坐禅の効用・坐禅の仕方

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禅の修行の実際的な効果を一口にわかり易くいうならば、それは、自分の心を自分で自由自在に使い得る事にあると言えましょう。 こう申すと、すこぶる簡単のように思われますが、実際は、これが一番むずかしいことです。
 
たとえば、何かやろうと決心したとします。 自分で自分の心を決したのですから、何事もそのとおりにやれそうなものですが、実際は、決してそんな容易なものではありません。また、こういうことはやめようと決心したのなら、これも、自分で自分の心に言い聞かせたのだから、すぐにでも止められそうなものですが、どうしてどうして、なかなか思うように止められるものではありません。

もし、自分の心が自分の思うように使いこなせるならば、「われ言うが如く行ない、行なうが如く言う」と顔を真直ぐに挙げて断言もできましょう、「己の欲せざるところ、他にほどこすなし」と誰にはばかることなく言い切れましょう。

そして、それが実行できたなら、それはもう聖人、仏陀の境涯であるとさえ言えます。
「嘘をついては いけない」、「ひとに迷惑をかけては いけない」は、人間形成の初一歩です。しかるに、これだけのことでも、家庭内の躾として社会人の教養として、身につけるのは、容易なことではありません。そこで、われわれは、まず自分の心を自由に使うということを修行の第一の目標としております


 

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  ◆心とはいかなるものか
さて、自分の心を自由に使いこなそうとするならば、まず、心とはどんなものであるか見極めねばなりますまい。これは自明の理です。自分の心を把握もしないで、自分の心を自由に駆使しょうとするのは、ちょうど、馬なくして馬を自由に駆使しようとするのと同様で、これはもとよりできない相談です。 
しかるに、世の中には、心を修めるとか、心を浄めるとか、心を磨くとか、心を安んずるとか言いながら、案外、この自明の理を忘れている者が多いのではないでしょうか。馬なくして、調御の術を説明するとか、馬の特性を研究するとかも、準備としては結構でしょうが、いささか本末顛倒の嫌いなきにしもあらずです。要は、まず馬を手に入れることでしょう。

心の修養を唱え、心の安心を説く前に、まず心をつかまえるのが先決問題ではないでしょうか。まして況や、心を自由に使うという段になれば、ぜひともその心をしっかり把握せねばなりますまい。

ところが、心とはいかなるものか、と尋ねてみると、自分の心でありながら、さてとなると、なかなか掴めないものです。「心とはいかなるものとひと問はば、墨絵にかきし松風の音」。有るといえば有るような、無いと言えば無いような。「移りゆく初めも果てもしら雲の、あやしきものは心なりけり」。

「之をとる時は存し、之をおく時は亡ず。出入時なし。これ心の謂(いい)いか」どうも心というものは厄介な代物です。
しかし、それは、心を相対的に把握しょうとするからの話で、やりようによっては、そんなに困難なことではありません。
 


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 ◆心を把握するには
それでは、どうしたら心を把握することができましょうか。禅ではそれを、悟りを開くとか、道眼(どうげん)を開くとか、見性(けんしょう)するとか申しております。その実際のやり方は、一応、実参(じっさん)実証(じっしょう)のところで触れたのですが、見性は、禅の修行の初めであり、かつ終りであるのですから、やや重複の嫌いもありますが、説明を加えさせていただきます。

それには、まず心と性(せい)の区別をハッキリさせておくことが大切です。普通、おおざっぱに心、心といっていますが、譬えてみれば、それは水の上に立った波のようなものです。 ですから、憎い可愛い惜しい欲しいと、働かせているいわゆる心を、水の上に立った波とするなら、波の基たる水に相当する心の基になるものがなくてはなりません。それを、仏教では性と名づけておるのです。

即ち性は基で、心は現象です。われわれはそれを、たんに性と呼ばずに、本心(ほんしん)本性(ほんしょう)という意味を含ませて心性(しんしょう)と呼んでいるのです。 ですから、見性とは心性を見るというわけです。ときには仏性(ぶっしょう)を見ると言い、又は法性(ほっしょう)を見るといってもよいでしょう。

さて、心を把握しょうとするならば、その基である性を把握するのが近道でもあり、確実ということがわかりましたが、実際にはどうすればよいか。 

千波万波、大浪小波を静めれば、水の本当の相がわかるように、喜怒哀楽愛悪欲というような差別の念慮を納めてしまえば、性を見ることができます。そのために静坐工夫をするのです。 つまり、これは思慮や分別や道理では決して解決できません。即ち智ではどうしょうもない問題で、これを工夫三昧になり慧によって解決するのです。
  


静坐し工夫(くふう)三昧(ざんまい)になり心の基たる心性を悟得するわけです。これが即ち、坐禅の修行によって転迷(てんめい)開悟(かいご)の実を挙げると言われているのです。これが禅における人間形成の順序としての第1歩となります。

※実参実証=真正の師家に師事した本格の禅の修行のありかた
見性=本心本性を徹見すること。達磨大師の“直指人心 見性成仏”から出た言葉。
※心=現象  心の基=性 (心性 仏性 法性) 


 


◇立田英山著『禅と人間形成』--禅の修行と如是法から転載


 



 


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このお話を始めるにあたって、数息観は座禅を組んで、静かに自分の息を勘定することだと申しました。そこでまず、その座禅ということから申すことに致しましょう。座禅の仕方の詳しいことは、『座禅儀』とか『座禅銘』とか『座禅箴』とかいう書物に出ていますが、今は私どもの体験から割りだした合理的な、そして誰にでも簡易に実行できる方法について述べることに致します。  


 


まず場所と時とですが、病気の時や応接間などで試みる時は別として、なるべく静かなそして浄らかな所が理想的です。ことに初心の間は、環境によって気持の左右されることが多いものですから、近所がまだざわつかない前に、少しく早目に起きて試みるのが一番よいようです。もっとも家庭や勤務の都合で、そうとばかりも言っておられないでしょうが、室内を掃除して線香でも炷(た) いて、静かに坐るだけでも気持は落ち着いてくるものです。  


 


この線香を炷くということは、気持の上でもそうですが、また別に時間の経過を知る標準にもなるので、昔からよく「一炷香を坐る」ということが言われています。それから余り疲れた時や眠い時、食事の直後や腹の減り過ぎた時などは避けた方がよろしい。痔疾も余り悪い時は長時間坐るのはよくないようです。ボタンや紐であまり身体を締めつけないで、万事ゆったりとした態度と気持で坐るのが肝要です。  


 


 さて適当な場所と時とを選んだなら、蒲団の上に坐るのですが、その蒲団の敷き方に注文があるのです。蒲団は普通の坐蒲団でよいのですが、二枚いります。一枚を敷いた上に他の一枚を二つに折って重ね、それを臀(しり)の下にあてるようにします。普通の胡座( あぐら) ですと、背をまるくして前こごみにならぬと、うしろへ引っくり返ります。それを避けるために、蒲団をこう敷いて、上半身の重みを前に移して安定をはかるのです。ですから、この臀にあてる蒲団の高さは、各自で加減してきめて下さい。最も安定感を覚える時が、その人に丁度あった高さというわけです。  


 


 これはちょっとしたことですが、座禅の姿勢に重大な関係があり、従ってその効果に非常に影響のあることでその適当に用意された坐物の上に、五輪の塔を据えたような気持でドッカと坐るのですが、一応上半身を大きくゆるく前後左右に揺り動かしてから坐る方が、さらにより十分な安定感をえられます。  


 

 この時、足の組み方に結跏趺坐( けっかふざ) と、半跏趺坐との二様式があります。前者は左のももの上に右の足をあげ、右のももの上に左の足をあげるのです。これが正式なのですが、太った人や脛(すね)の短い人には苦痛を感ずるので、後者を許すことがあります。半跏趺坐というのは、左か右の足の一方だけをももの上にあげるやり方です。この場合には、上半身が左右何れかに傾きやすいものですから、下の方になっている足で調節ねばなりません。  


 


 どちらにしても両方の膝頭と尾骶骨( びていこつ) とを結ぶ線で、正三角形ができるように坐るのが要領です。その正三角形の面はやや前方に傾いていることになります。この姿勢のままで脊梁骨(せきりょうこつ)をピンと張ると、自然に上半身の重心から下ろした垂線が、底面たる正三角形の中心に落ちるようになります。即ち前に申した安定感というものはこれをいったもので、もし安定感がないならば、上半身の重心を通る垂線が例の正三角形の中心をはずれているからです。 


 


 その時は臀の下の蒲団の高さを加減することを面倒がってはいけません。でないと坐禅が長つづきしないばかりでなく、どこかに筋肉の収縮に不平均があって、知らず知らずのうちに上半身が揺れだしたり、病気を誘発することがあります。何々式静坐法などというのが、おおむね結果がよくないのは、主としてこのためです。この正三角形の中心に上半身の重心からの垂線が落ちるということは、物理学上からいっても一番に安定な形ですし、生理学上からみても一番合理的で、これは長く坐っても疲労を覚えることもなく、顎(あご)の下にさえ適当な支えをするならば、そのまま坐睡することもできます。




 土台がきまったら、次は手の置きどころですが、掌を上にして両手を重ね両方の拇指(おやゆび)を相対して軽く支え、前から見ると楕円形を形づくります。それを組んだ脚の上に置き、肘( ひじ) は軽く体からはなし肩の力を抜きます。次に脊梁骨をピンと堅てて顎をぐっと引く。そうしますと鼻端がほぼ臍と相い対するようになります。


 



 

 この時、眼を半眼に開くということがよくいわれていますが、何もそんな目つきをせんでもよろしいので、ただ目を閉じずに自然に視線をおとすと、丁度1メートル位前方を半眼で見ているように傍から見えるのです。  


 


 こんな笑い話があります。ある田舎の町で、青年たちが数息観の講習会をやった時に、講師の説明が不十分であったせいでしょうか、一人の青年が後で感想を述べる際に、“ あの半眼を開くというやつが一番きつかった”との述懐です。そんな筈はないがと、よくよくきいてみたら片目を閉じて坐っていたということです。なるほど、片目なら半眼でしょうが、ただ書物に書いてある通りの請売りをやるとこんな間違いを生じます。余り強く見つめていると疲れるから、半眼という言葉が使われたのでしょうが、自然に視線をおとせばよいのです。  


 


 ただし目をつぶってはいけません。初めのうちは、つぶった方が気が散らないでよいように思われますが、それでは昏沈状態におちいって、効果ある数息観が実行できません。次に口も軽く結んで、鼻で自然の呼吸をします。よく深呼吸や腹式呼吸をするように説く人がありますが、そんな必要は毛頭ありません。ただ自然に深く大きくなったのなら、それはそれで又よろしいので、要するに意識的な呼吸をしないことです。あくまで自然にしたがうのが、安楽の法門たるゆえんです。  


 


 ですから、強いて下腹に力を入れる必要もありません。強いて力んで胃部に力がはいるのは、とくに禁物です。「気海丹田に力を入れろ」などと書いた本もありますが、全く余計なことで、下腹に自然に気が充実してくるのならそれも宜しいでしょうが、あくまで自然であるということが要点です。  


 


 そんな事よりも、安定な姿勢ということと、次に述べる数息三昧ということが、肝要な事柄なのです。ですから椅子に腰かけた場合、ないし病床に横たわっている場合でも、姿勢の安定ということを、常に念頭に置いて戴きたいと思います。その他は坐禅に準じて、然るべく御工夫なされば結構です。  


 


 それから御婦人の中には、足を組むことを嫌がる方がありますが、それなら変則ですが四角に正坐なさるより仕方がありません。ただこの時も、臀部に蒲団をつかって適当に高くすることと両膝の間をなるべく離すということに御注意願います。が、何しろこれは変則なのですから、できれば尼僧たちもやっていることですから、正式に坐禅を組まれることを、おすすめ致したいと存じます。さて坐禅の姿勢が整ったら、いよいよ息を勘定し始めます。



 


経行について (歩行禅)
 
三昧の力は、静坐して数息観を修する時ばかりに養われるものでなく、身体を動かしながらでも養いうるものです。また実際に三昧の力が必要なのは、かえって静坐の時は少ないもので、そのためには動中においても三昧の境の乱れない練習をしておく必要があります。古人も【動中の工夫は靜中の工夫に勝ること万々】と申しております。 

その動中の工夫のために、経行(きんひん) ということをやるのです。経行とは、元来お経を誦じながら室内を緩歩することから出た言葉ですが、私どもは歩きながら数息観や凝念を試みることを申しております。 

経行をする時は身体を真ッ直に立て、手を胸に当て[又手当胸( さしゅとうきょう) と申します] 顎をグッと引いて2 メートル位先を見ながら、( 但し団体で行う時は片手間隔の前の人の背中を見ることになります) 静かに歩むのです。いくら広い堂内といっても知れたものですから、自然ぐるぐる廻ることになりますが、右廻り( 時計の針の方向) するのが正式です。最初の一歩は左足からときめ、そして左足を運ぶ時はいつも吸う息、右足を運ぶ時は吐く息ときめておきます。 

 例えば12 なら、左足を出しはじめてから全身の重みが全くそれにかかるまでにジューと数え、次ぎに右足を出しはじめてから全身の重みが全くそれにかかるまでに、ニイーと数えるのです。その他、数息観の要領は静坐の場合と全く同じですから、かさねて申しませんが、団体で行なう時は人々によって呼吸に遅速がありますから、とかく間隔が不揃いになり勝ちです。そこで全体の人が同時に左足なり右足なりを出し得るように、前の人に合わせながら、各自に呼吸の遅速を加減します。   
 
 
 また、これは数息観ではありませんが、経を誦ずる代りに凝念ということをやります。これが又たいへんに効果のあることですから、むしろ経行の時には凝念の方をおすすめしたい位です。凝念というのは、一心不乱に一つの念慮になりきることですから、数息観も一つの凝念と言えばいえないこともありますまい。ただ、ちがうのは息を数えるかわりに題目とか称名とかを心に念ずるのです。陀羅尼(だらに) でもお経でもよいわけですが、私どもは『念々正念歩々如是』と凝念致します。 しかし、その意味はここでは余り詮索しないでおきます。 

 そのやり方を申しましょう。経行のやり方は前に申した通りで少しも違いありませんが、ただ念々と左足を出し正念と右足を出し、次ぎに歩々と左足を出し如是と右足を出し、これを繰り返しさえすればよいのです。三昧になるために南無阿弥陀仏と伏鉦を打ち、南無妙法蓮華経と太鼓をたたく行(ぎょう) と変わりはありません。 

 念々正念歩々如是と念じて、経行するところの一つの行です。ただ肝要なことは、救いを求めるでもなく、意味を考えるでもなく、純一無雑で心の中に念ずることです。凝念は坐禅を組みながらでもできますが、やはり経行の時の方が心身の軽安を覚え、三昧の力を養いやすいようです。これも熱心に継続しておれば、これで数息観の後期の境涯まで達することができます。
大勢集まって講習会を催す場合には、坐禅の時は数息観、経行の時は凝念ときめるのが一番よいようです。


 

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