ブログ - 三島静坐会 8月の禅語 如是
如是
「如是」とは「是くの如し」と読み、「このまま、このとおり」ということ
であるが、古来、さまざまな意味に使われている。
(一)『法華経』をはじめ仏教の経典をみると、その冒頭に「如是我聞――是く
の如く我れ聞けり」とある。これは釈尊の入滅後、遺弟らが釈尊の教説を結集
した時、十大弟子のなかで「多聞第一――記憶力抜群」と称された阿難が「釈
尊があの時、どこそこの会場で説法されましたが、それを私はこのように聴聞
しました。その説法はこうでした」といって、その説法をそのまま再現し、そ
れが基調となって結集が進行したため、「如是我聞」の四字が巻頭に出るように
なったのだといわれている。その肚は「釈尊の説法をそっくりそのまま、いさ
さかの私見も加えずここに再現している。経巻をひもとく人は、よくこのこと
を信受して奉行せよ」ということである。なお『碧巌録』に「世尊陞座」とい
う一則がある(第九十二則)。それは、
釈尊がある時、説法をしようと講座台上に登られた。普通はその時司会
者が「法筵の龍像衆、当観第一義――お集まりの大徳方、当に第一義を
はっきりつかみなされ」と宣し、それから説法が始まるのである。ところ
が、この時に司会役をつとめていた文殊が、この語を宣せず、しかも釈尊
がまだ一言も発せられない先に、いきなり槌で卓を打ちカチッと音を立て
てみなの注意をひいておいて、「諦観法王の法、法王の法は如是――釈尊
の法をはっきりと観なされ、釈尊の法はまさに是くのとおり」と、説法
終了の文句を宣してしまった。すると、釈尊ス―ッと座を下りてしまわ
れた。
という公案である。これは文殊が早とちりして合図をまちがえたのではない。
それなら「法王の法は如是」と宣した文殊の肚はどうか、それについての見解
をもってこいというのが、この公案の眼目である。この場合、その見解はま
あ別として、「法王の法は如是」とは、「釈尊は講座台上に立たれただけで、そ
の法をいささかも隠すことなく、露堂々と開示しておられるのだ。それをトッ
クリと拝め」ということであり、「如是我聞」の場合とほぼ同義である。
(二)『五燈会元』巻九の仰山慧寂(803-887、潙山霊祐の法を嗣ぎ、師に協力
して潙仰宗を開いた唐代の僧)の条をみると、仰山がある僧と問答し、その僧の
見所をうけがって(註:肯う)、如是、如是。此れは是れ諸仏の護念する所なり。
汝も亦た如是。吾も亦た如是。善く自ら護持せよ。といったとある。このよう
に「如是」は「そのとおり、そのとおり。それでよい」と相手の所説や見所を
肯定し、これに賛同する意味に使う場合もある。
(三)曹洞宗の宗祖洞山良价(807~869)の著『宝鏡三昧』の冒頭に「如是の
法、仏祖密に付す。汝、今、之を得たり。宜しく善く保護すべし」とある。
これでわかるように「如是」はここにいう「如是法」とほぼ同義に使われるこ
ともある。ちなみに「如是法」とは、人間がそれを把得しようと否とに関係な
く、無限の過去から無限の未来にわたって、この自然と人生とをつらぬいて活
動し、万物を動かしている根本のもの、真如、宇宙の大生命とその理法とをさ
すのであるが、この根本の当体を「如是」というのである。なお、この世に存
在するものはすべて宇宙の大生命・如の発現であり、そうでないものは何一つ
ない、この世界に存在するものはすべて在るべくして在り、生ずべくして生じ
たもので、そのままで真如実相であるというのが、『法華経』の眼目である「諸
法実相」の世界観であるが、この世界観に立って一切の存在と人間の営みとを
「そのままでよい、そのまま、そのまま」と肯定する場合に「如是、如是」と
いうこともある。なおこの「如是」という語は、如是因・如是果・如是経・如
是相などと、種々の語の上に冠して用いられる、(三)の意味が最も重要である。
(芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)
碧巌録(へきがんろく):宋時代(1125年)に編集された中国の仏教書。
禅門第一の書といわれ、特に臨済宗において尊重される、代表的な
公案集。碧巌集とも呼ばれる。
奉行(ぶぎょう):上命を奉じて公事・行事を執行すること。その担当者。
陞(しょう):官位があがる。のぼる。のぼらせる。
法筵(ほうえん、のりのむしろ):説教や法会などをする所。
諦観(たいかん):仏、明らかに真理を観察すること。
五燈会元(ごとうえげん):中国南宋代に成立した禅宗の灯史である(1252)。
「五灯録」と総称される、5種20巻の、皇帝の勅許によって入蔵を認
められた灯史を総合する意味で編纂されたもの。
潙山霊祐(いざん れいゆう、771~853):中国唐代の禅僧。福建省の出身。
禅画「潙山踢瓶(てきへい)図」の故事で有名。
宝鏡三昧(ほうきょうざんまい):中国曹洞宗の開祖、洞山良价によって作成
されたとされる禅の漢詩。『宝鏡三昧歌』ともいわれる。「宝鏡」とは
「至上の明鏡」の意味で、「明鏡」とは釈迦の智慧を指す。
真如(しんにょ):仏、一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理。
諸法実相(しょほうじっそう):一切存在のありのままの真実の姿。宇宙間の
あらゆる事物がそのまま真実の姿であること。
輝風 拝