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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

〒284-0032
  四街道市吉岡1010

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  久保田
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房総ブログ - 惟然さんのエントリ

今日(18日)は第3週で6時の読書会から始まりました。
 
ネルケ無法さんの「日本人に宗教は要らない」の続きです。
 
まずは本文から。
 
将来に不安を感じていると悩む人がいるが、それはそれでいいのではないか。
逆に、将来に不安を感じてもらわなければ困る。
みなが楽観的に「大丈夫だ」と思っているときほど、危険な状態はない。だから、将来が不安だと悩んでいるときほど意外に大丈夫なのだと思っている。今が危険だと思ったら、人は事故に遭ったり穴に落ちたりしないように気をつけるだろう。「大丈夫だ」「心配ない」と言う人ほど大事故に遭う。
(中略)
「自分の老後も国もどうなるかわからない」と大いに悩み、不安を感じることは、安心しきっているときよりよほどいい。
 
さて、最近は気象も異常だし、政治も混乱しています。
将来に不安を抱いている人がほとんどだと思います。
 
ネルケさんに言わせれば、そのほうが危機感があって良いということになりますが・・・、どうでしょうか。
 
禅に興味を持つのは、何かしらの不安や悩みがあるからだと思います。
そもそも、釈尊は生老病死という大問題を抱えていたからすべてを捨てて真理を求めるという道に入ったわけです。
 
歴史を見ても、何も悩みや疑問がなくて宗教や哲学を求めた人はいないのではないでしょうか。
 
自分のことを振り返ってみても、青春時代に「自分とは何か」という大きな悩みもち、そこから物理的にも精神的にもあっちこっちをふらふらし最後にたどり着いたのが禅の世界でした。
 
まだ、答えを求め続けている道の途中ではありますが、ここには確かな答えがあると思っています。
だから飽きずに続けてこられたのだと思うしこれからも続けていけるのだと思います。
 
誰もが釈尊のように国も妻子も捨てて道を求めるなどということはできません。
ですから房総坐禅道場や禅と茶の集いが、在家のままで道を求めるという場を提供できたらよいと思っています。
 
まあ、道を求めるなんて大それた理由をつけずとも、軽い気分で来た人がここには何か在るんじゃないかと思って禅を続ける人もいます。
 
あとは、本人しだいです。
 
 
次はお茶の時間です。
 
今日は少人数でしたが、栗田さんの手前でおいしいお茶を頂きました。
 
お菓子は、小ぶりでおいしい山田屋饅頭でした。
 

来週は午後7時から45分の坐禅。
 
そのあとは、精神科医の大田先生よる坐禅ワークショップです。
 
お待ちしています。
 
義存 合掌
 
「禅と茶の集い」についてくわしくは、コチラ
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com
左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください。


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 = はじめに =
 
房総坐禅道場から第34号のメールマガジンをお送り致します。
 
 = 目次 =
 
1:房総道場 10月25日 『一日座禅体験教室』
2:房総道場  9月20日 『日曜静坐会』
3:房総道場 10月18日 『第1回 芋煮会』
4:房総道場  9月23日 『第3回 味噌つくり教室』
 
 = 近況 =
 
台風が過ぎ去り、急に秋空が広がり
吹く風にも涼しさを感じるようになり、秋の草花も咲き始めました。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
 
房総道場では、『日曜静坐会』・『緝熙会(女性のための静坐会)』
本格的な修行の会『摂心会』年3回(各1週間)などに取り組んでいます。
房総坐禅道場ホームページをご覧下さい。
 
 = ご案内 =
1: 房総坐禅道場では、来る10月25日(日)
 
今年2回目の『一日坐禅体験教室』を開催致します。
9時からの日曜静坐会に引き続き、10時からの開催となります。
今回は若手からベテランまでの会員が、
坐禅に対する皆様の質問にお答え致します。
日頃の率直な疑問・質問をお寄せください。
 
前回(7月5日)の体験教室にご参加頂いた方も、お気軽にご参加ください。
当日は、昼食と お茶(禅カフェ)のご用意もさせて頂きます。
自然豊かな房総坐禅道場で、坐禅を体感ください。
 
日程等は
⇒イベント予約
 
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
 
2: 栗の完熟する季節 : 日曜静坐会
(日曜静坐会ブログより)
 
9月20日 日曜静坐会のご案内
曼珠沙華が咲き始めました。
空の高さも増し、禅堂の中では清々しい風がそよいでいます。
どうぞ、日曜静坐会にお越し下さい。
 
9時 静坐(坐禅)
その後、読経、お茶を飲んでの座談会
○会場:房総坐禅道場
○会費: 200円
○用意するもの:坐禅のできるゆったりした服装
  ズボンは、滑りにくいものをご着用下さい。
○主催:人間禅 房総坐禅道場
 
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
 
3: 10月18日 新企画 “芋煮会のご案内”
 
季節は秋、ここ房総坐禅道場も栗拾いを楽しめる時期となりました。
さてこのところ、日曜静坐会の参加者も常時20名前後を数えるようになり、
活況を呈してまいりました。
そこでこの度 日曜静坐会参加者の懇親会も兼ねて、
東北地方に古くから伝わる“芋煮会”を企画してみました。
今回“芋煮”の主役である里芋は会員手作りの物で、
まさに収穫に合わせて会を催す事となります。
ご家族の方もお誘合わせの上、
奮ってご参加下さいますようご案内申し上げます。
 
日程等は
 ⇒イベント予約
 
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
 
4: 第3回 房総道場味噌つくり教室
昨年に引き続き、第3回味噌づくり教室を下記の要領で開催します。
初めての方も、リピーターも歓迎です。
出来上がり約20Kgの仕込みを3~4時間の作業でやるには、
スタッフ要員5名くらいが必要です。
房総道場の典座寮で、味噌づくりの作務に挑戦してみませんか。
 
日程等は
 ⇒イベント予約
 
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━

★次回の摂心会は、11月21日(土)~28日(土)です★
 よろしかったら、一部でも体験してみませんか。

ーーーー
房総坐禅道場通信』(メールマガジン)第34号をもとに編集しました。 

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土へのこころ 顧問 白田貴郎
 
去る11月はじめに熊本を旅する機会に恵まれ、長い間訪れなかった阿蘇の山や菊池渓谷の秋を味わうことができた。
 
信州の山には毎年接しているが、阿蘇の山には信州の山と違った風情というものがある。
 
九州の道友の温かい接待を受け、その人間味というものを肌で感じ、それはやはりそれを育てている母なる自然の影響があるのではないかと思ったりする。
 
ちょうどそのときには、雨が降っていて、雨に煙る阿蘇の山々の大いなる安らぎというものを鑑賞することができた。
 
色見というところで田楽を食べた。
 
孟宗竹を徳利として、かっぽう酒で、炭火の囲炉裏を囲みながら竹串にさした魚や芋を焼いて食べるのだが、何ともいえぬ素朴な味があり、自然の土というものの香りを暫くぶりで噛みしめた。
 
たまたまその田楽の農家の店に、佐藤武之著『阿蘇の野の花』という本があり、それを熊本の道友が土産にと贈ってくれた。
 
市川の本部道場は、珠月さまが丹精をこめて育てられた珍しい植物の宝庫であるが、平常はその中に居ながら、忙しさにかまけて、それを心底から鑑賞するという余裕とてなく、今日に至っている。
 
今回の旅で贈られたこの本を繙いて、いろいろな植物を育てている土というものの大いさと温かさというものを、もう一度見直さなければならないことが痛感させられた。
 
著者の佐藤武之という人は、太平洋戦争の帰還兵で、杭州湾敵前上陸の前夜、潮騒(しおさい)の満天の星の下のデッキで夜もすがら戦友と語りあかしたのは、美しい故郷の山河であった。
 
命長らえて再び祖国の土を踏むことができたら、最後は故郷で過したいという望みが心の奥深く根を下ろした。
 
幸に無事に帰還して、故郷の自然の姿を、その四季の移ろいを、雲や雨や氷雪などをとりこみ、素人なりに見事に写生した。
 
その中には、故郷を愛する心や自分の子供をみるような眼や同じ土地で生きているという仲間意識が生き生きと感じられ、まるで交響曲のように、胸の奥底の感動をひしひしと伝えてくる。
 
いままで土というものに対して開かれていたかった心の窓を、しずかに開いてくれる力をもっている。
 
舌に残っている色見田楽の味とともに、今回の熊本の旅が私に送ってくれた大きな土産である。
 
それは、土への心の回帰とでもいうべきものである。
 
ーーー
これは、千葉大学「禅の会」の機関紙『わ』第13号(昭和55年発行)に掲載されたものです。
 
(*)白田貴郎
当時 千葉大学教授(倫理学) 学生サークル「禅の会」の顧問 64才
磨甎庵(ませんあん)劫石(ごっせき)老師 人間禅第三世総裁 1915年 - 2009年
 
 
合掌
惟然 拝
 

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もう我慢できないかもーという感覚

カテゴリ : 
ブログ » 随想・日常
執筆 : 
惟然 2015/9/15 23:50
たまに車に乗っている時とか電車に乗っている時、急に便意をもよおす事があります。
まあ大丈夫だろう、もつだろう、もうすこしの辛抱だ頑張れ輝雲‼︎とか思っているのですが、ジワッともう我慢できないかもーという感覚が押し寄せてきます。
 
しばらくすると少し和らぐのですが、また津波のように押し寄せては引き、押し寄せては引きの繰り返しです。〔ソウソウ、ワカルワァ〕
 
そのうち、手には少し冷や汗が、ひたいにも滲んできて血の気が引いていくような、恥も外聞もなくブッパなしてその場に座り込みたいような・・・・
 
道路の路肩で道行く人に見られてでも・・・・・〔ソコマデハ・・・〕
 
 
フウーっ、やっとたどり着いた。
便器の中に溜まった水が、砂漠のオアシスの水が輝いているように見える。
まるで初関を透過したときのようだ。〔ナニィー、ドウイウコト?〕
 
つまりです。
公案に集中して究極まで高めていくと、三昧という状態になります。
これを禅定に入るというのですが、これを更にさらに高めていくと、一点集中の極地に達し、此れが手に入ると強烈な超常体験が生まれるんですよ。
 
例えば全てのものがギンギラギンに輝いてみえたり、一歩踏み出すと一足飛びに宇宙の果てまで行ってしまうような。
 
その時オリンピックに出れば金メダルを何個も取れそうな。〔ソウナノ?ゲンカクミタイダネ。〕
 
 
でも、誤解しないでね、それが禅の目的ではないですからね。
人間禅の"立教の主旨" にも、「神秘を語らず迷信を説かず・・・」とありますからね。
だからサプリメントの宣伝みたいに、「千葉県J.W.さんの体験談、・・・云々。」なんてことはしないんですよ。〔ナルホド。〕
 
 
でもそう、ここからが大変なんだ。
禅定に入ったらその定力を使って無意識の領域まで切り込んでいって自分の心の垢(あか)を洗い落とす作業が延々と続くわけなんだ。
公案というツールを使ってね。
そうやって真理眼を磨いていくの。
そうやっていくうちに菩提心が涵養されていくの。
それが禅、仏道修行の目的ですからね。〔フ〜ン〕
 
「威(い)は毘盧(びる)頂寧(ちょうでい)を踏む」(*2)という気概を持つのはいいのだけど、それだけの担板漢(*3)にとどまっていたのではダメっていうこと。〔ナ二ソレ〕
 
まっ、いいや。
そんなことより話はウンチだった。〔道虔居士がウンコよりウンチの方がいいかもって。〕
 
ここで前段と本段の空間 (トイレに辿り着くまでの間) に潜む我が苦難の歴史は、各自想像してみて下さい。
ここで大切なことは、他の苦しみを我が苦しみとなす、というような気概を持って想像してほしいのです。
こういう訓練が慈悲の心を育むことになるのです。
ん?
そうゆうのは仏様の大慈大悲とは関係ないって?
まあそうおっしゃらずに。
 
 
で、ここで態勢を整えてサア行くぞと思った瞬間、私の心の中に自虐的な想いがポッと浮かんできます。
そうです。
私には 自虐的な性格 があります。
断わっておきますが、変な性癖ではありません。
誰にでも大なり小なり持っているものだと私は思っていますが 〔ここで急に声のトーンダウンが始まる〕、いやそんなこと思う人あまりいないかなぁ〜。
 
兎に角勿体無いと思うのです。
何がですかって? 
折角、今の今まで苦しみに耐えぬいてきた。
ここで一気に放出して快楽を貧るのは勿体無いと思うのです。
 
 
さあ、これからはいつ肛門括約筋を弛緩させてもいいぞ、体内の状況は変わってはいないのだが、この安堵感、これを暫し楽しまない手はないな、こうゆう事態はそう毎日ある訳でもないし・・・と思った途端!
 
ところでトイレットペーパーは?
 
あ、あったあった・・と次の瞬間!
 
 
肛門及び肛門周囲清浄化装置は?これは無いな。
あっても使いたくないし・・・と此処で突然!
 
キューピィーマヨネーズが脳裏に浮かぶのです。
(年配の方ならご存知でしょうが、昔のは出口がふしだらで切れが悪く周囲にべトッとくっつくのです。そのままネジ式の蓋でも締めようものなら縁からブ二ュッとはみ出るのです。現在のもののように、デコレーションしようなんて至難の技です。)
もしも、兎の糞状態でなくてマヨネーズ状態だったら・・・とまた次の瞬間!
 
ん?
もしかして便座にMersコロナウィルスが付いてたら。
さっき出てった人、流行している国帰りだったりして。
 
ちょっと苦しいが、便座から4.5㎝ほど浮かせてやろうかな。
こういう時は日本式がいいな・・・とまた!
 
そうだ。
先日、抱石庵老居士に「背面(はいめん)達磨の掛け軸」を拝見させて頂いたとき、
思わず、これは「はいべん(排便)の図?」と叫んでしまった。
ああ恥ずかしい。
穴があったら入りたい・・・。
 
とまぁ、雑念ウヨウヨ。
 
これ以上書くと慧玉禪子から「長すぎる。」と叱られそうだから、このくらいにしておきます。
 
 
さあ輝雲、お前の決断ひとつで事は全て解決する、まるで全権大使になったような気分です。
 
が、哀しい全権大使です。
スパッと切れない自己がある。
莫妄想かぁ〜。
阿頼耶識のせいだな。
〔阿頼耶識って何だつて? ともかく私達は大変なものを抱えこんでいるのです〕
そんなコト言ったって解脱してないもんね。
 
 
ここまでダラダラと下らないことばかり書いてくると、もう皆さん辟易しているでしょう。
でもちょっと考えて下さい。
トイレに入ってからこの間、僅か1分たらずの出来事なのですぞ。
人間って所詮、五蘊のかたまりにすぎない何て言うけど、それにしても凄いね。
 
「色・受・想・行・識」が3つ巴、いや5つつ巴になって、臨界状態に達した核分裂反応のように超スピードで回転し、この複雑な反応を、一瞬のうちに無意識のうちにやっちゃうなんて。
 
 
此れに対抗するなんて、とてもとても数息観じゃ追っつかないよね。
 
こうなると、もうお手上げ状態、迷いの世界にドップリってことになるのです。
 
それでもって、貧䐜癡(※)の虜になって、業 (カルマ) を無意識のうちに溜めこんでしまうのです。
 
お金は使えば使うほど減っていきますが、この業ってやつ、使えば使うほど増えていくから厄介なのです。
 
ああ、私の身口意(*2)、特に口、これ何とかナランカナァ・・・。
 
 
そのあと私がどういう行動をとったかは、ご想像にお任せします。
えっ、想像したくないって、そりゃそうですよね。
 
 
女房に、事の顛末を話したら、呆れかえって、「時間の無駄でしょ、早くやっちゃえばスッキリするでしょう。くだらないっ!」と女性特有の嫌悪感をむき出しにして、いとも簡単に言い放った。
 
「たかがウンチでそんなに話が盛り上がるなんて、変わった夫婦だなぁ〜。実に平和的だ。」
誰ですか?そんなこと言っているのは。
文学には寓話というジャンルもあるんですよ。
 
輝雲
 
ーーーー
筆者註
(※)貧䐜癡(とんじんち)
三毒:仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩
 
貪 とん:貪欲のことで、
 アレモホシイワァ、コレモホシイワァ〜ってこと、
 
瞋 じん:瞋恚(しんに)と言って、
 ソンナノイヤ、イヤイヤ、バカッ!てこと、
 
癡 ち :愚痴のことで、
 どっちもアホという意味だから、ワカンナイ、ワカンナイ、ドウシタライイノ、マヨッチャウゥ〜、
 
のような意味です。
 
====
編者註
(*1)威踏毘盧頂寧、行拝童子足下
「威(い)は 毘盧(びる)の頂寧(ちょうでい)を踏み、行(ぎょう)は 童子(どうじ)の足下(そっか)を拝(はい)す」
 
『続々一行物』P236(『新版一行物下巻』P481)より
 
毘盧 びる:毘盧遮那仏 もとは太陽のことで、仏教では「無量劫海に功徳を修して正覚をとる蓮華蔵世界の教主」
奈良の大仏はこれを具象化したもの
 
頂寧(寧に頁) ちょうでい(ちんでい、ちんにん):頭のてっぺん
 
この六言対句は、必ずしも普通一般の茶席の床にはふさわしいものとはいえないが、禅語としてよく知られ、何より私たちの座右の銘として適切な句なので、ここに取り上げて開設することとした。
 
およそすべての人間は本来円満に仏性をそなえており、しかもその仏性は「仏にあって増さず凡夫にあって減せず」で万人平等である。
(略)
それは世のいわゆる増上慢でも傲(ごうい)慢でもなく、理の当然として大丈夫の抱懐すべき気概であり、また見識である。
「威は 毘塵の頂寧を踏む」とは、蓮華蔵世界の教主・究寛最高の仏である毘慮遮那仏の頭の上を、草鞋(わらじ)ばきで踏みつけて通るということで、右の見識と気概とをもって天下に閥歩することの謂いである。まことに痛快で諷爽とした境涯である。
 
しかし、この境涯だけにとどまっていたのでは平等一辺倒の「担板漠」 にすぎず、それでは禅者として片輪である。
(略)
この反省と怒悌の思いから謙虚に行動し、『法華経』にある常不軽菩薩(じようふぎようぽさつ)のように諸仏・請書薩に対してはもちろん、乞食に対しても恭しく合掌礼拝の気持で応接し、鼻汁(はな)垂れ小僧にあったら鼻汁を拭いてやること、それを「行は 童子の足下を拝す」というのである。
 
「威は 毘慮の頂額を踏む」という見識と気概とを抱懐しながら、しかも実際には「行は 童子の足下を拝し」、また謙虚に行動しながら、しかも他面、「眼に仏祖あることを見ず」という高邁な見識をもってこそ、この両面があってこそ真の禅者・まことの大丈夫というものである。
 
ところで、この六言対の反対は何になるのだろう
 
威不踏毘盧頂寧、行不拝童子足下
「威は 毘盧の頂寧を踏まず、行は 童子の足下を拝さず」
 
無威踏毘盧頂寧、無行拝童子足下
「毘盧の頂寧を踏む威無く、童子の足下を拝す行なし」
 
いやいや
威踏童子頂寧、行拝毘盧足下
「威は 童子の頂寧を踏み、行は 毘盧の足下を拝す」
 
相手を童子とみれば脳天から踏みつける勢いで、相手が毘盧とみれば足元に頭をつき礼拝を行う。
こちらは、かなり強烈ですね。
知らず知らずにこう行動することで、安心が得られるという感じでしょうか。
小さな相対の世界にどっぷりですね。
 
もう我慢できないかもーという感覚には、理屈も、徳目としての暗記もまったく役に立たない。
意識することなく「威踏毘盧頂寧、行拝童子足下」となるか「威踏童子頂寧、行拝毘盧足下」となる。
増上慢となることをおそれ、感性を磨かなくては・・・。
 
 
インターネット上では「威」を「意」として
意踏毘盧頂寧 行拝童子足下(意は毘盧の頂寧を踏み、行は童子の足下を拝す)
とするものが多く見られた。
「袖触れ合う」が「袖すれあう」と誤って広まるように、言葉(音声)として伝えられていると、このようなことがあると理解し、「威」としました。
 
皆様、いかがでしょうか。
 
(*2)担板漢(たんぱんかん)
 
(*3)身口意(しんくい)
三業:仏教において輪廻の力となっている三つの業(ごう)
身業:悪い行い
口業:悪い言葉
意業:悪い考え
 
合掌
惟然 拝


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本日(13日)の日曜静坐会への参加者は、18名でした。
者の方はなく、窓から風が吹き抜けてゆく中での静座会でした。
窓の外には、秋の虫の声が聞こえます。
 
45分間の座禅(坐禅)が終わり、全員で般若心経と観音経を唱えた後、鉄漢さんが栗を甘く煮詰めて持ってきていただきましたので、マロングラッセをお茶請けにいただきました。
道場の裏庭の栗だそうで、たくさん生っているとのことです。
 
1ヶ月ほど前の摂心会の作務中に、栗の木に小さな毬が生っているのを見つけましたが、もう食べられるようになっていたとは、月日のたつのは早いものです。
 
私の座禅修行も、栗のように進めばよいのですが、まだまだトゲが抜けなくて。
 
鐘声


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この度の豪雨で被災された方に心からお見舞い申し上げます。
いろいろな報道で浸水の様子を見ますが、想像を絶する被害が出てしまったようです。
今回の豪雨は、二三日前から50年に一度の記録的な降水量が予想されると報道され、注意喚起や避難勧告も事前に出されていました。
それでも、実際に経験すると予想をはるかに超える事態が起こってしまいました。
今は、被災された方々を助けるのが第一だと思いますが、これからも起こりうる事態にどう対処していったらよいかと考えると途方にくれる気がします。
すべての河川に必要な堤防を築くとなると1000年以上もかかるとか・・・。どこまでやりきればいいのだろうかと思います。
 
ここ2・3年の世界各地で起こっている異常気象と言われる現象を見ていると、地球の環境が変動しつつあるというのは、誰もが感じることだと思います。
地球がちょうどそのような次期を迎えつつあるのか、CO2の過剰な排出により地球温暖化が進んでいるのが原因なのか諸説あるようですが、いずれにしても人類もその他の生物もこの地球上で生きていかなければなりません。
個人的には、人類は他の動物や植物とも共生し、持続的な環境の維持ができるようなライフスタイルを模索していくしかないと思います。
自分がこのように考えるのは、たぶん房総坐禅道場での生活が基礎にあるからだと思います。
道場にいると木々のにおいや鳥のさえずりや虫の声が身近に感じられます。そしてその命が自分と同じ命を生きているということが分かります。
豊かな自然あってこその生活だということを肝に銘じて生きていかなければならないと痛切に感じます。
 
坐禅は、自分の命を見つめ、宇宙の命そのものを見つめる有効な手段です。
 
来週(9月18日)の禅と茶の集いは、午後6時から始まります。
読書会、お茶の時間と続き、坐禅(静坐・座禅)は8時頃からです。
途中からの参加も歓迎します。
 
義存 合掌
 
「禅と茶の集い」についてくわしくは、コチラ
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左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください。


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『房総坐禅道場通信』 第33号 概要

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
惟然 2015/9/11 23:50
『房総坐禅道場通信』 2015年 9月11日 第33号 人間禅 房総坐禅道場
 
 = はじめに =
 
房総坐禅道場から第33号のメールマガジンをお送り致します。
 
 = 目次 =
 
1:房総道場 『日曜静坐会』
2:第3回 房総道場味噌つくり教室
3:擇木道場(台東区谷中)で開催されます『禅フロンティア』
 
 = 近況 =
 
不順な天候が続き、夏の日差しが懐かしいこの頃です。
大雨や竜巻のニュースが話題になっています。
皆様のお近くでは、如何でしたでしょうか?
被害を受けられた方々には、心よりお見舞いを申し上げます。
 
房総道場では、『日曜静坐会』の他、『子ども禅のつどい』
『緝熙会(女性のための静坐会)』 などに、取り組んでいます。
房総坐禅道場ホームページのブログをご覧下さい。
 
次回の摂心会は、11月21日(土)~28日(土)です。
よろしかったら、一部でも体験してみませんか。
 
━ ━ ━ ━ ━ ━ 
 
1:9月13日 日曜静坐会のご案内
 
日曜静坐会レポート ⇒クリック 房総ブログ『穏やかな朝』
 
 
○日曜静坐会
道場内の栗の実がはじけて落ち始めました。
少しずつ秋の気配が感じられるようになり、
禅堂の中にも、清々しい風がそよいでいます。
どうぞ、日曜静坐会にお越し下さい。
 
9時 静坐(坐禅)
その後、読経、お茶を飲んでの座談会
○会場:房総坐禅道場
○会費: 200円
○用意するもの:坐禅のできるゆったりした服装
ズボンは、滑りにくいものをご着用下さい。
○主催:人間禅 房総坐禅道場
 
━ ━ ━ ━ ━ ━ 
 
2:第3回房総道場 味噌つくり教室のご案内
 
 
日時 9月23日(水)祝日
 午前9:30~13:30
場所 房総坐禅道場
 
━ ━ ━ ━ ━ ━ 
 
3:人間禅擇木道場では『禅フロンティア』というイベントを行っています。
 
 
ーーーー
房総坐禅道場通信』(メールマガジン)第32号をもとに編集しました。 

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昨年に続き第3回味噌づくり教室を下記の要領で開催します。
初めての方も、リピーターも歓迎です。
出来上がり約20Kの仕込みを3~4時間の作業でやるには、スタッフ要員5名くらいが必要です。房総道場の典座寮で、味噌づくりの作務に挑戦してみませんか。
 
・日時
9月23日(水)祝日
午前9:30~13:30 
 
・集合
午前9:15
 
・用意するもの
タオル又はスカーフ
 
・参加費
800円(材料代、昼食代)
 
・その他
出来上がりは6か月後のH28.3月を予定しています。
今回参加された方には1キロづつ差し上げます。
 
◇参加申し込み
 
以上
 
H27.9.8
 
鉄心
 
音 白田貴郎(*1)
 
いろいろな物から発せられる音には、それぞれの心というものがある。
 
ふだん何気なしに耳にしているいろいろな音を、心をすまして聴きなおしてみると、その一つ一つにその趣というものがあり、調べというものがある。
 
秋の樹々の落葉の音、木枯しの音、茶釜の湯のたぎる音、琴や尺八、ピアノ、バイオリンの音、茶碗のぶつかる音、自動車のきしむ音……。
 
今年(*2)の八月、国際交流でニューヨーク市立大学の学生が本学(*3)を訪れ、その機会に三人の学生が禅の会の会室(*4)で坐禅を修することとなった。
久保田君(*5)が直日(*6)である。
丁度坐禅の仕方を教え数息観をし出すと、何処からともなく筝曲の調べが流れてきた。
 
坐禅を了えた学生は、感動して、アメリカの大学にこのような環境や行事のないことを悔やみ日本の学生がうらやましい限りであると語っていた。
 
騒音の中に囲まれている生活をしている彼等がはじめて音のない世界に接して得た心の調べに驚きと喜びと生気を感じたに違いない。
 
坐禅というものは、「寂」という一字を噛みしめる行である。
 
丁度、彼らと一緒に坐禅をしていた人文学部の国文学部の先生が、この筝曲を意図的に奏でたものと思い、「演出が大変いいですね」といっていた。
勿論、それは、予め工夫して用意した筋書ではなく、偶然だったのである。(*7)
 
琴や尺八の音色は、ヨーロッパの学期に比して単純なのであろうが、その単純さの中に却って逆な複雑さや趣というものが蔵されている。
 
それは、自然の音の調べに近いようである。
 
いろいろな音は、大変不思議なもので、人間の心に触れて何らかの感情を呼び起こすが、自然の中で奏でられる音は、人為的に造られた音よりも、心の琴線に深くふれるものである。
 
毎年夏、飯田の長久寺(*8)で坐るときに聴く水瀧の音は、一見やかましく騒音のようにきこえるが、耳を澄まして心に受けとめると、却って心の雑念を消して寂けさを引き出してくれるのであることが分かる。
 
白隠和尚は、縁の下で鳴くこおろぎのかすかな音をきいて、正受老人の平常の正念工夫の境致にふれ、号泣したと伝えられる。
 
自然に奏でる音というものは、音でありながら、音を越えた寂というもののいのちの調べを伝えてくれるのである。
 
アメリカの学生が筝曲をきいて心を静め数息観に集中できたというが、真は、坐禅はもっと次元の高い寂けさにふれるものである。
没絃琴の曲調である。
絃のない琴の調べである。
これらは耳によって聞くことはできない。
 
人間は、心でこれを聴くことによってその生命の故郷に還帰し、ゆるぎない安らぎを味わう。
それは相対を絶した格調をもつ音の世界の開示である。
 
最近環境汚染の問題がやかましくなり、騒音公害が指摘されるようになった。
 
しかし、私に云わせれば、騒音よりもっと根の深い、人内の心を頽廃(たいはい)せしめるものに音楽公害というものがある。
 
普通気づかれずにいるが頽廃的な音調によって人々の心は知らず知らずの中に健康さを失って病的となる。
情緒的に不安定な精神疾患の一つといってよいであろう。
 
現在のような高度成長社会の環境下にあっては、人々はほんとうの音、自然の調べというものに耳を傾け健康さを取り戻すように注意しなければならない。
 
人間の生活には、起伏があり、喜びや悲しみや憎しみや悔いを避けることはできないし、それが又一つの味わいでもある。
それらを音楽として歌い上げるということ自体決して否定されるべきことではない。
 
しかしそれは、あくまでも物事の本末を捉えた上でのことである。
それの心の故郷を見失って、でたらめの生活の中で、そういうのに されていってはならない。
 
心の故郷が寂という調べであるとすれば、寂というものを正しくふまえるという基本を常に忘れてはならないのである。
 
ーーー
編者註
 
(*1)白田貴郎
当時 千葉大学教授(倫理学) 学生サークル「禅の会」の顧問 61才
磨甎庵(ませんあん)劫石(ごっせき)老師 人間禅第三世総裁 1915年 - 2009年

(*3)本年
昭和50年(1975年)
 
(*2)本学
千葉大学西千葉キャンパス

(*3)禅の会の会室
正門から徒歩10分、木造2階建てのサークル棟の2階奥
24畳半の静坐室、6畳の居間、玄関、納戸付
窓の下には黒い板に大きく揮毫されていた「禅の会」いう白い字が目を引いた。
この広い部室を手に入れることができたのは、寺沢居士の画策によると聞く。
現在は取り壊されて、駐車場となている。
 
(*4)久保田君
抱石庵老居士
当時工学部4年、「禅の会」会長
 
(*5)直日(じきじつ)
禅堂の責任者。
ここでは、正面の軸の脇に坐り、静坐(坐禅)の開始、終了の合図をしたということ。
 
禅の会で老師が学生の静坐の指導をするときは、助香の位置(直日の左隣)に坐り、
適宜立ち上っては、全員の姿勢を、警策を使って一人一人直してまわられた。
 
(*6)偶然だったのである。
「禅の会」の隣は「竹葉会(和楽器演奏のサークル)」の部室であった。
都合のつく時間に琴や尺八の練習をしていた。
たまたま、その音が壁越しに聞こえてきたのであろう。
 
(*7)飯田の長久寺
長野県飯田市
房総道場ができる前は、房総支部の夏の摂心会は飯田で厳修されていた。
学生は夏休みであるとはいえ、社会人もそこから通勤することはできない。
そこで、ほぼ全員が文字通り門外不出となった。
私語、雑談は戒められ、自発的な夜坐(就寝時刻後の坐禅)や朝坐(起床時刻前の坐禅)が当たり前という雰囲気があった。
よく言われる「房総支部の夏の摂心会の伝統」には、皆で仲よく遠くへ出かけたことを懐かしむ以上の思いが含まれているものと理解する。
 
これは、千葉大学「禅の会」の機関紙「わ」第9号(昭和51年(1976年)発行)に掲載されたものです。
謄写版で印刷されてあり、大切な部分にも印刷不鮮明のところがあったので、判読できる範囲で(思い出して)補ってあります。
原稿を受け取り原紙(ガリ版)を切ったのは誰だ!
40年後に困るではないか!しっかりやれ!
おっと、私自身でした・・。
 
合掌
惟然 拝


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緝煕会のご報告を致します。
 
9月5日(土)参加者は6名でした。
 
暑さも過ぎ去り、虫の合唱の中での静坐(座禅・坐禅)。
 
 
輪読は、前々回の続きで『坐禅和讃新講(*)』第3段
「辱(かたじけ)なくも此(こ)の法(のり)を・・」
 
この中で、「出遇い」ということについて触れられており、印象に残りました。
 
 
輪読の後の茶話会では、今日はお濃茶を頂くことになりました。
 
経験不足の私でありますが、一椀を点てさせて頂き少々緊張しましたが、
 
和敬のひと時に感謝と共に美味しく頂きました。
 
 
また次回、緝煕会の皆さまとの出遇いを楽しみにしております。
 
 
合掌 小川
 
ーーー
編者註
『坐禅和讃』
白隠(慧鶴)禅師著、(臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧)
人間禅では、摂心会の提唱時に皆で唱和する。
 
『坐禅和讃新講』
磨甎庵劫石老師著(人間禅第3世総裁)
 
 
緝煕会(女性のための静坐会)
毎月第1土曜日に、房総坐禅道場にて
9:00~11:30
 
次回は
平成27年10月3日(土)です。

合掌
惟然 拝

 
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