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房総坐禅道場
房総支部 房総坐禅道場

〒284-0032
  四街道市吉岡1010

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房総ブログ - ブログカテゴリのエントリ

禅の生死観 一生死をどう生きるか一 より
 
○禅者の生死自在の消息
 
昔、禅僧の死は、
立ったままの立亡や、
弟子に抱きかかえられて辞世を書かせられた座亡があったと聞く。
 
一方、禅の道の先覚者の生死の自在の消息も多く残されている。
 
ありのまま自然の、
生死にとらわれない、
むしろ生死を超越した生死。
 
鍛えあげた生涯の姿である。
 
 
①大力量の馬祖道一禅師は、
山中の盗賊に首を斬られての末期、
禅師は三里四方にも響くほどの大声で泣き叫んだ。
 
平素「平常心これ道」と口ぐせに唱えておられたという。
 
 
②耕雲庵老師は
入院中激痛に際し、
「苦しい時はうんうん唸ればいいね」と洩され
事実大きい声で苦しまれた。
 
後年、
暁方自室の布団の中で大往生を遂げられた。
 
 
③良寛和尚は
自らの静かな生死と重ね合わせるように
「裏を見せ 表を見せて 散る 紅葉」
とありのままの紅葉を詠った辞世の秀句を遺こされた。
 
 
④白隠慧鶴禅師は、
「死ぬ時は死ぬがよろしく候」と淡々と常々の死の心構えを生きた。
 
 
⑤至道無難禅師は、
「なにもおもはぬ物からなにもかもするがよし」
につづけて、
「生きながら 死人となりて なりはてて 思いのままに するわざぞよき」
と、生死自在に生きる生き方を詠んだ。
この歌の心は、
涅槃経の「諸行無常 是生滅法‥‥」
の句意によるという。
                      
 
⑥妙心寺を創始した関山慧玄は、
日常
「わが這裏(内)に生死なし」
と機鋒するどく生死を超越した語を遺し、
旅姿で立亡した。
 
 
⑦「生死到来の時 如何」と問われた大随禅師は、
「茶に遇うては茶を喫す、
飯に遇うては飯を喫す」
と答えた。
 
生死の存亡に逢った時どうするかと問われ、
ケロリと茶を出されれば茶を飲み、
飯を出されればそれを頂く、
まさにあるがままの日常の営みを答えた。
 
今当面することに真向う。
 
これをおいては生死を生きることにならない。
 
生死自在の至言である。
 
 
生きることの有難さを切実に感じる年齢になった昨今、
禅に導かれた人生の幸運を喜ぶ。
 
足腰の不自由は不自由として甘受しつつ、
自由に在ることの尊さは、
恐らく禅を知らなければ得られなかったと思う。
                                                                                                                           l
(了)
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この稿は、
平成17年1月、房総支部摂心会における故緝煕庵慧純老禅子の法話の内容に
ご自身が若干加筆修正した一文です。
(改行は惟然)
 
摂心会は、本格の坐禅(座禅)の会で、人間禅の各道場では年3回厳修されます。
 
原則として毎晩、老師による提唱(講本をもとにした説法)があります。
日によっては、老師の命により布教の職分にある方による法話となることもあります。
 
日程等はご確認ください。
禅の生死観 ー生死をどう生きるかー より
 
○全機現

『碧巌録』を編集した円悟克謹(えんごうきん)に
「生也全機現 死也全機現」の語がある。
 
何とも禅的な語である。
 
全機とは、
天地宇宙のありとあらゆる存在に、
それぞれ一切の機用(きゆう:はたらき)があますところなく発現しているさま。
 
何時でもどこでも全機がみちみちている。
 
 
誕生の時の大きな産声、
スポーツに興じる若者の歓声などには旺盛な命のはたらきとよろこびが現れ、
一方病の床に臥す病人の苦悩の姿や、
死に到ったむくろの上には静寂の死の全きはたらきが現れている。
 
やがて腐敗していく死の全機である。
 
 
今生きている時は、
精一杯生きていく。
 
臨終の時は不可抗力のまま死に徹する。
 
生来たれば生、
死来たれば死。
 
そこには一貫して変わらない真理が働いている。
 
                    
「色身(しきしん:肉体と精神)は敗壊(はいえ)す
 如何なるか是れ堅固(けんご)法身」
と問われ、
大龍禅師は著語底に
「山花開いて錦に似たり 潤水(かんすい)湛えて藍の如し」
と答えた。
 
美しい景色が露堂々と展開している。
 
山に咲き競う桜花、
静かに藍を湛えたような渓谷。
 
そして一夜の嵐に散る桜花、
潤水もいつか渇する時もある。
 
(続く)
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この稿は、
平成17年1月、房総支部摂心会における故緝煕庵慧純老禅子の法話の内容に
ご自身が若干加筆修正した一文です。
(改行は惟然)
 
摂心会は、本格の坐禅(座禅)の会で、人間禅の各道場では年3回厳修されます。
 
原則として毎晩、老師による提唱(講本をもとにした説法)があります。
日によっては、老師の命により布教の職分にある方による法話となることもあります。
 
日程等はご確認ください。
 
禅の生死観 ー生死をどう生きるかー より
 
○いま・ここ・われ
 
すべて時と共に変化し、
一瞬も止まることのないという無常観に立って、
常に人生を大切に生死する釈尊の末期の教えが原始経典に示されている。
 
「過去を追わざれ、未来を願わざれ、過去はすでに捨てられ、未来はいまだ至らず。
ただ現在の法をその場その場に観察し、揺ぐなく動ずるなく、よく了知して修習せよ。
今日なすぺきことのみ熱心になせ、誰か明日の死を知らん‥‥」
と。
 
 
禅は自己の存在を、
いま・ここ・われと見る。
 
今の時間、
ここという空間の事空一体の真只中にわれが生きている。
 
過去はすぎ去って帰らず、
未来はいまだ来ていない。
 
今は今しかない、只今あるのみ。
 
かけがえのない今をこの場で生きるしかない。
 
耕雲庵英山老師は、
「われここにいまかくありぬ日向ぼこ」
と詠われた。
 
 
井伊直弼大老は石州流の茶人で、
『茶の湯一会集』を遺した。
 
「そもそも茶の湯の交会は、一期一会といいて、たとえば幾度同じ主客と交会するとも、
今日の会は再びかえざることを想えば 実にわれ一世一度の会なり」
と、
茶の湯を通して諦観を示し生きる覚悟を定めた。
 
静かに省りみれば、
生きる一瞬一瞬の話で茶には限らない。
 
古来から禅堂の板木(ばんぎ)に
「生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人」
と書かれているのを味わいたいものだ。
 
(続く)
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この稿は、
平成17年1月、房総支部摂心会における故緝煕庵慧純老禅子の法話の内容に
ご自身が若干加筆修正した一文です。
(改行は惟然)
 
摂心会は、本格の坐禅(座禅)の会で、人間禅の各道場では年3回厳修されます。
 
原則として毎晩、老師による提唱(講本をもとにした説法)があります。
日によっては、老師の命により布教の職分にある方による法話となることもあります。
 
日程等はご確認ください。
 
禅の生死観 ー生死をどう生きるかー より

○いろは歌に学ぶ
 
昔、子供の手習いに用いられた「いろは歌」
 
「いろ(色)はにほ(匂)へとちり(散)ぬるを
 わ(我)かよ(世)たれ(誰)そ つね(常)ならむ
 うゐ(有為)のおく(奥)やま(山)けふ(今日)こ(越)えて
 あさ(浅)きゆめ(夢)み(見)し えひ(酔)もせす」 
 
四十七字の仮名を一度ずつ使って作られている。
 
涅槃経の「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」の意訳とされている。
 
今にして思えば、
幼ない時、深い意味はわからなくも「いろは歌」になじんで育った場合と、
現代教育で育ち成人した人々との無常観・生命観に違いはないのだろうか。
 
性急に短絡的に比較することはつつしみたいが、
現今あまりに簡単に人を殺し、
二度とよみがえられない命の認識に乏しい事例を見聞きするにつけ、
幼ない時「いろは歌」を教えた昔の人の智慧が大事に思われてならない。
 
 
ところで、
先に述べた涅槃経の詩句、
「諸行は無常なり 是れ生滅の法生滅滅し己って 寂滅を楽しみとなす」について、
 
先ず諸行であるが、
この世の事物はすべて縁起に、
よって作られ生じるもので固定的恒常のものはない。
 
生滅する煩悩や苦しみを離れ、
超越して寂静の涅槃(悟り)の境地に入って始めて本当の楽しみを得ることができると教える。
 
 
釈尊は、
人生で避けることのできない生老病死の四苦に深く無常観を感じて出家、
菩提樹下に端坐六年し悟りを成就された。
 
私たちも釈尊の悟りの道を追体験し本当の寂静の楽しみを得たいものである。
 
諸行無常に著語すれば
「風定(しずまって)花猶落ち 鳥啼(ないて)山更に幽なり」
花咲いて散り鳥鳴いて去りすべて跡方なく山中閑寂の佳境である。

(続く)
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この稿は、
平成17年1月、房総支部摂心会における故緝煕庵慧純老禅子の法話の内容に
ご自身が若干加筆修正した一文です。
(改行は惟然)
 
摂心会は、本格の坐禅(座禅)の会で、人間禅の各道場では年3回厳修されます。
 
原則として毎晩、老師による提唱(講本をもとにした説法)があります。
日によっては、老師の命により布教の職分にある方による法話となることもあります。
 
日程等はご確認ください。
 
禅の生死観 ー生死をどう生きるかー  内田慧純
 
この稿は、平成17年1月、
房総支部摂心会における法話の内容に若干加筆修正した一文である。
 
 
現代ほど命が軽んじられる時代は無い。
 
戦争やテロの暴力、
災害をはじめとして、
国内外に大量の人の死が報じられる。
 
また身辺の生活の中、
日々事故・事件による人の死が頻繁に起こっている。
 
安全・安心に暮らせる時代でなくなった。
 
他人事でなく、自ら死というものをしっかりと見つめなくてはならない。
 
道元禅師の言葉を集約した『修証義』に、
「生を明らめ死を明らめるは彿家一大事の因縁なり」とあるように、
 
仏教徒として生死(しょうじ)に対し諦観と覚悟を定めておきたいものだ。
 
 
○諸行無常とは
 
有名な平家物語にある「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」の文は広く知られている。
 
平家物語は、
平清盛を中心に一門の興亡を記した軍記物語で、
その滅亡の劇的な結末から、
この諸行無常の語に強い悲壮感を感じているむきが多い。
 
しかし諸行無常とは、
宇宙の真理であって、
仏教の根本の教義。
 
佛教思想の特徴の三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)の一つである。
                              
 
人間生まれたら必ず死ぬ、
いくらあがいても死をのがれる術(すべ)はない。
 
形あるものは、
刻々と移ろい変化して止まるところがない。
 
同時に新たな命の誕生や事象が生起し成長発展する、
これが諸行無常である。
 
この厳粛な事実をしっかりと見据えなければならない。
 
 
ギリシャにも、
万物流転の哲学がある。
 
この世のあらゆるものは、
変化・生滅して止まらない。
 
流転し常無らざる一瞬一瞬をあるがままに受けとめて
自分の計らいに固執しない生き方が大切だ。
 
(続く)
---
この故緝煕庵慧純老禅子の原稿は、義存居士の紹介によるものです。
(改行は惟然)
 
摂心会は、本格の坐禅(座禅)の会で、人間禅の各道場では年3回行われます。
 
原則として毎晩、老師による提唱(講本をもとにした説法)があります。
日によっては、老師の命により布教の職分にある方による法話となることもあります。
 
日程等はご確認ください。

ここ2~3日は大変暖かくこのまま春になってくれればいいと思いました。
花粉症の方にはまだつらい日々が続くのでしょうか。
 
今日(3月14日)は年に一度の総会でした。
今年度の反省と来年度に向けての活動について話しました。
 
来年度から、会場が少し変わります。
今までは1・3週は5階和室で、2・4週は6階和室で開催していましたが、
新年度(26年度)からは、すべて5階の和室で開催します。
 
ですから、1・3週は6時から、2・4週は7時から、
いずれも5階和室が会場となります。
座禅を体験してみたい方は、
金曜日、それぞれの時間に
千葉中央コミュニティセンターに来ていただければいいわけです。
 
 
今日は、どうしたら新しく来た方が座禅を続けてもらえるように出来るか
ということについて話し合いました。
 
今年度も20人くらいの人が当会を訪ねて来てくれたのですが、
時々でも顔を出してくれる人は2~3人です。
なかなか継続してくるのは難しいようです。
 
「来るものはこばまず、去るものは追わず」言う言葉もありますが、
せっかく座禅とご縁ができたわけですから、
出来れば続けてみて座禅のよさを味わっていただきたいと思います。
 
そのよさが分かるまでは少し継続して座禅をしてみるしかなく、
そのよさが分かればやめろと言われても続けるようになるわけで、
ここは言葉ではうまく説明できません。
 
あまりしつこく誘うようなことは出来ないし、
特に座禅は自分でやる修行なので、どうしても自主性が必要です。
 
仕事や家庭の事情などで少しの間来られなくなっても、
禅と茶の集いや房総道場側が敷居を高くすることはありません。
 
いつでも誰でも大歓迎です。
 
少し遠ざかっても、また気を取りなおして来ていただきたいと切に思います。
 
お待ちしています。
 
 
来週(3月21日)は春分の日でお休みです。
 
次回は3月28日、
7時から、この日までは6階の和室で開催します。

8時からは精神科医の太田先生の
「調身調息の技法を応用したストレスコーピング」の
ワークショップです。
 
これも実際に体を動かしたり
声を出したりしてみないと分からないのでどうぞおいでください。
 
義存 合掌
 
「禅と茶の集い」
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com
左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください。
今日(9日)の日曜静坐会の報告です!
 
参加者は17名、内女性が1名でした。
 
静坐(坐禅・座禅)、読経のあと、
 
作務として大雪で被害を受けた立木、
庭木の片付けをしました。
 
一人で運ぶのに手を焼くほどの大きな杉の木が
数多く折れており、
南国育ちの身には、
雪の重みに驚かされますし、
改めて雪国の人々の大変さが身につまされます。
 
合掌 おかもと拝

---
日曜静坐会
 
日時:毎週日曜日 午前9時より 11時ごろまで
場所:房総坐禅(座禅)道場 アクセス
 
日程:
・静坐(坐禅・座禅) 一炷香(約45分)
・読経
・作務または懇談
 
初心者の方も歓迎します。
坐り方などの説明をしますので、初めての方は30分前にお出でください
 
 
◇今回“真剣”ということについて・・・・。
 
本部道場(*1)の場合、春と秋の摂心会(*2)には全国から道友が集まるので、
食事する人数が多い時は60~70人くらいになる。
 
この人数分の食事を作務の時間(*3)約2時間の中で作るには、
それなりのスタッフが必要である。
 
私が始めて本部道場の典座長(*4)を引き受けた時にとまどったのは、
全国それぞれの支部の典座経験者を、
どう動かして時間内に人数分の食事を準備できるかであった。
 
典座経験者は個性的な人が多く、
ある人は簡単な指示だけで黙って動く、
又ある人はいちいち指示が無いと動かない。
 
そして一番大事なことは、
それぞれのスタッフが何がどのくらい出来るか、
又出来ないかの見極めであった。
 
これは何回か経験するうちに解ってきたが、
このことは経営にも通ずるものがあった。
 
 
◇要はスタッフの役割分担、適材適所である。
 
最初は修行の先輩もいるし、遠慮がちであったが、
ある時意を決して自分が頭に立って役割分担を行い、
最終的には味付けも含めて自分が全ての責任を持つという風に切り替えたら
スムーズに流れるようになった。
 
典座スタッフの人数も狭い典座寮の中ではせいぜい4~5人である。
この典座スタッフが限られた時間、1時間半から2時間の中でいかに準備するか、
真剣にやればやる程力がつくものと思われる。
 
『典座教訓』の中に淘米三昧という語が出てくるが、
これは米をとぐ時はとぐ事だけに集中して米一粒たりとも無駄にしないという実地の教えである。
 
典座寮(*5)内では無駄口をきかないでやることの大事さが良くわかる。
 
又集中してやらないと包丁を使ったりするので怪我につながる。
 
 
◇真剣ということで言えば良く坐れた(*6)後程、
典座寮内での動きがよりスムーズにいったように記憶している。
 
私はお茶はやらないが、お茶も同じようなものではないかと想像する。
 
基本はやはり良く坐ることである。
良く坐れば余計な雑念が入らず、肩の力が抜けて動きがスムーズになり、
水が高きから低きに流れるがごとくにうまくいったことを経験した。
 
 
◇典座寮内で大事なことは基本をおろそかにしないこと。
 
“高処高平、低処低平”で道具を常に整理整頓しておいて、
どこに何があるかがひと目でわかるようにしておくこと、
使った道具は必ず元の位置に戻しておくこと。
 
これは一典座寮だけに限らず全てに通じると思われる。
 
平成26年3月8日   鉄心記
 
---
編者註
 
(*1)本部道場:人間禅 場所は 京葉道場 に同じ
 
(*2)本部摂心会(接心会):毎年5月と9月に厳修される。別に各支部の摂心が年3回程度。
 
(*3)作務の時間:摂心会では、静坐(坐禅・座禅)とともに、作業をしながらの工夫も重視している。
 前者が静中の工夫、後者が動中の工夫。いずれも禅である。作務の時間は午前と午後の2回。
 
(*4)典座長:典座は坐禅道場における調理担当の役位。典座長は古参の者から任命される。
 
(*5)典座寮:調理場
 
(*6)坐る:坐禅(座禅)をする
 
合掌
惟然 拝
3月に入り今日(3月9日)は第1週。
昨日は強い北風が吹き寒い一日でしたが、
今日も風こそ強くはないにしろまだ寒い一日でした。
 
読書会は、
齋藤孝著の「こんなに面白かったニッポンの伝統芸能」の続きを輪読しました。
 
 
テーマは前回から続いて「俳句」です。
 
能に比べると俳句はより多くの人に親しまれていて、
齋藤さんの俳句観とは違ったことを思っている方もいるかもしれませんが、
そういうことも含めて、この本を読んでいきたいと思います。
以下引用します。
 
科学の目で「古池や蛙飛び込む水の音」を分析すれば、
「古い池にカエル飛び込んで水の音がした」で終わりである。
俳句がそう簡単に終わらないのは、
詠み手の沈黙を愛する気持ちや物思いに沈んでいた心というものを、
私たちが感じ取るからだ。
沈黙が破られたことで物思いに耽っていた自分に気づくのがポイントだが、
それは、文字どおり表現されているわけではない。
しかし、「古池」や「音」に詠み手の心が溶け込んでいるから、
私たちはただ風景を思い浮かべるだけではなく、
その心情を同時に感じ取れるのである。
 
感想はこんなところから始まったのですが、
この静寂を今の若い世代が理解できるか、
また、外国の人が理解できるかどうかという話になりました。
また、
「岩にしみいる蝉の声」にしても蝉の声に静かさを感じる感性がどれほどあるか?
これは、この句を話題にしている自分達の感性も含めてですが・・・。
 
 
本の話題はこれくらいで、
今巷で話題になっているランドセル俳人の話になりました。
若々しく純粋な感性には驚かされます。
学校でいじめに遭って俳句に救われたということですが、
小学生にしてもう人生の深さを味わっているのでしょうか。
 
彼の生活環境はよく知りませんが、
小さいときから都会暮らしでテレビを見たりゲームばかりやっていると
なかなか自然と親しんで感性を磨くというのは難しいかもしれません。
 
房総坐禅道場では、夏休みに「親子禅の会」などを開き、
子供達が自然に親しめるような」活動をしています。
禅と茶の集いの会員の子供達は、ほとんど皆この会に参加しています。
 
うちの娘達も小さいときから道場に来て、
昆虫採集、魚釣り、キャンプファイヤーなどで楽しい時を過ごさせてもらいました。
もちろん座禅も体験します。
これからの人生で壁にぶつかったとき、
小さいときに体験した座禅を思い出して禅に戻ってきてくれればと思います。
 
少なくとも毎日父親が座禅をしていることは分かっているのですが、
この父親がしっかりしていないと
座禅をやっていてもたいしたことはないと思われかねないので(もうそう思われているかも)、
こちらもそのつもりでやらなければと改めて思いました。
 
 
次はお茶の時間です。
今日は森本さんの有楽流のお点前でした。
 
 
お菓子は、四季の彩。色鮮やかですね。
 
今日は、掛け軸と花はありませんでした。
 
 
お茶席でも、俳句や短歌の話題が続きました。
森本さんは俳句を詠んでいるし、
登坂会長は、毎年短歌を詠んで年賀状に書いているそうです。
二人ともかなり造詣が深く、同席していた人は驚いていました。
 
 
この後は、いつものとおり、1炷香(45分位)坐りました。
 
 
その後で、私自身の姿勢がどうか確認したくて写真を撮ってもらいました。
 
ほんの少しですが、右肩が上がっていました。
今はデジタルカメラですぐに見られるので便利です。
なかなか自分の姿勢を客観的には見られないので、これも一つの方法かと思いました。
 
 
金曜日の夜は、
どうぞ千葉中央コミュニティセンターの「禅と茶の集い」へ。
 
お待ちしています。
 
義存 合掌
 
「禅と茶の集い」
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com
左上の房総道場と静坐会・茶道部をクリックして案内をご覧ください
3月2日の日曜静坐会の参加者は、14名。
 
坂東支部の摂心会が始まったため、参加者は少ないのではないかと思ったのですが・・・
 
5~6年前の同じ頃、参加者が全員で3名ということがありました。
 
しかも道場には、暖房がなく・・・非常に寒かったのをよく覚えています。
 
ここ数年で、道場に足を向ける方が増えてきています。
 
今は冷暖房も完備されましたので、興味のある方は、どうぞお越し下さい。
 
(毎週9時から静坐会は始まりますが、始めての方は、8:30頃までにお越し下さい。)

無端

ーーー
日曜静坐会
 
日時:毎週日曜日 午前9時より 11時ごろまで
場所:房総坐禅(座禅)道場 アクセス
 
日程:
・静坐(坐禅・座禅) 一炷香(約45分)
・読経
・作務または懇談
 
初心者の方も歓迎します。
坐り方などの説明をしますので、初めての方は30分前にお出でください
 
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