなんとかこうして過ごしていけるのも、毎朝起きたら坐禅を組んで20分ほど座って、最高の状態と気分で仕事に臨んでいるからだと思います。人間ですから調子の良いときも悪いときもありますが、それを言い訳にせずその中で最高の状態に持っていくことが出来ることを知っていますし、やっていきたいと願う今日この頃です。
 
 参禅会はちゃんとした厳密なスケジュールに添って進められていきますが、こんな私の都合も受け入れてくれる懐の深さも持ち合わせています。私だって四日間を通して参加したいのですが、長い人生の中ではこうしたこともありますし、だからといってまるっきり参加しないのも本当に惜しい会だからこそ、寸暇を切り詰めて参加するのです。
 
 楽しみにしてたのに途中からになってしまった講演会では、田岡美江さんからドリームマップについてのお話を聞けました。どちらかというと私はやりたいことや夢を実現してきたのですが、それを方法論に落とし込んで育てていくのが、このドリームマップなんだと思います。今回のお話で、さらに大きな私の夢の実現に加速がつきそうです。(笑)
 
 そんなひょんな出会いもあり、もちろん座ることで自分を研ぎ澄まし、参禅で鍛え上げることができるからこそ、すこしでも時間をつくって参禅会に参加するのです。家族とも仲良しです。
 
     龍 舟 記

祖父母の言葉

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執筆 : 
広島禅会 2016/7/4 22:20

 私の父方の祖父は、造船会社を定年まで勤めた人でした。

 威張ることもなく、淡々と真面目だけど、冗談を言ってよく笑わせてくれました。

 祖父は亡くなる前、私の姿を見ると弱った体で酸素マスクを外して、擦れた声で、「頑張りなさい。」 と、繰り返し頷くように囁いていました。


 父方の祖母は生前、「真面目に正直に生きるのが一番や!」とよく言っていました。


 自分の事なのでおこがましい様ですが、父方の祖父母は、天寿を全うした立派な人生だったと思います。



 母方の祖父は、国鉄に勤めていて、定年後も会社に呼ばれて仕事に行っていました。

 寡黙で一見気難しそうに見える人でしたが、孫達が遊ぶ姿や、成長する姿を眺めているのが何より愉しそうで、黙ってニコニコ微笑んでいました。

 正月や盆には、親、兄弟、従兄弟、ひ孫達がみんな集まって、爺ちゃんと、婆ちゃんの、長寿のお祝いをしたものでした。

 餅つきや凧揚げ、竹とんぼ、畑で採ったスイカを井戸で冷やして食べたりと、沢山の楽しい思い出があります。


 母方の祖母は、俳句や畑、花を植えたりしながら、いま一人暮らしをしています。

 叔母やデーサービスの方、母たちに支えられながら、そして何よりご近所さんが当たり前のように良く面倒をみてくれている様です。


 婆ちゃんは、「みんなが良くしてくれるのは、爺ちゃんのお陰やなあ!」 と、毎日、仏壇に手を合わせています。


 爺ちゃんは、婆ちゃんの話によると、戦後の物不足の時には、ご近所さんと助け合っていたのだそうです。

 時には、自分が種イモを食べて、薄い服を着ていても、文句ひとつ言わず、美味しい芋や服は、人にあげる様な人だったのだそうです。

 そしてそれが爺ちゃん本人にとっても、ごく自然で当たり前のことだったのだと思います。


 広島禅会では少しだけ先輩で、お医者様をされている道友の方と親しく話しをしていました折に、ふとその中で、「そうだ、私にもこの精神は、脈々と流れているのだ。」 と気付かせて頂きましたので、祖父母の思い出を綴ってみました。
 
 先輩ありがとうございました。

  友 松 記

絶妙なバランス

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広島禅会 2016/6/25 10:05
ある映画でコマを題材に面白い話があった。
コマは高速で回り続ける時、一点を軸にほとんど静止したように動かなく見える。
しかし回るスピードが下がってくると、軸にしていた一点から徐々にずれるようになる。そしてコマの軸は傾き、揺れ始める。
前者の状態を「千早振る(ちはやぶる)」。後者を「荒振る(あらぶる)」とも表現できるそうだ。


荒振るコマはバランスが悪く、不安定であることに対して、千早振るコマは猛烈な旋回で真ん中の軸を中心に均整がとれている。
その話を聞いた時、コマのほとんど止まったような凛としたとした姿がイメージとなって映画の後も頭の中に残っていた。


ハイスピードで回るコマは一見止まっているかのようであり、それでいて凄まじいエネルギーを内包している。
コマはコマそのものの材質、力学的なバランス、コマを支える床の性状、周囲環境、観察する人の位置など多方面に影響して存在している。一見止まるという表現はコマの前に立った観察者の一つの見方にすぎない。


似たような例えとしては、綱引きの真っ最中の綱の中心もあげられるかと思う。
両側からそれぞれの思惑で、引き手が力の限りで自分の方向に引っ張るのだが、双方の力が全く同じ時に、やはり張り詰めたような静止した状態となる。


コマといい綱といい、一部に注目すれば止まった姿しか我々には見えないが、その背景を垣間見ることができれば物事がどのようになりたち、それぞれのファクターがお互いに影響し、融合し、干渉し、攻め、守り、支えているかを感じることができるのではないか。


これは別の表現をするならば、「絶妙なバランスが醸し出す美しさ」ともいえる。その絶妙なバランス、というものが実は坐禅に通ずるのではないか、とも思う。
自分にとって坐相を整えることはとても難しいと感じている。
このことは体のどこに気をつけるという力学的な部分のみならず、その他様々な要素のバランスが試されているのではないか、と思う日々である。


心眼 記

ゼロの発見 再び

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広島禅会 2016/6/15 12:32
 誤解の無い様に最初にお断りしておきますが、このお話しは、どうぞ私の一つの或る思い出話しとして受け止めて下さい。けっして生きた禅を、学問的に「禅学」として頭で捉えようなどという、本質的に間違った指向の思いなど、今は全くありません。
 なお禅的な「無」や「空」につきましては、白田 劫石 著 「東洋的無」 〔東信堂1986(昭和61)〕などの名著もございますので、どうぞそちらなどをお読み下さい。いえ、それよりも何よりも、自分自身で参禅弁道なされる事をお勧めします。

・・・・・・・

 かつて、米国や欧州にいた頃、とんでもない質問を受けたことがあります。
例えば飛行機で隣り合わせた人から、私が日本人だと分かると、「日本人の思想の根本にあって、西洋人と違うものは何か?」と訊かれたり、夕食のテーブルで、一緒になった人達との会話で、「西洋と東洋の根本的な違いは何か?」と哲学的な問題について訊かれたりします。

 普通は、そんな難しい質問には、回答できないのですが、私もお酒を飲んでいたりすると、思わず饒舌になり、つまらない回答をしてしまいます。

 あるクルーズ船の夕食の際、円卓を囲む我々が、それぞれ自己紹介した後に、やはり彼らから東洋の思想の特徴を訊かれました。東洋人は私と家内の2人だけだったのです。
 酔った私は、以下のことを口走りました。

 「古代に限って言えば、アジアの思想の特徴の一つは、ゼロを知覚(recognize)することだった。

 我々アジア人は、目に見えないもの(invisible object)、触れないもの(untouchable object)でも、その存在を強く意識することがある。例えば、アラビア数字の1から9まではアラビア人によって発見されたが、0(ゼロ)はインド人に発見された。

  0(ゼロ)、即ち、自然数を離れた、存在しない存在を認識する事で数学は飛躍的に進歩した。
 十進法が確立し、桁(digit)という概念が登場し、大きな数を表現できるようになった。
 その根底には、非存在(null-existence)を認識するインド人の哲学があった。
 テーブルを囲んでいた、アメリカ人夫婦、カナダ人夫婦は、その回答に少し驚き、少し拍手してくれました。

 その時、私は、東洋の思想では「無」という概念を大切にするのだ・・と本当は言いたかったのですが、それはできませんでした。「無」または「空」を表現する英単語を知らなかったからです。
 Nothingやempty、vacancyでは通用しませんし、だから数字のゼロだとかNull-existenceという奇妙な言葉を用いたのですが、概ね意味は通じました。

 勿論、私がアメリカ人とカナダ人に説明した内容の多くは、私のオリジナルではありません。
 吉田洋一先生が書かれた、数学の啓蒙書として知られる「零の発見」からの引用です。
 恥ずかしいことですが、その席上では、私自身の発想であるかのように語ってしまいました。

 しかし、私が説明したかったのは、古代のことです。その後、「無」の概念は、洋の東西でそれぞれに進化したように思います。

 抽象化を進めていった西洋の数学では、早い時期に、目に見えない虚数あるいは複素数の概念が登場し、ガウスらによって複素関数論が確立しました。
また哲学では実存主義に於いて、existenceのrealityが議論されています。
 これなどは、般若心経の「色即是空、空即是色」に通じるのではないか?などと勝手に思ったりしています。

 では東洋の方はどうか?というと、私にはさっぱり分かりません。東洋に於ける「無」や「空」の概念は、禅に於いて深く理解されているはずですが、あいにく、私は入門者なので、ここで語るほどの理解はしていないのです。
 そこで、古代「無」や「空」という漢字を発明した中国の、現在はどうか?と考えてみます。

 現代中国にも、無論、零や無(无)、空という漢字があり、その意味も明確ですが、それ程強く「無」の概念は意識されないようです。
 「無い」という事実は肯定的表現ではなく、「没有=(ありません)」という否定の形で表現されることが多いと感じました。「零」の方は、ゼロという意味もありますが、ごく僅かのもの、或いは小さなものという意味で用いられることが多いようです。
 でも中国は禅の発祥地ですから、私が知らないだけで、「無」の研究は深く進んでいるはず・・とは思うのですが・・・。

 そして20世紀以降の現代物理学に於いても、「無」の概念は再び重要になっているようです。
 先日、物理学を専攻するある学生と話した時のことです。彼によれば、ディラックの物理学では、真空の空間は「無」ではなく、負のエネルギーを持った電子で満たされていると解釈されたそうです。
 その後の現代物理学では、宇宙空間は真空ではなく、圧倒的な量の見えない何か(暗黒物質)が多くの空間を占めている・・という説が有力だとか? 物理学者は「無」を嫌うのか?

 暗黒物質には質量はあるものの、電磁波と反応しないため、見る事はできず、観測することもできません。
 本来「無」なのですが、「無」ではありません。
 そして暗黒物質の一種とも考えられ、空間を飛び交うニュートリノも、殆ど他の物質と反応しません。
 質量はかすかにあり、スピンはあるものの、電荷はなく、観測は困難です。スーパーカミオカンデで、何とかそれを観測した日本の物理学者達がノーベル賞を受賞したのは、記憶に新しいところです。 
 実際、日本の研究者が明らかにするまでは、ニュートリノの質量はゼロだと考えられていたのです。

 従来なら、それは「無」であると断定された、何かを、物理学者達は追い求めています。
 「無」あるいは「空」を見つめ続けるのが、東洋の哲学であり、物理学なのだ・・と言いたいのですが、私にはうまく説明できません。

 私が「そうすると、現代物理学では『零の再発見』が必要になるね」と言うと、くだんの物理学科の学生はニヤリと笑いました。
 どうやら彼も、少年時代に吉田洋一先生の「零の発見」を読んだようです。

  心 鏡 記

ある一人の石工の話し

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広島禅会 2016/6/12 3:57
 民俗学者の宮本常一が、『庶民の発見(1961)』の中で、広島県の西条、西高屋で出会った、ある一人の石工の話しを記している。


 “  金が欲しゅうてやる仕事だが、決していい仕事なんかじゃない。
  ことさら冬に川の中でやる仕事など、泣くに泣けない辛い事がある。
  子供は絶対石工になどしたくない。
  しかし自分は生涯これで暮らしたい。”

 ” 田舎を歩いていて、何でもない田の岸などに見事な石の積み方がしてあるのを見ると、心を打たれる事がある。
 「こんな所にこの石垣をついた石工は、どんなつもりで、こんなに心を込めた仕事をしたのだろうか。」と思って見る。
 「村のほんの一部の人くらいしか、誰も見てくれる人もいないだろうに……」"

 " しかし石垣積みは、仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。
   二度と崩れない様な……。そしてその事だけを考える。
   築き上げてしまえば、それっきり、その土地とも縁が切れる。"

 " それでも、いい仕事をしておくと楽しい。"

 " 後から来た者が、他の家の田の石垣をつく時など、やっぱり粗末な事は出来ないものである。前に仕事に来た者が雑な仕事をしていると、こちらもツイ雑な仕事をしてしまう。"

 " 親方取りの請負仕事なら、経費の関係で手を抜く事こともあるが、そんな工事をすると、大雨の降った時などは、崩れはせぬかと夜も眠れぬ事がある。"

   
 " やっぱりいい仕事をしておくのがいい。"

 "「俺のやった仕事が少々の水で崩れるものか。」と云う自信が、雨の降る時には湧いて来るものだ。"
   
 " 結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、後から来る者も、その気持ちを受け継いでくれるものだ。”

 また、” 褒められ無くても、自分の気がすむ仕事がしたい。”  とも、この石工は語っている。


 この言葉を承けて、宮本常一は、「誰に命令されるのでなく、自らが自らに命令することができる事の尊さを、この人達は自分の仕事を通じて学び取っている。」と云っている。


 この石垣積み職人は、或る時、”見事な石積み” に出会って感動し、自分も将来、同じ職工の眼に触れた時に、恥ずかしくない仕事をしておきたいと思ったのである。

 つまりこの時の、この石工のこだわりは、おそらく会える事も無い、未来の職工達に宛てられているのである。


 はたして自分自身を振り返って、目先の評判や評価、利害損得などで無く、遠い先の世代が見聞きしても、決して恥ずかしくないものを遺すと云う、この一人の石工の様な、心の中に密かに秘めた、ささやかな矜恃を持って、この今を生きている、と云えるだろうか。

 世の中の悪い例なら、新聞や雑誌を見るまでも無く、幾らでも無数にある。

  光禅 記

大徳寺から、こんにちは!

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広島禅会 2016/6/1 12:48
 広島禅会の龍舟です。

 学生時代から続けてる茶道上田宗箇流、その流祖はそのまんま上田宗箇さんなんですが、流祖の活躍した安土桃山は今よりも禅と茶道の関係が密接だった時代です。

 宗箇という名前も大徳寺三玄院の春屋宗園に参禅して得度した道号です。

 この大徳寺三玄院では毎年5月、流祖上田宗箇を偲んで宗箇忌が行われ、以前よりお手伝いに参加させていただいております。

 このお寺、大徳寺ですからそれだけすごさが伝わりますが、だけじゃない三玄院。石田三成らによって建立され、あの古田織部も参禅、長谷川等伯には断られても勝手に上がり込んで襖絵を書くなど、とてつもないお寺です。

 残念ながらすばらしい景色の院内は撮影禁止となっておりまして、門外にて記念撮影。

 三玄院なので「3」です(笑)

 旅の思い出としてはたくさんあって、鴨川に張り出した床で、同行した野鳥博士からサギなどの講釈を聞きながら一献かたむけたり、和物セレクトショップ「木と根」ですごいかわいい和菓子「鉱物の実」と出会ったり、といろいろあるのですが、それはおいといて、禅にまつわるちょっとした話を。


 流祖は自分にとても厳しい人で、点前にもそれがよく現われています。

 ひとつひとつが凛としているので、それが好きで長く続けている理由でもあります。

 流祖の作った立ち蹲踞が和風堂に遺されていて、これも形から厳しさが伝わる逸品ですが、なんと「心径苔生(しんけいたいしょう)」と彫られているのです。

 すごいですよね。

 心の奥まで苔が生えるまでじっとする、みたいな意味なんでしょうが、今のようにフワフワした時代どころか、本当にいつ死ぬか分からない時代においても心を動かさないことを求めています。

 まさに禅で説かれる不動心。

 禅の修行がすすんできたのか、顔の皮が厚くなったのか、少々のことでは動じなくなってきた今日この頃です。

 そんな「心径苔生」、こちら大徳寺三玄院の住職、長谷川大真和尚が掛け軸に書かれていました。

 こんなすごいお寺の住職でありながら、大真和尚はいつもほがらかに接してくださり、まさに心径苔生だなぁといつも思っていましたが、そのままの掛け軸が出てきて驚きました。

 しかもちゃんと大徳寺表具です、当たり前ですが。

 私もしっかり心径苔生したい、と思った京都での思い出です。

  龍 舟
71年前の雲一つない明るい朝、空から死が舞い降り、世界は変わった。

閃光(せんこう)と火柱が都市を破壊し、人類は自ら自身を破壊する手段を手にすることを示した。

 我々はなぜ広島に来たのか。

そう遠くない過去に解き放たれた、残虐な力に思いをめぐらせるためだ。

我々は命を落とした10万人を超える日本の男女、子供、何千人もの朝鮮半島出身者、十数人の米国人捕虜を悼む。

その魂が私たちに話しかけてくる。彼らは我々に対し、もっと内なる心に目をむけ、自分の今の姿と、これから成るだろう姿を見るように訴える。

広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。

過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことを我々に教えてくれる。

初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。いずれの大陸も文明の歴史は戦争で満ちており、食糧不足や黄金への渇望に駆り立てられ、民族主義者の熱意や宗教上の熱情にせき立てられた。帝国は台頭し、そして衰退した。民族は支配下に置かれ、解放されたりしてきた。

転換点において罪のない人々が苦しみ、数え切れない多くの人が犠牲となり、彼らの名前は時がたつと忘れ去られてきた。

 広島と長崎で残酷な終焉(しゅうえん)を迎えた世界大戦は、最も豊かで強い国家間で勃発した。彼らの文明は偉大な都市と素晴らしい芸術を育んでいた。思想家は正義と調和、真実という理念を発達させていた。

しかし、戦争は、初期の部族間で争いを引き起こしてきたのと同様に支配あるいは征服の基本的本能により生じてきた。抑制を伴わない新たな能力が、昔からのパターンを増幅させた。

 ほんの数年の間で約6千万人が死んだ。男性、女性、子供たちは我々と変わるところがない人たちだった。撃たれたり、殴られたり、連行されたり、爆弾を落とされたり、投獄されたり、飢えさせられたり、毒ガスを使われたりして死んだ。

 世界各地には、勇気や勇敢な行動を伝える記念碑や、言葉にできないような悪行を映す墓や空っぽの収容所など、この戦争を記録する場所が多くある。

 しかし、この空に上がった、きのこ雲のイメージが、我々に人類の根本的な矛盾を想起させた。我々を人類たらしめる能力、思想、想像、言語、道具づくりや、自然とは違う能力、自然を我々の意志に従わせる能力、これらのものが無類の破壊能力を我々にもたらした。

 物質的進歩や社会革新がこの真実から、我々の目を曇らせることがどれほど多いであろうか。高邁(こうまい)な理由で暴力を正当化することはどれほど安易なことか。

 偉大な全ての宗教は愛や平和、公正な道を約束している。一方で、どの宗教もその信仰が殺人を許容していると主張するような信者の存在から逃れることはない。

 国家は、犠牲と協力を結び付ける物語をつむぎながら発展してきた。さまざまな偉業を生んだが、この物語が抑圧や相違を持つ人々の人間性を奪うことにも使われてきた。

科学は我々に海を越えてコミュニケーションを取ることを可能にし、空を飛び、病気を治し、宇宙を理解することを可能にした。しかし同じ発見は、より効果的な殺人機械へとなり得る。

 現代の戦争はこうした真実を我々に伝える。広島はこの真実を伝える。人間社会の発展なき技術の進展は我々を破滅させる。原子核の分裂につながった科学的な革命は、倫理上の革命も求められることにつながる。

 だからこそ我々はこの地に来た。この街の中心に立ち、爆弾が投下されたときの瞬間について考えることを自らに強いる。惨禍を目にした子供たちの恐怖を感じることを自らに課す。

 無言の泣き声に耳を澄ませる。我々はあの恐ろしい戦争やその前の戦争、その後に起きた戦争で殺された全ての罪なき人々に思いをはせる。

 単なる言葉でその苦しみを表すことはできない。しかし、我々は歴史を直視し、そのような苦しみを繰り返さないために何をしなければならないかを問う共通の責任がある。

 いつの日か、生き証人たちの声は聞こえなくなるだろう。しかし1945年8月6日の朝の記憶は決して風化させてはならない。記憶は我々の想像力を養い、我々を変えさせてくれる。

 あの運命の日以来、我々は希望をもたらす選択もしてきた。米国と日本は同盟関係を築くだけでなく、戦争を通じて得られるものよりももっと多くのものを国民にもたらす友情を築いた。

 欧州の国々は戦場に代わって、交易や民主主義により結ばれている。抑圧された人々や国々は自由を勝ち取った。国際社会は戦争を回避し、核兵器の存在を規制、削減し、完全に廃絶するための機関を創設し協定を結んだ。

 それにも関わらず、世界中で見られる国家間のテロや腐敗、残虐行為や抑圧は、我々がすべきことには終わりがないことを示している。我々は人類が悪事を働く能力を除去することはできないかもしれないし、我々が同盟を組んでいる国々は自らを守る手段を持たなければならない。

 しかし、わが国を含む、それらの国々は核兵器を貯蔵しており、我々は恐怖の論理から抜け出し、核兵器のない世界を希求する勇気を持たなければならない。こうした目標は私の生きている間は実現しないかもしれないが、粘り強い取り組みが惨禍の可能性を引き下げる。

 我々はこうした保有核兵器の廃棄に導く道筋を描くことができる。我々は、新たな国々に拡散したり、致死性の高い物質が狂信者の手に渡ったりするのを防ぐことができる。しかし、まだそれでは不十分だ。なぜなら、我々は今日、世界中で原始的なライフル銃やたる爆弾でさえ恐るべきスケールの暴力をもたらすことができることを、目の当たりにしているからだ。

 我々は戦争そのものに対する考え方を変えなければならない。外交を通じて紛争を予防し、始まってしまった紛争を終わらせる努力するために。増大していく我々の相互依存関係を、暴力的な競争でなく、平和的な協力の理由として理解するために。破壊する能力によってではなく、築くものによって我々の国家を定義するために。そして何よりも、我々は一つの人類として、お互いの関係を再び認識しなければならない。このことこそが、我々人類を独自なものにするのだ。

 我々は過去の過ちを繰り返す遺伝子によって縛られてはいない。我々は学ぶことができる。我々は選択することができる。我々は子供たちに違う話をすることができ、それは共通の人間性を描き出すことであり、戦争を今より少なくなるようにすること、残酷さをたやすく受け入れることを今よりも少なくすることである。

 我々はこれらの話をヒバクシャ(被爆者)の中に見ることができる。ある女性は、原爆を投下した飛行機の操縦士を許した。本当に憎むべきは戦争そのものであることに気付いたからだ。ある男性は、ここで死亡した米国人の家族を探し出した。その家族の失ったものは、自分自身が失ったものと同じであることに気付いたからだ。

 わが国は単純な言葉で始まった。「人類は全て、創造主によって平等につくられ、生きること、自由、そして幸福を希求することを含む、奪うことのできない権利を与えられている」

 理想は、自分たちの国内においてさえ、自国の市民の間においてさえ、決して容易ではない。しかし誠実であることには、努力に値する。追求すべき理想であり、大陸と海をまたぐ理想だ。

 全ての人にとってかけがえのない価値、全ての命が大切であるという主張、我々は人類という一つの家族の仲間であるという根本的で必要な概念。我々はこれら全ての話を伝えなければならない。

 だからこそ、我々は広島に来たのだ。我々が愛する人々のことを考えられるように。朝起きた子供たちの笑顔をまず考えられるように。食卓越しに、夫婦が優しく触れ合うことを考えられるように。両親の温かい抱擁を考えられるように。

 我々がこうしたことを考えるとき71年前にもここで同じように貴重な時間があったことを思い起こすことができる。亡くなった人々は我々と同じ人たちだ。

 普通の人々はこれを理解すると私は思う。彼らは、さらなる戦争を望んでいない。彼らは、科学は生活をより良いものにすることに集中すべきで、生活を台無しにすることに集中してはならないと考えるだろう。

 各国の選択が、あるいは指導者たちの選択がこの単純な分別を反映すれば、広島の教訓は生かされる。

 世界はここ広島で永久に変わってしまったが、この街の子供たちは平和に日常を過ごしている。なんと貴重なことであろうか。これは守るに値し、すべての子供たちに広げていくに値する。これは我々が選択できる未来なのだ。

 広島と長崎の将来は、核戦争の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの契機の場として知られるようになるであろう。

そうした未来こそを、我々は選び取るのである。

そろそろ「とうかさん」

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広島禅会 2016/5/24 12:49

広島三大祭りの一つ「とうかさん」が近づいてきました。

今年は、6/3(金)4(土)5(日)に開かれます。

もちろん広島では、えびす講と並んで有名なお祭りですので、浴衣の着始めのお祭りとして知られています。

しかし「とうかさん」というのは・・・

中央通りにある「圓隆寺」の御神体である「稲荷大明神」が、この3日間だけ御開帳されるのをお参りするお祭りなんです。

御神体の「稲荷大明神」を、「いなり」と読まずに、音読みで「とうか」と読むことから「とうかさん」と云われているのです。

それでも浴衣の着始めのお祭りと思っている人は多いのですが、ウチワを売る祭りと思っている若い子もいる様です。

(^^;)

とは云え、御神体の「とうかさん」をお参りしたことが無い人も多いと思いますので、御利益などは捌として、ぜひ、お参りされてみてはいかがでしょうか。

(^^)

とうかさんが終わると、広島ではそろそろ梅雨入りですね。

  光 禅 記

私が入会した理由

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広島禅会 2016/5/10 12:42
今年で41歳になる私ですが、20数年来、探し求めていたものがありました。

それは「あらゆる宗教、哲学に共通する根源その一点は何物なのか。」と云うことです。その答えが有るという確証は、ありませんでしたが…

思えば肉体的にも環境的にも何不自由ない状態の私ですが、不満と不安の中で生きていました。
何をどう生きるべきか。
どうすれば自分は救われるのか。
心の底で、常に探していたのだと思います。

 西洋哲学の本を読んでみたり、キリスト教信者の方と文通をしてみたり、お寺の宿坊を泊まる旅をしてみたり、論語や老荘思想の本にもかじりつきました。

 どこにおいても気づきや学びはあり、無駄な時間だとは思いませんが、どこにも答えはありませんでした。

そんな時、縁あって広島禅会の参禅会で、参禅を勧めていただきました。

「四十にして迷わず」論語の「不惑の歳」を迎えるに当たり、私は腹を決めました。

 この参禅会の間だけは、全てを棚上げして、参禅修行に徹しよう。そして一日一炷香を毎日間断無く死ぬまで続けていこうと。

今は「神、仏、天、愛は、どこを探しても無かった。自分の行いにあったんだ。」と云う様に思います。これは、これから参禅修行が深まれば、もっと違って来るかもしれませんが、それもまた、今は楽しみです。

インドの偉人ガンジーは「方法が違うだけで真の宗教の行きつく先は皆同じ、そこに優劣は無く争うことは無い。」と云う意味のことを言われたそうですが。
どうやら日本人の私には、禅が馴染んだのでしょう。

 正直に曇り無く堂々と生きたときこそ、そこに答えがあるんだと思います。

 ようやく見付かった!ここからが新たな出発です。

合掌

  友松 記

 「 45分法 」

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広島禅会 2016/5/5 2:52

やらなければいけないことは、よく分かっている。

でも、何を何処から取り掛ればいいのか、よく解らない。

あるいは、よく判っているけど、もう一つ何かヤル気にならない。

こんな時には「45分法」を使うと良いそうなので、引用して紹介します。


「45分法」とは、とても簡単で単純な方法です。

まず45分間アラームをセットして作業し、アラームが鳴ったら、とにかく15分間休憩を取る。このインターバルで作業する。

たったそれだけである。

 0~45分間 … 作業・仕事・勉強などに集中する。

45~60分間 … アラームが鳴ったら、作業中でも強制的に休憩する。
               なるべく机を離れて、作業を止める。
               作業に関係の無いことは、何をしていてもいい。


なぜこれが有効なのかと云うと、人間が集中して作業出来るのはせいぜい1時間前後で、それ以降は疲れてしまって作業効率が落ちるからなのだそうだ。

集中出来ずに作業を続けると、モチベーションも下がる。

一度下がってしまったやる気を、また上げる為には、やる気をあげる為のやる気を出すことが更に必要になってしまう。

やる気を上げる為のやる気を出す為、そのための時間が別に必要に成ってしまう。

この無駄を断ち切るため、とにかく座ったら、まず直ぐに作業の45分間と、休憩の15分間のアラームをセットする。

こうしておくと一々時間を気にしなくていいので、集中が出来てダラダラすることが無くなる。

アラームは、携帯でもいい。

作業と休憩のインターバルを2段階ずつセットしておけば、15分休憩後の作業再開も忘れ無くて良い。

何時から何時まで、この作業と休憩のインターバルで、何を何処まで作業するのかを、予め計画して決めておけばいいのだ。


考えてみれば、一炷香も基本的に45分間である。これによると、理に適っている事に成る。


光禅 記

広島に南極の氷が届きました

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広島禅会 2016/4/24 13:02
  広島参禅会の懇親会に南極の氷が届きました。
よく見ると氷の中にたくさんの気泡があるのに気づきます。
そのつぶつぶに禅者は何を見るのでしょうか。





参禅後の茶席。

見晴らしのよい部屋での静かな

時が流れます。



返り咲きのキンギョソウ

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広島禅会 2016/2/20 10:20
 我が家にキンギョソウが来たのは昨年の冬になる。年の暮れには寒さも厳しくなり庭も寂しくなる。そこで娘と相談してホームセンターからキンギョソウの苗を買ってきた。冬のうちに花がひとつ咲いており、しばらくは寒くても持つとのことであった。その花も寒さがさらに厳しくなるころには落ちてしまい、ポツンと小さな苗は凍えて春を待っていた。


 春になると気温の上昇とともに見る見る株分かれして大きくなり、黄色の金魚のような花を鮮やかに咲かせた。そしてさらなる気温の上昇でキンギョソウの花作りは種作りにシフトしていく。キンギョソウの種はツボの様な殻に大量に入っている。ひっくり返せばサラサラと1ミリにも満たない種がこぼれ落ち、さながら調味料の瓶のようでもある。娘と一通り種をガラスの容器に入れた。一粒の種からこれほどたくさんの種ができることにびっくりした。それでも元の株にはまだいくつもの種の殻を残している状態である。


 その後しばらく放って忘れていたのだが、娘に言われ 1週間ぶりに鉢をみて驚いた。茶色の種の殻を一面に抱えていた姿から、見事に黄色の花をつけて返り咲いた。全く短期間のことであった。種を一通り私たちが採取したことが刺激となったのだろうか。草花によるが、花が終わった後切り戻すと二度咲きが楽しめる種はかなりあるようである。キンギョソウは寒さ、暑さにも比較的強く強健でありその部類に入るそうだ。四季咲き性と言われて、ほっておいても一年に何度も花をつけてくれるありがたいタイプだそうである。加えて花がらをこまめに取ることでその後により多く花をつけることができる。つまりキンギョソウは適度に手を入れることで割と容易に二度以上の開花を拝めるということになる。


庭の草花は栽培される環境や天候によって様々な形で育つ。結果的にタネを作るまで天寿を全うするものあれば、暴風雨や干ばつによる天候のどうにもならない影響で成長せずに終わることも多いだろう。さらに人為的な行動も結果に左右する。晴れが続いて乾燥気味になれば、草木に水をやろうという気が起こるかも知れないし、それでも仕事が立て込んで世話をしないということも起こりうる。水は間に合っても、雑草のほうが成長力は桁違いに強く、ほっておけば雑草に栄養も取られてしまう。


それらすべてを包括し、現象として枯れるものは枯れるし、咲くものは咲く。しかし更に花が咲く、咲かないに関わらず私たちがそれを見るかどうかでまた、我々の庭に対しての印象も変わってくる。忙しさにかまけて見ずに放っておけばせっかく再び開いた花びらもまた散ってしまい、やはり私たちの心にとどまることもない。「花の命は結構長い」とはどこかの生命保険の CMのセリフではある。品種改良を重ねて花期の長い一種を企業に作ってもらっても、企業努力のできることはそこまで。私の不精な性格のお陰でこれまでおそらく幾度もシャッターチャンスを逃してきたのだろうと思う。


結局のところ一度咲きとしても二度咲きとしても、品種改良して人間好みにバージョンアップしようとも、草花としてはやれることをしたまでなのかもしれない。「花は偉い」だの「花は儚い」だの物語をくっつけるのは私たち次第というか勝手な話ともいえる。ただ結果的に自分の庭でキンギョソウの二度咲きを楽しむことができたこと、その心の余裕を持ち合わせていたことに感謝したい。娘が二度咲きしたことを告げてくれたことが思えばラッキーであった。種という形に残るものだけでなく、心にも黄色の温かみを我々に分けてくれた。ほっこりとした出来事であった。

合掌
心眼 記