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ブログ - 最新エントリー

第205回摂心会 写真

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岳南支部 2019/3/14 13:57

 

  岳南支部 第205回摂心会 風景写真
摂心中の風景写真です。撮影は三浦光海居士です。

 



 



 



 



 



 



藏六庵老師様ご持参の「蝋梅」を2本植えました。 


                         合掌 輝風 拝
 

 

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第205回摂心会 円了

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岳南支部 2019/3/12 11:24
  岳南支部 第205回摂心会 円了
藏六庵廣内常明老師様の岳南支部での最後の摂心会の円了を3月9日に
無事に迎えることができました。長い間のご指導、本当にありがとう
ございました。最近は、季節の変動自然災害等が厳しくなっております。
お体をどうか大切にしていただきたく念じております。また、いつの日か
お会いできることを楽しみに、会員一同、精進を重ねて参ります。
本当にありがとうございました。
                         合掌 輝風  九拝

 


 


 

                          撮影 鈴木幹久居

 

 
 

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烟霞不遮梅(烟霞(えんか) 梅香(ばいこう)(さえぎ)らず)

 

  梅花を愛したことで有名な宋代の隠士(りん)和靖(かせい)の『(さん)(えん)小梅(しょうばい)詩』に

疎影(そえい)横斜(おうしゃ)(みず)清浅(せいせん)暗香(あんこう)浮動(ふどう)(つき)黄昏(こうこん)」という二句があり、梅花の詩として

古来人びとに愛誦されている。「梅のまばらな枝が、清らかで浅い水に斜めに

影をおとしている。フト見上げると黄昏(たそがれ)の空に淡く月が上り、ほのかに梅の花

の香りがただよっている」というほどの意味である。また『古今和歌集』の春

の部に、「春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそみえね()やはかくるる」とい

う、これまた名高い一首がある。どちらも、すがたは見えないがその馥郁(ふくいく)たる

香りによって、梅の花の咲いていることがわかる、という詩意である。この

「烟霞不遮梅香――烟霞(えんか) 梅香(ばいこう)(さえぎ)らず」という六字一句も同巧(どうこう)異曲(いきょく)である。

早春の野原に淡く霞がかかっている。凛冽(りんれつ)たる寒気にたえて梅の花がようやく咲き始めたが、その花は霞のためにみえない。しかしその馥郁とした香りは、霞にさえぎられることなくただよってきて、「ああ、梅の花が咲いているな」とわかるというのが、この句の一通りの意味である。早春の茶席にまことにふさわしい一軸である。しかし、この句の背後には、もっと深い意味がこめられている。

その背後の意味とはほかでもない。「君子道人の徳の香りというものは、本人が包み隠していても、いつか周辺に及び、その名声は宣伝などしなくても遠くまでひろがるものだ」ということである。現代はいわゆるPRの時代で、自分を少しでも大きくみせよう、名前を売ろうと狂奔している人びとが多い。現代においてはそれも必要かもしれないが、しかしそれよりは自らの内実を豊かにし徳を積むことにつとめるのが、まことの禅者茶人のあり方というものであり、奥ゆかしいわびの真義にかなう生き方というものである。

 

      (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 下巻より)

 

『禅林句集』(柴山全慶編):心の通ずる處遮る物なし。梅の香は霞を透って匂う。

林和靖:林逋(りんぽ、9671028)、浙江省杭州のひと。北宋初期の代表的な隠逸詩人。生涯独身で過ごし、梅と鶴を伴侶とする生活を送り、当時の人々はこれを「梅妻鶴子」と称した。没後に仁宗が和靖という諡をおくる。

   山園小梅      山園(さんえん)小梅(しょうばい)    林和靖

  衆芳揺落独喧妍   衆芳(しゅうほう) 揺落(ようらく)して (ひと)暄妍(けんけん)たり

  占尽風情向小園   小園にて 風情(ふぜい)を 占め尽くす

  疎影横斜水清浅   疎影(そえい) 横斜(おうしゃ)して 水 清浅(せいせん)    *

  暗香浮動月黄昏   暗香(あんこう) 浮動(ふどう)して 月 黄昏(こうこん)    *

  霜禽欲下先偸眼   霜禽(そうきん) (くだ)らんと欲して ()ず 眼を(ぬす)

  粉蝶如知合断魂   粉蝶(ふんちょう) ()し知らば (まさ)に 魂を断つべし

  幸有微吟可相狎   (さいわい) 微吟(びぎん)の相い()るべき有り

  不須檀板共金樽   (もち)いず 檀板(だんばん)(きん)(そん)とを

 

  いろいろな花が散ってしまった後で、梅だけがあでやかに咲き誇り、

  ささやかな庭の風情を独り占めしている。

  咲き初めて葉もまばらな枝の影を、清く浅い水の上に横に斜めに落とし、

  月もおぼろな黄昏時になると、香りがどことも知れず、ほのかにただよう。

  霜夜の小鳥が降り立とうとして、まずそっと流し目を向ける。

  白い蝶がもしこの花のことを知れば、きっと魂を奪われてうっとりするに

      違いない。

  幸いに、私の小声の詩吟を梅はかねがね好いてくれているから、

  いまさら歌舞音曲も宴会もいりはしない。

  「衆芳」:百花をさす。 「暄妍」:あたたかくうつくしい。梅の花をさす。

  「暗香」:どこからともなく漂ってくる香り。 「霜禽」:白い鳥。白鶴。

  「粉蝶」:白い蝶。 「微吟」:小声で詩句を吟誦する。

  「相狎」:たがいに慣れ親しむ。 「壇板」:栴檀の木で作り歌の調子を

   とる板。 「金樽」:黄金の酒樽。りっぱな酒樽。

                     合掌 輝風
 

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三島静坐会 一月の禅語 松柏千年翠

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岳南支部 2019/1/31 19:10

松柏千年翠 (松柏(しょうはく)千年(せんねん)(みどり))

 「松柏千年翠」というこの五字一行は、一般にはいつか「松樹千年翠」と変

り、「青松寿色(じゅしょく)多」という句などと同じように、おめでたい句として茶席に使

われているようである。しかしその出典に即して、全体の文章から解釈すると、

この句の本来の意味は、世間一般の解釈とはだいぶちがうようである。

南宋の末の頃に出て、破庵(はあん)祖先(そせん)(11361211)の法を()ぎ、五山第四の浄慈(じんず)

第二の霊隠(りんにん)等の諸大寺に住し、無準(ぶじゅん)師範(しばん)(11781249)らとともに当時の禅界に大

きな足跡をのこした禅僧に石田(せきでん)法薫(ほうくん)(11711245)という和尚がある。この「松柏 

千年の翠」という句は、実はこの石田の示衆(じしゅう)の法語から出ているのである。

およそ物事には本末先後の別があり、その別をわきまえて明白なのを賢

といい、その別を顚倒(てんとう)するのを愚といい迷というのである。石田はこの見地か

ら弟子たちに向かって、ある日「()だ本を得て、末を(うれ)えること(なか)れ」、すなわ

ち「根本第一義を体得することにつとめよ、枝葉末節のことにとらわれるな、

思いを労することなかれ」と注意しておいて、さてそれにしても「何を()んで

か本となし、何を喚んでか末となすや」と問いを発した。しかし、誰もこれに

答える者がなかったので、石田(せきでん)和尚、それでは「わしの見所を示そう」というので、(じゃくご)の体裁で唱え出したのが、

松柏千年青    松柏(しょうはく) 千年の青

不入時人意    時の人の()()らず

牡丹一日紅    牡丹(ぼたん) 一日(いちじつ)(くれない) 

満城公子酔    満城(まんじょう)公子(こうし)酔う

という()である。松柏の「柏」は落葉濶葉樹(らくようかつようじゅ)のあの「カシワ」のことではなく、

趙州(じょうしゅう)従諗(じゅうしん)(778897)の名高い公案「庭前の柏樹子(はくじゅす)」の柏樹と同じく、常緑針

葉樹の槇柏(しんぱく)のことである。そしてその「千年の()」が、「千年の()」と改められ

たのであるが、意味において変りはなく、この()の大意は、

「松柏の(みさお)」などともたたえられる松や槇柏のあの常住不断の翠色をめ

で、パッとしないがその不易(ふえき)な美を理解する人は、近年まことに少ない。

これに反して、牡丹が豪華絢襴な花を開くと、それがたちまちにうつろう

一時の美であるにもかかわらず、満都の貴公子たちがその美に魅せられて

大はしゃぎをする。

というほどのことである。そして石田はこの偈に託して、

世の人びとは、千古(せんこ)不易(ふえき)な本体には意をとどめず、たちまちに流転変化し

 しまう現象にだけ心を奪われ、うつつをぬかしている。末ばかり追って本を

忘れている。それはあたかも牡丹の花の感覚的な美に心を奪われ、松柏の不

易な美に無関心なのと似ている。

ということを警告しているのである。「松柏 千年の翠」の本来の意味がどのよ

うなものか、以上でほぼおわかりいただけたことと思う。

この「松柏 千年の翠」の軸を、おめでたい意味にとって、年頭の茶会

暦や古稀(こき)祝賀の茶会などの床に掛けることは、むろん結構な趣向である。しかしその場合でも、単にそれだけにとどめず、その本来の意味を理解して掛けたら、さらに一段と結構であろう。願わくば、この五字一行から、根本をないがしろにして枝葉末節にはしり、永劫不易な真理を求めようとせず、ただいたずらに感覚的表面的な現象を追いかけて浮かれている現代の世相と人心の動向とに対する警告を、読みとっていただきたいものである。ことにお茶人の方がたは、近頃の茶の世界の傾向――茶道の根本第一義であるわび(・・)の精神を忘れ、とかく浮華(ふか)軽薄に流れがちな傾向に対する警告をそこから読みとり、自らの反省の材料としていただきたいものである。いささか堅苦しいようであるが、こういう心がまえで掛物に対してこそ、茶席に掛物とりわけ禅語の掛物を掛ける真旨にかなうものというべきである。

 

   (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)

 

 

  『禅林句集』(柴山全慶編):【松樹千年翠 不入時人意】

松樹不断の眞説法も心を向けぬ者には聞えぬ。

  示衆(じしゅう):聴衆(大衆)にほとけの有り様を説法して教える。

  頌(じゅ):偈():偈頌(げじゅ):仏徳を賛嘆し教理を述べたもの。

また、それに準じて、仏教の真理を詩の形で述べたもの。

  着語、著語(じゃくご):禅宗で、公案などに対して、自己の見解を加えて

            下す短い批評の言葉や禅語。下語(あぎょ)

  槇柏(しんぱく):ヒノキ科の常緑針葉高木。イブキの別称。庭木、公園木、

         グランドカバーによく使われる。

  浮華(ふか):うわついていて、外面だけ華やかで実質のないこと。

 

                      合掌  輝風  拝

 
 

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三島静坐会 講話・禅語の予定

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岳南支部 2019/1/4 10:20

三島静坐会 講話 禅語の予定

 

あけましておめでとうございます

   本年もよろしくお願いいたします

 

平成31年1~4月の三島静坐会での講話、禅語の予定です。
  坐禅のあと25分くらい、下記の禅語、講話について話をします。
  古の言葉、その造詣の深さを味わってみませんか?
  その表現の根底にひそむ肚を看破するように努めましょう。
  坐ったあとで味わう禅語は、また格別の想いがあるとおもいます。
  是非一度、足をお運びくださいませ。
  時間、場所の詳細、ご予約はイベント予約からどうぞ。
 
   1月12日  禅語  「松柏千年翠」
   1月26日  禅語  「慶雲生五彩」「彩鳳舞丹霄」()
   2月9日   禅語  「烟霞不遮梅香」
   2月23日  禅語  「忘筌」
   3月9日   摂心会のため休会 
   3月23日  禅語  「鳶飛戻天魚躍于淵」
   4月13日  禅語  「紅炉上一点雪」
   4月27日  禅語  「夢」
 
  ()1月26日は、鈴木幹久居士のお点前によるお茶会を
    予定しています。皆さま、御参集のほどよろしく
    お願いいたします。
   

                         合掌 輝風 拝

 

 

 
 

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三島静坐会 12月の禅語 一箭中紅心

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岳南支部 2018/12/23 19:16

一箭中紅心(一箭(いっせん) 紅心(こうしん)(あた))

 

 「一箭 紅心に(あた)る」とは、たった一矢(ひとや)で的の中心を射抜くということで、

源平の屋島の戦いで、那須(なすの)与市(よいち)宗高(むねたか)が平家方のくりだした船上の扇の的を、

たった一矢で見事に射落としたという話を思い出させる句である。この句の

解説はこれでもう十分なのであるが、いささか駄弁を添えておこう。

 およそ物事には第一義のこと肝心(かんじん)(かなめ)なことと、第二義第三義、枝葉末

節のこととがある。人生に処して事業をなす上で大事なことは、物事の本末

先後をあきらめ、肝心なことと枝葉のこととを誤りなく判別し、その肝心要な

ところをぐっと押えて、あたかも「一箭 紅心に中る」というように、ズカリ

(らち)をあけてしまうことである。しかしそのためには、物事の本末先後を判

別して誤らない道眼(どうがん)と、一心不乱で解決に打ちこむ道力(どうりき)とが必要である。とこ

ろで、この道眼を磨き道力をやしなうのに最も適した道は、我田引水(がでんいんすい)のようで

あるが、私の体験に照らして、禅の修行にまさるものはない。「一箭中紅心」

というように人生の第一義を押え、それに即して生きたいと願うなら、嗣法の

正しい本格の師家について禅の修行にはげみ、道眼を磨き道力をやしなって退

転しないことである。なお、ここで「一箭」との関連で思い出され、ぜひ紹介

しておきたいのは、

徒然草(つれづれぐさ)』の第九十二段の、

或人、弓射る事を習ふに、双矢(もろや)をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心

の人、ふたつの矢を持つことなかれ。(のち)の矢をたのみて、初めの矢に等閑(なおざり)

の心あり。毎度ただ得失なく、此の一矢(ひとや)に定むべしと思へ」といふ。わづ

かに二つの矢、師の前にて、ひとつをおろそかにせんと思はんや。懈怠(けたい)

心、みづから知らずといへども、師是を知る。此のいましめ、万事にわた

るべし。道を学する人、(ゆうべ)には(あした)あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を

思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。(いは)んや、一刹那のうちにお

いて、懈怠の心有ることを知らんや。なんぞ唯今の一念において、直ちに

する事の(はなは)(かた)き。

という一文である。私たちの人生はあとにも先きにも、ただこの一回、この一

箭限りである。来世の存在、いや明日のあることさえ期待することなく、今日

の一日、ただ今のこの一刹那を、第一義底の実行に集注して、力いっぱい生き

たいものである。

 

 (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)

 

 

  那須与一(なすのよいち、生没年未詳):平安時代末期鎌倉初期の武将。

下野那須(今の栃木県)の人。名は宗高。源平の屋島の戦い(1185)

で平家方の小舟に立てた扇の的を射落として名をあげた話し

で知られる。

  箭(せん):や。やがら。「光陰如箭 時不待人」

  埒(らち):馬場のかこいの低い垣。転じて、物事のくぎり。限界。

      (埒が明かない:物事のきまりがつかない)

 『徒然草』(つれづれぐさ):鎌倉時代の随筆。作者は吉田兼好(兼好法師)

     「つれづれなるままに」と筆を起こす序段のほか、種々の思索的

     随想や見聞など243段より成る。名文の誉れ高く、

     『枕草子』(清少納言)、『方丈記』(鴨長明)と合わせて

     日本三大随筆の一つと評価されている。

 

                          輝風 拝

 

 

 

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岳南支部 第204回摂心会 円了 第2段

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執筆 : 
岳南支部 2018/12/15 23:06

岳南支部 第204回摂心会も無事、円了を

むかえることができました。                         

三浦光海居士の撮影による写真、第2段を掲載します。

 

皆様の作務の風景です。

岳南ゆかりの丸太

ふるさとの薫りを名古屋に持ち帰りました。

我が庭に「ストン」と収まり存在感を示して居ります。

期間中、皆さまには大変お世話になりました。ありがとう御座いました。

                      岳南支部 三浦光海 合掌

 


 


 

 


 


 


 


 


 


 

以上

 

 

 

 
 

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岳南支部 第204回摂心会 円了

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執筆 : 
岳南支部 2018/12/14 11:02

岳南支部 第204回摂心会も無事、円了を

むかえることができました。

三浦光海居士の撮影による写真を掲載します。


 

 


 


 


 

 

三浦光海居士のフェイスブックより抜粋させていただきました。

                               合掌 輝風 拝

 

 

 

 
 

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三浦光海居士の自己紹介

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執筆 : 
岳南支部 2018/12/10 19:35

こんにちは、三浦敏哉です。

57歳です。職場と家の往復生活をしています。

庭いじりと公園の散歩が趣味です。

3年ほど前までは、出張が多く全国を巡っていました。

これはこれでよいのかなと思っています。

平成24年、昨年より「人間禅」にて坐禅を始めました。

 総裁老師より「一日一炷香」を仰せつかり毎日45分間ぐらい

坐禅をし続けています。

唯、坐っているだけですが周りの、特に人間関係が一変しました。

 それから、いつも楽しいです。腹の底から笑いがこみあげて

くるようになりました。

病気でもないと思いますし、人にも迷惑はかけていませんし・・・

おかしな、薬にも縁がありません・・・・・

 お釈迦様の、修行の道程をなぞる坐禅を始めたばかりですが、坐る

ことが生活の一部になっています。

 こころの、なにかの襞に触れると、訳もなく大笑いしています。

「箸が転んでも笑う、中年男性です」よろしくお願いいたします。

 

好きな言葉は 「ありがとう!!」 です。

 

伊豆の国市出身、名古屋市在住。

以上

 

三浦光海居士のフェイスブックより抜粋させていただきました。

                       輝風  拝

 

 

 

 
 

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三島静坐会 10月の禅語 徳不孤

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執筆 : 
岳南支部 2018/10/29 9:48

徳不孤(徳は孤ならず)

 『論語』の「里仁(りじん)篇」の末尾に近く、子曰、徳不孤、必有隣。 子曰く、徳

は孤ならず、必ず(となり)有り。という一句がある。「徳は孤ならず」というこの三

字一行は、これに典拠し、これを圧縮したものである。

『易経』の「文言(ぶんげん)篇」に「同声(どうせい)相応じ、同気(どうき)相求む。水は湿(しつ)に流れ、火は(そう)

()く」とあり、また『史記』の「伯夷(はくい)伝」に「同類相求む」とある。「牛は牛づ

れ、馬は馬づれ」という(ことわざ)は、この消息をわかりやすく言いかえたもので、

類をもって(あつ)まるという意味である。最近、「暴走族」とよばれる連中がどこか

らともなく集まってきて、深夜の街路にオ―トバイなどを疾駆(しっく)させ、いろいろ

問題を起こしているようであるが、とかく非行の(やから)はすぐ類をもって(あつ)まりや

すいもののようである。これに反して、心操(しんそう)高潔で謹厳篤行(とっこう)の士はとかく敬遠

されて、孤独におちいりやすいものである。世の人びとに理解されがたいもの

である。しかし、本当に徳ある人物、君子道人ならば、いつまでも理解者も

支持者もなく、孤独であるなどということはない。必ずや「同声相応じ、同気

相求む」で、同じく道を求め道を行じ、徳を積もうとしている他の君子道人

ないし理解支持者、すなわち「隣人」が現れるものである

よし孤立しても、それは一時的のことにすぎない。「徳は孤ならず、必ず隣有り」

とは、孔子が自らの体験に(かんが)みて、この消息を説いた句である。

人間というものは、世間に顧みられず、理解者もなく孤立していることには

なかなかたえがたいものである。その結果、せっかく正しい道を求め徳行(とっこう)につとめても、理解者のない孤立感から、つい世俗に妥協して、心操をけがし徳行を放擲(ほうてき)してしまいがちなものである。しかし、それでは薄志弱行(じゃっこう)の徒というものである。よろしく孔子のこの「徳は孤ならず、必ず隣有り」の述懐を信じて、一時の孤立無援にたえて、いよいよ求道心を猛烈にし徳を積むことにつとめるべきである。いささか堅苦しいようであるが、「徳不孤」の三字一行は、道人の座右の銘として、また知己(ちき)を迎えての茶席にまことにうってつけのものである。

  (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)

 

 
 

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