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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

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房総ブログ - 惟然さんのエントリ

今日(28日)の日曜静坐会の参加者は22名でした。
静坐に入る前に抱石庵老居士から座り方について丁寧な説明がありました。
今日は雨は一休みでしたが蒸し暑く、時折通り抜ける風がとても心地よく感じられました。
 
静坐、読経後は小川農園の新鮮なミニトマトをいただきながら暫し話が弾みました。
 
その後、7月5日に行われる一日坐禅体験教室の担当者は準備作務、打ち合わせ等を行って昼近くに解散しました。
 
道場敷地内にあるヤマモモがきれいに熟れていました。
 
< 山桃の 紫赤くみのりて 梅雨の空 >
 
合掌 一徹 拝
 
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今日6月26日は禅体験教室の4回目(最終回)です。


今日は、脳科学と禅というテーマで太田東吾先生にお話をしていただきました。


今日は講師の都合で坐禅を先にやりました。

4回目ともなると、段々坐禅に慣れてきた様子が分かります

最初は10分でギブアップだった人も、足をくずさずに20分の坐禅を2回しました。



さて、次は脳科学と禅の講義です。


慣れないというか、初めて聞く言葉も多く最初はかなり戸惑ったと思います。
私自身も、数年にわたりこの話を聞き、ワークショップにも参加していますが、特に「人間の大脳皮質の分業体制」の話は、基礎知識がないのと自分では本も読めない分野の話なので難しいです。

 

でも、脳科学と禅(禅を含む様々な瞑想など)は、今ブームとなっているようです。


簡単にレジメから紹介します。


発達過程から見た二つの自己(アントニオ・ダマシオの説)
 

1 中核自己とは
  胎生期~生後18ヶ月ころまで
  「いま・ここ」のみの自己(神経細胞ネットワークが未発達のため)
  これは、イメージや言語の記憶が集積される前の自己ということです

2 自伝的自己
  生後18ヶ月頃に成立、その後強化及び修正されていく
  いわゆる私たちがこれを自分と思っている自己でイメージや言語を操作する力を持つ。
  例えば、普段私たちが普通に言う「自分の」財産・名誉・家族・国家などと言う「自分」です。
  実は、この「自分」といいうものが、悩みや迷いを生じさせいるわけです。


これだけ見ても、何のことか分かりにくいと思います。
禅とすぐに結びつきそうにもないですね。


でも、太田先生の話によると、禅の目的は、この自伝的自己の持つ欠陥に気づきそれに対処する技を体得し、「内なる平和」と「外なる平和」とを求めることにあるといいうことです。
それを脳科学の分野から説明するためには、この世界観が有効ということです。


これ以上くわしくは書けないので、興味のある方は、毎月第4週が太田先生の禅ワークショップの時間になっていますので、そのときにお越しください。
 

HPの禅と茶の集いの案内にも記載してあります。



体験教室は、今日で最終回となりました。


7名の方がお見えになり、毎回ではなくても皆さんが複数回参加されました。


1回きりの坐禅体験ではなく、連続講座だったので段々お互いの気心も知れるようになり大変良い時間が過ごせたと思います。

禅と茶の集いは毎週ありますので、できれば続けてきていただければと思います。
参加された皆さん、講師の皆さんお疲れ様でした。



これからも金曜日の夜は、千葉中央コミュニティセンター5階和室でお会いしましょう。


義存 合掌


「禅と茶の集い」についてくわしくは、コチラ
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com
左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください。

 
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茶味 - 茶禅一味の茶について
4 和敬清寂
 
和 … 自他不二
 
ところで茶道では、すべての道具を扱う折、そのものの正面を自分にひきつけ相対して扱いますし、他に渡すには、正面を改めて相手の向きに変えるよう、廻して差し出すのが習いです。
相手が受け取りやすく、そのまま扱えるように心を配ります。
日常生活でもすぐ役立つ所作といえましょう。
こうして、道具を仲立ちとして人と人の心が通い合いますが、これは、扱う人と道具の和でもあります。
道具は人の営みの用にたつよう作られるわけですが、どのような道具であれ、道具と真向って、心をこめて扱うならば麁相は少なく、見る人の心を安らかに和ませるでしょう。
 
道具の扱いについては、先にも述べましたが、くり返し、くり返しの稽古にやがていつしか手なれて自分のからだの一部のように、あたかも手の延長のように感じられ、愛情がこめられてきます。
自他不二は、人と道具の間にも成り立つといってよいでしょう。
また、道具と道具の取り合せが、競い合わず、そむき合わず、支え補い合うならば物と物との調和の妙です。
道具立ての難しさと楽しさがここにあるのです。
もちろん高価なあるいは珍しい道具である必要はありません。
ありあわせの道具のなかでの工夫で十分なのです。
 
先に示した不審庵の露地のたたずまいの例のように、茶室と周囲の樹々、飛石と飛石のわたり、そして石と苔など,永年の丹精によって、すべてがしっとりと融和して、山里の趣を実現しています。
小さな庭にもかかわらず大自然の気韻をたたえています。
ごくありふれた草木や石でありながら各々処を得て、何の障りもなく、ここに歩を進めればたちまち一大調和の世界に包まれるでしょう。
「清浄無垢の仏世界」であります。
 
周囲の景観の優れた所を、茶庭の延長として取り込み、その力を借りることを借景と言いますが、借景も調和による風趣ということができます。
堺に住んだ利休は、海を臨むよい景色のところに茶室を作りましたが、海にむかって樹木を植え、手水鉢の辺りから、木の間越しに、白い波がわずかに眺められるよう工夫したということです。
広大な海そのままが見えたのでは如何にも趣に乏しいので、樹々を通して垣間見るようにして、巧みに露地の景の一部に取り込んだわけです。
非凡な美意識がなくてはできない作庭の例かと思いますが、小さな茶室は奥深さをまし、見はるかす海はその広さをおごらず、渾然と一体となってとけ合っているのです。
 
===
これは、故緝熙庵慧純老禅子が千葉大学教養部の総合科目『東洋的無』(1985年)でなさった講義をもとに、ご自身が著わされたものです。
 
本名;内田ふき
医学博士
茶道:有楽流
人間禅:師家分上
 
合掌
惟然 拝
 
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柏屋の薄皮饅頭 ‼︎

カテゴリ : 
ブログ » 随想・日常
執筆 : 
惟然 2015/6/23 23:50
えっ?突然何を言いだすのかって?
まあ聞いて下さい。
 
私はこの饅頭が大好きです。
 
決して女房が福島県出身だから贔屓目に見ているという訳ではありません。
 
まず大きさ。
これより大きくても小さくてもいけません。
これより大きければエゲツなく、小さければ何か肩透かしを食らったような感じになります。
何事も程よいということが大切です。
 
次に餡子。絶妙なバランスの塩加減と甘さ。
おそらく、「この塩じゃないとダメだ‼︎ 」「この砂糖じゃないとダメだ‼︎ 」と、吟味に吟味を重ねているのでしょう。
小豆も多分「どこどこ産のものだ‼︎ 」と言っているに違いありません。
アアー、こう書いているうちにも口の中に唾液が溜まってヨダレが出そうです。
 
素材選びも、人材と同様大切なことです。
 
次に皮。名は体を表すと申しますが、その名の通り薄い皮で包まれています。
その薄い皮に更に超薄い透明なコーティングがされています。
おそらく、これも「どこ何処の新鮮な卵の卵白じゃないとイカン!」 と言っているかどうかは分かりませんが、ともかく絶妙な厚さと味であります。
と 、手に取ってよく見ると、なっ、何と底には皮がありません。
餡子が丸見えです。
でも大丈夫。
あの極うすのコーティングが餡子の流出を防いでいるのです。
なんと小粋な、それでいて艶っぽい演出でしょうか。
 
ともかく私は最初にも申したように柏屋の薄皮饅頭が大好きです。

合掌 輝雲

ーーー
原稿は

で、聡明なる房総支部のみなさまには私が何を言いたいのかとっくにお見透しの事と思います。
そうです。意識下の自分とは薄っぺらの皮を見ているようなものです。これが何時も自分だと思っている自分です。
無意識下の自分はあの大部分を占めている餡子です。オギャーと生まれてから積みに積み重ねた餡子です。これは練りに練り上げなければ、上質な乙な味の餡子にはなりません。数息觀を行じ、陰徳を積むことが大切なわけです。
・・・
と続きます

合掌
惟然 拝

 
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暑くもなく寒くもなく、梅雨の最中にも拘らず湿度も丁度良く快適な陽気の中で、私としては気持ちよく坐る(坐禅・座禅する)ことができました。
 
本日(21日)の日曜静坐会の参加者は15名。
「茨城支部 潮来道場」での摂心会に参加された方がおりましたので、普段より少数でした。
 
坐禅終了後の懇談会で、道場の先輩から「数息観(*)」ができるようになりましたかと訊かれましたが、雑念ばかりで本来の「数息観」ができるようになるにはまだまだ時間が必要です。
少しでもましな「数息観」が出来るように、今後とも頑張って行きたいと思っております。
 
帰りには 「小川農園」小川居士ご夫妻が丹精込めて育てた朝採りの「トマトと紫キャベツ」をお安く分けてもらい家内への土産にしました。
 
合掌 一心
 
ーー
編者註
数息観(すうそくかん)
数息観というのは、坐禅を組んで、静かに自分の息を勘定する修養の方法
 
正しく取り組めば誰でも「数息観」はできるようになり、坐り方(坐法)を誤れば誰でも「数息観」ができなくなると考えています。
つまり、「数息観」が続くどうかが、正しい坐り方(坐法)ができているかどうかの基準となり、その状態は、姿(坐相:ざそう)となって表れます。
故磨甎庵老師は、学生に坐り方(坐禅・座禅のしかた)を指導する際、「形には心がある」と付け加えられていました。
見る人が見れば、数息観が続いている状態か、雑念が続いている状態かは分かります。
そこで、助警は静坐(坐禅)中に坐相(坐っている状態)を正して回り、直された人と助警は合掌しあうのです。
坐相を正されたとき「ありがとう、またお願いします」と感じるか、「偉そうにオレのやり方を邪魔しやがって・・」と感じるかによって、効果がまったく違ってきます。
もちろん、助警自信の見立てが問われ、ひいては助警との信頼関係が問われていることでもあります。
凡人の私としては、ご縁のある多くの人に正しい坐相と数息観を手に入れてほしいと願っています。
皆様はいかがでしょうか?

合掌 惟然 拝
 
 
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今日6月19日は禅体験教室の第3回目です。
 
今日は、禅と茶というテーマで栗田和夫さんに話をしていただき、そのあとは、会場を茶室に移して実際にお茶を味わいました。
 
 
栗田さんは、ご自分の禅との出会いやお茶との出会いの体験を交えながら分かりやすくお話をしてくれました。
 
栗田さんは、仕事でも幕張海浜公園内にある美浜園の茶室、松籟亭の建設に関わった方で、そのエピソードなどを聞かせてくれました。
 
まだ行ったことのない方は、ぜひ一度足を運ぶことをお勧めします。
 
茶禅一味ということについて、次のような話をしてくれました。
 
1 日本古来「道」と称される行いに、剣道・柔道・弓道・香道・書道などが茶の湯の世界も「茶道」として一翼を担っており、「道」とは人間形成の道なのである。
 
2 茶禅一味の本来の意とするところは「三昧」にある。
 
3 お茶のお点前での茶事修行として、「気続立て」という言葉がありますが、これが茶事三昧の行いです。
茶筅と自己が不二となり、自己が茶筅か茶筅が自己か、という「忘筅」とも言われている言葉です。
 
自分で驚くことがありますが、「あっ、お茶がたっていた」というときがあります。
頭で考えながらやると手順を間違えてしまうものです。
 
この言葉には、一同驚きました。
 
茶室では、この話よりさらに深くお茶についての話をしました。
お茶をたてるときのあらゆる音は、自然の音を表していること。
 
掛け軸でそのときの茶室の精神性を統一することなどです。
 
 
今日の掛け軸は、「掬水月在手 弄花香満衣」(耕雲庵立田英山老師)

花はあじさい。お菓子は山田屋まんじゅうでした。
 
 
体験教室は、来週が最終回となります。
 
来週26日は、「脳科学と禅」というテーマで、禅歴50年の現役の精神科医の話を聞くことができます。
 
たぶん他のどんな会でも滅多に聞くことができない話になると思いますので。この会だけでもご参加ください。
 
それでは来週お会いしましょう。
 
義存 合掌
 
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茶味 - 茶禅一味の茶について
4 和敬清寂
 
和について … 直心の交わり(2)
 
まことに人と人との和とは、主客が互いに、茶禅一味の行によって、真実の自己、仏性を悟った上ではじめて成り立つのです。
そこは仏世界そのものといえるでしょう。
自己の本心本性を仏性と悟ってみれば、自分のみならず、相手にもまったく同じ仏性があることが会得されます。
「一切の衆生は悉く仏性を具有す」です。
まったく一味平等の仏性を一人一人すべてがもっています。
 
こうして、相互理解は全人的なものとなり、人間存在のもっとも根源の深いところで、まことのものになるわけです。
ここに徹底すれば自他の差別がなくなり、不二一如の妙境が開けてくるといえるでしょう。
これを宗教的な形に表せば、合掌の相(すがた)ということができますが、合掌については敬のところで述べたいと思います。
 
奥田正造先生の『茶味』の冒頭に次のような佳話が掲げられております。
細川忠興が、帰国に際して、秘蔵の虚堂(きどう)の墨跡の拝見を紀州大納言頼宣のその家臣渡辺直綱を通して望んだところ、送別の茶会に招かれた。ところが、茶席の床には案に相違して、清拙の墨跡の祝いの掛物がかけてあった。とにかく、ゆっくりと物語りの後、忠興は、心得ぬ今日のもてなしぶりよ、と思いながら退出しようとしたとき、
 
「廊下の杉戸の蔭にさしひかえた直綱は前にさし置いた箱から一軸を取り出し、御口上にて候と声をかけた。それを聞いて忠興は静に坐して、手を膝におさめると、直綱は言葉を改めて、主人頼宣の申し候には、重ねての御出府も測り難ければ、末期の御思ひ出に虚堂の墨跡御所望との御仰せごとには候へども、斯くては誠に心淋しく存ぜられ候。
今後幾度も御参府相成る様御祝ひの為、今日は態(わざ)とさしひかへ、追つけ御息災にて御参府の節に、ゆるゆると御覧に入れ度しとの御事にて候。さり乍ら是非にとの御所望ならば、御約束も致し置き候事故、書院にかけて御覧に入れ置けよとの事にて、只今茲まで持参仕り候とて、前の軸を箱にのせたるまま忠興へすすめた。
 
之を聞き、忠興は軸を取っておし頂き、さる御計らひとは露存ぜず、所望せし墨跡の拝見せらりざりしを残念に存ぜしに、只今承って御心入れの程有がたく、御礼何とも言葉につくし難く候。この上は御賢慮の如く幾度も参府致し、その節重ねて拝見仕り候はむとて、そのままにして帰邸したといふ。」
 
そして、これを受けて「賓主応接の礼、彼此談論の和は、げにかくありたい、さうしてこのやうな心持はお茶からでなければ出て来ないやうに思ふ」と結んでいます。
 
言葉や行いが、まことの心の発露であるとき、対する人は感動するのです。
そこに肝胆相照らす和の世界が表われてくるのです。
 
===
これは、故緝熙庵慧純老禅子が千葉大学教養部の総合科目『東洋的無』(1985年)でなさった講義をもとに、ご自身が著わされたものです。
 
本名;内田ふき
医学博士
茶道:有楽流
人間禅:師家分上
 
合掌
惟然 拝
 
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池谷裕二の[心] 無意識下の真の自分

カテゴリ : 
ブログ » 随想・日常
執筆 : 
惟然 2015/6/16 6:10
池谷裕二という人の幸福論が週間朝日5月22日号に掲載されています。
脳研究者というだけあって、ある論文を引用し興味深い話しを提供しています。
 
当たり前のことなのですが、要点をかいつまんでみますとおよそ次のようになります。
 
心には二つの世界があります。
意識と無意識です。普段は意識に上る世界しか意識的に感じませんから、つい意識の自分こそが真の自分であると勘違いしがちです。
しかし、水面下に広がる無意識の影響は無視できません。
いや、むしろ無意識の支配力は圧倒的で、真の私は無意識に存在すると言っても過言ではありません。
 
身体に癌を持っている人が、私は健康だと思っていても、本人が信じているのならば、と放置できません。
この原理は、心の健康にも当てはまります。幸せを、当人の意識だけで定義することはできないはずです。
 
とまあ、こういう事を言っています。
 
悟りについても同じでしょう。
悟りを開いたと当人が思っていても、本人が信じているのならばそれでよいと放置するのは、はなはだ不親切というものです。
物事の真偽を見極めるのはそう簡単ではありません。
それで私たちは、無意識下の真の自分にせまるべく禅門を叩くわけであります。
 
合掌 輝雲
昨日(14日(日))、横浜馬車道の横浜市青少年育成センター(関内ホール)でやっているという横浜座禅クラブに行ってみました。
 
5月に市川の本部道場で、千葉大禅の会の先輩の(萬耀庵)閑徹さんと話をする機会があり、紹介されていたものです。
 
今回は、たまたま前日(13日)より横浜に来ていたので、帰りがけに寄ってみることにしていました。
しかし、トラブルもあって関内ホールに到着できたのはかなり遅くなり、もう終わり間近でした。
 
迷いながらも、横浜市青少年育成センターの掲示板をみつけると、「横浜座禅クラブ」の案内があり安心しました。
  

和室は地下2階にありました。
 
さて、着いた時にはとっくに静坐(座禅)は終わり、ちょうど如々庵老師(芳賀幸四郎博士)の「一行物」の抜粋を読み終えるところだったそうです。
 
私も、和やかな雰囲気の輪に加わえていただき、しばし歓談いたしました。
大寂さん、劫音さん、親切に対応していただき、ありがとうございました。
 
 
 
次の「横浜座禅クラブ」は、7月5日(日)
 
時間 午前9時30分~12時30分
場所 横浜市青少年育成センター(関内ホール)
   地下2階 和室
 
合掌
惟然 拝

日曜静坐会レポート 静寂

カテゴリ : 
ブログ » 静坐会・行事
執筆 : 
惟然 2015/6/14 23:50
本日(14日)の日曜静坐会は、ここ一ヶ月ほど続けて参加している人と、座禅会のメンバーも加わり総勢24名でした。
気候も曇りで、過ごし易い中での座禅でした。
鶯の声も遠くに聞こえ、その他の音も聞こえず、静寂の中でのよい座禅会で、このまま終了するかと思われましたが、終了間際に携帯電話の着信音が鳴り出しました。
携帯の電源は切っておくか、マナーモードにお願いします。
 
 
住んでいる団地で、子供みこしの保存会の手伝いをしています。
手伝いのひとつが、団地の人々の中を回り寄付金を集めることです。
寄付金は1000円です。
ほとんどの人が協力的で親切ですが、やはり1000円といえども戴くのは大変なことであり、最新の注意が必要であります。
 
勝手に門の中に入ってはいけないし、お客がいる場合は、出直さなければなりません。
断られることも度々あります。
さすがに断られるのが続くと少しへこみますが、托鉢もこんな状況かなと思いながらやっています。
 
感想としては、女性のほうが協力的であり、断るのは男性が多いです。
協力的で立派な男性も多くいますが、日本の男性はどうかしてしまったのではないですかね。
それともこれが現実ですかね。
 
女は三界に家なし、と言ったのは誰ですかね?
 
鐘声
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