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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

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房総ブログ - 最新エントリー

『作務』は難しい(容易でない)。  惟然
 
坐禅(座禅)道場なのに、静かに『坐(座)』するだけでなく動けという。
 
しかも、『動中の工夫は静中の工夫に勝ること萬々(百千億倍)』という。
 
本当にそうなのか?
 
身体を動かしているのに動かないもの、身体を動かしていないのに動いてしまうもの
そんなものがあるとでも言っているのでしょうか?
 
頭で考えても始まらない。だまされているか確かめるために、
『念々正念歩々如是』と作務を続けていくことにしましょう。

長くなりますが、今回も『清規』と『数息観のすすめ』(耕雲庵英山老大師著)を引用し
説明とさせていただきます。

〇『清規』
○ 作 務
一 作務は、動中の工夫を主眼とし、併せて団体行動の修練をする。

一 作務には、病弱のものを除いて、全員が従事せねばならない。

一 作務を開始するに当っては、直日が合図係に板木を打たせる。

一 作務の合図をいたら、会衆は直ちに所定の場所に集合する。
 直日は、老若男女と作務の種類を考慮し、適切に人員を区分して、
 各班の責任者を依嘱し、任務の要領と所要の時間を告げる。

一 作務終了の十分前に、直日は、合図係に終了の合図の板木を打たせる。
 終了の合図を聞いたら、各自は用具を元の所に整頓し、
 手足を洗って、所定の場所に集合する。

一 全員の集合が終ったら、
 直日に対して各班の責任者から作務の状況を報告し、
 直日から注意があれば、それを受けた後に解散する。



〇『数息観のすすめ』
○作務と食事について より
 
作務(さむ)というのは、講習員が一つの規律のもとで仕事をすることを申します。
元来、禅宗から出た言葉でして、よく建築をすることを普請(ふしん)すると申しますが、
作務する為に修行者の手を普く請うということから、普請というのです。
ですから建築ばかりには限らないので、畑を耕そうが沢庵をつけようが庭掃除しようが、
作務するために集まって貰うなら、みな普請というべきであります。
 
そこで講習会においても、作務するときは全員が参加しなくてはなりません、
もっとも作務は単なる勤労奉仕ではありません。
経行によってある程度修練できた動中の工夫を、
さらに仕事をしながらでも乱れることのないように試みるのが第一の目的ですから、
これは立派な行事の一つです。
ですから初めの間は、あまり複雑な仕事は作務には適しません。
草抜きとか拭掃除ぐらいが適当でしょう。
それから、この行事には指導者側と受講者側において、それぞれ修養上の利点もあるのです。
 
まず指導者側の方から、実際に即して申してみましょう。
私どもは常々段取り・真剣・尻拭いということを、心構えに致しております。
段取りとは仕事の計画を立てること、真剣とは申すまでもなく熱心のことですが、詳しいことは後で申します。
尻拭いとは結末をつけ、善悪にかかわらず責任をとることです。
この段取り・真剣・尻拭いの三者は、どんな些細な仕事においても、またどんな大きな仕事においても、
必要なことで、これさえ確実に実行すれば、仕事に失敗することもなく、人生を誤ることもないというのが
私どもの信条です。
ところが、これが一朝一夕に養えるものではないので、作務するにあたっても、
その習練を志すというのが指導者たる者の心構えです。
 
まず、作務をするにあたっては、全員に集まってもらって(いわゆる普請して)
直日が作務の内容や要領や所要時間などについて、一応の注意をします。
もし作務の種類や人員が多い場合には、身体の強弱や男女の差などを考慮して、
数班に分けるのもよいでしょう。
この場合には、各班に班長を委嘱して責任を持って貰います。
 
作務を終了する場合には、直日はその十分前に、あらかじめ委嘱してある合図係に、
作務やめの合図を打ってもらいます。
大勢で行動する時は、どうしても遠くヘ音の響く合図を要しますが、こんな場合には、
私どもは板木(ばんぎ)を打つことにしております。
鐘でも太鼓でもよいわけですが、板木が一番手に入りやすく、音も静かで心地よく響きます。
板木の合図は七・五・三ときめられていますが、ついでに今それを申しておきましょう。
 
初め七つ大きく打ち、次に小さく一つ打ち、さらに大から小へ緩から急へと続けて打つのが最初の七、
次の五は
大きく五つ打ち、次に小さく一つ打ち、さらに大から小へ緩から急へと続けて打って中の五つが終わります。
そしてまた三つ大きく打ち、次に小さく一つ打ち、さらに大から小へ緩から急へと続けて打ち、
最後に小小大と打って、全部を打ち終わるのです。
 
この合図を聞いたら、班長は直ちに作務やめを命じ、各員は用具をもとの所へ整頓し、
手足を洗って各班ごとに所定の場所に集まります。
全員の集合が終わったら、各班長は作務の状況を直日に報告し、また直日から何か注意があれば
それを伝えた後で解散します。
 
以上で作務は終わるのですが、この場合に各員の心構えはどうあったらよいかと申しますに、
元より動中の工夫を試みているのですから、それでよいのですが、
もう少し具体的にいったらどんなことになるのでしょうか。
指導者側が主に段取りと尻拭いに責任を持つというなら、講習員は真剣ということの、
ほんとうの意味を味わうのがその心構えです。
真剣とは心身をつつくるめて、そのものになり切るのです。
さっきは熱心といっておきましたが、実は熱心よりも高度の精神内容を持っています。
 
一例を庭掃除にとってみましょう。
結果的にいえば、きれいになれば宜いのでしょうが、われわれは庭掃除の人夫に
やとわれたのではありません。
掃除という仕事の本質は、環境を含めての心のすがすがしさにあります。
今、庭の草や塵を自分の心の田地にはえた妄想であり、心の鏡をくもらす煩悩であると感じて御覧なさい。
見える所だけをきれいにして、見えない所は手を抜くような考えは起こらない筈です。
また中途で放擲したり、草を抜いたふりをしたりして、根を残したりはできない筈です。
ちょっと見はきれいに見えても、それでは心のすがすがしさは得られません。
古人の語に
【身はこれ菩提樹、心は明鏡の台の如し、時々に勤めて払拭せよ、塵挨をして惹かしむるなかれ】
というのがありますが、掃除はこの意味であるべきものです。
この語の意味であれば、とうていそういう形式的な掃除はできますまい。
見えても見えなくても、よしんば与えられた時間内では掃除し終わらなくとも、
心ゆくまで草を抜き塵を拾うのを、ここでは真剣と申すのです。
こんな語もあります。
 
昔、通天の鼎和尚という方が、山門内に降りつもった松葉を一つ一つ拾っておられました。
これを見た侍者が“お手ずから-つ-つお拾いにならずとも宜ろしうございます。
そこはどうせ後で掃くところですから”と申し上げた時分に、和尚は、その侍者の顔をつくづくご覧になって
“今の言葉は修行者の言葉とも思われぬ。どうせなどと、後をあてにするようでは、ほんとうの掃除はできぬ。
一つ拾えば一つだけきれいになるのじや”と戒められたという有名な話があります。
これが、講習員の掃除の心構えです。
掃除に限りませんが、万事こういう心構えで作務したら、大いに得るところがあるに違いありません。
 
ーーー
我ながら、よくも抜け抜けと紹介をしているものだと恥じ入るばかりです。
もっとも、これもご縁なのかもしれません。

最後まで、長文にお目を留めていただき、ありがとうございました。

合掌
惟然 拝

『静坐(坐禅・座禅)』が『静中の工夫』なのに対して
『経行(きんひん)』は『動中の工夫』にあたります。
 
経行が初めての人は、必ず
「『経行』とは何かよくわかっているいる人」から、 レクチャーをうけておきましょう。
ただ漫然と後をついて歩いているだけでは、 無駄な時間を過ごすことになります。
くれぐれもご注意を。        惟然
 
 
 『動中の工夫、静中の工夫に勝ること萬々』と伝えられる
いや『百千億倍』だ!とか
 
いずれにしても、
正しく行ずれば効果は絶大!
形だけ行じても時間の無駄!!
そう信じて行じあおうではありませんか。
 
作務も食事も『動中の工夫』ですが、
経行では、ピュアに 『動中の工夫』に入りやすいので
基本を理解するのが重要だと思っています。
 
『清規』と『数息観のすすめ』(耕雲庵英山老大師著)を引用し説明にかえます。
なお、
前者は形式の説明、後者は本質の説明にあたると思いますので
前者は一読するだけで足り
後者は熟読する(だんだん、なるほどと思えてくる)ものと思います。
いかがでしょう。
 
〇『清規』(『要覧』の参禅の最後の部分)
・静中の工夫を動中に移すために、その時々に経行(きんひん)を行う。
 
・直日が経行を行うとするときは、
引磐をチンチンチン‥‥と大から小へ、緩から急に打つ。
会衆はこれに従って、叉手当胸して立つ。
 
・次にまた引磐を前の通り打った後、会衆はそのまま左向けをし、
 
・次に引磐を一つチンと打つ合図と共に左足からおもむろに運び出して、
直日を先頭にして堂内を緩歩する。
 
・数周して会衆がおおよそその旧座に来た頃、
直日は引磐をチンチンチン‥‥と打つ。
各人は自座に戻って止まる。
 
・引磐を前のようにチンチンチン‥‥と打ち右向けをし、
次のチンで坐禅を組み、
 
・最後の引磐三声でまた合掌して定に入る。
 
 
〇『数息観のすすめ』より
経行について
 
三昧の力は、静坐して数息観を修する時ばかりに養われるものでなく、
身体を動かしながらでも養いうるものです。
 
また実際に三昧の力が必要なのは、かえって静坐の時は少ないもので、
そのためには動中においても三昧の境の乱れない練習をしておく必要があります。
古人も【動中の工夫は静中の工夫に勝ること万々】と申しております。
その動中の工夫のために、経行(きんひん)ということをやるのです。
 
経行とは、元来お経を誦じながら室内を緩歩することから出た言葉ですが、
私どもは歩きながら数息観や凝念を試みることを申しております。
経行をする時は身体を真ッ直に立て、
手を胸に当て[又手当胸(さしゆとうきょう)と申します]顎をグッと引いて2メートル位先を見ながら、
(但し団体で行う時は片手間隔の前の人の背中を見ることになります)
静かに歩むのです。
 
いくら広い堂内といっても知れたものですから、自然ぐるぐる廻ることになりますが、
右廻り(時計の針の方向)するのが正式です。
最初の一歩は左足からときめ、そして
左足を運ぶ時はいつも吸う息、
右足を運ぶ時は吐く息ときめておきます。
 
例えば12なら、
左足を出しはじめてから全身の重みが全くそれにかかるまでにジューと数え、
次ぎに右足を出しはじめてから全身の重みが全くそれにかかるまでに、ニーと数えるのです。
 
その他、
数息観の要領は静坐の場合と全く同じですから、かさねて申しませんが、
団体で行なう時は人々によって呼吸に遅速がありますから、とかく間隔が不揃いになり勝ちです。
そこで全体の人が同時に左足なり右足なりを出し得るように、前の人に合わせながら、
各自に呼吸の遅速を加減します。
 
また、
これは数息観ではありませんが、経を誦ずる代りに凝念ということをやります。
これが又たいへんに効果のあることですから、むしろ経行の時には凝念の方をおすすめしたい位です。
 
凝念というのは、一心不乱に一つの念慮になりきることですから、
数息観も一つの凝念と言えばいえないこともありますまい。
ただ、ちがうのは息を数えるかわりに題目とか称名とかを心に念ずるのです。
 
陀羅尼(だらに)でもお経でもよいわけですが、
私どもは『念々正念歩々如是』と凝念致します。
しかし、その意味はここでは余り詮索しないでおきます。
 
そのやり方を申しましょう。
経行のやり方は前に申した通りで少しも違いありませんが、
ただ念々と左足を出し正念と右足を出し、
次ぎに歩々と左足を出し如是と右足を出し、
これを繰り返しさえすればよいのです。
 
三昧になるために南無阿弥陀仏と伏鉦を打ち、
南無妙法蓮華経と太鼓をたたく行(ぎょう)と変わりはありません。
念々正念歩々如是と念じて、経行するところの一つの行です。
 
ただ肝要なことは、
救いを求めるでもなく、意味を考えるでもなく、純一無雑で心の中に念ずることです。
 
凝念は坐禅を組みながらでもできますが、
やはり経行の時の方が心身の軽安を覚え、
三昧の力を養いやすいようです。
 
これも熱心に継続しておれば、
これで数息観の後期の境涯まで達することができます。
 
大勢集まって講習会を催す場合には、
坐禅の時は数息観、経行の時は凝念ときめるのが一番よいようです。
 
ーーー
以前のブログの記事
『臘八摂心会 徹宵は 経行と抹茶で気合を入れなおします。』
では、
「くれぐれもご注意を。」という中途半端なのご紹介で、申し訳ありませんでした。
でも、やっぱり
初心者は最初から
「『経行』とは何かよくわかっているいる人」から、 レクチャーをうけておきましょう。
という思いは変わりません
 
(では静坐は? 蛇足でした)
 
合掌
惟然 拝
今日12月6日(金)は、
第1週なので6時からコミュニティセンターの5階和室で例会が開催されました。
参加者は7名でした。     義存                         
 
今日は、第1週なので、
まずは、齋藤孝著の「こんなに面白かったニッポンの伝統芸能」の続きを輪読しました。

今日からテーマは「能」です。
いきなり、「これほど幽玄な芸術は世界中どこを探しても存在しない」という言葉から始まりました。
「幽玄」という言葉を和英辞典で引いても出てきません。
これは翻訳不能の日本語かもしれません。
広辞苑で引くと今度はいろいろな使い方がたくさん出てきて、
どれが能の幽玄さを表しているのか少し迷います。
自分で能の舞台を見て、味わうしかないのかも知れません。

世阿弥は、「風姿花伝」という能の書を室町時代に著していますが、
これは、門外不出の書で、1927年になって初めて出版されたそうです。
ある人が名人に「先生この本をお読みになりましたか」と聞くと、
名人は「読んでいません、芸が出来上がるまでは見てはならぬと父にとめられています」と答えたそうです。
彼の人は恥じ入って、能の世界はこのようにして守られてきたのだと思ったそうです。
「本を読んで分かったつもりになることが危険なのだ」
これは、禅と同じですね。

また、「観阿弥・世阿弥」が頂点を極めてしまっているので、その様式をいじろうとすると、
かえって劣化が始まる」とも書いてありました。
これも禅に通じるところがあるような気がします。
仏教は今多くの宗派に分かれていますが、原点は釈尊です。
禅は釈尊と同じ悟りに向かってまっすぐ進む道ですから。
 
本の話が長くなりましたが、次はお茶の時間です。
今日は森本さんによるお点前でした。
掛け軸は
 不要参禅亦適禅 詩書画酒自由仙
 若知容老*神術 何怪壷中別有天
                    宗演草
       *は|(たてぼう)に頣。
 
で一月前と同じです。
今日は、読み下し文を持ってきてくれた人がいるので、
前よりは読めましたが、内容まではついていけていません。
私などではとても手の届かない世界のようです。

お菓子は、「秋の山」と「此の花」、
花は山茶花でした。

お茶の後は、しっかり一炷香坐り(*)ました。
 
個人的な話ですが、私の中学・高校の同窓で仲のよかった友人の訃報が入りました。
東大に行って大手の銀行に就職し、シカゴ大学でMBAを取得したエリートです。
気立てもよく、何であんないいやつがこんなに早く逝ってしまうのだと悲しみにくれました。
何故か、先師の「今日が死ぬ日」と書いて、毎日おでこに張っておけという言葉が思い出されました。
あとに残った者はしっかり生きなくては。
 
義存

*一炷香坐る:一炷香(いっちゅうこう:45分)の坐禅(座禅)をする
食事の作法は、人間禅の清規では次のようになっています。
読んで覚えていなくても、新至(初心者)の係りが教えてくれますし、
まわりの様子を見て合わせていけば大丈夫です。
一応ある程度知っていると、参加する時に安心だとは思います。
このブログで、これまで分けて紹介していますので、そちらもご覧ください。   惟然

28日の夕食


主食:玄米 (房総道場名物 圧力釜で炊きます)
汁 :味噌汁、具は豆腐他
主菜・副菜:八宝菜・大根の酢の物
香の物:自家製ぬか漬け


<食前の文>
一 百丈和尚の云く、「一日 作さざれば一日食(くら)わず」と。
 我れ今恥ずること無くして此の箸を採り得るや?
 
一 臨済和尚の云く、「食(じき)を思えば百味 具足す」と。
 我れ今何の徳あってか此の良薬に遇う。省みざるべけんや。
 
一 雲門和尚の云く、「識得すれば醍醐の上味、識得せざれば却って毒薬」と。
 当(まさ)に咀嚼(がんみ)翫味(そしやく)すべきの諸なり。
 
一 維摩居士の云く、「法書禅悦を以って食と為す」と。
 我れ今万劫の飢えを療ぜんが為に、此の-飽を味わうものなり。
     
一 金牛和尚の云く、「菩薩子(ぼうさつし)!喫飯来!」と。
 我れ今仏祖の慈恩を念じつつ応(まさ)に此の食(じき)を受くべし。

<食畢(じきひつ)の偈>
                             
飯食(ぼんじき) 喫し了って心身 充ちたり、
深々たる荊辣(けいきょく)も手を振って行くべし、
願わくば此の大威神力を以って、自理利他の素顔を成ぜんことを。
 
○食事
一 摂心中は会場で食事するのを原則とする。
 食事をする者は、予め配膳係に届け出て、物資または食費を納めねばならない。
 
一 食事中は、静粛にして私語をすることを禁ずる。
 
一 自鉢は飯碗・汁椀・皿・小皿・薯の5器とする。
 これを白布に包んで、各自の所定の棚に整頓しておく。
 
一 食事をする者の人数に応じて、供給を定めておく。
 供給は甲斐々々しい服装をしていなければならない。
 
一 食事の用意が整えたなら、
 配膳係長は、合図係に食事の合図の板木を打ってもらう。
 板木の合図は総べて七五三である。

 七 〇〇〇〇〇〇〇○〇〇○○○○・・・・(大から小・緩から急へ)
 五 〇〇〇〇〇○〇〇○○○○・・・・
 三 〇〇〇○〇〇○○○○・・・・○○〇

 
 合図を聞いたら、各自に自鉢を捧げて配膳係長を先頭に食堂に入る。
 このとき、係長は自鉢を次の者に托して、析を大小、大小に鳴らしながら先導し、
 一同は飯台の前に自鉢を捧げたまま立っ。
 
- 師家が最後に入堂し終ったなら、係長は析を小小大と鳴らす。
 これを合図に-同は揃って着座して、自鉢を飯台の上に置く。
 
一 係長は、更に析一声して、「食前の文…」と音頭を取る。
 一同は、合掌して『食前の文』を斉唱する。
 
一 斉唱が終ったら、静かに自鉢の包みを開いてその上に食器を揃えて置く。
 
- 供給は立って、先ず師家の飯および汁を盛る。
 供給は、常に立ったままで給仕する。
 
- 食器の授受に際して、供給は右手で、坐している者の眼の高さに差し出す。
 受ける方は、両手でこれを受ける。
 供給が食器を持ってくるまでは、合掌したまま待っている。
 
一 菜は上座から、香の物は末座から、各自の分だけ自分の皿に取り分け、順次に次座に廻す。
 一同が取り分けて終った器は、供給が納める。
 
一 以上のことが-僻し終ったら、係長は析一声する。一同合掌の後、静かに食事を始める。
 
一 飯または汁の御代りを乞うときは、空器を右手で眼の高さに差し出して待っている。
 供給が受け取って再び食器を持ってくるまでは、合掌したまま待っている。
 
一 一同が食事を終ったら、茶を注いで廻る。
 このときもし食べられない残物があったら、供給は折水器を上座の者に渡す。
 上座の者は、残物をその中に投じて次座に渡す。
 こうして折水器が末座に廻って来たら、供給がこれを納める。
 
一 茶を注いで廻る作法は、茶礼の時に準ずる。
 
一 全部に茶を注ぎ終ったら、一同は揃って食器を清め、最後にその茶を呑み干す。
 それから食器を拭い、白布に包み、箸を差し挟んで飯台の上に置く。
 この動作は音のしないようにかつ手早くせねばならない。
 
一 以上が終ったなら、係長は析一声、「食畢の偶…」と音頭をとる。
 一同は合掌して『食畢の偶』を斉唱する。
 
一 斉唱が終った後、一同は自鉢を捧げて立ち、互礼の後に、師家は退座する。
 その後、係長の先導で順次に自鉢を所定の棚に整頓しておく。
 
一 食器は、暇を見て各自良く洗っておく。
 特に白布は二枚用意し、交互に洗濯しておかねばならない。
 
一 伝染病を持っている者は、就寝・食事の際は、特に留意して
 他に迷惑を及ぼさないようにせねばならない。
房総坐禅(座禅)道場の臘八摂心(接心)会は、
12月1日の早朝の徹宵明けの参禅の後、
円了茶礼で終わりとなった。

その後は、記念撮影と懇親会です。


ちらし寿司

おでん 落花生(茹)
サラダ サツマイモ リンゴ



「摂心会の終了後は、盛大に懇親会を催す」と
どこかに書いてあったような記憶もあるが

出典を探しておこう   惟然

臘八:旧暦の12月(臘月)8日 
釈尊が菩提樹のもとで暁の明星を見て悟りを開いたとされる日
フォントの関係で蝋八と書かれることもあります

臘八と位置づける房総坐禅(座禅)道場の12月の摂心(接心)会は、
今年も全員で徹宵しました。(高齢者と体調不良者は除く)
最高齢の参加者は71歳でした。    惟然
 
臘八(蝋八、ろうはち):旧暦の12月(臘月)8日 
釈尊が菩提樹のもとで暁の明星を見て悟りを開いたとされる日
 
日程
22:00 静坐
 (坐禅45分 休憩5分 坐禅45分)
 
24:00 静坐
 (坐禅45分)
 
1:00 お茶(大休止)
抹茶や夜食をいただき、気合を入れなおします。
ただし 私語はせず 数息観、公案の工夫を続けます
 

各自で抹茶を点てて飲みます。
 
カフェインの量はコーヒー以上とか
ついつい多め(茶杓で大盛3匙)に
 

茶菓子は栗の甘煮と羊羹でした。
 
こうして画像を見ると、とても美味しかったその味を思い出しますが、
呑み込んだら忘れていました。
ご馳走様でした。
 

小腹の空いた人にはウドンも
ここで食べすぎると、後半睡魔と悪戦苦闘することになるのですが・・


他に、はぶ茶、コーヒー、柚子の砂糖漬け
チョコレート、煎餅など
 
柚子は隣地のもので、
捨てるところはないと、典座が砂糖漬けにしたものです。
摂心中はいつでも飲めように、飲み物とともに、
置いていただいてありました。
インスタントコーヒーには、毎日お世話になりました。
 
2:00 静坐(経行あり)
 (坐禅45分 経行10分ぐらい 坐禅45分)
 
経行では、
叉手当胸(さしゅとうきょう)して堂内、堂外、屋外を歩きます。
静坐(座禅)が『静中の工夫』なのに対して、経行は『動中の工夫』にあたります。
古来「『動中の工夫』は『静中の工夫』に勝ること萬々」と伝えられています。
 
(いずれも『禅』です。ですから、蒲団上で座禅することを『静坐』といっています。)
 
初めての人は、必ず
「『経行』とは何かよくわかっているいる人」から、レクチャーをうけておきましょう。
経行では、ただ漫然と後をついて歩いているだけでは、
無駄な時間を過ごすことになります。
くれぐれもご注意を。
 
『数息観のすすめ』のP25からを丁寧に読んでおきましょう。
(経行の体験をした後に読み返すのもおすすめです。)
 
4:00 静坐
 (坐禅45分)
 
4:45 洗面
 
5:00 静坐
 (坐禅45分)
 
5:50 静坐(参禅終了まで)
6:00~ 参禅
 
徹宵明けの参禅は、
以前は総参(全員が強制的に参禅する)でしたが
現在は、参禅しない場合は次席に送ることができます。
それでも、多くが入室(参禅)しました。
 
円了茶礼(7時を過ぎていました)
一同食事が終わったら、
供給は容器(残物入れ)を上座の人に渡しますので、
残物をこれに入れて順次渡します。
最後に供給がこれをおさめます。
 

次に茶を給します。
受ける人は、自分の3人ぐらい前の人が注がれるころ
茶碗を両手で自分の胸の高さに捧げます。
供給が立ったまま茶を注ぐので、
受ける人は茶が適量となったら、右手を軽く上げて合図します。
茶碗を定位置において合掌します。
 
茶が一巡して、全員に茶がいきわたった所で
典座長が合掌するので、一同もそろって合掌し食器を清めます。
 
 
28日の昼食
メニュー
主食:そば
汁:そばつゆ
主・副菜:マカロニサラダ フキの煮物
香の物他:キュウリのぬか漬け、カブの塩漬け

編集担当 惟然
摂心では本堂を食堂として利用します。

おかずは上座に、    香の物は下座に用意してあります。
   
 
『食前の文』を唱え終わったら、
布巾を開き、食器を並べます。
 
主食と汁は、供給(くぎゅう:給仕を担当する配膳係り)が給仕をします。
供給が前に立つのに合わせて、食器を右手で自分の目の高さに差し出します。
渡してから戻るまで合掌して待ちます。
(誰が待っているか、供給にもわかります)
食器は両手で受け取ります。
 
おかずと香の物を、各自が適当量分だけ自分の皿にもり、
次に回します。
取り分け終わった器は供給が納めます。
 
以上のことが終わったら、
典座長が拆を一声し、一同はそれを合図に合掌し、
静かに食事を始めます。
 
主食と汁はお代りができます。
希望する人は、黙って空の器を目の高さに捧げて、
供給が受け取りにくるまで待っています。
半分の量のお代りを希望する場合は、
渡す時に左手の人差指を器のなかで丸く動かし合図をします。
供給に渡してたら合掌して待ちます。
戻ってきたら、両手で受け取り、
定位置に置いたら合掌して食べはじめます。


編集担当 惟然
(日にちをさかのぼってアップしています)
30日午後10時!

いよいよ 徹宵(寝ないで坐禅)に突入する

合掌 
惟然 拝

予約(前もって日時を指定)でアップします。


房総坐禅(座禅)道場 玄関の外と内



同じところでも・・



臘八:旧暦の12月(臘月)8日 
釈尊が菩提樹のもとで暁の明星を見て悟りを開いたとされる日
フォントの関係で蝋八と書かれることもあります

摂心会の料理は、
主食・汁物・主菜(副菜)・香物
で構成され、それぞれの器に盛ります。  惟然
 

28日の朝食


メニュー
主食:かゆ
汁:具だくさんのみそ汁
主・副菜:ふろふき大根、蕗と厚揚げの煮物、ナムル
香の物他:キュウリのぬか漬け、カブの塩漬け、梅干し
(これでたったの300円)

 

大根→典座長(真浄居士)の自宅の畑でとれたもの
フキ→道場でとれたもの
野菜類→会員の小川農園
ぬか漬け→典座長が自分で丹精しているもの
カブの塩漬け→小川農園


香の物を一切れ残します。
全員が食べ終わると、供給(くぎゅう 給仕係)が茶碗にお茶(はぶ茶)を注いで回ります。
最後に、それぞれの器にお茶を移し入れ、香の物を使って浄め飲み干します。


作法の細かい紹介はまた別の機会に

ごちそうさまでした
合掌


蛇足

主菜と副菜、どちらが主菜?どちらが副菜?

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