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ブログ - 最新エントリー

三浦光海居士の自己紹介

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岳南支部 2018/12/10 19:35

こんにちは、三浦敏哉です。

57歳です。職場と家の往復生活をしています。

庭いじりと公園の散歩が趣味です。

3年ほど前までは、出張が多く全国を巡っていました。

これはこれでよいのかなと思っています。

平成24年、昨年より「人間禅」にて坐禅を始めました。

 総裁老師より「一日一炷香」を仰せつかり毎日45分間ぐらい

坐禅をし続けています。

唯、坐っているだけですが周りの、特に人間関係が一変しました。

 それから、いつも楽しいです。腹の底から笑いがこみあげて

くるようになりました。

病気でもないと思いますし、人にも迷惑はかけていませんし・・・

おかしな、薬にも縁がありません・・・・・

 お釈迦様の、修行の道程をなぞる坐禅を始めたばかりですが、坐る

ことが生活の一部になっています。

 こころの、なにかの襞に触れると、訳もなく大笑いしています。

「箸が転んでも笑う、中年男性です」よろしくお願いいたします。

 

好きな言葉は 「ありがとう!!」 です。

 

伊豆の国市出身、名古屋市在住。

以上

 

三浦光海居士のフェイスブックより抜粋させていただきました。

                       輝風  拝

 

 

 

 
 

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三島静坐会 10月の禅語 徳不孤

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岳南支部 2018/10/29 9:48

徳不孤(徳は孤ならず)

 『論語』の「里仁(りじん)篇」の末尾に近く、子曰、徳不孤、必有隣。 子曰く、徳

は孤ならず、必ず(となり)有り。という一句がある。「徳は孤ならず」というこの三

字一行は、これに典拠し、これを圧縮したものである。

『易経』の「文言(ぶんげん)篇」に「同声(どうせい)相応じ、同気(どうき)相求む。水は湿(しつ)に流れ、火は(そう)

()く」とあり、また『史記』の「伯夷(はくい)伝」に「同類相求む」とある。「牛は牛づ

れ、馬は馬づれ」という(ことわざ)は、この消息をわかりやすく言いかえたもので、

類をもって(あつ)まるという意味である。最近、「暴走族」とよばれる連中がどこか

らともなく集まってきて、深夜の街路にオ―トバイなどを疾駆(しっく)させ、いろいろ

問題を起こしているようであるが、とかく非行の(やから)はすぐ類をもって(あつ)まりや

すいもののようである。これに反して、心操(しんそう)高潔で謹厳篤行(とっこう)の士はとかく敬遠

されて、孤独におちいりやすいものである。世の人びとに理解されがたいもの

である。しかし、本当に徳ある人物、君子道人ならば、いつまでも理解者も

支持者もなく、孤独であるなどということはない。必ずや「同声相応じ、同気

相求む」で、同じく道を求め道を行じ、徳を積もうとしている他の君子道人

ないし理解支持者、すなわち「隣人」が現れるものである

よし孤立しても、それは一時的のことにすぎない。「徳は孤ならず、必ず隣有り」

とは、孔子が自らの体験に(かんが)みて、この消息を説いた句である。

人間というものは、世間に顧みられず、理解者もなく孤立していることには

なかなかたえがたいものである。その結果、せっかく正しい道を求め徳行(とっこう)につとめても、理解者のない孤立感から、つい世俗に妥協して、心操をけがし徳行を放擲(ほうてき)してしまいがちなものである。しかし、それでは薄志弱行(じゃっこう)の徒というものである。よろしく孔子のこの「徳は孤ならず、必ず隣有り」の述懐を信じて、一時の孤立無援にたえて、いよいよ求道心を猛烈にし徳を積むことにつとめるべきである。いささか堅苦しいようであるが、「徳不孤」の三字一行は、道人の座右の銘として、また知己(ちき)を迎えての茶席にまことにうってつけのものである。

  (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)

 

 
 

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周黄玉さんの料理教室

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岳南支部 2018/10/13 14:40

 周黄玉さんの新聞記事を見つけました。

熱海国際交流会の料理教室で、本場の中国料理を

指導されてます。9月の摂心に参加された路弘さんも

一緒です。

 水餃子とチンゲン菜の炒め物とサンラータンのスープが

美味しく出来ました。

 

合掌 至山 拝

 

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三島静坐会 講話・禅語の予定

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岳南支部 2018/10/8 18:47

三島静坐会 講話禅語の予定

 

平成30年10~12月の三島静坐会での講話、禅語の予定です。
  坐禅のあと25分くらい、下記の禅語、講話について話をします。
  古の言葉、その造詣の深さを味わってみませんか?
  その表現の根底にひそむ肚を看破するように努めましょう。
  坐ったあとで味わう禅語は、また格別の想いがあるとおもいます。
  是非一度、足をお運びくださいませ。
  時間、場所の詳細、ご予約はイベント予約からどうぞ。
 
   10月13日  禅語  「徳不孤」
   10月27日  禅語  「識羞」
   11月10日  禅語  「寂然不動」
   11月24日  禅語  「破襴衫裏盛清風」
   12月8日   摂心会のため休会 
   12月22日  禅語  「一箭中紅心」
   

                       合掌  輝風  拝
 
 
 

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熱海国際交流会の料理教室で「周黄玉」さんが講師を努めます。

料理内容は水餃子、小松菜の炒め物、スープです。

何時か、典座でお願いしたいですね。

 

合掌 至山 拝


 

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三島静坐会 学習塾生徒、母親参加

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岳南支部 2018/9/24 10:12

三島静坐会 学習塾生徒、母親参加

9月22日、三島市内にあるプログラミング学習塾の生徒3人(小3、小4)と母親で

あり、先生でもある女性1人、そして塾の経営者の下山透さん(龍谷居士)の5人を迎え、

また、小林閑徹老居士、関野円通居士、鈴木幹久居士にも参加していただき総勢12人

で静坐会を開催しました。あと、お母さん2人も同行していただいたのですが、寸前に

なって、とても出来そうにないと逃げられてしまいました。

進行は3人を中心に進めて、簡単に禅の歴史を話し、坐り方、数息観の説明をした後

15分坐りましたが、5分ぐらいからモゾモゾしはじめますね。途中で姿勢を直されな

がらも坐りきりました。その後、禅の効用と効果について子供にもわかるように簡単に

話しをしました(話しをしたつもりですが、どの程度わかってくれたか)。その後の20分

もモゾモゾしながらも坐りきってくれました。ちょっと気疲れした様子でしたが頑張り

ました。最後にお菓子を食べてお茶を飲んで散会となりました。

小学生に対しては、もっとわかりやすく興味をひく方法、話し方もあると思いますが

坐る時間等も含めてこれからの宿題になりました。

帰り際には、円通居士、龍谷居士の間でプログラミングの話しで盛り上がっていました。

 

 


 


 

                              合掌  輝風  拝

 

 

 
 

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岳南支部 第203回摂心会 円了

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執筆 : 
岳南支部 2018/9/11 20:54

岳南支部 第203回摂心会 円了

99日、無事に円了をむかえることができました。道友の皆さま、

お疲れさまでした。お世話になりました。ありがとうございました。

禅セミナーの日に撮影した写真を掲載します。

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

写真:鈴木幹久  文:鈴木輝風  拝

 

 

 
 

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三島静坐会 8月の禅語  如是

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執筆 : 
岳南支部 2018/8/27 19:09

 

如是(にょぜ)

 

「如是」とは「()くの如し」と読み、「このまま、このとおり」ということ

であるが、古来、さまざまな意味に使われている。

()『法華経』をはじめ仏教の経典をみると、その冒頭に「如是(にょぜ)我聞(がもん)――()

の如く我れ聞けり」とある。これは釈尊の入滅後、遺弟らが釈尊の教説を(けつ)(じゅう)

した時、十大弟子のなかで「多聞(たもん)第一――記憶力抜群」と称された阿難(あなん)が「釈

尊があの時、どこそこの会場で説法されましたが、それを私はこのように聴聞

しました。その説法はこうでした」といって、その説法をそのまま再現し、そ

れが基調となって結集が進行したため、「如是我聞」の四字が巻頭に出るように

なったのだといわれている。その(はら)は「釈尊の説法をそっくりそのまま、いさ

さかの私見も加えずここに再現している。経巻(きょうかん)をひもとく人は、よくこのこと

を信受して奉行(ぶぎょう)せよ」ということである。なお『(へき)巌録(がんろく)』に「世尊陞座(せそんしんぞ)」とい

う一則がある(第九十二則)。それは、

  釈尊がある時、説法をしようと講座台上に登られた。普通はその時司会

  者が「法筵(ほうえん)龍像(りゅうぞう)衆、当観(とうかん)第一義――お集まりの大徳方、(まさ)に第一義を

  はっきりつかみなされ」と宣し、それから説法が始まるのである。ところ

  が、この時に司会役をつとめていた文殊が、この語を宣せず、しかも釈尊

  がまだ一言も発せられない先に、いきなり(つち)で卓を打ちカチッと音を立て

  てみなの注意をひいておいて、「諦観(たいかん)法王の法、法王の法は如是――釈尊

  の法をはっきりと()なされ、釈尊の法はまさに是くのとおり」と、説法

  終了の文句を宣してしまった。すると、釈尊ス―ッと座を下りてしまわ

  れた。

という公案である。これは文殊が早とちりして合図をまちがえたのではない。
それなら「法王の法は如是」と宣した文殊の(はら)はどうか、それについての見解(けんげ)

をもってこいというのが、この公案の眼目である。この場合、その見解はま

あ別として、「法王の法は如是」とは、「釈尊は講座台上に立たれただけで、そ

の法をいささかも隠すことなく、()堂々(どうどう)と開示しておられるのだ。それをトッ

クリと拝め」ということであり、「如是我聞」の場合とほぼ同義である。

()五燈会元(ごとうえげん)』巻九の仰山(きょうさん)慧寂(えじゃく)(803887潙山(いざん)霊祐(れいゆう)の法を()ぎ、師に協力

して潙仰(いぎょう)宗を開いた唐代の僧)の条をみると、仰山がある僧と問答し、その僧の

見所(みどころ)をうけがって(註:肯う)、如是、如是。此れは是れ諸仏の護念する所なり。

汝も亦た如是。吾も亦た如是。善く自ら護持せよ。といったとある。このよう

に「如是」は「そのとおり、そのとおり。それでよい」と相手の所説や見所を

肯定し、これに賛同する意味に使う場合もある。
()曹洞宗の宗祖洞山(とうさん)良价(りょうかい)(807~869)の著『宝鏡(ほうきょう)三昧(ざんまい)』の冒頭に「如是の

法、仏祖密に付す。汝、今、之を得たり。宜しく善く保護すべし」とある。

これでわかるように「如是」はここにいう「如是法」とほぼ同義に使われるこ

ともある。ちなみに「如是法」とは、人間がそれを把得(はとく)しようと(いな)とに関係な

く、無限の過去から無限の未来にわたって、この自然と人生とをつらぬいて活

動し、万物を動かしている根本のもの、真如(しんにょ)、宇宙の大生命とその理法とをさ

すのであるが、この根本の当体を「如是」というのである。なお、この世に存

在するものはすべて宇宙の大生命如の発現であり、そうでないものは何一つ

ない、この世界に存在するものはすべて在るべくして在り、生ずべくして生じ

たもので、そのままで真如実相であるというのが、『法華経』の眼目である「諸

法実相」の世界観であるが、この世界観に立って一切の存在と人間の営みとを

「そのままでよい、そのまま、そのまま」と肯定する場合に「如是、如是」と

いうこともある。なおこの「如是」という語は、如是因如是果如是経

是相などと、種々の語の上に冠して用いられる、()の意味が最も重要である。

 

      (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)

              

 

碧巌録(へきがんろく):宋時代(1125年)に編集された中国の仏教書。

禅門第一の書といわれ、特に臨済宗において尊重される、代表的な

公案集。碧巌集とも呼ばれる。

奉行(ぶぎょう):上命を奉じて公事行事を執行すること。その担当者。

(しょう):官位があがる。のぼる。のぼらせる。

法筵(ほうえん、のりのむしろ):説教や法会などをする所。

諦観(たいかん):仏、明らかに真理を観察すること。

 

五燈会元(ごとうえげん):中国南宋代に成立した禅宗の灯史である(1252)

「五灯録」と総称される、5種20巻の、皇帝の勅許によって入蔵を認

められた灯史を総合する意味で編纂されたもの。

 

潙山霊祐(いざん れいゆう、771~853):中国唐代の禅僧。福建省の出身。

        禅画「潙山踢瓶(てきへい)図」の故事で有名。

 

 宝鏡三昧(ほうきょうざんまい):中国曹洞宗の開祖、洞山良价によって作成

されたとされる禅の漢詩。『宝鏡三昧歌』ともいわれる。「宝鏡」とは

   「至上の明鏡」の意味で、「明鏡」とは釈迦の智慧を指す。

 

 真如(しんにょ):仏、一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理。

 諸法実相(しょほうじっそう):一切存在のありのままの真実の姿。宇宙間の

             あらゆる事物がそのまま真実の姿であること。

             

 

 

 

                             輝風  拝

 

 
 

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岳南道場 禅体験セミナー

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岳南支部 2018/8/4 9:32

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不思議集団 ⑥

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執筆 : 
岳南支部 2018/7/7 15:18

 不思議集団 ⑥

 

摂心は面白い経験だった。座禅は体験としてはしたことがあったが、1時間も長い時間座っ

たことはなかった。参禅も面白い。参禅はどこか遠いところで行われている、縁のないもの

だと思っていた。それが体験できるとは、なんと幸運なことだろう。そしてそのような活動

をしている、人間禅とははなんと面白い集団であろうか。在家の人たちで構成されながら、

禅堂から、台所、風呂など水回りまでを完備する道場では、寝食の一切を行うことができる。

山奥に位置する岳南道場は、人里離れて、ただ山しか見えず、野鳥のさえずりしか聞こえな

い。茶室もあって茶道を行うこともできる。茶禅一味だ。食事は皆で素朴なものを少量いた

だく。朝5時に起き、座禅、参禅のほかに、道場内外の清掃を行う。人と話をすれば、道元、

栄西、達磨、芳賀、出てくる名前が面白い。いずれも私が書の中でしか出会わなかった名前

で、そのような話ができるのが楽しい。こうした大家の言ったこと、書いたことがすらすら

と口が出てくるこの人たちは不思議だ。とても難しい言葉だが、自分なりに咀嚼して理解し

ていなければ語ることができない語り口だ。ああ、面白いことだ。私はこんな風に素朴な生

活を過ごしてみたかったし、このような人たちにあってみたかった。そして、そのような生

活なできないし、そんな人たちがゾロとして集う場があるとは思わなかった。思いもかけな

い幸運である。僧侶の講話や、座禅体験の場は寺周辺にないわけではないが、これほどの空

間は他にない。寺以上のものを志向した実践であり、僧以上に求めるところ篤い人たちがそ

こに参集している。私はただ嬉しくて、夢中で座り、夢中で作務に従事した。

 

縁を辿れば、直接的には芳賀幸四郎の「一行物」である。この本の禅語解説の深さ、そして

鮮やかさに魅せられて関連書籍を求めて、岳南道場に連絡したのがきっかけである。そして

その本をくれたのは、私が通う茶道教室の大先輩であり、高校時代の書道の先生である。私

が合間の時間に書いている字を見せると面白がって、書きたい字を存分に書くのがよろし

いと言ってくれたのが、一行物である。この本のおかげで、かじってはいたもののさっぱり

分からなかった臨済が少し掴むことができた。これは嬉しい経験だった。茶禅一味とは言う

ものの、お茶から禅への拡がりが本当に体感できるとは思わなかった。芳賀先生の本を求め

て訪問して立ち寄った道場で、お借りしたのが、五灯会元である。達磨からの法系の流れが

面白く、生き生きと語られていることに感動を覚えたが、この本が摂心中の講話がベースに

なっていて、指導励ましの言が多分に盛り込まれていることに驚いた。しかも、芳賀先生

80代半ばの著作ということで、さらに驚かされた。しかし、魅力的なことにこの怪物の語

り口は、怪物のようないかめしい、近寄りがたい文体ではない。人間らしく、分かりやすい

という意味で親しみやすく、また背筋を伸ばした人の美しさのような緊張感をたずさえて

いる。一行物も五灯会元も素晴らしい著作である。

 

摂心に参加して驚いたことに、80代、90代の方が凛として参加されている。茶道でも似た

ことがあるが、こうした80代、90代の先輩が涼しげに励まれているのを、6070代が

習っているという構図には恐れ入る限りだ。6070代でまだまだなのでは、私の道のりな

どまったく気の遠くなるほど長い。そう、焦らず、看脚下、一歩ずつ歩めばいいのだ。勝手

にそう慰めている。社会生活を送っていると、こうした遠望になかなか出会えない。結果と

して近視眼的になってしまう。いい機会を得た、歩々是道場、一歩ずつ歩もうと思った次第

である。()

                    鈴木幹久

 

 

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