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ブログ - 貴族にはならない ④

貴族にはならない ④

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
岳南支部 2018/7/5 9:17

 貴族にはならない ④

 

摂心では、思いがけずお茶のお点前をさせていただく機会を賜り、有難く思っている。さっ

ぱりうまくはできなかったが、恥は良い刺激となり、練習を積み重ねようという気持ちにな

った。人間禅の本にも、平点前100回だ、というような記述があった。まさにその意気で

毎朝取り組み始めた。

 

さて、茶禅一味という。茶も禅から生まれていて、目指すところは同じであると。茶道をか

じる私としてはそうあって欲しいと願うし、お軸をよくよく鑑賞し、その意味を共有する茶

会であってほしいと願いところである。興味深いことに千利休、井伊直弼などの大家が繰り

返し述べている形式主義や珍品主義への陥穽に、茶道はよくよくは陥りがちであると思う。

道具はあるもので、といいながらついつい道具茶に陥りがちなものである。大寄せ茶会がご

く一般的な茶会になっていて、本来の少人数の茶席が私的に行われる機会は少なく、余計に

道具鑑賞の場としての茶会の意味合いが強まっているのかもしれない。そもそも現在の茶

道のかたちは、当初以来のものである部分は意外と多い。正座という現代の定番の座り方も

一般的ではなかったし、現在の家元制度の歴史もそれほど古いものではない。ご婦人茶道の

歴史も同じく戦後あたりから確立したものでそれほど長い歴史を持ったものではない。逆

に、陥穽の源泉として、金持ち文化としての茶道という側面があるかとは思う。金持ち文化

としての茶道は当初以来ある程度確かなことであり、決して茶道は庶民文化に始ったもの

ではない。お茶が抹茶だけでなく、煎茶という庶民にも親しめる様式になって普及していく

のは江戸時代だから、やはりこのような過程をみても少なくとも茶道における抹茶は高尚

なものといえる。そういう金持ち文化としての茶道は禅らしからず、その点、禅は素朴でよ

ろしいと勝手に思ってきた。しかし考えてみると、人々がそれぞれに自分の仕事に精を出し

ているときに、ひたすらに座っているというのもある種の貴族性なのではないかと思えて

きた。茶禅は一味でいずれも、洗練された高尚な美的知的志向のかたちであり、貴族文化

として捉えることができるかもしれない。



個人的な感覚として日蓮のパワフルさ、俗っぽさは苦手である。しかし、ただ座って心の問

題を解決するのでなく、現実の社会と対峙し、その社会のなかで解決を模索しようという姿

勢や、その姿勢に基づく禅批判はおかしなものとは思えない。例えば人々はよく働くものの

貧しさが続く村があったときに、禅は座れと指導するだろう。物質的な豊かさは必ずしも

人々を幸福に導かないのだから、そのアプローチは間違ってはいない。しかし、日蓮ならば、

隣村との間に流れる川に橋をかけ、交易を盛んにして村を富ませようとするだろう。橋をか

けるお金がなければ、政治活動によってそれを得て、何とか実現にこじつけようとするだろ

う。禅はおよそ山にこもるし、私は山奥に位置する岳南道場が好きだ。溢れる野鳥の声、変

わりやすい天候、急な坂道。素晴らしい限りだ。しかし、作務のすべてが山中の道場に集中

しては、貴族の別荘になってしまうかもしれない。作務の一部で、周辺地域への何らかの奉

仕作業に当てる、何かを生産してそれを周辺地域に振る舞う等の社会性があってもよいか

もしれない。いかがだろうか、皆さんのご意見を賜りたい。(つづく)


                         鈴木幹久

 

 

 
 

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