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ブログ - 字は偉いのか ⑤

字は偉いのか ⑤

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
岳南支部 2018/7/7 10:41

 字は偉いのか ⑤

 

茶道では、掛物、つまり掛け軸に頭を下げる文化がある。書いた偉い人とその言葉に頭を下

げるということである。なかなか日本的でよい?そうだろうか。およそ茶席では書いた人が

どのような人なのか、またその言葉がどのような意味なのか、深く掘り下げるような話をす

ることはあまりないし、およそそのことが十分に理解できているとも思えない。さらに掛け

軸の書には、字の巧拙よりも誰が書いたかが重要という文化がある。上手な書道の先生より

も、名寺の管長の字を有難がるということである。私は、言葉の意味を理解しているのかも

怪しい僧侶の、特に心のこもっている様子もない書がありがたいとは思わない。上手な字、

 

しかも何度も書いて書き上げた渾身の一筆の方が有難いと思う。いい加減な字で、字の大小

がバラバラだったり、中心がずれていたり、大きさのバランスが悪かったり、書き直せばよ

いのにと思うことがある。これを珍重する、大枚を叩いて入手するとは不思議な文化だ。特

に書き直しもしない、走り書きの一筆のバランスの悪いものを、味だとか風情だとか言って

有難がるのは、酔狂に思える。酔狂どころか狂気である。そのものに対する美しさを感じる

感性が異常をきたしてしまっている。書き手の精神を掴む素直な感性が欠如してしまって

いる。何やら偉そうな人を貴ぶという、間違った社会的感性に支配されてしまっている。




私は、茶席の軸は、主人が自分で書くのがよいと思っている。主人は自分で書くからその意

味をよく知ろうとするし、その意味を客人と共有しようとするだろう。客人も主人自ら書い

た字の意味をしろうとするし、そのひと手間を有難く思うことだろう。別に客人はそれに頭

を下げる必要はない。茶道具のなかで軸は最も重視するのは、小堀遠州をはじめほとんどの

識者の共通認識であるし、それはよいことだと思う。字を書いて、それに親しむというのは

なかなか面白い習俗ではないだろうか。イスラム圏ではカリグラフィー、すなわち文字を美

術的に表装する建築や美術品の様式があるが、茶道における書はすこし形は違うが、素晴ら

しい文化である。しかしそれが、つまらない価値観に支配され、その貴い文化を堕落させて

しまっては残念この上ない。何代目の某氏が書いた物だから有難い、高かった、意味はよく

知りませんが、というのでは困る。何十万も何百万も払って掛けるお軸が本当に素晴らしい

のだろうか。主人の一筆に期待したい。もちろん美術品としてその価値があるものもあるだ

ろうが、精神文化を経済化し、私的親交の場でそれを飾ってどうするものだろうか。それよ

りも半日かけて、語り合いたい、もしくは共有したい禅語を主人に全力で書いてもらえたら

、これは素晴らしいことだろう。私は頭を深く下げることだろう。軸を基点に、茶席の世界

はもっともっと深くできると思っている。他の茶道具は、おいそれと作ることはできないし、

専門家が作ったものを調達すればよいし、持っているものがすでにあればそれを使えばよ

い。親にもらった、友達にもらった、百均で買った、何でもよいではないか。いずれも面白

い因縁であるし、作や銘などの一般的な文脈よりも、主人独自の文脈に興味がある。そして

そのことが尊いと思う。書は他の道具と比べれば、表装はさておき簡単に作ることができる。

そう、そもそも書は道具ではないのかもしれない。使うものではないから。字の巧拙を言う

人もあるかもしれないが、そんなことよりと、私は思う。ならば書きたい字を上手な人に、

書道の先生に頼むのもよいだろう。しかし、客人がまともな人であれば、主人が何度も失敗

して書いた、しかしながら巧くない字に真のもてなしを感じ、その字の意味を楽しみ、主客

の心の交流に喜びを感じ感謝するだろう。もしそのようなことがよく行われるようになれ

ば、茶席の準備の第一が掛け軸になり、それを書くことになるだろう。道具を選ぶこと、茶

や菓子を準備すること、点前の滞りなさに万全を期すことなど、およそ二義的なものに心を

捕らわれず、より書の持つ精神的な世界の準備に充実をみることになるだろう。およそ今上

げたような事柄は、表面的で自分の関与する度合いが小さい。茶を育て、詰むというところ

からやるとか、菓子を作るところからやるというなら話は別であるが、そういう人は少ない

だろう。茶事において料理を自らするのが本来で、これは先の事柄よりもはるかに貴い。道

具屋に行って道具を調達するよりも、八百屋に行って、或いは山や畑に行って食材を調達し、

ひと手間かけて客人を想い料理をするというのがよろしいことは万人の一致する見解だろ

う。そしてそれにも増して掛物は大切だろう。自らの手がどのようにその茶席のために動い

たのか、掃除などもそうであるが、その動いた手の量が、すなわち茶席の立派さである。美

しい部屋、主人の書、主人の料理、ぜひ伺いたい茶席である。(つづく)

                 鈴木幹久



 

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