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ブログ - 禅語  掬水月在手 弄花香満衣

禅語  掬水月在手 弄花香満衣

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
岳南支部 2019/9/18 13:20

   掬水月在手(水を掬すれば 月手に在り)
        弄花香満衣花を弄すれば 香衣に満つ)

「水を掬すれば 月手に在り」「花を弄すれば 香衣に満つ」というこの句は、唐の于良史(うりょうし)という詩人の「春山夜月」と題する、     

春山多勝事   春山 勝事多し

賞翫夜忘帰   賞翫して 夜帰るを忘る

掬水月在手   水を掬すれば 月手に在り

弄花香満衣   花を弄すれば 香衣に満つ   

     
という詩のなかの転結の二句である。清らかで美しい句である上に、大徳寺・妙心寺派の禅の直系の祖である虚堂智愚(きどうちぐ)が、この句を禅的に解釈して提唱に使ってから禅語として愛誦され、したがって一行物としてよく揮毫されるようになった。この句の表面の意味は、私たちが日頃経験している事実そのままで、格別解釈を要しない。しかし、その裏にこめられた禅的な意味となると、人により、また時と場合とによって解釈がさまざまで、いろいろな解釈が行なわれている。その代表的な解釈四つを紹介しておこう。


蓬と金木犀


)「麻の中の蓬(よもぎ)は矯(た)めずしておのずから直し」とか、「朱に交われば赤くなる」という諺があるが、たしかにそのとおりで、人間というものはその交わる友達や環境、あるいは玩弄する物によっていつのまにか影響され、その品性が高尚にもなれば下品にもなるものである。だから、つとめて清浄で上品なものに親近し、不浄で下品なものから遠ざかるように心すべきである。

この二句はその意味を美しく表現したものである。


(二)水を両手にすくえば、高く天空に輝く月が期せずしてわが手中にあり、花を手折ればその芳香がいつのまにかわが衣にしみこむように、何事もひたすらに精進努力して退転することなければ、その妙所は自然にいつかわがものとなるものである。この二句はこの消息をさとしたものである。


(三)水を両手にすくえば、そのわずかな水にも天上の月の光り・真理の光りが影を宿しており、一茎の花を手折れば、そこにも宇宙の大生命の香りが満ちあふれている。これでわかるように、一切の存在はみな宇宙の大生命を宿し、絶対の真理・仏教のいわゆる如(にょ)の顕現でないものはない。まことに天台の教学の説くとおり、「一色・一香、中道に非ざるは無し」で、悟って眺めてみれば、仏はいつでも、どこにでも現れている。


(四)禅の最も尊ぶものは、三昧ということである。

そしてこの三昧には三つの意味があるが、その一つは主客不ニ・物我一如ということである。

見る主観と見られる客観とがニにしてニならず、我と物、心と境とが一枚になりきることである。

この二句は「水を掬すれば、掬する我と掬される水とが不ニになり、さらにいえば我がすっかり水になりきって月光をいっぱいにうつし、また花を手折れば、花これ我、我これ花と一枚になりきって、全身に芳香を放っている」という意味で、禅の重んずる主客不ニ・物我一如の境を美しく表現したものである。

以上四つの解釈はそれぞれにおもしろく、どの解釈でなければならぬということはない。時と場合とによって、その解釈を変えて使ってよく、また表面の意味で掛けてもよい。

しかし、茶室に掛ける場合には、(三)あるいは(四)の意味にとって掛け

るのが、多くの場合、筆者の心にかなうであろう。

 

          (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 下巻より)

(令和元年 三島静坐会投稿) 




 
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