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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

〒284-0032
  四街道市吉岡1010

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090-7188-4873
  久保田
090-9827-8261
  みつなが
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房総ブログ - 最新エントリー

先週は、「禅と茶の集い」の忘年会だったのでブログはお休みさせてもらいました。
 
今日20日(金)は、第3週なので6時からコミュニティセンターの5階和室で例会が開催されました。
忘年会の効果でしょうか、先週久しぶりに忘年会に参加したので例会にも来てくれた人がいました。
うれしいことです。
外の冷たい雨のせいか、常連の人が2~3人来なかったので、参加者は7名でした。
 
まずは、いつもの通り読書会からです。
齋藤孝著の「こんなに面白かったニッポンの伝統芸能」の続きを輪読しました。
先週からテーマは「能」です。
今日読んだところで印象深かったところを少し引用します。
 
「能の学習様式は、身体を通じての真似る・盗むが基本となる。
先生も言語を使ったり細かく教えたりするわけではなく、手本を見せるだけだ。
これはやはり能が身体文化だからである」
 
前回は、「本を読んで分かったつもりになるのが危険だ」というところを紹介しましたが、
体で覚えることがいかに大切であるかということが良く分かります。
 
今は情報化社会で物事を知的に理解することが多く、
ともすると身体感覚が忘れられて頭でっかちになりかねないのではないかと少し懸念されます。
 
禅やお茶の実習でも、
多少時間がかかっても体が覚えるまでやり続けることが大切なのではないでしょうか。
同じ様に坐っていても、5年10年と続けていると違った味わいがあります。
 
 
次はお茶の時間です。今日は鶴岡さんのお点前でした。
 
掛け軸は、「○」でした。(後で触れます)
 
お茶は、一保堂の「蓬莱の昔」。
濃い目のお茶で大変おいしくいただきました。

お菓子は、米谷の「雪うさぎ」。
雪とうさぎを連想させる真っ白な体に赤い目が印象的でした。
 
 
さて、掛け軸の話ですが、
「○」=「円相(えんそう)」は茶掛けとして最も愛用されるものの一つです。
 
これを揮毫していただいた、如々庵老師(*)の一行物(淡交社)には次のようにあります。
 
「円相というものは、
本来言語道断な悟りの当体を説明注釈にわたらず表現しようとの肚(はら)から書かれたものであるから、
それを説明することは、円相の書かれる趣旨に反し、これを冒涜する所行でさえある。」

「禅の修行というものは畢竟(ひっきょう)するに、坐禅の行(ぎょう)によって悟りをひらき、
さらに悟後(ごご)の修行を継続してその悟りを深め、
ついに悟りと自己といつも行影相伴う境涯まで到達することである。
ところでいったい何を悟るのか、悟りの当体は何者かというと、
それは禅定三昧の行によって体得し、冷暖自知するほかはない絶対なもので、
本来、何とも説明のしようもなく、名づけようもないものである。」
 
「悟りの当体の仏性が真空無相でかつ円満浄明である点に着目して、
その仏性をグルグルッと円形をもって形象化したもの、それが禅者のいわゆる円相なのである。」
 
本文はもっと長いので、この部分の引用が的確かどうか分かりませんが、
要するに自分が坐禅をして体得するしかないということです。
かえって、混乱させてしまいましたか?
 
 
これで少し興味が湧いた方は、ぜひとも「禅と茶の集い」や房総坐禅道場に来て、
ご自分で坐禅(座禅)をしてみてください。
 
義存

---
*編者註
故如々庵老師:芳賀幸四郎文学博士、東山文化の一人者。人間禅の正脈の師家のお一人。

「禅語の茶掛け 一行物」(淡交社)のシリーズ:
雑誌「淡交」(裏千家の機関紙)に掲載された解説を補充して単行本として出版されたもの。

合掌 惟然
◇初めに・・・ 
私が「典座」という語に初めて出会ったのは、
今から約40年前の学生時代、四街道総北五葉塾(*)にいた時である。
 
その頃週1回塾頭、塾監が交替で塾生に対して講話をしてくれた。
 
その中で塾監である内田慧純禅子が道元禅師の書かれた「典座教訓」の話をされており、
中でも“高処高平、低処低平”の一節が私の記憶に残っている。
 
これは什器類を所定の場所にきちんと整理して置くべきことを示しており、
高い処は高いなりに安定を得、低い処は低いなりに安定を得ていなくてはならないの意。
 
調和の保たれた世界をいいあらわしたことばである。
 
高い処は高いなりに平等であり、低い処は低いなりに平等である。
 
すなわち、差別即平等の理を示したことばである。
 
 
◇当時私はこの一節を、人の配置適材適所の意味も含まれているのではと思った記憶がある。
 
以来「典座」という職に興味を持ち、機会があったらやってみたいと思っていた。
 
今から11年前の事、学校を卒業以来長年いた会社が経営的なことで解散する事になり、
摂心に詰めると同時に典座をやる機会が巡ってきた。
 
以来房総支部で1年、移籍した市川本部道場で7年、
足掛け8年典座を経験する事になった。
 
そして2年前に古巣の房総支部に戻り、
この12月7日に房総道場典座寮にて、味噌作り教室を開催する事となった。
 
これを機に微力ながら、これまで私が経験してきた典座の実践とそこから得たものを噛み砕いて、
房総支部ホームページに小出しにしていきたいと思っている。
 
 
◇昨年平成24年3月と今年6月の2回、市川本部道場で味噌作り教室を開催したが、
きっかけは本部道場典座寮で7年間お世話になり、その感謝の意味もあり、
味噌作りを通じて自分が典座を経験して得たものを、少しでも回向できたらの思いがあった。
 
今回房総道場においても、味噌作りを開催する機会に恵まれたことを、大変嬉しく思っている。
 
平成25年12月18日
 
東上床鉄心  合掌

--
*編者註
四街道総北五葉塾:現在の四街道坐禅塾
塾頭:故濯月軒智鏡居士 (内田昭夫 千葉大医学部教授 農山村医療)
塾監:故緝煕庵慧純老禅子(内田ふき)
 
合掌 惟然

日曜静坐会で初めて本道場に来た方が、
「カーナビに従って迷路に誘導され、道場に到着するのに苦労した」そうです。

同様の話を時々聞きます。
うす暗い細道に入ってからの経路と、看板の位置を、画像で紹介します。





ご自身の目で看板を確認しながら進んでいただけると
ぐるぐると回り続けることなく、無事に山門までたどり着けると思います。

 

 

 
坂を下りはじめたとき、正面に見える生垣の中が本堂です。
そこまで近づくと、やっとどこが道場かわかります。



車は路肩に置いて、先ずは歩いて玄関からお入りください。  惟然
12月15日(日)の日曜静坐会は、11名の参加がありました。

防風壁を作る前の磨甎石
ませんせき 全体

新到者の2名のうちの一人、WさんはこのHPを見て参加されたそうです。

静坐 1炷香(45分)
読経
作務
(落ち葉の掃き掃除や、磨甎石回りの苔を寒風から守るための防風壁作成などを行いました)

日曜静坐会は
初めての方も歓迎ですので、どうぞご参加ください。

なお、一部のカーナビは、農道に入ってからの道を正しく表示しないとのことです。
矢印の看板に従ってお越しください。


ませんせき 碑文

ませんせき 背面(撮影 2013.11月 午後)

日曜静坐会
場所:房総坐禅道場
日時:毎週日曜日 午前9時~
内容:静坐 1炷香(45分)
    読経(般若心経・観音経)
    作務(月例会)または歓談

元禮居士の報告をもとに 惟然

房総坐禅(座禅)道場の玄関の周辺の植物です  撮影:惟然 2013.11.

どうぞ、房総道場に足をお運びいただければ幸いです。

房総道場 玄関前

山茶花(さざんか)
さざんか1  さざんか 白
さざんか 八重  さざんか 木札

南天(なんてん)                 八つ手(やつで) 
なんてん   やつで

万両(まんりょう)                 ピラカンサス
  ピラカンサス

道場建設中の山門付近 1983年(昭和58年)
(撮影:拳山居士)

房総坐禅道場では、
作務として環境整備が計画的に進められてきました。
植樹もその一つです。

写真のように道場ができた当時は、何もなかったので
若木を掘り出し、移植しました。
おかげで、踏み石の敷き方など、
造園の経験もすることができました。

80年代(昭和の終わりごろ)は、
房総支部が最も若々しく活気のあった頃だったと
懐かしく思い出します。

その後も摂心(接心)会のたびごとに
進捗状況の確認と作業は怠らず続けられ
現在に至っています。


現在の道場の環境があるのは
私(惟然)が遠ざかっている間にも
骨をおられた皆さまがいるお陰様と感謝申し上げます。

合掌
惟然 拝
義存居士からの話題提供の最後です。
皆さんは、どうお考えになりましたか?  合掌 惟然
 
---
 
前回は、メッカの方向をさがすところまで書きました。
 
さて、メッカの方向は分かったのですが、それはちょうど和室の床の間の方向だったのです。
そしてそこには観音像の掛け軸がかかっていました。
 
まずい。イスラム教は偶像礼拝禁止だったはずだ。
タリバンが、バーミヤンの大仏を爆破したことを思い出しました。
 
セナに、
 
「仏教の像なんだけど、大丈夫?」
 
と聞いたところ、メッカの方向しか気にしていないので大丈夫とのこと。
 
ああ良かった。
ふすまを閉めてセナのお祈りを邪魔しないようにしました。
 
お祈りが終わったセナが戻ってきて、
 
「あ~、やっと食事ができる」
 
もう、ここまでくれば大丈夫です。
皆で食事をしながら、楽しい時を過ごしました。
ところで学生のセナは、大学に行っているとき
どこで1日5回のお祈りをしているんだろうと思って聞いてみると、
教授が空いている部屋を用意してくれていて、
中国人のウルムチから来ている学生と一緒にお祈りしているそうです。
それにしても、誰が見ているわけでもないのに、
一人でも毎日欠かさずお祈りをし、ラマダンも守り、見上げた信仰心です。
あっ、もしかしたら、アラーが見ているのかも知れません。
 
禅者の端くれとして、1日1炷香(45分くらい)の坐禅はしていますが、
セナほど生活に禅が密着しているかと自分を振り返ると、恥ずかしい思いがします。
 
もちろんどの宗教でも、
お互いを尊重しあいながら平和な世界を築くべく努力するのが理想だと思います。
でも世界史の視点で見ると、
特に一神教では、お互いに譲り合えず争いになっている例を多く見かけます。
また、テロのニュースを見るたびに胸が痛みます。
 
クリスチャンと、イスラム教徒と、仏教徒が楽しくパエリアを食べられるのですから、
世界もこうならないかなあと思いました。
 
セナには、坐禅とはいかないまでも、お茶の体験くらいしてもらおうと思っていたのですが、
僕が誘いそびれているうちに見事に大学院を卒業し、
今年の10月にスーダンに帰ってしまいました。
友人たちが成田空港まで見送りに行ったのは言うまでもありません。
今はFBやスカイプで話ができるので友情は続きそうです。  
 
さて、やっと房総坐禅道場の話です。
房総坐禅道場は、懐が深いですから、他人に迷惑をかけない限り、
クリスチャンもイスラム教徒も歓迎です。
もちろん仏教の他宗の方もどうぞいらっしゃってください。
前もって言っていただければ、身体に障害のある方にもできるだけ対応します。
車椅子の方でも目が不自由な方でも坐禅道場を体験できます。
 
禅は宗派生が少ないので、
それぞれの宗教を尊重しつつ一緒に坐禅(座禅)ができます。
 
最後に一言、イスラム教徒の人が道場を訪れたとき困らないように、
メッカの方向だけはさがしておきましょう。
 
義存 
 
 
* ここに書かれている、風習・宗教についての感想は個人のものであって、人間禅を代表するものではありません
 
義存居士より話題提供に届いた原稿の2回目です。
いかがでしょうか  合掌 惟然
 
---
 
前回は、二人が家に来たところまで書きました。

 
ダイニングテーブルにセイラとセナそして娘と僕と妻の5人がすわり、いろいろな話に花が咲きました。
 
さて、夕食の時間になりました。セナのことを考えて、もちろん豚肉は使わず、豚の油が入っていそうなものも避けました。
新大久保まで行けば、お祈り済みの食材も手に入るようですが、さすがにそこまでは無理でした。
料理は海産物をメインにしたパエリアです。
 
さあ、皆で食べましょうと言って、パエリアを取り分けて食べ始めたのですが、セナが箸をつけませんというか、食べる様子を見せません。
結構料理には気を使ったのだけれど、何かまずかったかなあと思い、セナに聞くと、
「どうぞ皆さんで先に食べてください」という返事。
 
「なぜ?」と聞くと、
下を向いて小さな声で、
「ラマダン」。
 
こりゃ~まいった。
今がラマダンだなんて知らなかったよ。
ラマダンはイスラム暦が基準だから、毎年少しずつずれるという程度の知識はあったものの、
今年のラマダンなんて・・・、そこまでは気が回らなかった。
 
聞くと、ラマダン明けまで、あと2日ということでした。
 
もうじき日が暮れるので、セナに付き合い待つことにしました。
 
戒律をしっかり守っている人の前で、がつがつ食べることなんてとてもできません。
それにしても、昼食に招待しなくてよかった。
 
また少し歓談した後、日が暮れたのでもういいでしょうということになりましたが、セナはこっちをずっと見つめています。
もういいはずなんだけどと思いながら、セナに聞くと、
 
「食事の前にお祈りをしなければいけないので・・・」
 
「じゃあ、僕がいつも坐禅をしている和室を使ってください」
と僕は和室に案内しました。
 
ここで衝撃の発言が、
 
「あのぅ、この家でメッカの方向はどっちですか?」
 
ひゃ~ッ、またまいったなあ、これが今年の夏だったら、
「じぇ、じぇ、じぇ」の連発です。
 
「おーい、誰か世界地図と地球儀と方位磁石捜して持ってきてくれ~」
と僕は思わず大声で叫んでしまいました。
 
そういえば、インドネシアのバザールに行ったとき、
いつもメッカの方向を指す磁石付きのカーペットが売っていたっけ。
こういうときに使うんだと妙に納得しました。
 
てんやわんやで、メッカの方角をさがして、
こっちだということで納得してもらいましたが・・・
 
(続く)
 
義存
 
* ここに書かれている、風習・宗教についての感想は個人のものであって、人間禅を代表するものではありません」
会員の義存居士より、話題提供にとブログの原稿がとどきました。
3回連続です、皆さんはどう受け止められますか?    合掌 惟然
 
---
 
うちの娘が、千葉市国際交流協会というところで、日本語を教えるボランティアをやっています。
 
娘の相手は、日系ブラジル人で、千葉で遺伝子工学を学んでいるセイラ(仮名)。
日系3世というだけあって完全に日本人の顔です。
彼女いわく、日本に来て、私はどう見ても日本人に見えるから、
ポルトガル語と英語しかできないと分かると周りの人に変な顔をされるのがちょっとつらい。
 
うちの娘の英語能力もたいしたことはないので、かなり細かい日本語のニュアンスを聞かれると、
難しくて説明できないそうです。
 
 
そんなこんなで、ボランティアを続けていると千葉にいる外国人の女の子グループと付き合うようになりました。
ブラジル、カンボジア、スーダン、中国など、多種多彩です。
日本語を勉強した後、買い物に行ったり食事をしたりして、とても仲がよく楽しそうです。
 
ある日、娘が家に帰ってきて言いました。
 
「友達連れてきていい?」
僕も妻も、まあまあ海外経験はあるほうだし、異文化にも接触してきたので、
いろいろな人がうちに来るのは大歓迎です。
 
 
去年の夏の猛暑の日に、二人はやってきました。
一人はもちろん娘が日本語を教えているセイラ。
もう一人は薬学を学びに千葉に来ているスーダン人のセナ(仮名)です。
 
セイラは、ガッチガチのカソリック教徒。
セナは、後で分かってくると思いますが、本当に熱心なイスラム教徒です。
 
 
二人は家を見回しながら、素敵な家だとほめてくれたので、外交辞令とは分かっていても僕たち夫婦はニコニコしていました。
 
どうぞとダイニングに案内して腰掛けてもらいました。
僕の興味は、どうしてもセナのほうに向いてしまいます。
インドやインドネシアに行っていたときにイスラム教徒とはたくさん会いましたが、じっくり話したことはあまりなかったからです。
 
まあ、家の中は冷房していたのでまだましだと思うのですが、セナはスカーフをきっちり巻き、Tシャツを着て、
そこまではまだ分かるのですが、その上には毛の薄手のカーディガン。
下は、厚いジーンズ生地の床すれすれのロングスカート。
確かに顔と手以外は全く露出していません。
よくこんな服装でこの猛暑を乗り切れるなあ。
 
(続く)
 
義存
 
* ここに書かれている、風習・宗教についての感想は個人のものであって、人間禅を代表するものではありません
 
12月7日(土)に今年最後の緝煕会が開かれました。
参加者は4名でした。

四街道坐禅塾の庭は、よく手入れされ、初冬の趣を漂わせています。
赤い山茶花を一輪、茶室の花入れに活けました。
小さな茶室に、自然の風が吹き込まれ、晩秋の風情になりました。
 
来年は、1月4日(土)に 新年第1回の緝煕会を開きます。
日々の生活に、自分を見つめる静かなひとときを取り入れてはいかがですか?
 
坐禅(座禅)が初めての方も大歓迎です。是非一度お出掛け下さい。
 
―――――――――――――――――――――――――――――――
 
今回の報告を簡単にいたします。
 
9時前には全員が集まり、茶室・禅堂の掃除をし、茶室の炉に炭を入れ、
母屋の禅堂で一炷香(40分)の坐禅を行ないました。
 
茶室での輪読のあと、炉を囲んでお抹茶をいただきながら、子育ての話になりました。
 
女性にとって、子育ては重い責任のある仕事です。
 
子供の幸せを願い、真剣に子供と向き合えばあうほど、空回りして親の心は子に伝わらず、
子の気持ちが理解できずに悩むことは、誰でも経験することです。
 
子育てまっただ中の一人の女性が、子供の反抗的な態度と戦い(?)ながら、
悩みつつ迷いながら日々の生活について話されました。
 
子どもの問題の多くは、学校との関わりの中で生じています。
 
かねてから、現行の学校教育の問題点を指摘されておられる、教育学者の大田氏著
『教育とはなにか』(岩波新書)の一部を抜粋させていただきます。
 
 満六歳から始まる学校教育において、子どもたちは、
 他人をしのいで できる子になることを励まされる雰囲気の中で学ぶのです。
 できる子 できない子、よい子悪い子というような
 単純なものさしによる他人との比較によって叱責や激励をうける。
 
 この関係は学年や学校段階が進むほど激烈なものとなっていきます。
 高校入試・大学入試のような制度の枠組により子どもたちは互いに共同するよりも
 競争にしのぎを削る、つまりお互いに引き裂かれるような社会的な力学の中で、
 これに抗して人間になることを求められていると言ってもよいのです。
 
現在の学校教育は多くの問題を孕んでいます。
 
母親も大変ですが、子供自身の葛藤はもっと深刻かもしれません。
 
母親の心は、いろいろな情報が氾濫する中で揺れ動いています。 
 
子供の成長を願いながら、母としてどうあればいいのか、自分の対応が正しかったか・・・・
 
間違っていなかったか・・・・自問自答します。
 
子どもの思いを汲み取り、個性を大切にしながら、成長を支えていくにはどうすればいいのか、
母親の模索は続きます。
 
子育ては、終わってみると楽しいことばかりが思い出されるものですが、
その渦中にあるとき気持ちに余裕がありません。
 
子供を信じて、子供と向き合い続けること・・・・・
 
自分を見失いそうなときは、平静な心を取り戻す時間が大切かもしれません。
 
いろいろなことを考えたひとときでした。
 
 合掌  慧玉
 
(連絡先:進藤 Tel 090-5323-5307 )
土曜日(12月7日)の午後に有志五名が房総坐禅(座禅)道場典座寮に集まり、
鉄心居士の指導の下で味噌の仕込み作業がおこなわれました。

まず茹でた大豆を鉢に入れつぶしていきます。
味噌仕込1 すりつぶす

よくつぶした大豆に、あらかじめ塩と混ぜた米麹と大豆のゆで汁を加え団子を作ります。

それを勢いよく容器に投げ入れて空気を抜きます。

5キロの大豆から味噌の元ができました。
味噌の元完成

へらで表面をならした後に塩で覆い、ラップを敷きおもりを乗せてから密閉、雑菌の増殖を防ぐために

容器の内面は焼酎で丹念に拭きます。
重しを 新聞紙で蓋を

ふたを乗せて完成。
蓋に日にちと参加者の名前

2ヶ月後に一度天地をひっくり返し、
その後さらに熟成し、約6ヶ月後に完成です。

半年後が楽しみです。  道虔
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