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広島ブログ - 杉本五郎中佐の「尊王」とは 

杉本五郎中佐の「尊王」とは 

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
広島禅会 2014/8/12 20:45
 「汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、尊皇精神ある処、常に我在り。」
 
 杉本五郎中佐の辞世である。
 
 参禅の師であった、当時の仏通寺管長、吹毛軒山崎益州老師は、後に「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長として、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった。」と述べている。
 (杉本五郎は、支那事変出兵後に少佐に昇進しており、死後、叙従5位陸軍歩兵中佐となっているが、きっと益州老師にとっては、何時までも陸軍歩兵中隊長の杉本五郎大尉だったのだ。瞼に入れても痛くない、外弟子だったのであろう。)
 
 そして、もはやここには、一片の生死も覗えない。
 
 即ち、杉本五郎中佐の「尊王」とは、ただ単に皇国の武士(もののふ)として、陛下に真を尽くすということを遥かに超えて、言い換えれば、宇宙の命、絶対の自己、仏、あるいは本来の面目のことを云っているのである。
 
 軍務の傍ら、広島から毎週末には必ず三原の仏通寺に通い、益州老師に欠かすことなく昼夜に参じ、毎度のように徹宵で夜坐し、また夏末・臘八の大接心には禁足で詰めていた。出征までの9年間、これをずっと続けていたそうである。
 もとより出家の意志などは微塵もなく、ただ一介の歩兵部隊の帝国軍人として、純粋に国家のために献身することだけが、人生の目標で有ったことは明白な人である。その為だけの参禅弁道だったのである。
 
 昭和12年(1937)9月、支那事変(日中戦争)の戦闘において戦死。
 手榴弾を浴びて倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がり、再び倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対し、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。俗に云う立ち往生、すなわち立亡(りゅうぼう)である。38歳の生涯であった。坐脱立亡の立亡であるが、近世では極めて稀だと思う。常日頃の鍛錬が慮れる一事である。
 
 死の寸前まで、四人の息子達への遺書として書き継がれた、20通の手紙を妻へ送っている。これは同志らによって、20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938)5月に刊行された。
 これは、当時の青年将校や士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ねて29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。
 本書は、戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、本書を読んで軍人を志した者も少なくなかったといわれている。
 
 益州老師の法嗣の故青松軒藤井虎山老師や、そのまた法嗣で、広島禅会の名誉会員であった故関照軒浜田徹道老師が、たしか「著書の内容からして、おそらく洞山五位の調べも透過した老居士級の境涯であろう。もしこの人が、戦後まで生きていれば、もっと視野の広い世界観に成っていたのではないだろうか。」という意味のことをいっておられた様に思う。
 
 三原市の仏通寺の境内に、杉本五郎を記念する小さな碑と、渓流を隔てた岩壁に杉本五郎が大書した「尊皇」の二文字が今でも残っている。

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