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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

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房総ブログ - 最新エントリー

『数息観のすすめ(新装版)』(平成17年)には、
初版(昭和29年)にはない『坐禅儀』が付録されています。
 
白いB6サイズから、緑のA5サイズに変わった以上に
大きな変化であると、今更ながら有難く感謝します。 惟然
 
==
<坐禅儀註>より
 
1・坐禅儀
 
この坐禅儀は、道元禅師の『普勧坐禅儀』と異り作者不詳である。
その前文に次の如くある。
 
「おもうに仏々祖々修定するところの儀則にして道を慕う勝士の伝習する所なり。
もとより由あるが故に、百丈の祖、特に立すると雖も、章を述ぶることをもちいず。
その儀、常に存す。
然るに歳月はるかに遠くして凋弊おのずから出ず、泛々(ぼうぼう:うっかり)として叢林に老ゆる者亦少なからず。
ここを以て東陽、勅を以て清規(しんき)を修むるに及んで、すなわち嘗て伝の存するところの儀をあげて以てこれ等の徒にのこす。」
 
つまりは長い間叢林で伝えられたものをまとめたものである。
その内容は10節あって、
 1.禅の本意を述べ、
 2.身の形相を示し、
 3.坐の法則をおしえ、
 4.坐の不正を督(いま)しめ、
 5.正しく禅病を明らかにし、
 6.禅の安心を示し、
 7.魔の境涯を明らかにし、
 8.動中の工夫を説き、
 9.禅定の要を掲げ、
10.総べ結んでこれを勧む。
 
==
『数息観のすすめ』の新装版に『坐禅儀』が載っていることをしばらくして気が付きました。
 
『坐禅儀』の本文は、私にとっては難解な言葉が多く、きちんと読めませんが、
短いとはいえ「4坐の不正をいましめ」の部分に感激しました。
 
坐り方をどのように誤ると、心身にどのような障害が出るのか
いまとても関心があります。
というのも、
自分自信が坐り方を間違え、坐相を乱しひどい目にあったのと、
自分が『坐禅の仕方』を説明する立場になったときに、
知っていなければならない必須の事柄だと
いま痛感しています。
 
この『坐禅儀註』で衝撃をうけたのは
「泛々(ぼうぼう:うっかり)として叢林に老ゆる者亦少なからず。」
の部分です。
「正しい坐り方をしないと、時間ばかり無駄に経ってしまう」ことを
当時から予言しています。(誰のことを?)
 
では、「正しい坐り方をしないと、時間ばかり無駄に経ってしまう」ことに
気が付いたのは誰でしょう?
 
指導的な立場の人が、大衆を見て歎き、叱咤激励しているのでしょうか?
それとも、自らの体験を悔いて、後の世代の戒めにして欲しいと願ったのでしょうか?
おそらく、後者であろうと感じています。
よく人は、自分がそうであるとき、「そういう人は少なくない」というものです。
「作者不詳」というのもわかります。
皆さんは、どちらだと思いますか?
 
 
何かを読んだときに、どこに注目するか、どう評価するかは、
人によって、また、その人のその時の状況によってちがうものです。
ですから、
私は「○○という本を読んでごらんなさい」と言われても意図を理解する力はありませんし、
また、「○○という本を読んでみませんか」という言い方もできません。
ただ、「○○という本を読んで×××と思った」とは言えます。
ですから、ここでもそういう独り言をならべていくことになると思います。
 
合掌
11月2日(土)に、女性のための静坐会 『緝煕会』の例会を開きました。
その様子の一部をご報告いたします。
次回は12月7日(土)です。どうぞご参加ください。 慧玉

===
日一日と秋の深まりを感じます。

四街道坐禅塾のお茶室に、朝8:30前には皆が集まり、手分けして、部屋の清掃と
玄関まわりの掃除、炭をおこしてお茶の準備にかかりました。

9:10からは母屋の禅堂で、1炷香の坐禅(座禅)です。

家で一人で坐るのと違い、静かな禅堂で
仲間と一緒に坐禅をするのは本当に気持ちのよいものです。

坐禅のあとは、庭にある茶室「濯月庵」に移動し、
今年の8月に開催された『金峰庵老師を囲む会』の折、
お話いただいた法話の原稿を持ち寄って、輪読しました。

一度お聞きした内容のはずが、聞き逃していた言葉もあり、
いくつも新しい発見がありました。
拝聴したときの心に染入るような思いを、みんなでもう一度味わいました。

法話の内容を、ほんの一部ですが抜粋させていただきます。

詩人 坂村真民さんの詩を引用しながら、易しい言葉で語られています。



8月 緝煕会における  『金峰庵老師法話』の一部

 坐禅を修して心の静けさを取り戻しますと、どうしようもない苦しみに
出会った場合 などにもジタバタしなくなる。決してそれから逃げ出すの
ではなく、それを引き受けて、前進していく しかしないもの であると いう
決定の心を呼び起こすことができるような気も致します。

 人生には、並大抵でない色々な出来事が待ち構えている訳でありまして、
自分では背負いきれないような難儀に出くわしますと、誰でもあわてる。
静かに坐ってみる などという悠長なことどころではないという場面も経験
することがあると思います。

 あまりの苦しさに落ち込んでしまって、どうしようもなくなり、身動きが取れ
なくなること も あると思います。

 実はこんな時にこそよく坐るとよい。

 皆さんは坂村真民という詩人をご存知でしょうか。数年前に97才の長寿
を全うした詩人で、私も少なからぬご縁をいただいた方ですが、
「念ずれば花ひらく」という詩を代表作にもつ国民詩人とも言える方で
あります。

 この坂村真民さんの詩に「死のうと思う日はないが」と題する詩があります。

   死のうと思う日はないが、
   生きて行く力がなくなることがある。
   そんなとき、お寺を訪ね
   わたしは、ひとり仏陀の前に坐ってくる。
   力湧き、明日を思う心が出てくるまで、坐ってくる。

というものです。

 坂村真民さんも若い頃坐禅の修行を熱心に行った方でありますが、
これは実体験に 基づく詩であるだけに心に迫るものがあると同時に、
何か救いのようなものが感じられる詩であります。
                                                 
 ・・・・・・・・・・・・・

(法話の最後にまた坂村真民さんの詩を引用されています。)

 ・・・・・・・・・・・・・                                
  「二度とない人生だから」という詩がありますので、これをご紹介して
私の話しを終わりにしたいと思います。
 
   二度とない人生だから
   一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう
   一羽の鳥の声にも無心の耳を傾けてゆこう

   二度とない人生だから
   まず一番身近な者たちにできるだけのことをしよう
   貧しいけれどこころ豊かに接してゆこう

   二度とない人生だから
   つゆくさのつゆにも
   めぐり合いのふしぎを思い
   足をとどめてみつめてゆこう

   二度とない人生だから
   のぼる日 しずむ日
   まるい月 かけてゆく月
   四季それぞれの 星々の光にふれて
   わがこころを あらいきよめてゆこう

   
 ( この法話は今年度女性部発行の『あけぼの』に全文を掲載」いたします!)

合掌


道虔です
今日(11月3日)は朝9時から日曜静坐会の後
終了後4班に分かれて作務をしました。
 
先の台風で杉の木で作った掲揚塔が倒れてしまったので、
新しい掲揚塔を建て直しました。
併せて、来週に予定されている坐禅(座禅)体験セミナーの準備のため、
境内の清掃も行いました。
 
1班は掲揚塔を作る作業。
準備作務1班
(アルミ製のポールをつなぐ)
 
2班は掲揚塔設置基礎工事。
準備作務2班
(穴掘りとくい打ち)
 
3班は磨甎石まわりの清掃。
4班は玄関まわりや庭の清掃。
準備作務3班
(作務衣で作務のひともいます)
 
 
 
 
お昼までの作務の予定でしたが、
掲揚塔基礎工事の班は昼食をはさみ、
午後も引き続き作務を継続しました。
 
準備作務 午後1
(コンクリートを練る(コンクリート1,砂2,砂利3,水))
 
準備作務 午後2
(型枠の中に鉄筋を入れてコンクリートを流し込む)
 
 
道場での作務は「動中の工夫」といって座禅で得た力を座を立ってからも継続するための訓練であり、
古来「動中の工夫は静中の工夫に勝ること百千倍」と云われております。
 
もっとも、普段あまり肉体労働をしない人間にとっては、作業そのものが新鮮で、
大変やりがいのある事でもあります。
道場で座禅の修行をしながら庭仕事の仕方のみならず、コンクリートの練り方まで覚えられるのですから、
ホントに楽しいですね。(笑)
 
合掌
今月は、千葉市近郊で坐禅を体験する講座が2か所であります。
今からでも参加できます。いががでしょうか。
 
いずれも初心者も歓迎いたいます。
少しでも禅(坐禅)に興味・関心がありましたら、試しに体験してみませんか。
 
連絡先などは、房総ニュースを参照ください
 
 
**平日の午前 『坐禅体験教室』(無料)
 
1 日時:11月5日(火) 9時45分~12時30分
 
2 場所:千葉市コミュニティセンター 6階和室
 (千葉都市モノレール 千葉市役所下車)
 
3 受付:9時30分~10時
 
4 主催: 廻向会
 
連絡先などは、房総ニュースを参照ください
 
 
**日曜日 『坐禅体験講座(坐禅体験セミナー)』
 
1 日時:11月10日(日)午前10時~午後3時 
 
2 場所:房総坐禅道場(四街道市吉岡)
 (東京情報大学近く) 
 
3 概要:静坐(坐禅と数息観)の説明と実習
     講演、食事(禅堂の作法による)、懇談会他 
 
4 参加費:500円(食費、テキスト代等) 
 
房総ニュースを参照ください

今日11月1日(金)は、第1週なので6時からコミュニティセンターの5階和室で例会が開催されました。
参加者は7名でした。
 
第1週と3週は、読書会から始まります。
今輪読している本は、齋藤孝著の「こんなに面白かったニッポンの伝統芸能」です。
この前に読んだ本は、「禅と茶道」や「禅的生活」だったので、少しやわらかい本を読もうということでこの本を選びました。
取り上げられている項目は、「茶の湯」「歌舞伎」「能」「俳句」そして、最後がなんと「禅」なのです。
「禅」は伝統芸能なの? 
という疑問がまずわきますが、まあ読んでみようじゃないかということで読み始めました。
 
今日は「歌舞伎」についてです。
「古きよき日本人の身体性を見ようと思えば、歌舞伎は最適である」とか「心がピシッとしていなければ、勧進帳に登場する弁慶の『飛び六方』のような動きはできない」などの話や女形のことが書かれた章を読みました。なるほど、そういうことだったのかと思うエピソードもありました。次回以降もしばらくはこの本を読みます。
 
さて、6時半からはお茶の時間です。
今日は森本さんの担当。
会が始まる1時間前から一人で黙々と準備をしていてくれたようです。
お茶の係りの人にはいつも頭が下がります。
 
掛け軸は、
「不要参禅亦適禅」
 詩書画酒自由仙 若知容老*神術 何怪壷中別有天
             *は|(たてぼう)に頣。         宗演草
 
 草書で書かれているので、解説がないと、飛び飛び字を拾っていくだけで、残念ながら誰も全部は読めません。
以前、書禅をやっているYさんが来ていた時はかなり読んでもらえたのですが・・・。
解説はできません。
ある人は、酒自由のところだけ読んでいました(笑)
 
お菓子は、利休饅頭と吹雪。
花は尾山さんが持ってきてくれた山茶花でした。
 
途中から、栗田さんが久しぶりに顔を見せてくれ、話は石巻の区画整理事業のことや印西町の新たな都市計画事業のことへ。
茶席で話すのはちょっと?なのですが、まあいつもこんな感じになります。
 
7時半からは静坐。
先週初めて来てくれたNさんがお見えにならなかったのがちょっと残念です。
また、思い出した頃にでも来てくれるといいのですが。
 
義存

--
静坐:蒲団上で坐禅(座禅)することです
私には坐相を乱したことにより、苦しみぬいた経験があります。
これから始めようという人、続けようという人には、
私のように坐相を乱すことによる苦しみだけは味わっていただきたくない。
そういう思いから、身の程知らずにも『坐禅(座禅)の仕方』の記事を引き受けることにしました。
合掌 惟然
 
 
『数息観のすすめ』より(1) 
 
(P11)
     坐禅の仕方について
 このお話を始めるにあたって、数息観は坐禅を組ん
で、静かに自分の息を勘定することだと申しました。
ここでまず、その坐禅ということから申すことに致し
ましょう。坐禅の仕方の詳しいことは、『坐禅儀』と
か『坐禅銘』とか『坐禅蔵』とかいう書物に出ていま
すが、今は私どもの体験から割りだした合理的な、そ
して誰にでも簡易に実行できる方法について述べるこ
とに敦します。
 
ーー
私たちが初めに紹介されるのが『数息観のすすめ(*)』です。
 
とかく入門書というものは、はじめの1回は目を通そうとするものの
読み返したり、丁寧に見たりしないのが通例です。
私もそうです。
 
ところで、一流の選手や、一流芸術家の中には、
一冊の本をボロボロになるまで繰り返し読みつくしている方がいるそうです。
 
この『数息観のすすめ』は、それに値する小冊子だと
つくづく思うように、ようやくなりはじめました。
読み直せば読み直す度に新たに気が付くことがあります。
 
私が何に気が付いたのか、少しずつ紹介していきたいと思います。
 
 
*『数息観のすすめ』
人間禅叢書第1篇
昭和29年11月10日初版発行
平成17年12月1日新装第1版発行
著者 立田 英山

房総支部のブログの毎日更新をはじめて2週間。
皆様の協力のおかげ様により、記事も集まりはじめています。
 
さて、
私に割り当てられたのは『坐禅の仕方』。
とても人様にお教えするできるような者ではありません。
 
ところが、強くことわらなかったばかりに、
引き受けることとなってしまったかのような状況です。

そろそろ坐禅(座禅)体験講座の開催が近づいてきました。

まだ人数には余裕があります。どうぞご参加ください。

 
1 日時:平成25年11月10日(日)午前10時~午後3時 
 
2 場所:房総坐禅道場(四街道市吉岡根田1010) 東京情報大学近く 
 
3 実施項目及び実施順序
(1)   オリエンテーション  
     ・セミナーの目的・内容、時程等の説明  
     ・房総坐禅道場の概要、道場におけるマナー等の説明
(2)   坐禅の仕方の説明
(3)   坐禅の実習
(4)   講話
(5)   食事のマナーの説明及び昼食
(6)   呈茶及び山内散策茶室での抹茶を味わったの後、初秋の趣豊かな山内を散策する。
(7)   坐禅及び懇談会  再度坐禅を実習した後、セミナー参加の感想、坐禅に関する質疑応答等 
 
4 参加費   500円(食費、テキスト代等) 
 
5 その他
(1)  駐車場所はありますが、予めご一報頂ければ四街道駅ー道場間の送迎を行います。
(2)  細部お問い合わせ等:道場長 光永道虔 simitsu@kotobuki-club.jp

遠ざかる死と宗教への無関心、そして禅

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
房総支部 2013/10/29 23:10
道虔です。
私は主に高齢者医療の仕事をしていますが、最近感じたことを少しブログ記事にまとめてみました。
 
 
90代の男性が肺炎を起こし入院したが、治療の甲斐なくお亡くなりになった。
そこまではよくある話だが、私が聞いたこの話ではその後に家族がこの病院を医療ミスで訴えようとする展開になる。
病院側は正当な診断と治療であったことを家族に延々と説明したが、その後に家族が発した言葉は
“医療ミスがないと言うが、それではどうして死んだんだ!!”
 
病院で死んだからにはミスがあったはずだ、と言う家族の考え、人間というのは年をとってやがては死ぬものだ、ということに全く思い至っていない、という話で、これが実話なのかどうかはよくわかりませんが、実話であってもおかしくない、それほどまでに最近は死ということを受け入れられない人が増えているように思います。
 
一昔前ならば、子供は高率に死んで、5人生まれてもせいぜい育つのは3人ほどであったし、病気になれば、若い人でも助からないことは多かった。
結核や肺炎、盲腸などで多くの人が死んでいったことでしょう。
兵隊に行って死に、空襲で死ぬ、死はありふれたことで、ちっとも特別なことではなかったはずで、もっと昔ならば、死は人の目に焼き付いた。
 
行き倒れの母子が道ばたで死んでいたり、戦乱や飢饉の時には餓死でミイラ化した死体や腐乱した死体が人の目に触れることも多かったと思います。
 
そんな時代には人々は死を恐れ、死への不安から逃れ安心立命を得るために宗教の門を叩いたのではないでしょうか。
鴨長明は方丈記の中で人生は水に浮かぶ泡のようなものだと述べていますし、道元禅師は、幼い頃かわいがってくれた母が死んで焼かれた煙が空に上っていくのをみて世の哀れを感じ、出家の願いを抱いたということです。
 
翻って現代では、といってもたかだか昭和30年から40年代以降ではないかと思いますが、人々は飢え死もせず、戦争の犠牲にもならず、子供も多くは成人となり、抗生物質の普及とともに結核や肺炎で亡くなる人も激減しました。
病院以外の場所で死ぬことも事故や災害の時をのぞけばほとんどなくなってきています。
つまり、人間が死と向かい合う機会がずいぶん減ってきている。
ですから、ほとんどの先進諸国の人々は普段死を忘れて生活しているし、宗教の必要性も感じない。
これはずいぶん幸せなことのような気がするかもしれないけれど、本当にそうでしょうか?
普段死を忘れていても、人間、あるいは生きとし生けるものはすべてその死を迎えなければならない道理ですから、必ず、いつの日か死と直面するときが来る。
その時に死に怯えるようでは困ります。
ですから死に対する準備は早めにしておいた方がよいのではないでしょうか。
 
さらにいうならば、死を忘れて生きている人の人生と、死を見据えてしかも死におののいていない人の人生、どちらが密度の濃い有意義な人生をおくれるでしょうか。
死を見据えてしかも死におののかない人生と言うのはこの一日一日を真剣によく生きることでしか達成されないし、突き詰めれば、今ここでの一瞬一瞬に集中して生きることに他なりません。
 
死を恐れないためだけにに宗教が必要という事ではありませんが、やがては死んで灰になる有限の存在である私たち人間が救われるためには、理屈を超えた絶対の境地に入り生死の問題を乗り越える必要があります。
私たちは座禅(坐禅)の修行をすることによって、過去に引きずられることなく、未来に思い悩むことなく、ただ“今・この瞬間”に立脚した豊かで救われた人生を送ることを目指しています。

合掌
 
日暮里の擇木道場で10月27日午後禅フロンティアが開催されました。


 
今回のゲストは外務省アジア大洋州局長や香港総領事、シンガポール大使などを歴任された元外交官の槇田邦彦氏でした。
50年近くにわたる中国、中国人とのつきあいを基に、中国の歴史や国民性に触れた興味深い話を聞くことができました。
中国は非常に複雑な国で、「中国」と一言でくくってしまうことはできないこと。中国人は非常に個性豊かな人達による多様な集団であって、マスコミの報道だけを鵜呑みにできないこと。
先の戦争の記憶は中国人の頭から当分消えそうにないので、中国とつきあうためにはそのあたりのことをよく考えなければならないこと。
そんな話が印象に残りました。
 
歴史や文化を異にするお隣の大国と今後どのようにつきあっていくのか大変に難しい問題ですが、座禅の修行をしている我々としては互いの主義主張をこえて立場の違う人と仲良くしていく事が求められていると思います。
 
心の深いところから隣人を尊敬していくことができるようになるためには、地道に坐禅(座禅)の行を続けることによって境涯を擦り上げていくことが唯一の方法であるように思われました。
 
合掌 道虔
今日10月25日(金)は、第4週なので7時から6階で例会が開催されました。
参加者は、初めて来た方を入れて8名でした。
 
いつものように、受付に部屋の鍵を借りに行くと、「坐禅(座禅)の会をさがしている人が来ていますよ」と言われ、あわてて6階の和室へ。
坐禅のための座布団などを用意していると、7時ちょうどに女性が尋ねてきました。
「あのぅ、私、坐禅は初めてなんですけど、見学させてくれませんか?」
「えっ、見学ですか。坐禅は見ただけじゃ分からないと思いますよ。
坐り方は教えますから、一緒にやってみてください」
「えっ? いきなりやるんですか?」

ここで3ヶ月前から、当会に来て坐禅を始めた高野さんが助け舟を出してくれた。
「私も、始めたばかりですけど、坐禅はやってみないと分からないですよ。
やってもまだ良く分からないですけど」

ということで、Nさんも覚悟を決めて坐禅することに。
 
坐り方を教えて、一言。坐禅はあくまでも自分でやろうという意志がないと続かないんですけど、せっかくご縁があったのですから、少しでも続けてみてから、判断してください。
 
一緒に禅堂(単なる和室ですが)に入り、坐禅開始。足があまりにも痛くなったら、合掌して足をくずしてもいいですよと言ってはおいたものの、皆がピクリとも動かないので痛くても足をくずせない様子。
助警として回るときに、小声で、今一回り回ってきますから、その間は足を楽にしていていいですよ、とささやいた。
Nさんは、ほっとしたように足をくずした。(やさしすぎかな?)

一炷香目は終了。

二炷香目は、太田先生のワークショップ的な禅の話と坐禅。
 
会が終わって、帰り際にみんながいろいろなことを言い出した。
「まあ、最初は我慢大会だな、わっはっは」
「来週は6時から5階の和室ですからどうぞ来てください」
「この会長は、もう50年坐禅をやっているんですよ」
僕は、「いやー、ヨガをやっていただけあって、初めてとは思えないほど姿勢が良かったですよ」と少し大げさな感想を一言。
会員の皆が、来週もNさんが来てくれることを祈っています。
禅と茶の集いに興味のある方は、ちょっと前のブログに会の紹介記事がありますから、ご覧になってください。

義存
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