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房総坐禅道場
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房総ブログ - 惟然さんのエントリ

夏の摂心会2日目 猛暑の中の作務

カテゴリ : 
ブログ » 静坐会・行事
執筆 : 
惟然 2015/8/10 23:50
房総道場の敷地は1900坪と広い。
作務では、剪定などを行っている。
猛暑で汗が噴き出る。

静坐(坐禅・座禅)は本堂で行っている。
エアコンがあるとはいえ、汗が流れる。
 
合掌
惟然 拝
 
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厳しい暑さの中、本日(9日)より房総坐禅(座禅)道場で、第164回人間前房総支部摂心会が始まりました。
 
昨晩、結制茶礼がありました。
金峰庵老師の
垂示(お話)は、房総支部の夏の摂心会の伝統のこと、坐禅修行の基本中の基本についてなど、でした。
 
合掌
惟然 拝
 
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今日(8日)は千葉の気温は38度という記録的な暑さでした。
会う人会う人と暑いですねえとお互いに声をかけてしまいます。
暑いと言っても涼しくはならないのですがそう言わずにはいられないほど暑いです。
 
今日は第1週なのでいつものとおり読者会からです。
 
ネルケ無法さんの「日本人に宗教は要らない」の続きです。
 
子育てに関しても日本と欧米では違いがあるようです。
 
日本人は親と子の間に境界線がないと書いたが、これはこれまで触れてきた「日本人の持っているつながっている感覚と関係している。
日本の親は、「わが子は自分とつながっていて、まるで自分の分身のような存在」だと思っている。だから自殺するときには、子供を連れて無理心中をしようとする親がいるのだろう。
欧米人にはそのような感覚はあまりない。
 
これについては、絶対的な神がいるキリスト教では「厳しい父なるもの」という感覚があることに対し、日本人の精神世界の中心には「優しいおかあさん」いるのではないかというのがネルケさんの分析です。
 
さて、次はお茶の時間です。
 
今日は、森本さんのお点前でした。
 
こんな日には、水茶にしないと季節感がなくなるということで、冷たいお茶を頂きました。
お菓子は楽花生もなかでした。
 
 
そのあとは、早めに坐禅に入りじっくり坐りました。
 
明日から、房総坐禅道場では摂心が始まります。
 
8日から155日まで、できるだけ道場で集中して坐禅に取り組み、入門している人は老師に参禅します。
 
気温が高いので作務(作業)が大変なことが予想されますが、各自できるだけ道場にいる時間を長くしようと工夫します。
 
夜7時半からは、老師の提唱(禅の話)もあります。
 
この時間だけ来ていただいてもかまいません。
ただし、7時前には来てください。
 
摂心中も道場への出入りは自由ですのでおいでください。
できれば事前にご連絡をいただけると助かります。
 
禅と茶の集いのメンバーも、摂心に参加する人が多いので来週はお休みです。
 
次回は8月21日午後6時からです。
 
お待ちしています。
 
義存 合掌
 
「禅と茶の集い」についてくわしくは、コチラ
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com
左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください
 
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セミしぐれの中、8月の緝熙会(しゅうきかい)(*1)が1日(土)に行われました。
今回の参加者は、しばらくお休みされた方、ネットで道場のことを知りはじめて参加された方も加わり、全員で8名でした。
緝熙寮部屋が狭く感じるほどでした。
 
坐禅(座禅)が初めてという方がいらしたので、静坐(*2)は15分と20分で行いました。
体中から汗がふき出し、その汗と戦いながらの静坐でしたが、夏が来たと夏を実感しました。
 
静坐後の輪読では、坐禅和讃新講の輪読はお休みして、
以前緝熙会で金峰庵老師をおよびしてお話いただいた法話を記録したもの(*3)を輪読しました。
 
その中で
坐禅の修行は、『天行健なり、君子自きょうして息まず(*4)』という語が、その本質を表している。
という部分が話題になりました。
人間は他の動物たちと違って、自然のまま放置すると病になる。だから常に人間形成に努めなければならない。
という意味ですが、あらためて『自きょうしてやまず』という言葉の意味を、かみしめました。
 
合掌
水精 拝
 
ーーー
編者註
*1 緝熙会(しゅうきかい)⇒ここ
:女性のための静坐会 毎月第一土曜日(原則) 午前9:00~11:30
平成18年に帰寂された緝煕庵(しゅうきあん)内田慧純老禅子(師家分上)にちなむ
 
*2 静坐(せいざ)
:坐禅をすること。禅には『静中の工夫』『動中の工夫』があり、静坐は前者である。
 
*3 緝熙会における金峰庵老師の法話
於四街道坐禅塾 2013(H25).8.14
『あけぼの』(人間禅女性部機関紙)21号に掲載
 
房総ブログより
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*4 天行健なり、君子自彊(じきょう)して息まず
:金峰庵老師の法話(10/10) 手をたずさえて より
「(磨甎庵)老師は常々、坐禅の修行は、中国の易経という書物にある『天行健なり、君子自きょうして息(や)まず』という語が、よくその本質を表していると説かれていました。」
 
合掌
惟然 拝
 
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逆もまた真なりで、作務が三昧になって出来た後の静坐はよく座れるということもよく経験することです。
よく座れるとは、雑念と格闘せずに、割りと難なく数息三昧に入っていけるということです。
 
やはり、人間は動物です。
なるだけ身体を使った方がよい。
(私は口を使い過ぎです。誰ですか?ここで大きく頷くのは)
バランスのよい筋肉疲労が毎日適度にあったほうがよい。
その方が、良い思慮分別が生まれると思います。
 
仕事で身体を壊すのはバランスの悪い一極集中型の過度の疲労が蓄積するからです。
(それは筋肉だけではなくて脳味噌も同じです。)
 
私の持病は腰痛ですが3日間休日が続くと殆んど良くなります。
"ああこのまま仕事をやめたら腰痛から解放されるのになあ" と思うことがあります。
 
過ぎたるは及ばざるが如し、といいますが、起きてから寝るまで、本ばかり読んでいるという人(つまり脳味噌の一部分の使い過ぎ)には、あまり良い思慮分別が生まれないのではと思います。
一日中PC画面とにらめっこというのも良くないし、朝から晩まで単純作業で奴隷のように働かされている人も同様だと思います。
いわゆる『学習性無力感(*)』というやつです。
これは私の造語ではなくて心理学をかじった人なら知ってると思いますが、きちんとした定義のある心理学用語です。
現在も世界中各地で悲惨な状況が繰り広げられています。
 
時の権力者が、これを利用して人々を苦難のどん底に落ち入らせたことは周知の事実ですし、現在も続いています。
ちょつと話が飛躍し過ぎたかな。
 
ともかく人には、愛するひと(または人々)、冗談、ユーモア、未来への希望が必要です。
 
よく遊びよく学べ、だと思います。
 
でも、テレビのドキュメンタリー番組なんか見ていると今のサラリーマンは大変だなぁ〜、よく気が狂わないなぁ〜、と思うことがあります。
 
でも、私だって毎日10時間以上働いているのですよ。
例えて言うなら、毎日、100人から多い時で200人近く面接官の仕事をしているようなものです。
耳鼻のど5か所(2+2+1=5)の穴を毎日1000回くらい覗くのが私の仕事です。
勿論、私には覗き趣味はありません。誤解無きよう。
 
だっ、誰ですか?「それで頭が少しおかしいんだ。」なんて言っているのは。
 
某「それはいいんだよ、輝雲さん。そんなことはみんなわかっているの。
 それより、タイトルの静中動の工夫ってどういうこと?」
私「ああ、御免ゴメン。つい話が横道にそれちゃって。
 なんでもないのよ。ただそういう工夫もあるのかと思って。」
某「どういうことよ。」
私「それ、わたし助警させてもらっているでしょ。それで思ったわけ。
 親指をブラブラと不規則運動させながら座っている人とか。
 上半身を振り子時計みたいに揺身しながら座っている人とか。よく目立つのよ。」
某「それでぇ。」(段々といぶかしげな顔になる)
私「でも参禅タイムになって自分の番が来ると、すかさずスッと合掌して何事もなかったかのようにスッと立って入室するのよ。」
某「それでぇ。」(益々いぶかしげな顔になる。)
私「それで思ったの。静坐中に動を加えて工夫するのもアリなのかなぁ〜って。」
某「••••••馬鹿。」
 
と、ここまで下らない文章に付き合ってくれた皆様に感謝いたします。
 
以上でこの項は終りですが、ここまで読んだのですから、もう少し付きあって下さい。
 
(つづく)
 
輝雲
 
=====
編者註
*学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、英: Learned helplessness):
長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。他の訳語に学習性絶望感、獲得された無力感、学習性無気力がある。
 
合掌
惟然 拝

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本年も早8月に入り、坐禅道場駐車場前の稲田の穂が大きくなり、見た目には豊作が見込まれます。
 
今日(8月2日)の日曜静坐会の参加者は21名でした。
「8月8日からの摂心会」の準備作務があるため、道場の先輩方が多く見えました。
 
まずは静坐前に庭いっぱいにシートを敷き約30人分の布団・毛布等を干しましたが、朝からの猛暑で皆さん大汗をかきました。
 
9時からの坐禅はエアコンの静かな音と時折聞こえる野鳥の鳴き声の中で行われ快適でした。 
 
坐禅終了後、都合のつく方は猛暑の中熱中症にならないように美味しい麦茶と小梅で水分と塩分を補給しながら、庭掃除・食器の準備等諸々の摂心会のための準備作務を午前中いっぱい行いました。
 
昼食にはおいしい混ぜご飯と季節の野菜の煮物等をご馳走になりました。 
 
午後はよく乾いた布団等を収納後、摂心会の打ち合わせ会議を行い3時頃散会しました。
 
連日の猛暑ですが、健康に留意し、8月8日から15日までの摂心会に予定どおり参加できるように万全を期したいと思います。
 
拝 一心
先週は、主人公の宗助が、禅寺に坐禅をしに行ったけれど、足は痛くなり公案の答えも出ず、苦戦を続けているというところまで書きました。
 
宗助はその後老師と面会し、参禅をして見解(公案の答え)を呈します。
 
宗助なりの何らかの答えを持っていったのですが、老師には、
「もっと、ぎろりとしたところを持ってこなければだめだ。そのくらいのことは少し学問をしたものならだれでも言える」
とあっさり否定されてしまいます。
 
ここで宗助は奮起して坐禅に打ち込まなければいけなかったのですが、どうも弱気になってしまい、用事を作っては寺の外に出たりして世俗のことが気になって仕方がありません。
 
「私のようなものにはとうてい悟りは開かれそうにありません」
と愚痴をこぼします。
 
世話係の僧からは、
「道は近きにあり、返ってこれを遠きに求むという言葉があるのが実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」
というアドバイスとも励ましとも取れる言葉をもらうのですが、宗助は十日間寺にいただけであきらめてしまいます。
 
自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、
「たたいてもだめだ。一人であけてはいれ」という声が聞こえてきただけであった。
中略
彼自身は長く門外にたたずむべき運命をもってうまれてきたものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門ならわざわざそこまでたどりつくのが矛盾であった。彼は後ろを顧みた。そしてとうていまた元の路へ引き返す勇気ももたなかった。彼は前をながめた。前には堅固な扉がいつまでも展望をさえぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。要するに彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
 
という残念な結果になってしまったわけです。
小説の中の話とはいえ、読んでいる私もがっかりします。
 
このようなことは、実際に私の周りでも何回も起こっています。
 
「禅と出会って、これこそが私の道だと思いました」と言って熱心に坐禅を始める人は多いのですが、それが3年5年と続くことはなかなか難しい。
 
どうしたら継続できるかということを自分なりに振り返ってみると、まずは自分の中に道を求める気持ちがあるかどうかが大切なのは言うまでもありません。
そしてこの人にならついていけるという師との出会い。
一緒に坐禅をしている友との出会いが大切だと思います。
 
くじけそうになったときにそこに坐禅をしている道友の姿を見ると、ここでやめたら友人にも申し訳ないと思い励まされます。
 
禅と茶の集いでは直接坐禅の老師と話ができるという機会はありませんが、毎週ここに来ると、必ずここには坐禅を続けている友人がいます。
久しぶりに来てもここには坐っている人がいます。これは力になります。
 
よほどの天才で無い限り、一人でやり続けることは困難です。
 
まあ、この会はもともとそんなに大上段に構えてくる会ではありませんし本格的な修行をする会でもないので、気が向いたから行ってみるという思いがある人はいつでも大歓迎です。
 
ということで、来週は8月7日6時からです。
どうぞおいでください。
 
義存 合掌
 
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小説中の宜道という若僧は雲水の釈宗活老師、禅の指導をする老僧は円覚寺の管長釈宗演老師がモデル、と聞いたことがありますが、いかがなのでしょう?
初則(最初の公案)の「父母未生以前における本来の面目」を含め、人間禅との縁を感じます。

合掌
惟然 拝

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子ども禅の会 感想文より

カテゴリ : 
ブログ » 静坐会・行事
執筆 : 
惟然 2015/7/31 23:50
子ども禅の会(7月25・26日)の感想文の一部(抜粋、要約)を紹介します。
雰囲気がわかれば幸いです。
 
 
ざぜんは、たのしかったです。
はなびもたのしかったです。
らいねんもきたいです。(1年)
 
 
ぼくは、まずターザンロープがあるのにきづきました。なぜあったのかわからないけど、はじめてやって面白かったです。
次に、もくてきちにつきました。そこは、ルールがたくさんあったけど、ひろくてきゅうけいができるなと思いました。
次に、ながしそうめんや、花火であそびました。とてもたのしかったです。
次は、ざぜんをはじめてやりました。はじめは、とてもむずかしかたです。
いろいろな先生におせわになって、とてもうれしかったです。(2年)
 
 
ご飯がおいしかった。なかでも、カレーライスがおいしかった。
一番楽しかったのは、ターザンロープでした。
バーベキューでは、焼きおにぎりがめっちゃおいしかった。
ほんとうにおもしろかったのは、しはん(師範)がなげたスイカを手でわったことです。(4年)
 
 
ぼくがサマーキャンプで、いちばん心に残ったのは花火です。
次に心に残ったのは座ぜんです。はじめのうちは、やりたくなかったけど、数回やるうちに慣れてきて、少し楽しくなりました。
その次に心に残ったのは食事です。黙って食べたので、億容れることなく、しかも、美味しかったのでよかったです。
他にも、キャンプファイヤーや、空手のけいこ、流しそうめんや、自由時間など、いろいろなことが楽しめたので、また来てみたいです。(6年)
 
 
房総道場の皆様に感謝申し上げます。
武道との共通事項が、数多くある事は知識としてわかっていましたが、気付くことがたくさんあり、これからの空手道の修行に活かしていきたく、
私自身と小さい弟子達にこの場所の提供と、空間、時間をありがとうございました。
これからも変わらずお互いの交流を深めていくためにも、変わらず宜しくお願いいたします。
この書面をかりまして、岸・登坂先生はじめ関係者のみなさまに御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
 
国際空手道円心会館
 増田道場 師範 増田浩二
 
以上
 

他にも、まだ残る自然が印象に残ったことなど書かれたものがありあした。
クワガタムシを捕まえて帰したこと、羽化したばかりで柔らかい羽根のセミとセミの抜け殻を見つけたこと、夜の散歩でホタルを探したことなど。


合掌
惟然 拝

茶禅一味の茶について(22) 寂について(1)

カテゴリ : 
ブログ » 人間禅
執筆 : 
惟然 2015/7/29 6:20
茶味 - 茶禅一味の茶について
4 和敬清寂
 
寂について(1)
 
普通、寂とは、静寂、閑寂、寂莫、寂滅などの熟語があり、しずか、さびしい、やすらかの意味をもっています。
 
ところで寂の気分を示す例として有名な話があります。
ある日、織田信長が、小姓の森蘭丸に、障子をしめてくるよう命じたので、蘭丸が障子のところに行ってみると、すでにぴったりと閉められていました。
蘭丸は一瞬はてと思ったが、さすがに賢い彼は、咄嗟に、音のしないようわずかに障子を開けてから、軽くぴしゃりと音をたてて閉め直したということです。
まったく音のしない閑静な部屋のなかに、わずかに響く障子の音によって、むしろ静寂の趣きがさらに際立って感じられたのでした。
信長は、このような蘭丸の才気を愛したと伝えられます。
 
深夜、時を刻む時計の音が、夜の静けさをひときわ強く感じさせるという経験をもつ人も多いかと思いますが、静寂を破る時計の音の存在によって、永遠につらなるその深さがあらわになるのです。
 
さて、茶道の理念とする寂は、和敬清寂の最後におかれています。
四字の徳はいずれも茶禅一味の篤実な行によって体得しなければ、その境涯を手に入れることはできませんが、とりわけ寂は本格の禅の行によってはじめて啓かれる、深い悟りそのものの境涯ですから、この小論の届くところではありません。
ここではせめて、その一端を垣間見ることにいたしましょう。
 
世塵を払って入った茶席では、主客ともに自から無言となり、静寂のなかに点茶がすすめられて行きます。
亭主の点前座からさまざまに響く音が、より鮮やかに静寂の気分を拡げます。
釜の湯が煮えたぎる音、これを松風と言いますが、その韻律は、静かで幽玄な趣をかもし出します。
そのなかに、谷川のせせらぎのような茶筅をすすぐ音、茶杓についた茶の粉を払うために茶碗のふちを打つ音は、深山に樵の斧の響きを伝えます。
さらにまた、柄杓から茶碗にそそぐ湯水の音は、山の清水の筧(かけい)から落ちる水音に模されます。
 
露地においても筧の水音、亭主の打ち水の音など、巧みに工夫された響きを、主客ともに端座して三昧に聴き入ると、いつしか深山の真只中にあるような寂静の境に導かれます。
草庵の茶境ならではの寂(しず)けさです。
こうして世塵を払い洗心の行をつんでいけば、次第に、純一無雑に心耳を傾けられるようになり、やがては、茶の湯に打成一片となり、身心脱落し見性することでしょう。
それには、年月の長いことをいとわず、日々の行をまことにして茶禅一味に徹しなければなりません。
 
(つづく)
===
これは、故緝熙庵慧純老禅子が千葉大学教養部の総合科目『東洋的無』(1985年)でなさった講義をもとに、ご自身が著わされたものです。
 
本名;内田ふき
医学博士
茶道:有楽流
人間禅:師家分上
 
次回が最終回となります。
次に何をご紹介しようか思案しております。
良いお知恵があればお教えください。
 
合掌
惟然 拝

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静中動の工夫(2/7) 作務の分担

カテゴリ : 
ブログ » 随想・日常
執筆 : 
惟然 2015/7/28 23:10
作務について "段取り・真剣・尻ぬぐい"とよく言われますが、段取りがしっかり出来ていないと動中の工夫がおぼつきません。
 
ですから、作務の割り当ては特に注意を要します。
初心者には、あまり複雑な手順の段取りが必要な作務は適していません。
掃き掃除とか草取りとかがよいと思います。
そのほうが動中の工夫に入りやすいでしょう。
 
典座の補佐にもあまり初心者は当てない方がよいかと思います。
何故かと申しますと、工程が複雑なことがあるので日常的な単なる作業に陥りやすい、それにも増してよくないのは、会話を必要とすることです。
会話は完全に意識を大脳皮質の言語中枢野にもっていかれます。
これで初心者に動中の工夫をしろと言っても無理な話しでしょう。
 
摂心会で特に雑談を禁止するのも、各人が直面している課題、入門以前なら数息三昧、入門者なら公案の工夫三昧にお互い没頭できるようにとの配慮からなのです。
ゴルフをやっている人なら当たり前のことですが、他人がボールを打つときは無言な訳です。
それがマナーなのです。
摂心会ではそれが終日続くわけです。
もしあなたが用もないのに人に話しかけたら、その人の修行の邪魔をしていることになります。
まわりに人がいるのに、二人で傍若無人に大声で話しあっていたりするのも、いただけない光景です。
見識を疑います。
 
ですから、新到者のあなたが初めて摂心会に参加したら、全体が冷たい個人主義者の集団のように感じるかもしれませんが、実際は温かい人間味の豊かな人ばかりなのです。
 
ともかく、作務の割り当ては各自が動中の工夫がしやすいような環境を設定しなければいけません。
 
もっとも、各人の身体能力や、作業の効率も考慮しないといけないので、難しいことは難しいと思います。
が、直日の最も重要な責務は、作務の割り当てにあるといっても過言ではないと思っています。
 
作務終了の合図つまり板木が鳴れば、作務を止め後片付けをします。
直日が集合をかければ、全員整列して、作務の進捗状況を各自報告します。
以前、こんなことがありました。
 
直「輝雲、そっちの方はどうだ?」
私「ハイ、だいたい終わりました。」
直「ん? だいたいとは何だ、だいたいとは!何処から何処までやったかハッキリ言えるような作務をしろ!」
私「・・・・( もしかして、直日、指示した作務内容、忘れちゃったんじゃないの〜)・・はいっ。」
 
いやいや、そんな事ではないのです。
これは大変重要な事なのです。
禅者の行ずる作務というのは、"仕事をやって何ぼ"の世界ではないのです。
正念を相続させる為の行なのですから、その結果も明白であるべきなのです。
 
近江商人の通った路の跡には、ペンペン草も生えない・・と、その徹底した商人根性ぶりを表していますが、そのくらい徹底して行じなければいけないということでしょう。
 
最後に、"尻ぬぐいをよくして、手足をよく洗って、上がって下さい。"となるわけです。
 
(つづく)
 
輝雲
 
ーー
編者註
 
典座(てんぞ)
禅の修行道場における食を司る役位。修行歴の長い(修行が進んだ)者が担当する。
一般に炊事係は新米の役回りとされたり、低く見られがちであるが、食事の調理、喫飯も重要な修行場である。
 
合掌 惟然 拝


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