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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

〒284-0032
  四街道市吉岡1010

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房総ブログ - 201601のエントリ

日曜静坐会 冬晴れ無風

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ブログ » 静坐会・行事
執筆 : 
惟然 2016/1/31 23:50
今日で1月も終わり、あっと言う間の1か月でした。
年をとると時間の経つのが本当に早く感じられます。
 
本日(31日)の日曜静坐会の参加者は、女性1名、新到者1名を含めて20名でした。
 
外は冬晴れ無風、道場はエアコンの風の音のみ。
 
時折 助警(*1)の「警策」の音(*2)が響きました。
私の坐相はよく注意されますので、助警が私の方に来る時は私ではないかといつも不安になります。
 
自分の坐相に自信が持てるのは生涯ないかも?
 
 
静坐・読経後の懇談会では
鈴木俊隆老師著「禅マインド、ビギナーズマインド」の図書の紹介、
平日静坐会(四街道坐禅塾)の案内等
各人にとって有意義な会となりました。
 
合掌 一心
 
===
編者註
 
(*1)助警(じょけい)
修行者の坐相の悪いのを正したり、居眠りを戒めたりして、懈怠(けたい)に陥らないようにしてさしあげる役位
 
静坐中、警策を捧げて随時堂内を巡回します。
(直日、助香がともに不在の時はこれに代わります)
 
(*2)「警策(けいさく)」の音
警策は、修行者の坐相を正すときに使う長さ約130㎝、幅約7㎝の板状の棒。
 
坐禅に習熟していない初心者は、肩や背中の筋肉がこったり痛くなったりすることがあります。
そういうときは、警策で打ってもらいます。
 
警策を頂戴しようとするときは、助警が自分の前に来た時に合掌します。
すると助警はこれに応じて向き直りますので、合掌しあった後、両手を畳について背を丸くします。
左右の広背筋をパン・パン・パン・・・と打ってもらうと、筋肉のこりはいっぺんに吹っ飛びます。
なお、眠い時には、あわせて目が覚める効果もあります。
 
合掌
惟然 拝
今日29日は第5週で、6時からの読書会で始まりました。
川端康成の美しい日本の私を読んできましたが、今日で最後となりました。
 
「明恵伝」から引用しています。
 
(前略)
紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虚空明かなるに似たり。しかれども、虚空は本明らかなるものにあらず。また色どれるにもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に蹤跡なし。この歌即ち是如来の真の形体なり。
 
次に、これは川端康成自身の言葉として
 
 日本、あるひは東洋の「虚空」、無はここにも言ひあてられてゐます。私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはまりません。心の根本がちがふと思ってゐます。道元の四季の歌も「本来の面目」と題されてをりますが、四季の美を歌ひながら、実は強く禅に通じたものでせう。
 
と結んでいます。これで、ノーベル賞受賞記念講演は終わっています。
 
最後は、かなり難しいですね。解説不可能。自分で味わうしかないと思います。
 
ちなみに、道元禅師の歌とは、
 
春は花夏ほととぎす秋は月
 冬雪さえて冷しかりけり
 
です。
 
 
次のお茶の時間では、これは日本語でも難しいのだけれど、英語では一体どういう風に訳しているのかということになり、訳を見てみました。
 
 Here we have the emptiness the nothingness of Orient.
 (後略)
  
とされていますが、日本語でもよく分からないものを、英語のネイティブが訳を読んで、emptiness とか nothingnessでどんなイメージを持つのかは見当がつきません。
 
まあ、そんなことを考えているよりも、お茶を味わったほうがいいということになり、栗田さんのお点前でお茶を頂きました。

お菓子は金ごま餅でした。
 
来週からは、禅マインド ビギナーズ・マインドを読みます。
もちろん日本語で。
英語で語られた禅がどのようなものなのか興味が湧きます。
 
来週は、2月5日。6時から読書会、お茶の時間と続き、8時から坐禅の時間となります。
途中からの参加も大丈夫です。
どうぞお越しください。
 
義存 合掌
 
「禅と茶の集い」についてくわしくは、コチラ
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com
左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください。

慈悲 その8  大慈大悲心をもって

カテゴリ : 
ブログ » 随想・日常
執筆 : 
惟然 2016/1/26 23:50
某:
今晩は〜。
寒いね。
遅まきながら七草粥食べてきたわ、風邪ひかないっていうし。
 
僕:
(バカ言っちゃあ〜イケネェヨ。
日本全国民が七草粥食べたらどうなる。
コチトラァ風邪で飯クッテンダァ。)
 
ソリャアいいことだ。
美味しかった?
 
今日は大寒、小松菜の一番おいしい時だね。
赤貝、めひかりもおいしい。
 
今夜あたり、寿司屋にいっか。
水菜のハリハリ鍋もいいな。
ワカサギの天麩羅も。
アア、ヨダレが。
 
春隣(はるとなり)と言うのもいいね。
昔の人は良く言ったもんだ。
何か人生に希望が湧いてきそうな。
一徹さんが、一句ひねり出してくれるに違いない。
 
某:
一徹さんてだあれ?
 
僕:
房総支部きっての俳人だ。
僕は勝手に小林一茶の生まれ変わりだと信じている。
 
でも、やっぱり風が冷たいね。
 
さあ、今回は親鸞聖人のうたい文句だ。
 
歎異抄第四章第四文。
 
  【浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて(*)、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。】
 
聖道仏教に対して、浄土仏教で教える慈悲とは、はやく阿弥陀仏の本願に救われて、念仏する身となり、浄土で仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分人々を救うことをいうのである。
 
とおっしゃっているんだろう。
 
前文で、「聖道仏教では、極めてありがたし」といっておいて、この文では、「浄土仏教では、思うがごとく」と言っている。
 
そういうこと言うから、既存仏教から反発くらうんだよね。
 
そりゃーそうだよね。
厳しい修行の末に悟りを開く者からすれば、簡単に極楽浄土行きのバスに乗っちゃおうてなもんだから。
 
まっ、それはともかくとして(一番重要な点なんだけど)、歎異抄がいかに誤解を生じやすいか、この文章からもわかる。
 
" 急ぎ仏になりて"ということが、早く仏の悟りを開いて、ということなら、「早く死にましょう。」ということになってしまう。
 
だって浄土に行かないと仏にならないんだから。
 
ここは、阿弥陀如来の本願によって、他力の信心を得て、念仏を唱えようと思い立ったとき、つまり "仏になれる身" になって、という意味だろう。
 
とにかく、この歎異抄は全文にわたって誤解されやすいんだ。端的に表現されしすぎてるんだろうね。
 
それで、"慈悲その4"で言ったように、五百年前、中興の祖・蓮如上人が、誤解を招くとして封印してしまう。
 
「 仏縁の浅い人には披見させてはならぬ 」といって、門外不出の秘本となってしまったんだ。
 
実際に有名な学者が曲解して論争になったこともあるし、高校の日本史の教科書でも改訂を余儀なくされたこともあるんだ。
 
某:
そっかぁ、あなたの説明もスッキリしないわね。
むりやり詰め込んだ知識を消化しきれずにいるような。
もう少しクリアーカットに説明したら?
ふ〜ん。じゃ、救われるのは念仏を唱える前なのね。
 
僕:
そういうこと。
そこが重要!
 
親鸞の師、法然は「専修(せんじゅ)念仏」で、極楽往生するには僧となって苦行する必要はなく、寺院も仏像も不要、ただ一心に念仏を唱えればよいといった。
 
だが、親鸞は、阿弥陀如来を信じる「心」さえあれば極楽往生は約束されているとし、念仏はその救いに対する感謝の「報恩念仏」なのだ。
 
ちなみに、一遍上人の時宗は「踊(おどり)念仏」なんだよ。
 
先ほど既存仏教からの反発と言ったけど、実際「建永・承元の法難」があって、法然75歳で四国の土佐に、親鸞35歳で越後の国(新潟県上越市)に流罪となっている。
 
が、このことが、その後の浄土真宗が日本最大の宗派となる転機の要素をつくったのは皮肉だね。
 
キリがないから、このくらいにしとこう。
 
某:
(なかなか大変だったたみたいね。やっとこさまとめ上げたって感じ。)
えっ、もう終わりなの?
 
僕:
こういう核心部分は、人からゴチャゴチャ言われるより、自分でよく工夫した方がいいんだ。
 
某:
(結構ゴチャゴチャ言ってるけど)
そうね、よく考えてみるわ。
 
僕:
あっ、それから冒頭で言った小松菜なんだけど、寒さに強く、霜を受けるほど甘みが増し、葉がやわらかくおいしくなるという不思議な生命力の冬野菜なんだよ。
 
某:
うん知ってるわ。
鉄分やカルシウム、ビタミンA、Cも豊富なんでしょ。
 
自然ってすごいね。食べ物もよくできてるね。
 
僕:
そうだね。人はパンで生きてるんだ!
 
今から寿司屋にでも行っか。
 
某:
ワァーイ。
 
輝雲
 
===
編者註
 
創建100周年を迎えた人間禅擇木道場で、
第50回擇木禅セミナー「浄土真宗・キリスト教と禅2」が開催されます。
フォーラム 来年(2016年)1月31日(日)13:30~18:00(予定)
ゲスト:東大人文学科学系教授 下田正弘氏:恵泉女子大名誉教授  古谷圭一氏
 
関心がある方は、ぜひ参加してみてはいかがでしょうか。
 
 
(*)念仏して急ぎ仏になりて
私どもに言い換えると「○○○○○して急ぎ仏になりて」となりましょう。
しかし、できていない私にはとても他人様にいえません。(未だ仏になっていない)
 
そこで、今回の編者註は休止しようと思いましたが、気を取り直して別の切り口から。
 
 
『坐禅儀』でも「ブッダ(仏)」が出てきます
 
『坐禅儀』の前半の坐相についての部分より
左に傾き右に側(そばだ)ち、前に窮(かがま)り、後に仰ぐことを得ざれ。
腰脊頭頂(ずちょう)骨節をして相拄(ささ)え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。
 
「浮屠」の元来の意味は「ブッダ(仏)」です。
検索をすると「仏塔」「卒塔姿」あるいは「僧侶」などを指すこともあるようです。
 
私は静坐(坐禅)をするとき、【状 浮屠の如く なら しめよ】を
「姿勢は ブッダのごとく なるように 自ら心がけ続けなさい」
と戒めています(初めて公表します)。
 
「左右に傾いたり、片方の肩が高く曲がった、前へかがんだり、後ろにのけぞったりしないように・・・」
には、その説明だと実感しています。
 
私はかつて、坐禅をした途端に雑念がわき続け、どうしても数息観が続けられない時期がありました。
ひどいときには、「いち(ひとつ)」を数えきることができない状態です。
このようなことが、何年も続きました。
 
そしてある日、
「坐相の乱れ(傾き)と雑念に大きな関係がある」ことに気が付きました。
 
「雑念が消えないときは坐相が乱れている!」
「坐相を正すと雑念が消える!」
 
さらに年月がたって気が付きました。
「そういえば、最も調子が良かったのは、磨甎庵老師から坐相を毎週直していただいた学生時代だったな・・」
 
そこで私は密かに、雑念が湧いたら「かたちブッダのごとくならしめよ」と戒めはじめたのでした。
 
 
ところで、使役の「しむ」とすると、
「自分が自分を」だけでなく、「他者を」ととれなくもありません。
 
では、坐相を指導する時はどうしたらよいのでしょう。
今、私はこのように説明しています。
『坐禅儀』には【状浮屠の如くならしめよ】とあります。
【浮屠】はブッダの意味ですが、とりあえず仏塔とすると、
大きさの違う石を重ねるときどうしますか?
石の重心を縦に重ねると安定しますよね。・・」
 
私は、初心者に対しては
「坐禅の効果は『正しい坐相による数息観』によらないと現れない」
と確信して、親切に(変な癖がつかないように、小まめに点検)してあげてさしあげています。
 
それは、「『正しい坐相による数息観』さえ続けていれば、
『初関』(最初の公案)を透過するのは、誰でもさほど難しいことではない」
という確信からの親切でもあります。
 
経験者に対してが難しい。
私が助警を仰せつかったとき、「次の静坐(坐禅)で、ここを見てほしい」と前もって耳打ちする方もいます。
坐相を正すと、合掌した後それを意識して坐られ、静坐の後どんな状態だったかを確認する方もいます。
「自分の坐相の乱れは、静坐中に自分では絶対にわからない」ことが経験的にわかる方です。
しかし
「オレにはオレのやり方がある、手を出すな!」「オレの坐相を直すとは、あんた何様だ!(エラそうぶって!)」
と感じる方には、助警が坐相を直しても効果はなく、もとに戻ってしまいます(無効果?逆効果?)。
そこで、
助警として回るときは、じっくりと何回か何十回かかけて、一人一人どう対応すべきか(直すべきか、とりあえず直さないでおくべきか)考えます。
 
 
摂心会の最後の参禅(入室独参)で、パスする人がなく、次々と隠寮に向かう状況となることが、私が助警を仰せつかったときの秘密の目標であり、喜びでもあります。
蛇足ながら。
 
合掌
惟然 拝 
 

茶道部(有楽流) 青竹の茶道具

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ブログ » 静坐会・行事
執筆 : 
惟然 2016/1/25 23:50
日曜静座会のあと、隠寮にて月に一度の茶道部(有楽流)の稽古がありました。
 
新到の方も含めて7名の方々が参加されて、賑々しく一服をお楽しみ頂きました。
 
初釜にふさわしく、総裁老師お手製の青竹の茶道具を使っての初稽古となり、

  
妙珠先生ご自宅の「金魚葉の椿」と「白山吹の実」が花を添えてくれました。
  
 

新入部員のYさんも茶巾と帛紗捌きと基本の手ほどきを受けて、
早速 平点前に挑戦していました。
 
次回の稽古は、2月21日の予定です。
 
どうぞお気軽にご参加ください。
 
合掌 無端 拝

日曜静座会 雪かき

カテゴリ : 
ブログ » 静坐会・行事
執筆 : 
惟然 2016/1/24 23:50
今日(24日)の静座会は、始める直前に雪が降ってきました。
道場には、エアコンを入れてあります。
 
暖かいとまではいえませんが、座禅道場らしく少し寒さを感じながら座りました。
 
今日の参加者は、新倒者が1名加わり19名でした。
45分間座った後、お経を唱えて終わりました。
 
雪で思い出しましたが、昨年の今頃、土曜日の夜から日曜日にかけて雪が降り、路上に2から3センチほど積もりました。
通るのは道場に来る人だけなので、人通りが少なく凍結したら道場に行けなくなってしまうとのことで、表道までの500メートルほどの間を雪かきしました。
雪の量は少なかったのですが大変でした。
 
この雪かきの前に、自宅周辺の雪かきをし、さらに母親が一人ですんでいますので、母親の家の周辺の雪かきもしました。
たしか、翌日の月曜日にさらに積もり、本格的な雪かきをした記憶があります。
自宅周辺は高齢者が多くなり、また平日は若い人は勤めに行くので雪かきができる人は限られます。
自宅と母の家はどちらも角地にあるので、二方向の道路の雪かきをする必要があり、体力的に大変だった思い出があります。
 
日本海側では、大雪のようですが千葉県では今年は、降らないように願いたいです。
 
鐘声
一週間遅れの報告となってしまいましたが、1月15日は禅と茶の集いの初釜でした。
会場は、いつもと同じコミュニティセンターの茶室ですが、お茶係の大石さんのはからいで濃茶をいただきました。
濃茶を味わえるのは一年に一度か二度なので濃茶をいただくのが初めての方もいました。
作法も薄茶とは違うので一つ一つ教えてもらいながらのお茶でしたが、文字どおりいつもとは一味も二味も違うおいしいお茶を味わうことができました。
これは後で聞いた話ですが、お茶も高級なものだったそうです。
飲み終わった後の茶碗の景色を見るという楽しみ方もあるのですね。 
  
掛け軸は、磨瓦庵白田劫石老師にご揮毫いただいた「三界無法」です。
これは禅と茶の集いの宝物です。
 
私はこの軸を見ると磨瓦庵老師の姿そのものを思い浮かべてしまいます。
多分に個人的な思い入れだとは思うのですが、老師がそこに立っていらっしゃるようです。 
 
花は、拙宅の庭から持ってきた椿です。
家を出るときはもっと蕾の状態だったのですが、室内が暖かかったせいでしょうかみるみる花が開いていました。
花は正直です。
 
今日、輪読した川端康成の文に「一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです」とありましたが、まさにそのとおりです。
一輪の花は世界を一変させます。
 
 
お菓子は、米屋の干支まんじゅう申で初釜にとてもふさわしいものでした。
 
おいしいお茶のあとは、気持ちも新たに一炷香(45分)の坐禅をしました。
 
今日22日は、太田先生の坐禅ワークショップがありましたが、次回からはテキストによる話ではなく、発声や歩行を行うということなのでとても楽しみです。
 
来週、1月29日は、6時から読書会、お茶の時間と続き、8時から坐禅の時間となります。
途中からの参加も大丈夫です。
どうぞお越しください。
 
義存 合掌
 
「禅と茶の集い」についてくわしくは、コチラ
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com
左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください。

僕:
さあ、今回はいよいよ山場だね。
親鸞聖人がズバッと切り込んできた。
生半可な覚悟じゃ、到底太刀打ちできない。
歎異抄第四章第三文だ。
 
【しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。】
 
"しかれども" というのは、前文を受けて、「そんなこと言ったって、(仕方がある?ないだろう。)」ということだ。
 
"思うがごとく" とは、自由自在に、十字街頭に立って活発発地に行動できるかどうか、ということだ。
チンタラゝゝゝゝ坐っているだけではダメだ、とでも言いたげな。
 
"助け遂(と)ぐる" とは、つまり布教活動して大衆を教化すること( 衆生済度 )だね。
私たち人間禅でも骨を折っている人は、大変な骨折りをしているし、折っていない人は、全然折っていない。
 
某:
( ウフッ、躍起になってる。やっぱり自分で喋りたいのね。)
それくらいにしといたら。また言い過ぎると墓穴を掘るわよ。もう一寸、「お調子者」を自覚したら。
 
僕:
(クソッ、言いたいこと言いやがる! またとはなんだ、またとは!)
あっ、ハイハイ、また一本取られたね。
次に行こう。"極めてありがたし" だ。
僕は、一番最初この文を読んだ時、「大変ありがたいことだ」と読んでしまって、意味がチンプンカンプンになってしまったことを覚えている。
 
某:
アラ、お馬鹿さんね。
古文を読むときは、まず漢字に置き換えて漢字そのものの意味を素直に考えると、上手くいくこと多いのよ。
 
僕:
ヘエ〜。さすが早稲田の文学部出身だ。
 
某:
ダカラァ〜、"ありがたし" は 有り難しで、有ることが難しい、つまり 無い ということ。
つまり、"極めてありがたし" は、「めったに ない! 」ということよ。
 
僕:
そうそう、だから、第三文はこうなるんだ。
「そんなこと言ったって、思うまま自由自在に衆生を教化することなんか、アンタラ自力門には、めったに出来ることじゃない!」
 
某:
ふ〜む。それでぇ、あなたは禅宗、つまり自力門よね。
骨を折っていないあなたにとっては、あまり関係ない事なのかな?
 
僕:
(まっ、またズケズケと。)
そんなことはない!
私だって長い間、ずっと自問自答してきたよ。
人生の言い訳に、坐禅をしているわけではない。(*1)
高階禅師が、「禅浄握手して・・。」(*2)
と言っていることもうなずける。
 
ただここは、親鸞聖人の頃の時代背景も考えないといけない。
前回の編者註で、惟然居士がチラッと末法思想について言っていたからここで触れておこう。
 
最初は仏法も「 正法の時代 」があって「 教・行・証 」つまり、教えがあって、それを行ずる人がいて、悟りが開ける人もいた。
次に「 像法の時代 」になると、行をする人はいるが、悟りをひらける人がいなくなる。
次に「 末法の時代 」になると、行をする人すらいなくなる。勿論、証(悟り)はない。ただ、教えのみがある。
次は「 法滅の時代 」で教えも無くなる。
 
この行のできない末法の時代を感じ取って「 易行 」を唱え浄土宗を興したのが法然上人だ。念仏三昧になればよいと言うのだろう。
 
いや、念仏行それも出来ない、阿弥陀仏の誓願・不思議を信じたその瞬間、もう救われているというのが、親鸞聖人だ。
 
それをもう一度のり越えて、阿弥陀さんが信じさせてくれる、ただただ念仏札を配りなさいと言ったのが、一遍上人だ。
 
チョウカンタンに言うとそうゆうことだが、一遍上人は臨済宗で坐禅の修行もしている。
僕が、この "慈悲その4"(*3) で「 自力他力は初門の事なり 」と言ったのも、一遍上人の語録から引用したものだ。
 
自力か他力かと言ってるうちはまだまだ初心者だということだ。
例えば、あなたが今、千葉駅前で念仏札を配ったって変わり者あつかいされるだけだ。
 
自力門である禅の修行を難行苦行と感じているうちはまだ初心者で、努力も忘れて道楽となってくれば、他力をも感じてくるわけだ。(*4)
それが布教の原動力となるわけね。
 
某:
フゥ〜ン、いきさつは何となくわかったわ。
ねっ、ドンキホーテ(*5)読んだことある?
 
僕:
いや、行ったことはあるけど、読んだことはない。あっ、ビックリドンキーも行ったことあるよ。けど、どうして?
 
某:
( 言わずもがなだったわ、マッ、しょうがないか。)
ウウン、何でもない。次続けていいわよ。
 
僕:
いまの時代、仏教界ももっともっと世界にアピールしなければいけないんだけど。葬式仏教なんて揶揄されるようじゃダメだよね。
我々人間禅の創始者、耕雲庵立田英山老大師の著書『人間形成と禅』(*6)の中に布教活動の方針が、きちんと示されている。その人その人の段階に応じてすべき事がきちんと書いてある。
人間禅に縁があったんなら、ケチケチしないで全文読んでみたらいいよね。会員なら熟読玩味して、頭の中に叩き込まないといけないんだろうけどね。
 
江戸前期の臨済禅の高僧大愚禅師も、布教の大変さをこのように言っている。
 
【本来無一物、何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。慈悲の為の故に正に恁麼(いんも)(*7)。】
〈本来身にはチリやホコリの着きようもないが、衆生済度のために、この通りチリやホコリまみれだ。〉
(大愚和尚語録  平成24年7月10日 発行  禅文化研究所 178pより)
 
上の句は、有名な六祖慧能の偈(*8)だ。人間禅房総坐禅道場の床の間に、その掛け軸が掛かっている。故磨甎庵白田劫石老師の書だ。(*9) 
 
某:
フ〜ン、スッゴイ!よく知ってるわネェ〜。さあ、終わりにしょっか。
 
僕:
もうちょっと。
 
某:
もう遅いから次回にしといたら。
随分飲んだでしょ。代行呼んだげるね。
 
輝雲
 
===
編者註
 
 
創建100周年を迎えた人間禅擇木道場で、
第50回擇木禅セミナー「浄土真宗・キリスト教と禅2」が開催されます。
フォーラム 来年(2016年)1月31日(日)13:30~18:00(予定)
ゲスト:東大人文学科学系教授 下田正弘氏:恵泉女子大名誉教授  古谷圭一氏
 
関心がある方は、ぜひ参加してみてはいかがでしょうか。
  
 
(*1)人生の言い訳に、坐禅をしているわけではない 
 
 
(*2)高階禅師が、「禅浄握手して・・。」
 
(*3) "慈悲その4"
 
(*4)十牛の図
尋牛~入鄽垂手
 
誤解なく一言で伝えるのは難しい・・・。
 
(*5)ドンキホーテ
スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説。
Wikipedia ドンキホーテ
 
(*6)『人間形成と禅』
 
(*7)恁麼(いんも)
かくのごとし。→ご覧のありさまでございます。
 
(*8) 六祖慧能大師(達磨大師から6代目)の偈
「菩提もと樹無し 明鏡また台に非ず 本来無一物 いずれの處にか塵埃をひかんや」
この偈により、五祖弘忍禅師から法嗣たることが認められ、達磨大師から伝わってきた袈裟と鉄鉢が伝えられた。
 
神秀上座が張り出した偈
「身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し 時々(じじ)に勤めて払拭し 塵埃をひかしむることなかれ」
に対するもの
 
(*9) 故磨甎庵白田劫石老師の書
2013/11/22
 
修行と懇親会はセットですね。
 
合掌
惟然 拝
 
真冬としては暖かく穏やかな朝でしたが、散会するころには多少雲も出てきました。
緝煕寮前の梅はもう花をつけておりました。
 
本日(17日)の日曜静坐会参加者は20名でした。
30歳代の初体験の方が1名来訪され最近は(私から見て)お若い方が訪問されるのでうれしい限りです。
今は常連さんとなった4名の未会員の方のお顔もありました。
 
テスト的ではありますが、本日初めての写経同好会を行うことになっておりました。
言い出したてまえ、私はその責任上どうやって進めるか、参加いただく方にどう有効な時間を過ごしていただくか、ということで小さな頭がいっぱいでした。
そういう訳で数息観も何処かに飛んでしまい、坐禅道場の静謐な雰囲気を味わうことはできませんで、もう分別ばかり一杯の一炷香でした。
 
坐禅した後いつもは居士寮にて茶話の時間ですが、本日はそういうこともありお茶一杯で居士寮を後にしました。
 
スキー旅行のバスの事故で多くの若者が人生途上にて残念にもその命を喪いました。
本人は勿論でありますがその親御さんの御心を想うと居た堪れない気持ちであります。
また大袈裟に申せば日本の国にとっても。
 
私たちの年輩(70歳代)で、年金や子供にかける介護負担の迷惑などについて思えば、代わってあげたいくらいの気持ちであります。
世の中うまくいかないものだ。
 
合掌 不説 拝

慈悲 その6 憐れみ愛しみ育む

カテゴリ : 
ブログ » 随想・日常
執筆 : 
惟然 2016/1/12 23:50
僕:
おめでとう。
今年もよろしくね。
 
某:
こちらこそ。
お雑煮食べた?
餅のどに詰まらせなかった?
気をつけてね。(*1)
 
僕:
(クッ、いきなり年寄り扱いかよ。)
大丈夫。
 
じゃ、さっそく歎異抄第四章第二文といくか。
 
【聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり】
 
"憐(あわ)れみ"というのは憐憫(れんびん)の情だ。
「あの子のことを思うと、不憫(ふびん)でならないよ。」とかいうでしょう。
子にたいする親の心情が純粋なように、一切衆生に対してもそのような心情を持てと教えてるんだ。
それが、菩薩の理想なんだ。
 
某:
あっ、そうだ。今思い出したけど、
義存さんがこの前のHPでいってたことよく考えてみたのよ。
『仏教の、四弘誓願の一番初めは「衆生無辺誓願度」です。(*2)
衆生(この世に生を受けているありとあらゆるもの)は数限りなくいるがすべてのものを救おうという願いです。』
ねっ、しっくりきたわ。
現在、世界中で、特に中東、イラン、シリア、アフガニスタンで束縛をのがれ自由を求める難民が続出しているでしょ。
生まれ故郷、母国を見限って、身の危険を賭して当てのない他国の空を見上げなければならない人々の境遇は、日本に住んでいては、想い及ぶべくもなしというところでしょ。
フランスのISに関連したテロ事件などで、複雑な様相がさらに混沌とした状況を作り出しているけど。
去年だけで難民の数、100万超えてるのよ。途中亡くなった人、わかってるだけで4千人近いのよ。
何とかならないのかなぁ。(*3)
あなた何か考えてるぅ?
坐禅四十年もやってきて。
 
僕:
(ウッ、痛いとこつきやがるな。)
それは考えているよ。
それにしても、今日はやけに饒舌だね。
とにかく"憐れみ" とはそういうことだ。
 
某:
ハァーイ。じゃ次は "愛しみ"ね。
「かなしみ」と読むんでしょ。
あなたの論理的思考の方法はお見通しよ。単純ね。でも時々雑念に持って行かれる処が可愛いのよね、突拍子もない・・。静坐中もそうでしょう、きっと。
 
僕:
(シェッー、イヤミだな。)
・・・・・
 
某:
日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま、を意味したんだって。
これは仏教でいう「慈悲」とほとんど同義でしょ。
あなたもこの第一章、"雨の日の水やりの話" で言ってたでしょう。
『慈とは簡単にいえば楽しみを与えること、悲とは苦しみを取ってあげることでしょ、共に楽しみ共に苦しんであげる、あげるというか自然とそういう気持になることが慈悲であって、大乗仏教の基本だよね。』って。
ちなみに仏教の二本柱って慈悲と智慧、つまり仏知見みたいよ。あなたも早く悟りを開いて仏知見を手に入れて、世のため人のためになりなさいよ~ぅ。
 
僕:
(まっ、またしても人の痛いところをっ!)
う~ん、言うは易く行うは難し・・だな。(*4)
 
某:
最後の"育む(はぐくむ)" は、大切に守り育てることでしょう。
だから、第二文はこうなるのよね。
「聖道仏教の慈悲とは、他人や一切のものを憐れみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいう。」
どぉう?間違ってる?
 
僕:
い、いや、いいと思うよ。
今回はすっかりやられちゃったな。
あっ、それからそこまで調べたのなら、仏知見と仏智も調べたらいいと思うよ。(*5)
じゃ次回は第三文だね。
 
某:
ハァーイ。またね。
 
輝雲
 
===
編者註
  
創建100周年を迎えた人間禅擇木道場で、
第50回擇木禅セミナー「浄土真宗・キリスト教と禅2」が開催されます。
フォーラム 来年(2016年)1月31日(日)13:30~18:00(予定)
ゲスト:東大人文学科学系教授 下田正弘氏:恵泉女子大名誉教授  古谷圭一氏
 
関心がある方は、ぜひ参加してみてはいかがでしょうか。
  
(*1)
人間禅の摂心会では、食事の前に『食前の文』を唱和します。
3段目
一 雲門和尚の云く、「識得すれば醍醐の上味、識得せざれば却って毒薬」と。当(まさ)に咀嚼(そしゃく)翫味(がんみ)すべきの語なり。
 
(*2)
四弘誓願(しぐせいがん)とは、菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のこと。
菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。上求菩提・下化衆生(上の如来に菩提を求め・下の衆生を化益する)の願は、この四弘誓願をもって要制するという。
(Wikipediaより)
 
衆生無辺誓願度   (しゅじょう むへん せいがん ど)
煩悩無盡(尽)誓願断(ぼんのう むじん せいがん だん)
法門無誓願学   (ほうもん むりょう せいがん がく)
仏道無上誓願成   (ぶつどう むじょう せいがん じょう)
 
衆生は無辺なり誓って度せんことを願う
煩悩は無盡(尽)なり誓って断ぜんことを願う
法門は無なり誓って学ばんことを願う
仏道は無上なり誓って成ぜんことを願う
 
(*3)末法
末法(まっぽう)とは、仏教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。
または、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期のことである。
(Wikipediaより)
 
ということは、末法とはいつ?
片足を上げて坐り(半跏)左手の指先を頬に触れてものを思って(思惟して)いる弥勒菩薩は、ほほ笑んでいるのでしょうか、涙しているのでしょうか。
 
(*4)
ほほ笑んでいるのでしょうか、涙しているのでしょうか。
 
(*5)
仏智:仏の智慧
 
仏知見:仏のものの見方
開仏知見、示仏知見、悟仏知見、入仏知見を四仏知見
開:蔵の戸を開く、示:蔵の中の宝を見る、悟:蔵の宝を得る、入:宝を使いこなす
 
合掌
惟然 拝

日曜静坐会 諸行無常 会者定離

カテゴリ : 
ブログ » 静坐会・行事
執筆 : 
惟然 2016/1/11 23:50
ようやく冬らしい寒さになり、道場に向かう途中の田圃には氷が張っていました。
 
1月10日の日曜静座会の参加者は、23名。
互礼会準備のため、読経なしで作務に取り掛かりました。
 
支部長の新年の挨拶から互礼会が始まり、
担当師家・金峰庵老師交替のお話、正に青天の霹靂
全幅の信を置かせて頂いているだけに、驚きこの上ないものでした。
 
「一切の形成されたものは、無常である」・・・
 
内参会・4月の摂心会までご担当頂けるとのことでした。
老師のお言葉を侍して待ちたいと思います。
 
合掌 無端 拝
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