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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

〒284-0032
  四街道市吉岡1010

お問い合わせは⇒こちら


または
090-7188-4873
  久保田
090-9827-8261
  みつなが
に電話ください。


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房総ブログ - 最新エントリー

房総坐禅(座禅)道場の玄関の周辺の植物です  撮影:惟然 2013.11.

どうぞ、房総道場に足をお運びいただければ幸いです。

房総道場 玄関前

山茶花(さざんか)
さざんか1  さざんか 白
さざんか 八重  さざんか 木札

南天(なんてん)                 八つ手(やつで) 
なんてん   やつで

万両(まんりょう)                 ピラカンサス
  ピラカンサス

道場建設中の山門付近 1983年(昭和58年)
(撮影:拳山居士)

房総坐禅道場では、
作務として環境整備が計画的に進められてきました。
植樹もその一つです。

写真のように道場ができた当時は、何もなかったので
若木を掘り出し、移植しました。
おかげで、踏み石の敷き方など、
造園の経験もすることができました。

80年代(昭和の終わりごろ)は、
房総支部が最も若々しく活気のあった頃だったと
懐かしく思い出します。

その後も摂心(接心)会のたびごとに
進捗状況の確認と作業は怠らず続けられ
現在に至っています。


現在の道場の環境があるのは
私(惟然)が遠ざかっている間にも
骨をおられた皆さまがいるお陰様と感謝申し上げます。

合掌
惟然 拝
義存居士からの話題提供の最後です。
皆さんは、どうお考えになりましたか?  合掌 惟然
 
---
 
前回は、メッカの方向をさがすところまで書きました。
 
さて、メッカの方向は分かったのですが、それはちょうど和室の床の間の方向だったのです。
そしてそこには観音像の掛け軸がかかっていました。
 
まずい。イスラム教は偶像礼拝禁止だったはずだ。
タリバンが、バーミヤンの大仏を爆破したことを思い出しました。
 
セナに、
 
「仏教の像なんだけど、大丈夫?」
 
と聞いたところ、メッカの方向しか気にしていないので大丈夫とのこと。
 
ああ良かった。
ふすまを閉めてセナのお祈りを邪魔しないようにしました。
 
お祈りが終わったセナが戻ってきて、
 
「あ~、やっと食事ができる」
 
もう、ここまでくれば大丈夫です。
皆で食事をしながら、楽しい時を過ごしました。
ところで学生のセナは、大学に行っているとき
どこで1日5回のお祈りをしているんだろうと思って聞いてみると、
教授が空いている部屋を用意してくれていて、
中国人のウルムチから来ている学生と一緒にお祈りしているそうです。
それにしても、誰が見ているわけでもないのに、
一人でも毎日欠かさずお祈りをし、ラマダンも守り、見上げた信仰心です。
あっ、もしかしたら、アラーが見ているのかも知れません。
 
禅者の端くれとして、1日1炷香(45分くらい)の坐禅はしていますが、
セナほど生活に禅が密着しているかと自分を振り返ると、恥ずかしい思いがします。
 
もちろんどの宗教でも、
お互いを尊重しあいながら平和な世界を築くべく努力するのが理想だと思います。
でも世界史の視点で見ると、
特に一神教では、お互いに譲り合えず争いになっている例を多く見かけます。
また、テロのニュースを見るたびに胸が痛みます。
 
クリスチャンと、イスラム教徒と、仏教徒が楽しくパエリアを食べられるのですから、
世界もこうならないかなあと思いました。
 
セナには、坐禅とはいかないまでも、お茶の体験くらいしてもらおうと思っていたのですが、
僕が誘いそびれているうちに見事に大学院を卒業し、
今年の10月にスーダンに帰ってしまいました。
友人たちが成田空港まで見送りに行ったのは言うまでもありません。
今はFBやスカイプで話ができるので友情は続きそうです。  
 
さて、やっと房総坐禅道場の話です。
房総坐禅道場は、懐が深いですから、他人に迷惑をかけない限り、
クリスチャンもイスラム教徒も歓迎です。
もちろん仏教の他宗の方もどうぞいらっしゃってください。
前もって言っていただければ、身体に障害のある方にもできるだけ対応します。
車椅子の方でも目が不自由な方でも坐禅道場を体験できます。
 
禅は宗派生が少ないので、
それぞれの宗教を尊重しつつ一緒に坐禅(座禅)ができます。
 
最後に一言、イスラム教徒の人が道場を訪れたとき困らないように、
メッカの方向だけはさがしておきましょう。
 
義存 
 
 
* ここに書かれている、風習・宗教についての感想は個人のものであって、人間禅を代表するものではありません
 
義存居士より話題提供に届いた原稿の2回目です。
いかがでしょうか  合掌 惟然
 
---
 
前回は、二人が家に来たところまで書きました。

 
ダイニングテーブルにセイラとセナそして娘と僕と妻の5人がすわり、いろいろな話に花が咲きました。
 
さて、夕食の時間になりました。セナのことを考えて、もちろん豚肉は使わず、豚の油が入っていそうなものも避けました。
新大久保まで行けば、お祈り済みの食材も手に入るようですが、さすがにそこまでは無理でした。
料理は海産物をメインにしたパエリアです。
 
さあ、皆で食べましょうと言って、パエリアを取り分けて食べ始めたのですが、セナが箸をつけませんというか、食べる様子を見せません。
結構料理には気を使ったのだけれど、何かまずかったかなあと思い、セナに聞くと、
「どうぞ皆さんで先に食べてください」という返事。
 
「なぜ?」と聞くと、
下を向いて小さな声で、
「ラマダン」。
 
こりゃ~まいった。
今がラマダンだなんて知らなかったよ。
ラマダンはイスラム暦が基準だから、毎年少しずつずれるという程度の知識はあったものの、
今年のラマダンなんて・・・、そこまでは気が回らなかった。
 
聞くと、ラマダン明けまで、あと2日ということでした。
 
もうじき日が暮れるので、セナに付き合い待つことにしました。
 
戒律をしっかり守っている人の前で、がつがつ食べることなんてとてもできません。
それにしても、昼食に招待しなくてよかった。
 
また少し歓談した後、日が暮れたのでもういいでしょうということになりましたが、セナはこっちをずっと見つめています。
もういいはずなんだけどと思いながら、セナに聞くと、
 
「食事の前にお祈りをしなければいけないので・・・」
 
「じゃあ、僕がいつも坐禅をしている和室を使ってください」
と僕は和室に案内しました。
 
ここで衝撃の発言が、
 
「あのぅ、この家でメッカの方向はどっちですか?」
 
ひゃ~ッ、またまいったなあ、これが今年の夏だったら、
「じぇ、じぇ、じぇ」の連発です。
 
「おーい、誰か世界地図と地球儀と方位磁石捜して持ってきてくれ~」
と僕は思わず大声で叫んでしまいました。
 
そういえば、インドネシアのバザールに行ったとき、
いつもメッカの方向を指す磁石付きのカーペットが売っていたっけ。
こういうときに使うんだと妙に納得しました。
 
てんやわんやで、メッカの方角をさがして、
こっちだということで納得してもらいましたが・・・
 
(続く)
 
義存
 
* ここに書かれている、風習・宗教についての感想は個人のものであって、人間禅を代表するものではありません」
会員の義存居士より、話題提供にとブログの原稿がとどきました。
3回連続です、皆さんはどう受け止められますか?    合掌 惟然
 
---
 
うちの娘が、千葉市国際交流協会というところで、日本語を教えるボランティアをやっています。
 
娘の相手は、日系ブラジル人で、千葉で遺伝子工学を学んでいるセイラ(仮名)。
日系3世というだけあって完全に日本人の顔です。
彼女いわく、日本に来て、私はどう見ても日本人に見えるから、
ポルトガル語と英語しかできないと分かると周りの人に変な顔をされるのがちょっとつらい。
 
うちの娘の英語能力もたいしたことはないので、かなり細かい日本語のニュアンスを聞かれると、
難しくて説明できないそうです。
 
 
そんなこんなで、ボランティアを続けていると千葉にいる外国人の女の子グループと付き合うようになりました。
ブラジル、カンボジア、スーダン、中国など、多種多彩です。
日本語を勉強した後、買い物に行ったり食事をしたりして、とても仲がよく楽しそうです。
 
ある日、娘が家に帰ってきて言いました。
 
「友達連れてきていい?」
僕も妻も、まあまあ海外経験はあるほうだし、異文化にも接触してきたので、
いろいろな人がうちに来るのは大歓迎です。
 
 
去年の夏の猛暑の日に、二人はやってきました。
一人はもちろん娘が日本語を教えているセイラ。
もう一人は薬学を学びに千葉に来ているスーダン人のセナ(仮名)です。
 
セイラは、ガッチガチのカソリック教徒。
セナは、後で分かってくると思いますが、本当に熱心なイスラム教徒です。
 
 
二人は家を見回しながら、素敵な家だとほめてくれたので、外交辞令とは分かっていても僕たち夫婦はニコニコしていました。
 
どうぞとダイニングに案内して腰掛けてもらいました。
僕の興味は、どうしてもセナのほうに向いてしまいます。
インドやインドネシアに行っていたときにイスラム教徒とはたくさん会いましたが、じっくり話したことはあまりなかったからです。
 
まあ、家の中は冷房していたのでまだましだと思うのですが、セナはスカーフをきっちり巻き、Tシャツを着て、
そこまではまだ分かるのですが、その上には毛の薄手のカーディガン。
下は、厚いジーンズ生地の床すれすれのロングスカート。
確かに顔と手以外は全く露出していません。
よくこんな服装でこの猛暑を乗り切れるなあ。
 
(続く)
 
義存
 
* ここに書かれている、風習・宗教についての感想は個人のものであって、人間禅を代表するものではありません
 
12月7日(土)に今年最後の緝煕会が開かれました。
参加者は4名でした。

四街道坐禅塾の庭は、よく手入れされ、初冬の趣を漂わせています。
赤い山茶花を一輪、茶室の花入れに活けました。
小さな茶室に、自然の風が吹き込まれ、晩秋の風情になりました。
 
来年は、1月4日(土)に 新年第1回の緝煕会を開きます。
日々の生活に、自分を見つめる静かなひとときを取り入れてはいかがですか?
 
坐禅(座禅)が初めての方も大歓迎です。是非一度お出掛け下さい。
 
―――――――――――――――――――――――――――――――
 
今回の報告を簡単にいたします。
 
9時前には全員が集まり、茶室・禅堂の掃除をし、茶室の炉に炭を入れ、
母屋の禅堂で一炷香(40分)の坐禅を行ないました。
 
茶室での輪読のあと、炉を囲んでお抹茶をいただきながら、子育ての話になりました。
 
女性にとって、子育ては重い責任のある仕事です。
 
子供の幸せを願い、真剣に子供と向き合えばあうほど、空回りして親の心は子に伝わらず、
子の気持ちが理解できずに悩むことは、誰でも経験することです。
 
子育てまっただ中の一人の女性が、子供の反抗的な態度と戦い(?)ながら、
悩みつつ迷いながら日々の生活について話されました。
 
子どもの問題の多くは、学校との関わりの中で生じています。
 
かねてから、現行の学校教育の問題点を指摘されておられる、教育学者の大田氏著
『教育とはなにか』(岩波新書)の一部を抜粋させていただきます。
 
 満六歳から始まる学校教育において、子どもたちは、
 他人をしのいで できる子になることを励まされる雰囲気の中で学ぶのです。
 できる子 できない子、よい子悪い子というような
 単純なものさしによる他人との比較によって叱責や激励をうける。
 
 この関係は学年や学校段階が進むほど激烈なものとなっていきます。
 高校入試・大学入試のような制度の枠組により子どもたちは互いに共同するよりも
 競争にしのぎを削る、つまりお互いに引き裂かれるような社会的な力学の中で、
 これに抗して人間になることを求められていると言ってもよいのです。
 
現在の学校教育は多くの問題を孕んでいます。
 
母親も大変ですが、子供自身の葛藤はもっと深刻かもしれません。
 
母親の心は、いろいろな情報が氾濫する中で揺れ動いています。 
 
子供の成長を願いながら、母としてどうあればいいのか、自分の対応が正しかったか・・・・
 
間違っていなかったか・・・・自問自答します。
 
子どもの思いを汲み取り、個性を大切にしながら、成長を支えていくにはどうすればいいのか、
母親の模索は続きます。
 
子育ては、終わってみると楽しいことばかりが思い出されるものですが、
その渦中にあるとき気持ちに余裕がありません。
 
子供を信じて、子供と向き合い続けること・・・・・
 
自分を見失いそうなときは、平静な心を取り戻す時間が大切かもしれません。
 
いろいろなことを考えたひとときでした。
 
 合掌  慧玉
 
(連絡先:進藤 Tel 090-5323-5307 )
土曜日(12月7日)の午後に有志五名が房総坐禅(座禅)道場典座寮に集まり、
鉄心居士の指導の下で味噌の仕込み作業がおこなわれました。

まず茹でた大豆を鉢に入れつぶしていきます。
味噌仕込1 すりつぶす

よくつぶした大豆に、あらかじめ塩と混ぜた米麹と大豆のゆで汁を加え団子を作ります。

それを勢いよく容器に投げ入れて空気を抜きます。

5キロの大豆から味噌の元ができました。
味噌の元完成

へらで表面をならした後に塩で覆い、ラップを敷きおもりを乗せてから密閉、雑菌の増殖を防ぐために

容器の内面は焼酎で丹念に拭きます。
重しを 新聞紙で蓋を

ふたを乗せて完成。
蓋に日にちと参加者の名前

2ヶ月後に一度天地をひっくり返し、
その後さらに熟成し、約6ヶ月後に完成です。

半年後が楽しみです。  道虔
『作務』は難しい(容易でない)。  惟然
 
坐禅(座禅)道場なのに、静かに『坐(座)』するだけでなく動けという。
 
しかも、『動中の工夫は静中の工夫に勝ること萬々(百千億倍)』という。
 
本当にそうなのか?
 
身体を動かしているのに動かないもの、身体を動かしていないのに動いてしまうもの
そんなものがあるとでも言っているのでしょうか?
 
頭で考えても始まらない。だまされているか確かめるために、
『念々正念歩々如是』と作務を続けていくことにしましょう。

長くなりますが、今回も『清規』と『数息観のすすめ』(耕雲庵英山老大師著)を引用し
説明とさせていただきます。

〇『清規』
○ 作 務
一 作務は、動中の工夫を主眼とし、併せて団体行動の修練をする。

一 作務には、病弱のものを除いて、全員が従事せねばならない。

一 作務を開始するに当っては、直日が合図係に板木を打たせる。

一 作務の合図をいたら、会衆は直ちに所定の場所に集合する。
 直日は、老若男女と作務の種類を考慮し、適切に人員を区分して、
 各班の責任者を依嘱し、任務の要領と所要の時間を告げる。

一 作務終了の十分前に、直日は、合図係に終了の合図の板木を打たせる。
 終了の合図を聞いたら、各自は用具を元の所に整頓し、
 手足を洗って、所定の場所に集合する。

一 全員の集合が終ったら、
 直日に対して各班の責任者から作務の状況を報告し、
 直日から注意があれば、それを受けた後に解散する。



〇『数息観のすすめ』
○作務と食事について より
 
作務(さむ)というのは、講習員が一つの規律のもとで仕事をすることを申します。
元来、禅宗から出た言葉でして、よく建築をすることを普請(ふしん)すると申しますが、
作務する為に修行者の手を普く請うということから、普請というのです。
ですから建築ばかりには限らないので、畑を耕そうが沢庵をつけようが庭掃除しようが、
作務するために集まって貰うなら、みな普請というべきであります。
 
そこで講習会においても、作務するときは全員が参加しなくてはなりません、
もっとも作務は単なる勤労奉仕ではありません。
経行によってある程度修練できた動中の工夫を、
さらに仕事をしながらでも乱れることのないように試みるのが第一の目的ですから、
これは立派な行事の一つです。
ですから初めの間は、あまり複雑な仕事は作務には適しません。
草抜きとか拭掃除ぐらいが適当でしょう。
それから、この行事には指導者側と受講者側において、それぞれ修養上の利点もあるのです。
 
まず指導者側の方から、実際に即して申してみましょう。
私どもは常々段取り・真剣・尻拭いということを、心構えに致しております。
段取りとは仕事の計画を立てること、真剣とは申すまでもなく熱心のことですが、詳しいことは後で申します。
尻拭いとは結末をつけ、善悪にかかわらず責任をとることです。
この段取り・真剣・尻拭いの三者は、どんな些細な仕事においても、またどんな大きな仕事においても、
必要なことで、これさえ確実に実行すれば、仕事に失敗することもなく、人生を誤ることもないというのが
私どもの信条です。
ところが、これが一朝一夕に養えるものではないので、作務するにあたっても、
その習練を志すというのが指導者たる者の心構えです。
 
まず、作務をするにあたっては、全員に集まってもらって(いわゆる普請して)
直日が作務の内容や要領や所要時間などについて、一応の注意をします。
もし作務の種類や人員が多い場合には、身体の強弱や男女の差などを考慮して、
数班に分けるのもよいでしょう。
この場合には、各班に班長を委嘱して責任を持って貰います。
 
作務を終了する場合には、直日はその十分前に、あらかじめ委嘱してある合図係に、
作務やめの合図を打ってもらいます。
大勢で行動する時は、どうしても遠くヘ音の響く合図を要しますが、こんな場合には、
私どもは板木(ばんぎ)を打つことにしております。
鐘でも太鼓でもよいわけですが、板木が一番手に入りやすく、音も静かで心地よく響きます。
板木の合図は七・五・三ときめられていますが、ついでに今それを申しておきましょう。
 
初め七つ大きく打ち、次に小さく一つ打ち、さらに大から小へ緩から急へと続けて打つのが最初の七、
次の五は
大きく五つ打ち、次に小さく一つ打ち、さらに大から小へ緩から急へと続けて打って中の五つが終わります。
そしてまた三つ大きく打ち、次に小さく一つ打ち、さらに大から小へ緩から急へと続けて打ち、
最後に小小大と打って、全部を打ち終わるのです。
 
この合図を聞いたら、班長は直ちに作務やめを命じ、各員は用具をもとの所へ整頓し、
手足を洗って各班ごとに所定の場所に集まります。
全員の集合が終わったら、各班長は作務の状況を直日に報告し、また直日から何か注意があれば
それを伝えた後で解散します。
 
以上で作務は終わるのですが、この場合に各員の心構えはどうあったらよいかと申しますに、
元より動中の工夫を試みているのですから、それでよいのですが、
もう少し具体的にいったらどんなことになるのでしょうか。
指導者側が主に段取りと尻拭いに責任を持つというなら、講習員は真剣ということの、
ほんとうの意味を味わうのがその心構えです。
真剣とは心身をつつくるめて、そのものになり切るのです。
さっきは熱心といっておきましたが、実は熱心よりも高度の精神内容を持っています。
 
一例を庭掃除にとってみましょう。
結果的にいえば、きれいになれば宜いのでしょうが、われわれは庭掃除の人夫に
やとわれたのではありません。
掃除という仕事の本質は、環境を含めての心のすがすがしさにあります。
今、庭の草や塵を自分の心の田地にはえた妄想であり、心の鏡をくもらす煩悩であると感じて御覧なさい。
見える所だけをきれいにして、見えない所は手を抜くような考えは起こらない筈です。
また中途で放擲したり、草を抜いたふりをしたりして、根を残したりはできない筈です。
ちょっと見はきれいに見えても、それでは心のすがすがしさは得られません。
古人の語に
【身はこれ菩提樹、心は明鏡の台の如し、時々に勤めて払拭せよ、塵挨をして惹かしむるなかれ】
というのがありますが、掃除はこの意味であるべきものです。
この語の意味であれば、とうていそういう形式的な掃除はできますまい。
見えても見えなくても、よしんば与えられた時間内では掃除し終わらなくとも、
心ゆくまで草を抜き塵を拾うのを、ここでは真剣と申すのです。
こんな語もあります。
 
昔、通天の鼎和尚という方が、山門内に降りつもった松葉を一つ一つ拾っておられました。
これを見た侍者が“お手ずから-つ-つお拾いにならずとも宜ろしうございます。
そこはどうせ後で掃くところですから”と申し上げた時分に、和尚は、その侍者の顔をつくづくご覧になって
“今の言葉は修行者の言葉とも思われぬ。どうせなどと、後をあてにするようでは、ほんとうの掃除はできぬ。
一つ拾えば一つだけきれいになるのじや”と戒められたという有名な話があります。
これが、講習員の掃除の心構えです。
掃除に限りませんが、万事こういう心構えで作務したら、大いに得るところがあるに違いありません。
 
ーーー
我ながら、よくも抜け抜けと紹介をしているものだと恥じ入るばかりです。
もっとも、これもご縁なのかもしれません。

最後まで、長文にお目を留めていただき、ありがとうございました。

合掌
惟然 拝

『静坐(坐禅・座禅)』が『静中の工夫』なのに対して
『経行(きんひん)』は『動中の工夫』にあたります。
 
経行が初めての人は、必ず
「『経行』とは何かよくわかっているいる人」から、 レクチャーをうけておきましょう。
ただ漫然と後をついて歩いているだけでは、 無駄な時間を過ごすことになります。
くれぐれもご注意を。        惟然
 
 
 『動中の工夫、静中の工夫に勝ること萬々』と伝えられる
いや『百千億倍』だ!とか
 
いずれにしても、
正しく行ずれば効果は絶大!
形だけ行じても時間の無駄!!
そう信じて行じあおうではありませんか。
 
作務も食事も『動中の工夫』ですが、
経行では、ピュアに 『動中の工夫』に入りやすいので
基本を理解するのが重要だと思っています。
 
『清規』と『数息観のすすめ』(耕雲庵英山老大師著)を引用し説明にかえます。
なお、
前者は形式の説明、後者は本質の説明にあたると思いますので
前者は一読するだけで足り
後者は熟読する(だんだん、なるほどと思えてくる)ものと思います。
いかがでしょう。
 
〇『清規』(『要覧』の参禅の最後の部分)
・静中の工夫を動中に移すために、その時々に経行(きんひん)を行う。
 
・直日が経行を行うとするときは、
引磐をチンチンチン‥‥と大から小へ、緩から急に打つ。
会衆はこれに従って、叉手当胸して立つ。
 
・次にまた引磐を前の通り打った後、会衆はそのまま左向けをし、
 
・次に引磐を一つチンと打つ合図と共に左足からおもむろに運び出して、
直日を先頭にして堂内を緩歩する。
 
・数周して会衆がおおよそその旧座に来た頃、
直日は引磐をチンチンチン‥‥と打つ。
各人は自座に戻って止まる。
 
・引磐を前のようにチンチンチン‥‥と打ち右向けをし、
次のチンで坐禅を組み、
 
・最後の引磐三声でまた合掌して定に入る。
 
 
〇『数息観のすすめ』より
経行について
 
三昧の力は、静坐して数息観を修する時ばかりに養われるものでなく、
身体を動かしながらでも養いうるものです。
 
また実際に三昧の力が必要なのは、かえって静坐の時は少ないもので、
そのためには動中においても三昧の境の乱れない練習をしておく必要があります。
古人も【動中の工夫は静中の工夫に勝ること万々】と申しております。
その動中の工夫のために、経行(きんひん)ということをやるのです。
 
経行とは、元来お経を誦じながら室内を緩歩することから出た言葉ですが、
私どもは歩きながら数息観や凝念を試みることを申しております。
経行をする時は身体を真ッ直に立て、
手を胸に当て[又手当胸(さしゆとうきょう)と申します]顎をグッと引いて2メートル位先を見ながら、
(但し団体で行う時は片手間隔の前の人の背中を見ることになります)
静かに歩むのです。
 
いくら広い堂内といっても知れたものですから、自然ぐるぐる廻ることになりますが、
右廻り(時計の針の方向)するのが正式です。
最初の一歩は左足からときめ、そして
左足を運ぶ時はいつも吸う息、
右足を運ぶ時は吐く息ときめておきます。
 
例えば12なら、
左足を出しはじめてから全身の重みが全くそれにかかるまでにジューと数え、
次ぎに右足を出しはじめてから全身の重みが全くそれにかかるまでに、ニーと数えるのです。
 
その他、
数息観の要領は静坐の場合と全く同じですから、かさねて申しませんが、
団体で行なう時は人々によって呼吸に遅速がありますから、とかく間隔が不揃いになり勝ちです。
そこで全体の人が同時に左足なり右足なりを出し得るように、前の人に合わせながら、
各自に呼吸の遅速を加減します。
 
また、
これは数息観ではありませんが、経を誦ずる代りに凝念ということをやります。
これが又たいへんに効果のあることですから、むしろ経行の時には凝念の方をおすすめしたい位です。
 
凝念というのは、一心不乱に一つの念慮になりきることですから、
数息観も一つの凝念と言えばいえないこともありますまい。
ただ、ちがうのは息を数えるかわりに題目とか称名とかを心に念ずるのです。
 
陀羅尼(だらに)でもお経でもよいわけですが、
私どもは『念々正念歩々如是』と凝念致します。
しかし、その意味はここでは余り詮索しないでおきます。
 
そのやり方を申しましょう。
経行のやり方は前に申した通りで少しも違いありませんが、
ただ念々と左足を出し正念と右足を出し、
次ぎに歩々と左足を出し如是と右足を出し、
これを繰り返しさえすればよいのです。
 
三昧になるために南無阿弥陀仏と伏鉦を打ち、
南無妙法蓮華経と太鼓をたたく行(ぎょう)と変わりはありません。
念々正念歩々如是と念じて、経行するところの一つの行です。
 
ただ肝要なことは、
救いを求めるでもなく、意味を考えるでもなく、純一無雑で心の中に念ずることです。
 
凝念は坐禅を組みながらでもできますが、
やはり経行の時の方が心身の軽安を覚え、
三昧の力を養いやすいようです。
 
これも熱心に継続しておれば、
これで数息観の後期の境涯まで達することができます。
 
大勢集まって講習会を催す場合には、
坐禅の時は数息観、経行の時は凝念ときめるのが一番よいようです。
 
ーーー
以前のブログの記事
『臘八摂心会 徹宵は 経行と抹茶で気合を入れなおします。』
では、
「くれぐれもご注意を。」という中途半端なのご紹介で、申し訳ありませんでした。
でも、やっぱり
初心者は最初から
「『経行』とは何かよくわかっているいる人」から、 レクチャーをうけておきましょう。
という思いは変わりません
 
(では静坐は? 蛇足でした)
 
合掌
惟然 拝
今日12月6日(金)は、
第1週なので6時からコミュニティセンターの5階和室で例会が開催されました。
参加者は7名でした。     義存                         
 
今日は、第1週なので、
まずは、齋藤孝著の「こんなに面白かったニッポンの伝統芸能」の続きを輪読しました。

今日からテーマは「能」です。
いきなり、「これほど幽玄な芸術は世界中どこを探しても存在しない」という言葉から始まりました。
「幽玄」という言葉を和英辞典で引いても出てきません。
これは翻訳不能の日本語かもしれません。
広辞苑で引くと今度はいろいろな使い方がたくさん出てきて、
どれが能の幽玄さを表しているのか少し迷います。
自分で能の舞台を見て、味わうしかないのかも知れません。

世阿弥は、「風姿花伝」という能の書を室町時代に著していますが、
これは、門外不出の書で、1927年になって初めて出版されたそうです。
ある人が名人に「先生この本をお読みになりましたか」と聞くと、
名人は「読んでいません、芸が出来上がるまでは見てはならぬと父にとめられています」と答えたそうです。
彼の人は恥じ入って、能の世界はこのようにして守られてきたのだと思ったそうです。
「本を読んで分かったつもりになることが危険なのだ」
これは、禅と同じですね。

また、「観阿弥・世阿弥」が頂点を極めてしまっているので、その様式をいじろうとすると、
かえって劣化が始まる」とも書いてありました。
これも禅に通じるところがあるような気がします。
仏教は今多くの宗派に分かれていますが、原点は釈尊です。
禅は釈尊と同じ悟りに向かってまっすぐ進む道ですから。
 
本の話が長くなりましたが、次はお茶の時間です。
今日は森本さんによるお点前でした。
掛け軸は
 不要参禅亦適禅 詩書画酒自由仙
 若知容老*神術 何怪壷中別有天
                    宗演草
       *は|(たてぼう)に頣。
 
で一月前と同じです。
今日は、読み下し文を持ってきてくれた人がいるので、
前よりは読めましたが、内容まではついていけていません。
私などではとても手の届かない世界のようです。

お菓子は、「秋の山」と「此の花」、
花は山茶花でした。

お茶の後は、しっかり一炷香坐り(*)ました。
 
個人的な話ですが、私の中学・高校の同窓で仲のよかった友人の訃報が入りました。
東大に行って大手の銀行に就職し、シカゴ大学でMBAを取得したエリートです。
気立てもよく、何であんないいやつがこんなに早く逝ってしまうのだと悲しみにくれました。
何故か、先師の「今日が死ぬ日」と書いて、毎日おでこに張っておけという言葉が思い出されました。
あとに残った者はしっかり生きなくては。
 
義存

*一炷香坐る:一炷香(いっちゅうこう:45分)の坐禅(座禅)をする
食事の作法は、人間禅の清規では次のようになっています。
読んで覚えていなくても、新至(初心者)の係りが教えてくれますし、
まわりの様子を見て合わせていけば大丈夫です。
一応ある程度知っていると、参加する時に安心だとは思います。
このブログで、これまで分けて紹介していますので、そちらもご覧ください。   惟然

28日の夕食


主食:玄米 (房総道場名物 圧力釜で炊きます)
汁 :味噌汁、具は豆腐他
主菜・副菜:八宝菜・大根の酢の物
香の物:自家製ぬか漬け


<食前の文>
一 百丈和尚の云く、「一日 作さざれば一日食(くら)わず」と。
 我れ今恥ずること無くして此の箸を採り得るや?
 
一 臨済和尚の云く、「食(じき)を思えば百味 具足す」と。
 我れ今何の徳あってか此の良薬に遇う。省みざるべけんや。
 
一 雲門和尚の云く、「識得すれば醍醐の上味、識得せざれば却って毒薬」と。
 当(まさ)に咀嚼(がんみ)翫味(そしやく)すべきの諸なり。
 
一 維摩居士の云く、「法書禅悦を以って食と為す」と。
 我れ今万劫の飢えを療ぜんが為に、此の-飽を味わうものなり。
     
一 金牛和尚の云く、「菩薩子(ぼうさつし)!喫飯来!」と。
 我れ今仏祖の慈恩を念じつつ応(まさ)に此の食(じき)を受くべし。

<食畢(じきひつ)の偈>
                             
飯食(ぼんじき) 喫し了って心身 充ちたり、
深々たる荊辣(けいきょく)も手を振って行くべし、
願わくば此の大威神力を以って、自理利他の素顔を成ぜんことを。
 
○食事
一 摂心中は会場で食事するのを原則とする。
 食事をする者は、予め配膳係に届け出て、物資または食費を納めねばならない。
 
一 食事中は、静粛にして私語をすることを禁ずる。
 
一 自鉢は飯碗・汁椀・皿・小皿・薯の5器とする。
 これを白布に包んで、各自の所定の棚に整頓しておく。
 
一 食事をする者の人数に応じて、供給を定めておく。
 供給は甲斐々々しい服装をしていなければならない。
 
一 食事の用意が整えたなら、
 配膳係長は、合図係に食事の合図の板木を打ってもらう。
 板木の合図は総べて七五三である。

 七 〇〇〇〇〇〇〇○〇〇○○○○・・・・(大から小・緩から急へ)
 五 〇〇〇〇〇○〇〇○○○○・・・・
 三 〇〇〇○〇〇○○○○・・・・○○〇

 
 合図を聞いたら、各自に自鉢を捧げて配膳係長を先頭に食堂に入る。
 このとき、係長は自鉢を次の者に托して、析を大小、大小に鳴らしながら先導し、
 一同は飯台の前に自鉢を捧げたまま立っ。
 
- 師家が最後に入堂し終ったなら、係長は析を小小大と鳴らす。
 これを合図に-同は揃って着座して、自鉢を飯台の上に置く。
 
一 係長は、更に析一声して、「食前の文…」と音頭を取る。
 一同は、合掌して『食前の文』を斉唱する。
 
一 斉唱が終ったら、静かに自鉢の包みを開いてその上に食器を揃えて置く。
 
- 供給は立って、先ず師家の飯および汁を盛る。
 供給は、常に立ったままで給仕する。
 
- 食器の授受に際して、供給は右手で、坐している者の眼の高さに差し出す。
 受ける方は、両手でこれを受ける。
 供給が食器を持ってくるまでは、合掌したまま待っている。
 
一 菜は上座から、香の物は末座から、各自の分だけ自分の皿に取り分け、順次に次座に廻す。
 一同が取り分けて終った器は、供給が納める。
 
一 以上のことが-僻し終ったら、係長は析一声する。一同合掌の後、静かに食事を始める。
 
一 飯または汁の御代りを乞うときは、空器を右手で眼の高さに差し出して待っている。
 供給が受け取って再び食器を持ってくるまでは、合掌したまま待っている。
 
一 一同が食事を終ったら、茶を注いで廻る。
 このときもし食べられない残物があったら、供給は折水器を上座の者に渡す。
 上座の者は、残物をその中に投じて次座に渡す。
 こうして折水器が末座に廻って来たら、供給がこれを納める。
 
一 茶を注いで廻る作法は、茶礼の時に準ずる。
 
一 全部に茶を注ぎ終ったら、一同は揃って食器を清め、最後にその茶を呑み干す。
 それから食器を拭い、白布に包み、箸を差し挟んで飯台の上に置く。
 この動作は音のしないようにかつ手早くせねばならない。
 
一 以上が終ったなら、係長は析一声、「食畢の偶…」と音頭をとる。
 一同は合掌して『食畢の偶』を斉唱する。
 
一 斉唱が終った後、一同は自鉢を捧げて立ち、互礼の後に、師家は退座する。
 その後、係長の先導で順次に自鉢を所定の棚に整頓しておく。
 
一 食器は、暇を見て各自良く洗っておく。
 特に白布は二枚用意し、交互に洗濯しておかねばならない。
 
一 伝染病を持っている者は、就寝・食事の際は、特に留意して
 他に迷惑を及ぼさないようにせねばならない。
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