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ブログ - 最新エントリー

周黄玉さんの料理教室

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岳南支部 2018/10/13 14:40

 周黄玉さんの新聞記事を見つけました。

熱海国際交流会の料理教室で、本場の中国料理を

指導されてます。9月の摂心に参加された路弘さんも

一緒です。

 水餃子とチンゲン菜の炒め物とサンラータンのスープが

美味しく出来ました。

 

合掌 至山 拝

 

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三島静坐会 講話・禅語の予定

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岳南支部 2018/10/8 18:47

三島静坐会 講話禅語の予定

 

平成30年10~12月の三島静坐会での講話、禅語の予定です。
  坐禅のあと25分くらい、下記の禅語、講話について話をします。
  古の言葉、その造詣の深さを味わってみませんか?
  その表現の根底にひそむ肚を看破するように努めましょう。
  坐ったあとで味わう禅語は、また格別の想いがあるとおもいます。
  是非一度、足をお運びくださいませ。
  時間、場所の詳細、ご予約はイベント予約からどうぞ。
 
   10月13日  禅語  「徳不孤」
   10月27日  禅語  「識羞」
   11月10日  禅語  「寂然不動」
   11月24日  禅語  「破襴衫裏盛清風」
   12月8日   摂心会のため休会 
   12月22日  禅語  「一箭中紅心」
   

                       合掌  輝風  拝
 
 
 

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熱海国際交流会の料理教室で「周黄玉」さんが講師を努めます。

料理内容は水餃子、小松菜の炒め物、スープです。

何時か、典座でお願いしたいですね。

 

合掌 至山 拝


 

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三島静坐会 学習塾生徒、母親参加

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岳南支部 2018/9/24 10:12

三島静坐会 学習塾生徒、母親参加

9月22日、三島市内にあるプログラミング学習塾の生徒3人(小3、小4)と母親で

あり、先生でもある女性1人、そして塾の経営者の下山透さん(龍谷居士)の5人を迎え、

また、小林閑徹老居士、関野円通居士、鈴木幹久居士にも参加していただき総勢12人

で静坐会を開催しました。あと、お母さん2人も同行していただいたのですが、寸前に

なって、とても出来そうにないと逃げられてしまいました。

進行は3人を中心に進めて、簡単に禅の歴史を話し、坐り方、数息観の説明をした後

15分坐りましたが、5分ぐらいからモゾモゾしはじめますね。途中で姿勢を直されな

がらも坐りきりました。その後、禅の効用と効果について子供にもわかるように簡単に

話しをしました(話しをしたつもりですが、どの程度わかってくれたか)。その後の20分

もモゾモゾしながらも坐りきってくれました。ちょっと気疲れした様子でしたが頑張り

ました。最後にお菓子を食べてお茶を飲んで散会となりました。

小学生に対しては、もっとわかりやすく興味をひく方法、話し方もあると思いますが

坐る時間等も含めてこれからの宿題になりました。

帰り際には、円通居士、龍谷居士の間でプログラミングの話しで盛り上がっていました。

 

 


 


 

                              合掌  輝風  拝

 

 

 
 

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岳南支部 第203回摂心会 円了

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岳南支部 2018/9/11 20:54

岳南支部 第203回摂心会 円了

99日、無事に円了をむかえることができました。道友の皆さま、

お疲れさまでした。お世話になりました。ありがとうございました。

禅セミナーの日に撮影した写真を掲載します。

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

写真:鈴木幹久  文:鈴木輝風  拝

 

 

 
 

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三島静坐会 8月の禅語  如是

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岳南支部 2018/8/27 19:09

 

如是(にょぜ)

 

「如是」とは「()くの如し」と読み、「このまま、このとおり」ということ

であるが、古来、さまざまな意味に使われている。

()『法華経』をはじめ仏教の経典をみると、その冒頭に「如是(にょぜ)我聞(がもん)――()

の如く我れ聞けり」とある。これは釈尊の入滅後、遺弟らが釈尊の教説を(けつ)(じゅう)

した時、十大弟子のなかで「多聞(たもん)第一――記憶力抜群」と称された阿難(あなん)が「釈

尊があの時、どこそこの会場で説法されましたが、それを私はこのように聴聞

しました。その説法はこうでした」といって、その説法をそのまま再現し、そ

れが基調となって結集が進行したため、「如是我聞」の四字が巻頭に出るように

なったのだといわれている。その(はら)は「釈尊の説法をそっくりそのまま、いさ

さかの私見も加えずここに再現している。経巻(きょうかん)をひもとく人は、よくこのこと

を信受して奉行(ぶぎょう)せよ」ということである。なお『(へき)巌録(がんろく)』に「世尊陞座(せそんしんぞ)」とい

う一則がある(第九十二則)。それは、

  釈尊がある時、説法をしようと講座台上に登られた。普通はその時司会

  者が「法筵(ほうえん)龍像(りゅうぞう)衆、当観(とうかん)第一義――お集まりの大徳方、(まさ)に第一義を

  はっきりつかみなされ」と宣し、それから説法が始まるのである。ところ

  が、この時に司会役をつとめていた文殊が、この語を宣せず、しかも釈尊

  がまだ一言も発せられない先に、いきなり(つち)で卓を打ちカチッと音を立て

  てみなの注意をひいておいて、「諦観(たいかん)法王の法、法王の法は如是――釈尊

  の法をはっきりと()なされ、釈尊の法はまさに是くのとおり」と、説法

  終了の文句を宣してしまった。すると、釈尊ス―ッと座を下りてしまわ

  れた。

という公案である。これは文殊が早とちりして合図をまちがえたのではない。
それなら「法王の法は如是」と宣した文殊の(はら)はどうか、それについての見解(けんげ)

をもってこいというのが、この公案の眼目である。この場合、その見解はま

あ別として、「法王の法は如是」とは、「釈尊は講座台上に立たれただけで、そ

の法をいささかも隠すことなく、()堂々(どうどう)と開示しておられるのだ。それをトッ

クリと拝め」ということであり、「如是我聞」の場合とほぼ同義である。

()五燈会元(ごとうえげん)』巻九の仰山(きょうさん)慧寂(えじゃく)(803887潙山(いざん)霊祐(れいゆう)の法を()ぎ、師に協力

して潙仰(いぎょう)宗を開いた唐代の僧)の条をみると、仰山がある僧と問答し、その僧の

見所(みどころ)をうけがって(註:肯う)、如是、如是。此れは是れ諸仏の護念する所なり。

汝も亦た如是。吾も亦た如是。善く自ら護持せよ。といったとある。このよう

に「如是」は「そのとおり、そのとおり。それでよい」と相手の所説や見所を

肯定し、これに賛同する意味に使う場合もある。
()曹洞宗の宗祖洞山(とうさん)良价(りょうかい)(807~869)の著『宝鏡(ほうきょう)三昧(ざんまい)』の冒頭に「如是の

法、仏祖密に付す。汝、今、之を得たり。宜しく善く保護すべし」とある。

これでわかるように「如是」はここにいう「如是法」とほぼ同義に使われるこ

ともある。ちなみに「如是法」とは、人間がそれを把得(はとく)しようと(いな)とに関係な

く、無限の過去から無限の未来にわたって、この自然と人生とをつらぬいて活

動し、万物を動かしている根本のもの、真如(しんにょ)、宇宙の大生命とその理法とをさ

すのであるが、この根本の当体を「如是」というのである。なお、この世に存

在するものはすべて宇宙の大生命如の発現であり、そうでないものは何一つ

ない、この世界に存在するものはすべて在るべくして在り、生ずべくして生じ

たもので、そのままで真如実相であるというのが、『法華経』の眼目である「諸

法実相」の世界観であるが、この世界観に立って一切の存在と人間の営みとを

「そのままでよい、そのまま、そのまま」と肯定する場合に「如是、如是」と

いうこともある。なおこの「如是」という語は、如是因如是果如是経

是相などと、種々の語の上に冠して用いられる、()の意味が最も重要である。

 

      (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)

              

 

碧巌録(へきがんろく):宋時代(1125年)に編集された中国の仏教書。

禅門第一の書といわれ、特に臨済宗において尊重される、代表的な

公案集。碧巌集とも呼ばれる。

奉行(ぶぎょう):上命を奉じて公事行事を執行すること。その担当者。

(しょう):官位があがる。のぼる。のぼらせる。

法筵(ほうえん、のりのむしろ):説教や法会などをする所。

諦観(たいかん):仏、明らかに真理を観察すること。

 

五燈会元(ごとうえげん):中国南宋代に成立した禅宗の灯史である(1252)

「五灯録」と総称される、5種20巻の、皇帝の勅許によって入蔵を認

められた灯史を総合する意味で編纂されたもの。

 

潙山霊祐(いざん れいゆう、771~853):中国唐代の禅僧。福建省の出身。

        禅画「潙山踢瓶(てきへい)図」の故事で有名。

 

 宝鏡三昧(ほうきょうざんまい):中国曹洞宗の開祖、洞山良价によって作成

されたとされる禅の漢詩。『宝鏡三昧歌』ともいわれる。「宝鏡」とは

   「至上の明鏡」の意味で、「明鏡」とは釈迦の智慧を指す。

 

 真如(しんにょ):仏、一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理。

 諸法実相(しょほうじっそう):一切存在のありのままの真実の姿。宇宙間の

             あらゆる事物がそのまま真実の姿であること。

             

 

 

 

                             輝風  拝

 

 
 

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岳南道場 禅体験セミナー

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岳南支部 2018/8/4 9:32

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不思議集団 ⑥

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執筆 : 
岳南支部 2018/7/7 15:18

 不思議集団 ⑥

 

摂心は面白い経験だった。座禅は体験としてはしたことがあったが、1時間も長い時間座っ

たことはなかった。参禅も面白い。参禅はどこか遠いところで行われている、縁のないもの

だと思っていた。それが体験できるとは、なんと幸運なことだろう。そしてそのような活動

をしている、人間禅とははなんと面白い集団であろうか。在家の人たちで構成されながら、

禅堂から、台所、風呂など水回りまでを完備する道場では、寝食の一切を行うことができる。

山奥に位置する岳南道場は、人里離れて、ただ山しか見えず、野鳥のさえずりしか聞こえな

い。茶室もあって茶道を行うこともできる。茶禅一味だ。食事は皆で素朴なものを少量いた

だく。朝5時に起き、座禅、参禅のほかに、道場内外の清掃を行う。人と話をすれば、道元、

栄西、達磨、芳賀、出てくる名前が面白い。いずれも私が書の中でしか出会わなかった名前

で、そのような話ができるのが楽しい。こうした大家の言ったこと、書いたことがすらすら

と口が出てくるこの人たちは不思議だ。とても難しい言葉だが、自分なりに咀嚼して理解し

ていなければ語ることができない語り口だ。ああ、面白いことだ。私はこんな風に素朴な生

活を過ごしてみたかったし、このような人たちにあってみたかった。そして、そのような生

活なできないし、そんな人たちがゾロとして集う場があるとは思わなかった。思いもかけな

い幸運である。僧侶の講話や、座禅体験の場は寺周辺にないわけではないが、これほどの空

間は他にない。寺以上のものを志向した実践であり、僧以上に求めるところ篤い人たちがそ

こに参集している。私はただ嬉しくて、夢中で座り、夢中で作務に従事した。

 

縁を辿れば、直接的には芳賀幸四郎の「一行物」である。この本の禅語解説の深さ、そして

鮮やかさに魅せられて関連書籍を求めて、岳南道場に連絡したのがきっかけである。そして

その本をくれたのは、私が通う茶道教室の大先輩であり、高校時代の書道の先生である。私

が合間の時間に書いている字を見せると面白がって、書きたい字を存分に書くのがよろし

いと言ってくれたのが、一行物である。この本のおかげで、かじってはいたもののさっぱり

分からなかった臨済が少し掴むことができた。これは嬉しい経験だった。茶禅一味とは言う

ものの、お茶から禅への拡がりが本当に体感できるとは思わなかった。芳賀先生の本を求め

て訪問して立ち寄った道場で、お借りしたのが、五灯会元である。達磨からの法系の流れが

面白く、生き生きと語られていることに感動を覚えたが、この本が摂心中の講話がベースに

なっていて、指導励ましの言が多分に盛り込まれていることに驚いた。しかも、芳賀先生

80代半ばの著作ということで、さらに驚かされた。しかし、魅力的なことにこの怪物の語

り口は、怪物のようないかめしい、近寄りがたい文体ではない。人間らしく、分かりやすい

という意味で親しみやすく、また背筋を伸ばした人の美しさのような緊張感をたずさえて

いる。一行物も五灯会元も素晴らしい著作である。

 

摂心に参加して驚いたことに、80代、90代の方が凛として参加されている。茶道でも似た

ことがあるが、こうした80代、90代の先輩が涼しげに励まれているのを、6070代が

習っているという構図には恐れ入る限りだ。6070代でまだまだなのでは、私の道のりな

どまったく気の遠くなるほど長い。そう、焦らず、看脚下、一歩ずつ歩めばいいのだ。勝手

にそう慰めている。社会生活を送っていると、こうした遠望になかなか出会えない。結果と

して近視眼的になってしまう。いい機会を得た、歩々是道場、一歩ずつ歩もうと思った次第

である。()

                    鈴木幹久

 

 

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字は偉いのか ⑤

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執筆 : 
岳南支部 2018/7/7 10:41

 字は偉いのか ⑤

 

茶道では、掛物、つまり掛け軸に頭を下げる文化がある。書いた偉い人とその言葉に頭を下

げるということである。なかなか日本的でよい?そうだろうか。およそ茶席では書いた人が

どのような人なのか、またその言葉がどのような意味なのか、深く掘り下げるような話をす

ることはあまりないし、およそそのことが十分に理解できているとも思えない。さらに掛け

軸の書には、字の巧拙よりも誰が書いたかが重要という文化がある。上手な書道の先生より

も、名寺の管長の字を有難がるということである。私は、言葉の意味を理解しているのかも

怪しい僧侶の、特に心のこもっている様子もない書がありがたいとは思わない。上手な字、

 

しかも何度も書いて書き上げた渾身の一筆の方が有難いと思う。いい加減な字で、字の大小

がバラバラだったり、中心がずれていたり、大きさのバランスが悪かったり、書き直せばよ

いのにと思うことがある。これを珍重する、大枚を叩いて入手するとは不思議な文化だ。特

に書き直しもしない、走り書きの一筆のバランスの悪いものを、味だとか風情だとか言って

有難がるのは、酔狂に思える。酔狂どころか狂気である。そのものに対する美しさを感じる

感性が異常をきたしてしまっている。書き手の精神を掴む素直な感性が欠如してしまって

いる。何やら偉そうな人を貴ぶという、間違った社会的感性に支配されてしまっている。




私は、茶席の軸は、主人が自分で書くのがよいと思っている。主人は自分で書くからその意

味をよく知ろうとするし、その意味を客人と共有しようとするだろう。客人も主人自ら書い

た字の意味をしろうとするし、そのひと手間を有難く思うことだろう。別に客人はそれに頭

を下げる必要はない。茶道具のなかで軸は最も重視するのは、小堀遠州をはじめほとんどの

識者の共通認識であるし、それはよいことだと思う。字を書いて、それに親しむというのは

なかなか面白い習俗ではないだろうか。イスラム圏ではカリグラフィー、すなわち文字を美

術的に表装する建築や美術品の様式があるが、茶道における書はすこし形は違うが、素晴ら

しい文化である。しかしそれが、つまらない価値観に支配され、その貴い文化を堕落させて

しまっては残念この上ない。何代目の某氏が書いた物だから有難い、高かった、意味はよく

知りませんが、というのでは困る。何十万も何百万も払って掛けるお軸が本当に素晴らしい

のだろうか。主人の一筆に期待したい。もちろん美術品としてその価値があるものもあるだ

ろうが、精神文化を経済化し、私的親交の場でそれを飾ってどうするものだろうか。それよ

りも半日かけて、語り合いたい、もしくは共有したい禅語を主人に全力で書いてもらえたら

、これは素晴らしいことだろう。私は頭を深く下げることだろう。軸を基点に、茶席の世界

はもっともっと深くできると思っている。他の茶道具は、おいそれと作ることはできないし、

専門家が作ったものを調達すればよいし、持っているものがすでにあればそれを使えばよ

い。親にもらった、友達にもらった、百均で買った、何でもよいではないか。いずれも面白

い因縁であるし、作や銘などの一般的な文脈よりも、主人独自の文脈に興味がある。そして

そのことが尊いと思う。書は他の道具と比べれば、表装はさておき簡単に作ることができる。

そう、そもそも書は道具ではないのかもしれない。使うものではないから。字の巧拙を言う

人もあるかもしれないが、そんなことよりと、私は思う。ならば書きたい字を上手な人に、

書道の先生に頼むのもよいだろう。しかし、客人がまともな人であれば、主人が何度も失敗

して書いた、しかしながら巧くない字に真のもてなしを感じ、その字の意味を楽しみ、主客

の心の交流に喜びを感じ感謝するだろう。もしそのようなことがよく行われるようになれ

ば、茶席の準備の第一が掛け軸になり、それを書くことになるだろう。道具を選ぶこと、茶

や菓子を準備すること、点前の滞りなさに万全を期すことなど、およそ二義的なものに心を

捕らわれず、より書の持つ精神的な世界の準備に充実をみることになるだろう。およそ今上

げたような事柄は、表面的で自分の関与する度合いが小さい。茶を育て、詰むというところ

からやるとか、菓子を作るところからやるというなら話は別であるが、そういう人は少ない

だろう。茶事において料理を自らするのが本来で、これは先の事柄よりもはるかに貴い。道

具屋に行って道具を調達するよりも、八百屋に行って、或いは山や畑に行って食材を調達し、

ひと手間かけて客人を想い料理をするというのがよろしいことは万人の一致する見解だろ

う。そしてそれにも増して掛物は大切だろう。自らの手がどのようにその茶席のために動い

たのか、掃除などもそうであるが、その動いた手の量が、すなわち茶席の立派さである。美

しい部屋、主人の書、主人の料理、ぜひ伺いたい茶席である。(つづく)

                 鈴木幹久



 

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貴族にはならない ④

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執筆 : 
岳南支部 2018/7/5 9:17

 貴族にはならない ④

 

摂心では、思いがけずお茶のお点前をさせていただく機会を賜り、有難く思っている。さっ

ぱりうまくはできなかったが、恥は良い刺激となり、練習を積み重ねようという気持ちにな

った。人間禅の本にも、平点前100回だ、というような記述があった。まさにその意気で

毎朝取り組み始めた。

 

さて、茶禅一味という。茶も禅から生まれていて、目指すところは同じであると。茶道をか

じる私としてはそうあって欲しいと願うし、お軸をよくよく鑑賞し、その意味を共有する茶

会であってほしいと願いところである。興味深いことに千利休、井伊直弼などの大家が繰り

返し述べている形式主義や珍品主義への陥穽に、茶道はよくよくは陥りがちであると思う。

道具はあるもので、といいながらついつい道具茶に陥りがちなものである。大寄せ茶会がご

く一般的な茶会になっていて、本来の少人数の茶席が私的に行われる機会は少なく、余計に

道具鑑賞の場としての茶会の意味合いが強まっているのかもしれない。そもそも現在の茶

道のかたちは、当初以来のものである部分は意外と多い。正座という現代の定番の座り方も

一般的ではなかったし、現在の家元制度の歴史もそれほど古いものではない。ご婦人茶道の

歴史も同じく戦後あたりから確立したものでそれほど長い歴史を持ったものではない。逆

に、陥穽の源泉として、金持ち文化としての茶道という側面があるかとは思う。金持ち文化

としての茶道は当初以来ある程度確かなことであり、決して茶道は庶民文化に始ったもの

ではない。お茶が抹茶だけでなく、煎茶という庶民にも親しめる様式になって普及していく

のは江戸時代だから、やはりこのような過程をみても少なくとも茶道における抹茶は高尚

なものといえる。そういう金持ち文化としての茶道は禅らしからず、その点、禅は素朴でよ

ろしいと勝手に思ってきた。しかし考えてみると、人々がそれぞれに自分の仕事に精を出し

ているときに、ひたすらに座っているというのもある種の貴族性なのではないかと思えて

きた。茶禅は一味でいずれも、洗練された高尚な美的知的志向のかたちであり、貴族文化

として捉えることができるかもしれない。



個人的な感覚として日蓮のパワフルさ、俗っぽさは苦手である。しかし、ただ座って心の問

題を解決するのでなく、現実の社会と対峙し、その社会のなかで解決を模索しようという姿

勢や、その姿勢に基づく禅批判はおかしなものとは思えない。例えば人々はよく働くものの

貧しさが続く村があったときに、禅は座れと指導するだろう。物質的な豊かさは必ずしも

人々を幸福に導かないのだから、そのアプローチは間違ってはいない。しかし、日蓮ならば、

隣村との間に流れる川に橋をかけ、交易を盛んにして村を富ませようとするだろう。橋をか

けるお金がなければ、政治活動によってそれを得て、何とか実現にこじつけようとするだろ

う。禅はおよそ山にこもるし、私は山奥に位置する岳南道場が好きだ。溢れる野鳥の声、変

わりやすい天候、急な坂道。素晴らしい限りだ。しかし、作務のすべてが山中の道場に集中

しては、貴族の別荘になってしまうかもしれない。作務の一部で、周辺地域への何らかの奉

仕作業に当てる、何かを生産してそれを周辺地域に振る舞う等の社会性があってもよいか

もしれない。いかがだろうか、皆さんのご意見を賜りたい。(つづく)


                         鈴木幹久

 

 

 
 

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